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梅散らず  作者: 花河燈
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歳三達が蝦夷に着き、五稜郭に入城したのは、年を明治と改めた(1868年)十月も半ばに差しかかった頃の事である。

榎本は函館府に、旧幕府の路頭に迷った兵を蝦夷の開拓にあて、外国から国を守りたいという大義名分を掲げた、蝦夷地下付の嘆願書を提出しようとしていた。

下付とは、金品・書類等を役所から下げ渡す事である。

蝦夷地下付とはつまり、蝦夷地を譲ってくれという嘆願とは名ばかりの強奪に近い行為の事を言うのだ。

当然、新政府軍は旧幕軍の意を簡単に受け入れる筈も無く、ここでも戦いの火蓋が切って落とされる事となった。

「ここからは、いわゆる陣地取りです。五稜郭が手に入るまでは、落ち着ける場所がありませんが頑張ってください」

 榎本が軍議の席で、主だった面々を前に言いはなつ。

「ああ。すぐにでも落としてやるさ」

 歳三の言葉に、全員が頷いてみせた。

「季節が変わる前には入りたいものですね」

十月だというのに、かなり冷えこんでいる蝦夷地に閉口しながら大鳥が言った。その場にいる全員が賛成の意を唱える。そして、榎本が本題に入る為に、鷲ノ木浜沖付近の地図を卓上に広げた。

「大鳥君には本道を出立してもらう。そして土方君は、砂原から海岸線沿いに川汲まで下り、川汲峠越えに湯ノ川に出る間道を進んでもらう」

榎本は言いながら、指で海岸線沿いをなぞってみせる。

大鳥の道は開拓されている道なので、多くの敵がいる事が想定される。一方歳三の行く道筋の方が土地的には、兵の数は少ないであろうものの難関な場所だった。峠を越えなければならないのである。

(まぁ…大砲を運ぶのは大変そうだがなんとかなるだろう)

歳三は地図を頭に叩き込んで軍議の席を後にした。


十月二十二日。

大鳥は伝習士官隊・伝習歩兵隊・遊撃隊・砲兵隊と新選組を率いて本道を出立した。

歳三は、衝鉾隊・陸軍隊・額兵隊、島田達数名の守衛新選組を従えて、海岸線の間道を進んだ。

 歳三達の軍は、間道だった事もあり、数人の新政府軍としか出会わず、戦とは呼べない程の小戦で新政府軍を敗走させる。

結局、本道を行った大鳥達の軍も大勝に終わった。戦力的に薄い函館の新政府軍は、撤退を余儀なくされ、歳三達は五稜郭に入る事が出来た。

その後、北海道にある松前藩に蝦夷開拓に関する協力を求めたが、徹底交戦の意を表明された為、蝦夷を支配下に置く為に旧幕府軍は松前城を攻略する事を決定した。

7000人もの兵を擁する攻略部隊の総督に任命されたのが、歳三である。

そして、松前城攻略に出立する前の日。

大鳥圭介が、五稜郭内にある歳三の部屋を訪れていた。

「土方君。少し良いかな」

西洋式の扉を数度叩いて大鳥は声をかける。

「ああ」

歳三は慣れぬ扉を叩く音に戸惑いながら、身支度の手を止め、机の上から荷物を寝台に除けた。そして扉を開けに行くと、そこには両手に兵学書と地図を持った大鳥の姿があった。

