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梅散らず  作者: 花河燈
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二度目の奉公

「歳三の句は、そのまんまの素直な句が多いなぁ」

そう言って、庭先に咲いているのであろう梅の花を思った為ニ郎が苦笑いをしたのは、歳三がいとう呉服店を辞めてから六年たった、嘉永4年(1851年)の梅の花が咲く季節だった。

歳三、十七の頃である。

小さかった背もすらりと伸び、村の娘が振り返るような色男に歳三は成長した。

いとう呉服店を辞めて来てから数年が経つ。だが歳三は侍になりたいという思いをよりいっそう強めていた。

夜は、行灯のわずかな光で、こっそり買ってきた孫子などの兵学書を読み漁り、昼はそれを実践する為のチャンバラごっこが日々の生活になっていた。

歳三が昼間に勉強しなかったのは、単に恥ずかしかったからである。同じ歳頃の子供達は、家の手伝いをしているか、外で遊んでいるかなのだ。男が外にも出ないで、勉強していると思われるのは癪にさわる。でも歳三は学ぶ事の大事さを知っていた。だから夜だったのである。

そして、歳三が十四の頃、すぐ上の姉のぶの嫁ぎ先である日野家の佐藤彦五郎(義兄)が、物騒になってきた世の中を見据えて道場を開いてからは、そこに入り浸るようになっていた。

そうやって、日々を過ごしてきた歳三が、為二郎から俳句を習い始めたのは、歳が明けて十七になってからの事だった。

彦五郎に、侍は和歌や俳句等も嗜むものだと聞いた歳三は、まずは、大衆的で誰にでも出来そうな俳句を選んだ。為二郎が嗜んでいたというのが理由でもあった。

こうして今、歳三が捻った句に対して溜息を付いている為二郎がいるわけだが、歳三自身も自分の句のまずさが解っているのか、少し赤くなって口を尖らせた。

「どこが悪いって言うんだ。ちゃんと季語だって入ってるじゃあねーか」


梅の花 一輪咲いても 梅は梅


そのままである。

歳三は、極度の照れ屋だった。器用に洒落て言う事くらいは朝飯前の事だったのだが、どうにもソレが恥ずかしくて出来ないのだ。

まだ若い歳三は捨てるには多すぎる羞恥心というものが山ほどあって、剣も兵学も一人前にこなす歳三も、この俳句ばかりは苦手だった。

だからといって歳三は粋でなかった訳ではない。面紐は赤を使っていたし、身なりにだって気を配っている方である。だが、自分の内面を表現する事は、その頃の歳三にとって恥ずかしくてたまらないものだったのだ。

