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梅散らず  作者: 花河燈
26/27

再会

宮古湾での甲鉄艦奪取という作戦は、次のようなものだった。

回天丸、蟠龍丸、高雄丸の三隻で宮古湾に出港し、蟠龍丸、高雄丸の二隻で甲鉄艦を挟みこみ、そこから斬り込み隊を突入させる事になっていた。だが、実際作戦を遂行していくと、度重なる不運と悪天候が歳三達を襲う。海は高い波が白く跳ね、酷いうねりが出ていた。頼みの綱の蟠龍丸、高雄丸の二隻が、歳三の乗っている回天とはぐれてしまったのだ。

(ついてない時にはとことんついてねーもんだ。神も仏もあったもんじゃない)

歳三は、次々に起こった不測の事態に、天命が自分達に向いていない事をシミジミと噛み締めていた。回天の中では、一隻で奇襲をかけるのは危険だという派とこの期を逃したら他日はないと決行を訴える派に分かれて議論がされている。

「土方さんはどう思われますか」

歳三は話をふられて、大きく揺られる船の中、決行を謳う甲賀を見た。

「俺は…俺なら、今の状態なら決行する」

「何故ですか。一隻しかいないのですよ」

撤退を謳う幹部が悲鳴をあげる。

「何もこのままの作戦でいこうとは言ってない」

「他に何か作戦があるというのですか」

決行派の荒井郁之助が目を輝かせる。

「この悪天候で、成功するかどうかが問題だが、腕の立つ者を数人地上に上陸させる。そして、甲鉄艦に物資を積み下ろししている人間の中に潜り込ませ、敵になりすまし中から甲鉄艦を奪う。回天はそれを援護すればいいだろう」

歳三の意見に、皆が息を飲んだ。


そして、その後大波の中を小船で選ばれた兵、数人が陸地を目指す事になった。小船は高い波間からすぐに見えなくなる。

歳三は、無事に岸までたどり着ける事を祈っていた。

だが、待てど暮らせど、甲鉄艦を奪取したという合図の大砲の音が上がらない。

しびれを切らしたのは甲賀だった。

「もう待てない。回天を接舷させて、ここから斬り込ませよう」

 甲賀の意見に同じくしびれを切らせていた面々が賛同してしまう。

(馬鹿な…何故待てない。そんな事をすれば、すぐに見つかって、ガトリング砲の良い的にされるだけだ)

歳三は舌を打った。

「駄目だ。そんな表立った事をすれば、新政府軍の蝦夷地への進軍を早めるだけだ。もう少し地上に行った奴らの合図を待って、それでも駄目なら撤退すべきだ」

歳三は必死に止める。

「強気な土方さんらしくもない。ここはいくべきでしょう。俺が責任を取りますから」

甲賀が安心させるように、土方の席まで行き肩を叩いた。

だが、その作戦は成功する事はなかった。歳三の想像した通り、ほとんどの者がガトリング砲の餌食になってしまう。責任を取ると言った甲賀までもが撃たれて死んだ。新選組の隊士も犠牲になってしまう。荒井が撤退を告げ、逃げ帰る船の中で歳三は、苦渋に満ちた顔をしていた。不機嫌な歳三に近づける者は誰もいない。

(奇襲なんてもんは、上手くいかなけりゃ意味がねー。これでは向こうに、蝦夷を攻める口実を与えただけだ)

 歳三は一人、揺れる船室の壁を睨みつけた。


歳三の心配が的中し新政府軍の蝦夷への進軍が開始されたのは、それから一ヶ月も経たない四月九日の事である。

新政府軍の乙部への上陸の報はただちに五稜郭に伝えられた。

歳三は伝習歩兵隊と衝鋒隊、数100名を率いて二股口に出陣する。それが四月十日の事だ。二股口という場所は、海岸線にある松前とは違って天狗岳と台場山に囲まれた中に一本の道があるだけで、守りには適した場所だった。

「それだけの人数で良いのですか?」

出陣する前、大鳥が慌てたように歳三を呼びとめ尋ねた。出陣にあたり大方の兵を大鳥が使うようにと歳三が進言した為だ。

「良い。俺達が守る所には天然の要塞がある。そこから迎え撃つんだ。兵はそんなにいらない。多くても統率が取りにくくなるだけだ」

 どのみち数において、歳三達に勝ち目はないのだ。それならば迅速に動ける方が良いと歳三は考えていた。

「ですが」

「その代わり、弾薬の数を多く貰いたい」

「数は」

「35000」

「35000発ですか」

 普通は10000発持っていれば良いものを35000発という歳三に大鳥は再度驚かされる。

あっけに取られる大鳥から、了承にこぎつけ弾薬を貰い歳三は五稜郭を出た。


「土方総督。我々は勝てるのでしょうか」

歳三の介添え人として同行している大野右仲が、地図を広げあらかたの作戦を指示し終わった歳三に尋ねた。少ない兵力で数千、数万の敵を撃とうというのだから、不安になるのも仕方がない事である。