「是非、土方君に松前城攻略の作戦を聞きたいと思いまして」

そう言って大鳥は通された部屋の椅子に腰掛ける。

歳三は、大鳥の席に向かい合うように座った。

「作戦…ですか」

「はい。歴戦の勇士である土方君がどのような作戦で戦ってきていたのか、一度ゆっくり聞いてみたかったんです」

宇都宮城を信じられないような小人数で落とした歳三の考え方を知りたいのだと大鳥は続けた。

「松前城についてですが」

歳三は、そこで言葉を切った。大鳥は興味深げに次の言葉を待っている。

「実は、まだ考えていません」

「…は?考えてないですと?」

どのような兵法で臨むつもりでいるのかと、頭に浮かぶ限りの兵法を想像していた大鳥は拍子抜けする。

「そのような状態で松前を攻めるとおっしゃるのですか」

「それ以外に何か」

歳三は平然と答える。兵学書など孫子くらいしか読んでいない歳三にしてみれば、大鳥の望むような答えなど言える筈もない。

「君は、作戦も練らずに勝ってきたというのか」

 あきれ返ったような大鳥の失礼な言葉に、歳三も流石に眉を寄せる。

「誰もそこまで考えなしに攻めたとは言ってない。ただ、敵がどういう性格をしているのかを確かめない限り作戦の立てようもないと言っているんだ」

「ならば、君はいつも戦場に行ってから作戦を立てているというのか」

「それ以外にいつ立てるんだ」

「…」

 大鳥は、歳三の頭の回転が恐ろしく速い事を知る。

「机上でいくら作戦を立てたって、敵がそう動いてくれなければ仕方がない」

「それもそうだが」

言い包められて、大鳥は自分の頭でっかちさを恥じる。その様子を見て歳三は表情を和らげた。

「とは言ったものの、俺が作戦を前もって練らないのは、それだけの兵法を知らないからだ。だから、大鳥さん。帰ってきたら是非教えて下さい」

「え?…あ…ああ。喜んで」


そして土方は攻略部隊をつれて松前に向かったのだが、松前藩の方も考えていた。

先鋒の衝撃隊が城の前まで進軍すると、城門を開いては大砲を撃ち、閉じては砲弾を装填し、また準備ができると開いて発射する為、軍を動かす事が出来なくなった。

(ったく、せこい手を使ってくれるぜ)

歳三は舌を打つと、兵達を統率している陸軍隊と守衛新選組を集め策を練った。

「お前ら俺と一緒に来い」

「どうなさるんですか」

 皆を代表して、島田が尋ねる。

「奇襲をかけるのさ。奴らは衝撃隊しか目に入っていないからな。俺達は城の裏から攻めれば良い」

歳三は不敵に笑うと、残った衝撃隊に、敵が門を開く瞬間を狙って撃てと命令し、陸軍隊と守衛新選組を連れて、城の裏に回り奇襲をかけた。それは見事に成功し、慌てた松前兵は城から一目散に退却した。

歳三が戦の才を思う存分発揮させた瞬間である。

敵を心理的に追い詰めながら撤退させていく様は見事だと言ってもいいほどで、榎本は部下からの報告を聞くと、歳三の機転の速さや実戦に基づいた采配に目を見張った。とても歳三が兵学をろくすっぽ学んでいない人間とは思えなかったからだ。

「さすがですね。開陽丸を沈めてしまった私とは大違いだ」

榎本は、いささか興奮気味に歳三に向かって感嘆の意を述べる。

「開陽丸は残念でしたが、松前を落とした事で帳消しになりますよ」

歳三は、最新式の軍艦の沈没を慰めるように言った。開陽丸は松前を攻略する最中、暴風雪で沈んでしまったのだ。だがそれは、運が悪いというだけで別に榎本の所為というわけではない。だが、開陽丸の沈没は誰の目から見ても正直痛い。

六隻ある軍艦の中でも最も制度の高かった船で開陽丸が一隻あれば、海域で新政府軍の進軍を止める事が出来るであろうという戦力だったからだ。

榎本は気を取り直すように、咳払いをした。

「それにしても土方君は戦の天賦の才があるようだ。大鳥君などは、信じられないと驚いていたよ。兵学も学んでないのに、何故土方君は勝てるのだとぼやいていた」

「いや…たまたま運が良かっただけさ。きっと奴らはまた来る」

直接的な賛辞に弱い歳三は、椅子に腰掛けた榎本にぶっきらぼうに答える。

「そうですね。だが、その前に来るのは猛烈な寒さでしょうがね」

榎本が苦笑してみせた。机の上で組んだ手に顎を乗せて歳三の顔を覗くと、歳三は嫌そうに顔を顰める。

「ここの寒さは半端じゃない」

歳三は降り出した雪を窓から眺めて肩を竦めた。

旧幕軍の兵達が五稜郭に次ぐ松前城陥落に喜び、五稜郭と弁天台場で101発もの祝砲を鳴らし、飲めや歌えやのどんちゃん騒ぎになっている中、歳三は毎日を淡々と過ごしていた。