だから、いくら詠んでもそのままになる。

「歳三は良い所に目を付けてはいるんだがなぁ」

歳三が照れ屋な所を知っている為二郎は、その素直さがとてつもなく微笑ましかった。

見ている物は、他の誰もが気付かないような繊細な所を見ているというのに、その表現があまりにも露骨で率直。

その方が、暴かれたくない歳三の内面をさらす事になるという事に気付いてない。

「俳句くれぇ出来なくても死にゃしねぇよ」

いつも歳三のふて腐ったその言葉で、講義は終わる事になる。

歳三のやけっぱちの声色に肩をすくめると、為二郎は開け放たれた襖から入ってくる梅の匂いに表情をやわらげた。

「なぁ歳三。なんで歳三は梅が好きなんだい?武士を目指すなら桜が好きになりそうなものだが」

暇があれば梅の句ばかりを読む歳三に、疑問を持った為二郎が聞いた。

「梅かぁ。梅は折られて折られて強くなるからな。そんなへこたれない強さが好きだ」

「強さか」

「そうだ。桜は散り際が綺麗だというけど、俺はそうはおもわねー。散る為に咲くように言われる桜を綺麗だとは思っても好きにはなれねーよ」

武士になりたいという歳三にしては、珍しい言い様に為二郎は少しだけ驚いた。

武士道とは死ぬ事と見つけたりという言葉がある位なのだ。

歳三の中には、どうやら普通とは違う士道と言うものがありそうだと為二郎は思った。

「歳三は梅そのものだなぁ」

「ああ…俺は梅のような強い男になるぜ?」

幼い頃から少しも変わらない歳三に、為二郎は頬を緩めた。

 江戸への、二度目の奉公の話が歳三の耳に入ったのは、それから間もなくしてからの事である。


江戸の大伝馬町の呉服屋。

それが、歳三の二度目の奉公先であった。

江戸に行きたかった歳三にとっては、降って沸いたような良い話だった。当然、一も二もなく飛びついた。

この頃歳三は、日野宿に来る旅人や飛脚から、色々な話を聞いていた。

外国の船が日本の海によく現れるようになったという事も、伊勢へお陰参りをする人々が驚異的に増えたという話も聞いていた。

話によれば、外国船が現れるようになった不安からか、仕事をほったらかしにして、神頼みとばかりに伊勢へ出かけていく者もいたらしい。封建体制の中、厳しく統制されてきていた人々がそれに従わなくなってきている証拠だった。

こんな歌も歳三は耳にした。

 

菊は咲くさく 葵は枯れる 西で轡の音がする


時代の中で、何かが変わろうとしている。

それを歳三は敏感に肌で感じていた。

 だから、日野ではなくもっと情報量の多い江戸に出たかったのだ。仕事がこの際どんな仕事であったとて、歳三にしてみれば、たいした事ではなかった。

そして、歳三は江戸に出る為の草鞋を履く事になった。



大伝馬町の奉公先では、歳三は極力目立たないようにした。

一度目の奉公では、出来すぎて手代の嫉妬を買った為に、歳三は日野に帰らざるを得ない状況に追いこまれたのだ。

その教訓が生きていた。

仕事に力を入れるでもなく、淡々と言われた仕事のみをこなしていた。商人としての成功など必要としなかった歳三は、下手に目立って争いの種など作りたくはなかったからだ。

歳三は、仕事を終えるといつも真っ先に使用人が寝泊まりする部屋に向かう。そしてその日もいつものように部屋に戻ろうと廊下を歩いたところ、何やら女中の一人が勝手口で困っている様子が目に入った。

高い所に置いてある物に手が届かないらしく悪戦苦闘している。それを見た歳三は勝手口に足を向けた。

「これを取れば良いのか?」

 そう言って、上に置いてある桐の箱に手を伸ばし、降ろして女中に手渡した。

「ありがとうございます。皿が入っていたので困っていたんです。私の背丈では届かないし。お客様用の料理をこれに盛り付けるように言われたんです」

そう言って、ほっとしたような顔をした女中は、名前をハナと言った。ハナはこの店の主の遠縁にあたる娘で、他の女中とは別格の扱いをされている娘だった。それでも、えらぶる事無く誰とでも分け隔てなく接する様に好感を持つ者は多い。