「勝てないだろうなぁ」

歳三のあけすけのない言葉に、がくりと大野は項垂れる。

「馬鹿が、別に今負けるって言っている訳じゃあねーよ」

「は?」

「大軍に兵法はねぇ。たとえここを守りきったとしても、あいつらは本土から次々に兵や弾薬を送りこんで来れば良い事だ」

「確かに」

「俺達は、蝦夷っていう大きな城に篭城しているようなもんだからな」

「…」

歳三の言葉に大野は黙る。負ける事が解っていて何故そこまで毅然としていられるのかが大野には不思議で仕方がなかった。それが顔に出ていたのか歳三が笑う。

「勿論、俺達は最後まで負ける気はねーさ」

「そうですよね」

大野は、ほっと息をついた。

「だが、大局を見れば完全に不利だ」

「はい」

「だが、俺達は男だからなぁ。負けると解ってたってやらなければならない時がある。尽力をもってあたるだけだ」

「そうですね」

 大野は大きく頷く。そして歳三の強さが死を少しも恐れていない故の強さである事に気付いた。

「ただ、俺が率いている限り負けはねぇ」

「はい」

この歳三の迷いのなさが兵の士気を高め、安心感を生むのだと大野は痛感する。歳三は、大野が兵に作戦を伝達しに行くのを見て、一人で空を見上げた。

十三日正午すぎから戦いは始まり、日没になっても終わる事はなかった。悪い事に日没後には雨までが降り出してしまう。兵達に上着で弾薬を守る事を伝え、歳三は戦況を見守っていた。

休憩所に訪れた兵、一人一人に歳三は労をねぎらって酒を注いでやる。

「沢山の兵相手によくやってくれている」

「いえ」

総督から直接受ける酒に、兵達は恐縮しながらも士気を上げた。

「一杯だけだぞ?終わったらたんまり飲ませてやるから頑張ってくれ」

歳三は笑ってそう告げる。兵達の疲れきった顔から、笑みが浮かぶのを見て歳三は眉を下げた。

十倍以上の兵力の差があれば、疲れるのは当然である。いつか負けてしまうであろう事は、わかっている筈なのだ。それでも皆戦う。命の線が切れるまで戦い続ける。

何の為に戦い。何の為に死んでいくのか。歳三は窮地の中で考える。多勢に無勢という新政府軍を相手に、流石の歳三も討ち死にを覚悟していた。

(俺達が正しかった事を近藤さんは証明しろと言った。俺だって出来る限り生き延びようとは思ったが)

激しくなっていく戦いの中、歳三はふと苦笑いをもらした。

(近藤さんよ。俺にはどうにも打開策が思いうかばねーよ。今はこの場を凌ぐのに精一杯だ。今度こそ最後かもしれねー)

 戦いは夜戦にもつれこんだ。歳三は的確な指示を出しながら敵の進軍を塞き止める。そして弾も底をつきはじめた頃。新政府軍は攻略を断念して兵を撤退した。二股口の防衛に成功した歳三が息をつけたのは、開戦から次の日の朝になった午前六時の事である。


一端、歳三は戦況の報告もかねて五稜郭へと足を運んだ。そして、五稜郭に入った歳三は、怪我人の多さに舌を巻く。運びこまれた死体の数に、戦況がかんばしくない事を歳三は悟り眉を寄せる。近くにいた兵に、伊庭が撃たれ重症だと言う事を聞いた。

(伊庭までがやられたのか)

部屋に訪れた時の伊庭の姿が歳三の目に浮かんだ。

「土方総督。榎本総裁が至急部屋まで来て欲しいとの事です」

 榎本の小姓からの伝令に歳三は小さく頷く。そして来た足で歳三は仮眠も取らずに、榎本の部屋に訪れた。

「情けない話だが、土方君の隊以外は、散々たるものだよ」

榎本は、歳三が部屋に訪れると開口一番そういった。榎本の顔にも焦燥の色が出ている。

「二股口はなんとか防戦しました。だが兵達は疲れています」

 歳三の報告に、榎本は頷いて労をねぎらった。

 歳三は、榎本に勧められ、榎本の机の前に置かれた椅子に腰掛ける。座った事で歳三の足に疲れが一気に押し寄せた。思い起こせば、開戦してから座っていなかった事に歳三は今更ながらに気がつく。

「土方君を呼んだのは他でもないんだ」

榎本は、机に置かれた書状を歳三に手渡した。

「これは?」

「新政府軍から寄せられた密書です」

榎本に渡されたそれを手に取って、歳三は書面に目を落とす。

(なんだって?)