「副長は何故、騒ぎに加わらないのですか?」

食堂で島田が尋ねた。ご飯に味噌汁と沢庵という質素な食事をしている歳三に疑問を思ったからだ。

「ほっといてくれ。俺は異国の料理より沢庵が好きなだけさ」

「土方副長」

 嗜めるように島田が言った。

「…贅沢すると、戦の時に辛いからな」

 歳三は淡々と答える。

「新政府軍は退却したではありませんか」

「奴らが簡単に引き下がるもんかよ」

 歳三は、蝦夷に国をつくるという事が並大抵では出来ない事を知っていた。榎本が打ち出した旧幕軍による蝦夷地での独立政府という考えを仏英国は、一応の政権として認めたものの、日本の内政には関与しないというもので、歳三達の不利な状況には変わりがないのだ。

「では、またいずれ戦になるとおっしゃるのですか」

「ああ今は来なくても奴らは絶対来る…まず間違いねーよ」

歳三は、好物の沢庵を最後に口に運んで頷いた。

「でも副長。適度に気は抜かないと疲れて戦の時にへばってしまっては元も子もありませんよ」

「会津藩が降伏したってのに、遊ぶ気なんか起きるもんかよ」

(斎藤達は大丈夫だろうか。容保様は謹慎だと聞いた)

傍らに置いた愛刀、和泉守兼定を歳三はすっと撫でた。兼定は容保から貰った歳三にとっては大切な物だった。

歳三のその様子から、歳三が好きで会津を見捨てたわけではなかった事を島田は確信した。

「副長…」

 島田は、元気付けるように、暖かい茶の入った湯のみを歳三に手渡した。歳三はそれを受け取ると、視線を手に持つ湯のみ移す。

「まぁ、お前にはいつも迷惑をかけてるからなぁ。今度、甘味処にでも連れていってやるよ」

歳三は、甘い物が大好物の島田をそう言ってからかった。


蝦夷地の厳しい冬は、五稜郭にもしばしの平穏を与える。五稜郭のある箱館は、歳三達が想像していた以上に開けている所であった。異国船の往来がある為、建造物も異国風の物があるほどである。遊里もあれば賭博場もある。雪も外に出られない程積もるわけではなかった為、天気の良い日であれば外に出る事も可能だった。将校や兵達は、それぞれに町に出ては遊んでいた。


「土方さん。入っても良いかぁ?」

朝というには少々日が昇った頃、歳三に割り当てられた部屋の扉を叩いたのは、伊庭八郎という男だった。九つ下の伊庭は歳三が試衛館にいた頃からの喧嘩仲間である。

「・…ああ。入れよ」

部屋の中から少々掠れた声が響き、伊庭はこの時間まで歳三が寝ていた事を知る。慣れない西洋式のドアを開けた。

「寝てたのかぇ?」

髪が跳ねているのを伊庭に指摘された歳三は、あわてて頭に手をやる。

「寒いのは苦手だ」

歳三は憮然として答えた。シャツを身に着けた歳三はようやく慣れ始めた椅子に腰掛けると、伊庭にも座るように勧める。伊庭のシャツの左腕がひらりと舞った。戦で左腕を失ったのだ。歳三は痛々しそうに伊庭を見た。

「流石にここまで寒いたぁ思わなかったよ」

伊庭は苦笑する。暖炉の火が灯る部屋とは裏腹に、外は吹雪いていて、窓は温度差で結露していた。

「おかげで起きるのも一苦労だ」

 歳三は、嫌そうに机の上に肩肘をつくとそこに顔を乗せる。伊庭は、歳三のその顔を見てしたたかに笑った後で、部屋中をぐるりと見渡した。寝台に読みかけの書物やら、読み終わったのであろう本の山を見て伊庭は感嘆の声を上げる。