例外なく歳三もこのハナを嫌いではなかった。

歳三よりもニ・三才は年上だと思われるハナは、気立てもよく、さっぱりとした気性が、どこかすぐ上の姉のノブに似ていたからだ。

ハナの礼に、歳三は曖昧な笑みで返し、その場を去ろうとすると呼びとめられた。

振り向くとハナは、野菜を切っていた。

「歳三さんって、本当はここに勤めたい訳ではないんでしょう?」

「…」

図星をつかれて、返す言葉をなくす。

「何でって顔にかいてありますよ?」

「なんでそう思った?」

乾いた口調で、歳三は疑問を口にした。

「だって…本当は侍になりたいのではないかと思ったんです」

どうして解るのかと聞けば、笑ってハナは答えた。

「私の知っているお侍様の手と同じ所に、タコが出来ていますから…剣術をなさっていた事位はわかります」

「可笑しいだろ?実家が百姓な上に使用人の俺の手にこんなものがあるのは」

苦笑いをしながら、歳三は手に出来ているタコを片方の手でさすった。

「何故ですか?店にお金をむしんに来る不貞浪人に比べたら、歳三さんの方が、余程侍に近いように思えます」

歳三が侍になりたいという事を知っても笑わなかったのは、為二郎位なものだった。

それなのにこのハナは、笑いもせずに、浪人よりも侍に近いと言うのだ。

「あんた変わってるな」

「変わってますか?女なら誰だって、良い男の方の肩を持ちますもの。歳三さんはモテるでしょう」

そう言って、ハナはころころ鈴のように笑う。

「そんなこたぁ…」

「隠さなくても解ります。実際女中の中でもこっそり人気があるんですから」

確かに、歳三はモテた。闇祭などで女を漁る必要がない程度には…

容姿も群を抜いていて、色白の肌は女のそれよりも白いと言われるほどで、それでいて頭も良ければ腕も立つとくればモテない方が可笑しいのだ。

故に経験もそれなりには積んでいる。

だが、歳三は本気で誰かを好いた事はまだ一度もなかった。

「仕事も出来ないのに?」

 そう言って歳三が皮肉を言うと

「女が出来る男を見る嗅覚を馬鹿にしてはいけませんよ?」

 ハナがそう言って、切った野菜を煮立った鍋の中に入れながら声を立てて笑った。



ハナの情人が、店によく来る榊原と名乗る侍だと解ったのは、歳三が休みの日に買い物でもしようと外を歩いていた時だった。

ふと見知った顔に目をやると、ハナと榊原が仲良さそうに二人連れ立って、茶屋に入っていったのをたまたま見てしまったのだ。

歳三の手にあるタコが何をしていて出来たものなのか、ハナがすぐにピンときた理由が解り、自分の手を見て苦笑した。

知り合いの侍というのが、情人の手ならば解って当然なのだ。

榊原という男は、歳三が店で見る限りは柔和で、折り目正しい好人物だという事は知っていた。いつも上等な着物を着ている所を見ると、良い所の出なのも伺える。歳三よりは五つ六つ年上のようで、全体的に小柄な印象を受ける人物だったが、さらに小柄なハナとならばお似合いの二人のように思えた。

だが女中と侍では、どれほど好きあっていても、うまくいきようもないのは事実だった。

(侍が何だってんだ。同じ人間じゃねーか)

身分という言葉が歳三の心に重くのしかかる。

ハナと榊原が、茶屋に消え去ったのを見届けながら、それでも二人の恋愛がうまく行けばいいと願わずにはいられない歳三がいた。


 そんな歳三と榊原が仕事以外で顔を合わせる機会は、ある日突然来る。

奉公先からの使いで、牛込まで行った帰りの事だった。

料亭の前で、侍が数人言い争っているのが見えて歳三は足を止めた。

町人達は、道端で言い争っている彼らを遠巻きに眺めながらも、通りすぎていく。町人同士の喧嘩であれば、拳で戦うので集団観戦となるのだが、相手が侍だとそうもいかない。

下手をして斬られでもしたらコトなのだ。

そんな様子を歳三は見ながら、声の聞こえる位置まで近づき、その侍の顔を見、3人ほどの人に囲まれた榊原の姿を見て目を見開いた。

「榊原殿は、芸者遊びはしないのですな。潔癖にござるようだ」

三人の中の一人がからかうように言った。

「私は別に…」

 榊原は困ったように、頭に手を回した。

「榊原が潔癖なものか、どこぞの女中風情に懸想しているのだからな」

 女中を相手にするなど、信じられないと言った顔でもう一人が詰った。

「つまみ食いならまだしも、懸想しているとは話になりませんな。自分の立場をわきまえられよ。女中と本気になるなど、犬や猫と交わるのと同じ事だ」

「…」

口々になじるのを見ていた歳三は、ハナを人間扱いもしてない言いように腹が立っていた。

(女中で何が悪いっていうんだ。)

全員が良い物を着ている二本差しばかりだった。面構えに自分達の地位への自信がみなぎっている。その高飛車な様子が歳三の神経を逆撫でした。

(気にいらねえ)