歳三は疲れて気を抜けば閉じてしまいそうになる目を見開いた。眠気も一気に飛ぶ。

「榎本さん。これは」

書状には、降伏すれば幹部を含む全員を助けてやるという旨が書かれていた。

「だから君を呼んだのです」

「榎本さんは降伏なさるつもりか」

「そうではありません。ですがいずれはそうなるでしょう」

その時がきたら、歳三はどうするのかと榎本の目が語っていた。

(降伏するって事は、俺達が間違っていたという烙印を押されるって事だ)

「俺は死んだって、薩長に降伏するのは嫌だ」

「そう言うと思いましたよ」

榎本が苦笑いを浮かべる。

「俺が許されてどうする。近藤や総司や、今まで死んだ者達に会わせる顔がない」

歳三にとって降伏の二文字だけは、頷く事が出来ないものだった。

「私は少し考えが違います。私は日本という国が良い方向に向かうのであればどんな形でも正直構わない。新政府に賛同できない者を集め新しい国を作ろうと思ったのも、下手に討死するよりも、建設的だと思ったからだ」

「では、榎本さんは降伏も考えていると言うのか」

「新政府が私達を許すと言うのなら、内から変えていく努力をするまでだ。これ以上多くの犠牲を払っても生まれてくるのは憎悪だけだ」

榎本の言葉に、歳三は芹沢を思い出した。

敵の内に入り中から崩すと言う事を。

本当に国を思うのであれば、方法は選ぶべきではない事も歳三は解っているのだ。だが、歳三がそれを受け入れるには、今まで多くの犠牲を払いすぎていた。

「…俺は、薩長に迎合する事は出来ない」

「では、このまま討ち死にして、薩長の良いように世の中を作りかえられても良いとおっしゃるのか」

榎本の追及に、歳三は口を噤む。

確かに榎本の言う通りなのだ。討ち死にしてしまえば、犠牲を払った者達までもが浮かばれなくなる。近藤も総司も山崎も…死んでいった者達が歳三に未来を託していったのだ。

(だったらどうすりゃ良いっていうんだ)

 歳三は指を噛んだ。

「土方君。死ぬ事は何時でも出来るよ」

「…榎本さんに何か策はあるっていうのか」

「私は、土方君を逃そうと思っている」

「何?死ぬ思いで戦っている兵を見捨てて逃げろっていうのか」

歳三は、机を両手で叩いた。

「正確には、土方君を新政府側に潜入させたいと思っているんだ」

「…それは、俺に間者になれって事か」

「あけすけに言えばそういう事です。この状況を見れば、土方君が一番、勝つ事が不可能だという事を理解している筈だ。だから私は、一か八かの賭けに出たい」

榎本は、歳三の目を覗きこむ。

視線の鋭さから榎本の言葉が言い訳ではない事を知り歳三の目にも光が宿った。

逃げるのであればまっぴらごめんだが、作戦となれば話は違う。歳三とて、多くの犠牲を出す事をよしとしているわけではない。少しでも勝てる可能性があるのだというならば、そちらに歳三は賭けてみるのも悪くないと思っていた。

(どうせここで死ぬと決めていた命だ)

「…勝算はあるのかよ」

 歳三がごくりと唾を飲み込む。

「なければ言いません」

榎本の目がキラリと輝いた。


「俺が死ねばいいんだな」

「ええ。この戦いの後、五稜郭政府は新政府軍に総攻撃をかける事になるでしょう。その時を決行の時と決めましょう」

 作戦と手順を説明する榎本が最後まで説明し終わると、歳三の顔を見た。

「そう上手くいくものなのか」

 歳三は腕を組むと、眉間に皺を寄せる。

「後方にいて人を払えば、そこには誰もいなくなる」

「だが…」

「首のない遺体に貴方の陣羽織でも着せてしまえば、混乱の中誰も土方君でないと疑う者はいないでしょう」

「一人でそれをやるには無理があるだろう」

「私が脱出経路の確保と船の準備、そして貴方の力強い味方になるであろう人物を提供します」

 榎本がもったいぶるように、悪戯っぽく片目をつぶった。

「誰だそれは」

歳三は訝しげに榎本を見る。

「貴方もよく知っている人間ですよ」

「俺のよく知っている?」

 復唱する歳三に、榎本は笑みを浮かべ、続きの部屋の扉を見やった。

「一戸君入りなさい」

「はい」

歳三は聞き覚えのある声に、思わず椅子を倒す勢いで立ち上がる。

「!」

(そんな馬鹿な…何故…)