「土方さん、また遅くまで書物を読んでいたんだろ」

「まぁ…な。榎本さんや大鳥さんが沢山貸してくれるからな」

 伊庭はそこにある1冊を取りに行き、机の上に置くと、片手でペラペラと数頁めくった所で本を閉じた。

「難しすぎらぁ。土方さん、よくこんなもの理解できるねぇ」

そう言う伊庭も学問には相当精通している。歳三は榎本の学は後からいくらでもつければ良いという言葉のまま、寒い冬を勉学に費やしていた。仏国の顧問であるブリュネから、銃による外国の兵法を学びながら、見識を広める事に専念しているのだ。

「ブリュネ大尉が土方さんを国に連れて帰りたいと言っていたって話だぜ」

 伊庭が歳三をからかう。

「異国なんて冗談じゃねーよ。こんな寒くては、やる事もないから、やってるだけだ」

 歳三は憮然と言い放った。

「こんだけ頑張ったから、陸軍奉行にまでなっちまったんだなぁ」

伊庭のあけすけ無い褒め文句に歳三は、そっぽを向いた。歳三自身、まさかそれほど上の地位に据えられるとは思ってもいなかったのだ。

榎本は五稜郭につくと選挙で位を決めた。封建社会の中で生きてきた歳三からしてみれば、榎本の完全な実力主義のやり方に再度驚かされた。その上で選ばれたのは歳三としては少々照れくさかったりもするのだが。

「あんな江戸にいる頃は一緒に悪さばっかりしてたのになぁ」

 伊庭はにやりと歳三の顔を見た。

「うるせーよ。お前だって一緒だろうが」

「ちがいねー」

伊庭はケラケラと笑う。

「一杯やるか?」

「いいねぇ」

 歳三は、戸棚から榎本に貰った舶来品の酒を取り出し、グラスを二つ机の上に置いた。

「ところで、土方さんは酒飲めるようになったのかぇ」

 江戸にいる頃、飲んでは倒れていた歳三を思い出し、伊庭はからかうように言った。

「馬鹿野郎。あれから何年経ったと思ってやがる。この酒は割に飲みやすくて後にひかねーから大丈夫だ」

歳三は、伊庭のグラスに並々とまるで日本の酒を注ぐように入れてやる。

「ははは言ってらぁ」

伊庭は、入れられた酒を一口含んで喉に流しこんだ。

「知ってたか?これはぶどう酒と言うんだそうだ」

「この血の色の酒がかぇ」

「そうだ。その色は果実の色らしい」

 歳三は久しぶりの気心の知れた者との一時に頬を緩ませた。歳三の周りには、誰もいなくなっていたのだ。総司は死に、近藤は殺され、斎藤は置いてきてしまった。

歳三の一瞬浮かべた淋しそうな顔に、伊庭は、人づてに聞いた総司や近藤の訃報を思う。

「なぁ。なんで土方さんは蝦夷まで来たんだい。いつか薩長と戦って討ち死にでもする気なのかぇ?」

 伊庭は思っている事を率直に口にだした。思った事を隠さない伊庭の正直さに歳三は微笑を浮かべる。

「いや。死にたくてここまで来るほど暇じゃぁねーさ」

「なんか目的でもあったのかぇ」

「なら、伊庭は何故ここまで来たんだ」

歳三は意地悪そうに聞き返した。

「奴らに寝返るのが、まっぴらご免だったからさぁ」

「俺も似たようなもんだ」

歳三は一端言葉を切り、手に持っていたグラスを置くと、伊庭が寝台から持ってきた本を読むわけでもないのに、手にして捲りはじめた。

「俺達は報国を掲げて、自分達の誠を信じてやってきた。それが間違ってない事を証明するためさ」

「証明?」

「ああ。それが近藤さん達の死を無駄にしない事だと俺は思っている」

歳三は、本を閉じて静かに呟いた。

するとトントンという部屋を叩く音がし、二人は扉に視線を投げる。

「誰だ?」

「人見です。そちらに伊庭はいらっしゃいますか」

遊撃隊の同志である人見の訪れに、伊庭は席を立った。

「まずい。そういえば人見が用があるって言ってたんだった」

「何こんな所で酒なんか飲んでやがるんだ。早くいかねーか」

 歳三は、笑って伊庭を追い払うように手を振った。

伊庭が部屋を出ていくのを見送った歳三は、一人机の上の本を見る。それは榎本が貸してくれた洋書だった。

攘夷を掲げ、上洛した筈の自分が異人から兵を学んだりしている事が妙に可笑しく思えた。

(勇さんがこんな俺を見たら腰を抜かすだろうなぁ)