 歳三は思った。

「三人で一人に対して、ちくりちくりと嫌味を言うヤツってのは犬猫以下だって思うがなぁ」

聞こえるように、隣の店の軒に体を預けながら言い捨てると、三人の侍は一斉に気色ばって、歳三の方に振り返った。

「あなたはハナの所の…」

 言おうとする榊原を目で征して、歳三は一歩ニ歩と歩みを三人の侍に向かってすすめる。

「なんだと?もう一度言いやがれ」

「町人風情が何を抜かすか」

「そこへなおれっ。無礼打ちしてくれる」

一人が刀の鯉口に手を懸けて脅しを懸けて来たが、そんな事くらいで恐れをなして逃げるほど、歳三は気弱でもなかった。

「そうやって腰のものをちらつかせなければ何も出来ないってところーが、犬猫以下だって言ってんだ」

歳三に煽られて、一人がついに刀を抜いた。

遠巻きに歩いている町人が悲鳴を上げる。

歳三は、冷静にその抜刀した男を観察していた。剣の腕はたいした事はなさそうだった。一撃目は近くにある火避けの桶を投げつければかわせるだろう。いざとなれば榊原の脇差を引きぬいて一歩踏み込めばなんとかなる。

そう思いながら、その男の間合いを図っていると、後ろから静止の声が掛った。

「お前達、何をしている。町の者が怖がっているではないか」

「阿部様。も…申し訳ありません」

旅館から出てきた、三十半ばの男は三人を睨み叱責した。

三人は主人の出現に一気に戦意を喪失し、一様にうなだれた。

「そこの者、事情を中に入ってゆっくり聞かせてもらえないか?」

そう言って、歳三に向き直る様子は一種風格があって、歳三は居住いを正して促されるまま後に続いた。

阿部が出てきた筈の料亭に連れ立って入っていく。 

二階の一番奥の一部屋に通された歳三は、阿部という男の前に座らされた。

それまで格式の高い料亭というものに入った事のなかった歳三は、周りを見回したいという衝動に駆られる。

が、それをすればあまりにも格好が悪い事位は判っていたので、その欲求をぐっとこらえた。

そして、目の前に座る阿部という男から感じられる威圧感に、この男が只者ではないのを感じていた。背中が自然に伸びて、尻の穴がむずむずしてくる。

そんな歳三の様子に気付いているのか、目の前に座る阿部は、年の若い歳三に優しげな顔を見せながら、それでもどこか一本芯が通った声で言った。

「この榊原と、その方の知合いが出来ている事が事の発端だと聞くが、どうなのだ?」

阿部の後ろにいた榊原がガックリと肩を落とした。知られては続けられない恋だからだ。それを眼の端に留めた歳三は、割り切れない思いを一層強くした。

「一つ伺ってもよろしいですか?」

「なにかね?」

「出来ていたら不都合なのでしょうか。後ろに控える方々は、女中だという事で、付き合っている榊原様を愚弄しました。犬や猫を相手にするのと同じ事だと」

歳三は仕事の時に乗せる敬語を貼りつかせて尋ねた。

「それは、この者達の粗相ですな。あとでしっかり言い聞かせます故、この場はおさめて頂けますまいか」

 阿部は部下の非礼をあっさり詫びた。けれども榊原とハナの事に関しては、何も触れない。

「榊原様とハナはどうなるというのですか」

「…難しいでしょうな。榊原は大事な腹心です故」

「不相応だとおっしゃるのですか」

精一杯の勇気を振り絞って、歳三は非難するような眼差しを阿部に向けた。阿部の後ろで、不相応に決まってるだろうが、という聞こえよがしな野次が飛ぶ。それを阿部は制すると、不機嫌な様子を微塵も見せずに、歳三に向き直った。

「武士には武士のしきたりがあり、仕事があるのだ。それを理解出来る者でないと、内儀は勤まらないだろう」

「理解出来るのであれば、身分など問題がないとおっしゃるのですか?」

そう歳三がきり返すと、阿部の後ろにいる部下が、歳三の暴言に我慢ならないと言った風に立ち上がった。

「お前、黙って聞いておれば言いたい事を阿部様の前で言いたくりよって。大体お前に武士の何が判ると言うのだ。そろばんをはじいているのが関の山の呉服屋が、刀を振るったり政治が出来るとでも言うのか」