 歳三は、瞬きも忘れて立ち尽した。風の噂で死んだと聞いていた人間がその場に立っているのだ。

「お久しぶりです。土方さん」

悪戯を成功させたような顔で、めったに笑う事のないその男が笑っている。歳三は疲れた足を引きずるようにして、一歩一歩、その男の元に近づいた。男の手に頬に触ってみて、それが夢ではなく現実なのだと理解する。

「お前…斎藤…」

言い慣れた名前が歳三の口をついて出た。

「俺は、一戸伝八です」

「なんで…お前…」

歳三は、突然の事に言葉を繋げないでいた。言いたい事は山のようにあっても口はぱくぱくと空回りするだけだった。

会津で別れた筈の山口(斎藤)が何故ここにいるのかという疑問も再会を喜ぶ言葉も出ては来ない。

「彼ならば、貴方の役に立つ筈でしょう」

 榎本は、ニコリと微笑んだ。


「土方さんが間者を断わって、死ぬおつもりでしたら、殴りかかろうかと思っていました」

間者をさせられている斎藤は、歳三の部屋でぼそりと呟いた。

二股口で戦っている時、歳三は完全に討ち死にする気だったのだ。

「お前にやらせてて、俺がやれないってぇ法はねぇだろう」

歳三は気まずい顔で答えた。

(戦っている者を尻目に、戦場を後にする事は気が重い)

そんな歳三の気持ちが斎藤には手に取るように解る。

「裏切って逃げるようで辛いのでしょう」

「ふん」

図星をさされた歳三は口をへの字にした。

斎藤はそんな歳三に向かって渇を入れる。

「土方さん。その考え方は間違っています」

「なんだと?」

 歳三が声を低くする。

「それは間者をしていた俺に失礼です」

「!」

「俺は、御陵衛士を抜け出した時も会津を抜け出した時も逃げると思ってやった事は一度もない」

「…」

歳三が斎藤の顔を瞬きもせずに見る。

「逃げるというのは目的もないのに臆して逃げる時にいう言葉です。目的がある時のそれは逃げではない」

「…目的か…」

歳三は、蝦夷まで来た意味。それ以前に京都に出た意味を思い出していた。

(そうだ、俺は目的の為には手段を選ばねーって決めた筈じゃねーか)

目的。それは弱い者が泣かなくてもすむ世の中を作る事。それが歳三の正義だった。

歳三の目から迷いが消えたのを斎藤は目の端に止めて内心で安堵する。

「俺は俺のやる事に誇りを持っています。例えそれが人から見て逃げるように見えても、卑怯だと罵られても、自分が正しいと思った事を信じてやっているだけです」

 斎藤の言葉に、歳三は背中を押される。

「…悪かった。俺が間違っていた…」

 歳三は肩の力を抜いて額に手をあてた。

「ですが、島田さん達は土方さんが死んだとなれば悲しむでしょうね。彼らは何処にいるのですか?来た時には見当たらないようでしたが」

「…弁天台場に詰めている」

 歳三は気まずげに下を向く。

「本当は、島田さん達も一緒に連れて行きたいのではないのですか?」

「…ここまで付いて来てくれたあいつらだから、置いていかねばならねーんだ」

「…皮肉なものですね。一番土方さんを信頼していた人達だから、島田さん達の悲しみが一番の説得力になる」

 斎藤は寂しげに笑った。

「…」

歳三は、憂鬱にさせるような事を言う斎藤を恨めし気な顔で睨みつけた。斎藤はそれを平然と受けとめる。

「これくらい言わせてくださいよ。私は会津に置いて行かれて大変だったのですから」

「そういえば、お前なんでここにいやがるんだ。俺は容保様を守ってくれと頼まなかったか?」

 歳三は陣羽織を脱ぐと、咎めるような口調で言った。それでもどこか厳しくなりきらないのは、斎藤が生きていてくれた事が嬉しかったからだ。

「俺は土方さんの命令には背いていませんよ」

 斎藤は歳三の言葉に耳を痛める事もなく、飄々と言い放った。

「じゃあ、なんでここにいやがるんだ」

「俺は容保様の命令に従っただけです」

 斎藤は、窓から見える空に会津を思いながら言葉を続ける。

「容保様の?」

「はい」

そこで斎藤は、言葉を落とした。

「容保様の所へ、土方さんが仙台に発った後、すぐに上がったんです」

「…そうか」

 斎藤は歳三の言う事にしっかり従っていたのだ。

「容保様に事の次第を話して聞かせたところ、容保様は土方さんの心遣いに大層打たれておりました」

「お前。そんな事を容保様に言ったのか」

斎藤は曖昧に頷く。

「俺は嘘をつけませんし、嘘をつけといわれた覚えもありません」

歳三は舌を打った。

(揚げ足を取りやがって…)