最後まで、武士である事に誇りを持っていた近藤を思い歳三は苦笑いを浮かべる。歳三が髷を切り、洋服に着替えた時も、直接何かを言いはしなかったが良い顔はしていなかった。

(総司は笑うだろうか)

そこまで考えて、ふと以前鴨川で坂本が言っていた言葉が頭に浮かんだ。

(坂本の言っていた通りだ。とてもじゃねーが攘夷は無理だ)

 歳三は一人、グラスの中の酒を燻らせ、中に立つ泡が上がって行くのをいつまでも見ていた。


「水も滴る良い男とは、まさに今の土方君ですね」

五稜郭内にある銭湯のような大きな風呂場で、歳三は榎本に声をかけられる。振り向いた歳三は、洗った髪から滴を滴らせていた。

「ああ。榎本さんですか」

「こういう寒い日は風呂に限りますなぁ」

榎本は歳三の隣りに腰掛けると、固形の物を手拭いに擦りつけて体を洗い始める。歳三はそれを訝しげな顔で見ていた。

視線に気づいた榎本は、歳三にそれを投げて寄越す。

「石鹸ですよ」

「せっけん?」

 歳三は手にしたそれに視線を落とした。

「垢を落とすための物です。土方君も使ってみなさい」

言われたままに歳三は、それを顔に近づけて匂いを嗅いでみる。良い匂いのするそれを口元に近づけると榎本が笑ってそれを止めた。

「口に入れるのはよした方がいい。とても苦いから」

 図星を差されて、歳三は顔を顰める。

「これも西洋の物なのか?」

「そうですよ。と言うか、それは私が作った物ですが」

「榎本さんが?」

「趣味のようなものです」

 榎本はにこやかに頷いてみせた。

歳三は、見よう見真似で自分の持っていた手拭にそれを擦りつけると体を洗い始める。

「でも、不思議なものだ」

 歳三は、ふと体を洗う手を止めて呟いた。

「何がですか」

「俺が、榎本さんみたいな人と隣り合わせて風呂に入っている事がさ」

歳三は自嘲気味に笑う。

「どうしてですか」

「俺みたいな百姓出の男と、榎本さんとは身分が違う」

「ははは」

榎本は豪快に笑った。

「私は実力があれば、身分なんて邪魔なだけだと思っていますよ」

「…」

「実際御公儀が崩壊してしまったのも実力のない血筋だけの連中がいたからだ。だから私は土方君の実力を十分評価しているし差別する必要もない」

余りの正論に歳三は言葉をなくす。歳三自身幼い頃から、随分と身分で悔しいをしてきているのだ。

「異国では、身分という制度がない国もあるんですよ」

「身分がない国?」

歳三は、信じられないという顔で、湯をかぶる手を止めて榎本を見た。

「ええ。全員が政に参加できる自由の国です」

「そんな国があるのか…」

「ありますよ。今度その手の本もお貸ししましょう」

「ああ」

歳三は、あまりの衝撃に言葉が繋げない。百姓までが政に事に参加できる国。そういう国ならば、さぞ日野の人々も幸せに笑って過ごせる国になるのだろうと歳三は思った。

「蝦夷を私達の理想郷にできると良いですね」

榎本の言葉に歳三は曖昧に笑って誤魔化した。


風呂から上がり部屋に戻った歳三は、自分の中にある割りきれない思いを持て余していた。

寝台に寝転がり、歳三は天井を見上げる。

(なんで、俺は榎本さんの言葉に頷けなかったんだ)

榎本の蝦夷を徳川の国にするという夢に、歳三はもろ手を上げて賛成する事が出来なかったのだ。榎本という男を歳三は決して嫌いではなかったし、榎本の政に対する考え方も賛同出来るものだった。

会津に残れば、歳三に残された道は死か降伏しかなかった。その歳三に、榎本が掲げる蝦夷行きは、一筋の光のように映っていた筈だったのだ。薩摩に屈せずに理想の国を作るという案に歳三の心が踊ったのは事実である。

だが、どこか違う。

(どこだ?)

歳三は必死で考える。

そして。

(あ…そうか)

歳三は、一つの答えにたどり着いた。

蝦夷共和国は脱走兵で作られる国でしかないのだ。歳三達の理想郷が作られたからといって、日野にいる人間は薩摩が取った天下の元でしかない。歳三が元々武士になりたいと思った理由も民の為、国の為だったのだ。

(国が…別の国になったって意味がねーんじゃねーか)

 当たり前の事に気付かなかった自分に苦笑いが浮かぶ。歳三の薩摩を認められないという意地だけならばここに国を築く事に賛同出来ていたのかもしれない。だが、歳三の心の奥はそうではないのだ。

(第一、薩長の奴らがそれを許してはくれねーだろ)

歳三は、舌を打つとゴロリと寝返りを打った。


「新政府軍が甲鉄艦を伴なって、宮古湾に停泊しているらしい」

厳しい冬が開けた三月。新政府軍は動き出した。その情報を掴んだ総裁榎本は、ただちに軍議を開いた。

(やはり黙ってはいやがらねーか)

 歳三は、軍議の席で溜息を軽くついた。

「蝦夷に向かい進軍してくるのも時間の問題だというのか」

副総裁である松平が忌々しそうに臍を噛む。

「陸と海から向かえ討ちますか」

 荒井が苦汁に満ちた顔をして腕を組んだ。

「だが、互角に戦えるであろう開陽丸はもうない」

榎本は悔しそうに口を開いた。それから、ああでもないこうでもないと水掛け論になり始めたところでその場に立ち上がった男がいた。その男は軍艦回天丸の船将、甲賀源吾だった。

「ならば奇襲をかけると言うのはどうですか?」

 甲賀は全員を見て言い放つ。

その途端、軍議の席がざわついた。

「奇襲ですと」

「正気ですか」

「無謀ではないか」

「死にに行くようなものだ」

「そんな馬鹿な事を…」

「相手はガトリング砲を持っているのですぞ?そんな簡単にいくものか」

全員が口々に言い放った。

(確かに無謀だが、面白そうじゃねーか。甲鉄艦さえ奪ってしまえば、新政府軍は蝦夷に進軍するのを諦めざるを得なくなるからな。そうすれば戦力を蓄える時間は稼げるだろう)

「俺は甲賀さんの意見に賛成だ。向こうも甲鉄艦にガトリング砲という強い味方がある事で、まさか攻めては来るまいと思っているはずでしょう」

歳三は、甲賀の顔を見て、一同の顔を一人一人見据えると最後に榎本を見た。榎本は歳三の真意を探ろうとするように目の奥を覗く。

確かに、開陽の変わりになる軍艦になりえるものは甲鉄艦しかない。それは榎本にも解っている事だ。室内に沈黙が訪れた。

「…」

 確かに正論かもしれないという気持ちが、そこにいる人々の中に広がっていく。

「見つからずに近づき、その脅威の船をこちらに奪ってしまえばいいでしょう」

歳三の意見に、誰も口を出す事は出来なかった。無謀だと言うにも、それ以上に良い案を出す事が出来ないのだ。

全員が判断を仰ぐように、榎本を見た。

「確かに、その通りですね」

「余ほどの事がない限りは、向こうは油断している筈だから勝算はあるかと思いますが」

 歳三は挑戦的に笑う。

「異論がある方はいますか」

榎本は、その場にいる全員に視線を投げた。そこで反対意見がなさそうなのを確認して、榎本は小さく頷く。

「では、宮古湾を襲撃する事に決定しましょう」

そして、三月の下旬。


榎本軍は宮古湾へ兵を向ける事となる。


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