「容保様は、忠誠を誓った俺に最初で最後の命令を下さいました」

「…それとこれとどういう関係がある」

「容保様の命令が、今ここに俺がいる事なのです」

「…」

 斎藤の報告に、歳三の胸は熱くなる。

「俺は、土方さんの命令を破ってここに来たのではありません。容保様の命令でここに来たんだ」

斎藤は、一点の曇りもない目で歳三を見た。歳三は寝台に腰掛けて膝に手をつく。その手が少しだけ震えていた。

「容保様は何とおっしゃったんだ」

「土方さんの所へ行き、土方さんを助けろと。そうおっしゃいました」

歳三は、その言葉で自分がやはり生きなければならない事を実感する。

降伏した会津藩は、北に送られ過酷な状況の中で謹慎させられていると歳三は聞いていた。しかも処せられた罪は重く、完全に罪人扱いなのだ。絶対に薩長に屈する訳にはいかないという思いが歳三の中を占める。

(薩長が作った国を今度は俺が内から変えてやる。元々俺は武士なんかじゃねーからな。守る矜持なんてものは俺にはねーさ)

「斎藤。ここからが正念場だぜ」

「はい」

 斎藤は緊張感を持った顔で頷いた。

「お前はここにいて姿を見られるとまずい。箱館の町中の宿にでも身を寄せておいてくれ」

「解りました。土方さんはここからも戦ですか」

「ああ。もう一戦ある」

「昨日から寝てないのでしょう。ゆっくり休んでください。これで倒れたら洒落にならないですから」

「ああ…そうだな」

歳三は、そういって斎藤が出ていくと寝台の上に寝転がった。

 翌日、歳三は日野に遺品を届けさせる為に、市村鉄之助を呼びつけた。

「市村。お前に頼みがある」

「何でしょうか」

市村は、歳三の机の前で背筋を伸ばす。市村は鳥羽伏見の戦いの頃に入隊した新選組隊士である。まだ年若い市村はいつも歳三の前に出ると緊張を隠せないようで、歳三はそれを見るたびに微笑ましく思っていた。

「市村、俺の形見を日野まで届けてくれ」

昨夜荷造りしておいた物を机の上に置いて、市村を促す。

「嫌です。皆が戦っている中で、俺だけ逃げる事なんか出来ません」

「…駄目だ」

(俺もいなくなる人間だけに、気持ちは解らなくもないが)

歳三は内心で苦笑する。だが顔は厳しい表情を乗せたままである。

「俺も副長と一緒に最後まで戦います」

「駄目だ。命令だ」

厳しい一言を歳三が吐けば、市村はビクリと体を強張らせた。

「でも…」

「命令が聞けない奴は斬る」

言い募る市村の口を黙らせる為に、歳三は愛刀の兼定をスラリと抜いて市村の顔の前に刃先を向けた。

「解ったな市村。これを日野に届けてくれ」

「…解りました」

市村は、目に涙を浮かべながら、歳三の荷物を受け取る。

「俺の刀も持っていってくれ」

歳三は、腰にさしている兼定を鞘ごと抜いて市村に渡した。

 兼定は、容保より拝借した大切な物なのだ。戦場に捨ててしまえるものではなかった。

「でも、これを持っていってしまったら副長の刀がなくなってしまいます」

「俺はお前の刀を使うさ」

そういって、歳三は市村の腰にさしている無銘の刀を交換した。歳三が兼定を使っているのは周知の事実だ。だがそれを故郷に返したとして出陣当初から、無銘をさしていれば誤魔化しやすくなるのだ。

「市村。危険になったら俺の刀を使ってでも逃げろ。そしてそれを日野に届けてくれ。それがお前の任務だ」

「解りました副長」

「船は手配してある。敵に見つからないように、なんとかきり抜けろ」

「はい」

「達者で長生きするんだぜ」

「はいっ…っ」

市村は泣きながら、頭を下げて部屋を出ていった。

歳三は、窓から見える市村の後ろ姿をそっと見送っていた。

1989年(明治二年)四月十五日の事である。



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