 顔を赤くしてどなっている部下を見て、次第に歳三は阿部に対して冷静さを取り戻していく。そして血気盛んな部下に向かって平然と答えた。

「できるといえば、認めて頂けるのならば、一振り刀を貸して頂けますか。お相手いたしましょう。国のことを語れと言うのでしたら語るだけにございます」

阿部は度胸のある歳三を見て、正直面食らっていた。

老中筆頭である阿部に、ここまではっきりした意見を言って来た者かつていただろうかと。

実際歳三は、この阿部が老中の阿部だとは、解ってなかったから言えた事ではあるのだが、武士に対して意見すると言う事だけでも中々勇気がないと言えないものだけに、歳三のそれは賞賛に値された。

「だったら、拙者の刀を貸してやる故、外に出るがいい。試してやろう」

部下が歳三に、そういって刀を渡そうとするのを阿部は止めた。

「馬鹿者!お前が刀の錆になる気か」

「は?」

厳しい叱責に、眼をぱちくりとさせたのは、部下の方だった。顔には何故ゆえに…という言葉が浮かんでいる。

「この者の手を見てみろ。この者はお前より強いだろう。多分先程も斬りかかっていれば、お前の方が斬られていた」

そして、一同が歳三のタコの出来た、一見するだけには、とても刀を持つとは思えない白い手に視線をやり、実際にタコが出来ているのを確認して、息を呑んだ。

そして歳三は、一瞬にしてそれを悟っていた阿部をやはり一角の人物だと痛感していた。

「どうやら、国の事にも精通しているようだの。ならば、解ってはくれぬか?あけすけに言えば、国という物は、あらかたの役割や階級というものを作らねば、回っていかぬのだ」

 阿部は教え諭すような目で歳三を宥める。歳三はそれに納得できずに言葉を繋げた。

「でも、それが御公儀の衰退に繋がっているようにも思えます」

斬られるのを覚悟での進言だった。歳三の手には脂汗が滲んでいる。

「御公儀のどこが衰退しているというのだ」

部下が口を挟む。馬鹿な事を言うなと口々に歳三を嘲った。

「お前達は黙っていなさい。私はこの方に聞いている。何故御公儀が衰退していると思う」

 阿部は興味深げに歳三を見る。歳三は聞く耳を持つ阿部にいささか驚きながら口を開いた。

「自らの仕事を投げ打って、伊勢のお陰参りに行く人々の多さからです。伊勢神宮に行く事は、朝廷に縋っているようなものです。御公儀の力が強いならば、なんとしても人々のそれを止めている筈でしょう」

「お陰参りから、そう読むか…成る程」

 阿部は神妙に頷いた。

実際、この頃の幕府は衰退し弱体化していた。それを阿部は知っていて、憂いてもいたのだ。

それを視差する歳三の頭の良さに、感心すると共に、自分自身が町人を舐めていた事を恥じた。

「武士だ町人だという時代ではなくなってきているのかもしれないな。」

そういって、阿部は歳三に向き直って苦笑した。


その後、ハナに縁談が舞い込んだのは、それから間もなくしてからの事であった。すぐに歳三は、それが阿部の差し金であることが、理解できた。やはり今の時代では身分というものは大きかったのだ。

(侍なんかくそくらえだっ)

 歳三はどうにも出来ない自分の無力さを噛み締める。

実際、一人の人間としての阿部は歳三の言う事に、納得してくれていた。だが、公の阿部がそれを許さなかった。どこをどう取り繕っても、榊原は幕臣の一人で対面的にも許される問題ではなかったのだ。

一人を目溢しすれば、規律というものはそこから崩れてしまう。それを懸念しての事だった。

歳三は、軽率に言い争いに加わってしまった事を悔いていた。自分さえ加わらなければ、ハナと榊原は、もう少しだけでも、一緒にいる時間を延ばせたかもしれないのだ。

そう思うと歳三はいても立ってもいられなかった。

ハナはが店の主に呼び出され説得されているのを聞きつけると、仕事を放り出してハナが呼び出されている部屋に向かった。

「良い話じゃないか、ハナ。相手は大店の家の跡取り息子だよ?」

障子に穴を開けて、盗み見、耳をそばだてれば、ハナは蒼白な顔で、首を横に振っていた。

「私には、心に決めている方がいます。だからその話はお受けできません」

「私は、遠縁のお前に苦労はさせたくないし、紹介していただいた相手の気分を損ねる訳にはいかないんだよ」

室内に沈黙が流れる。

「それとも何かどうしても駄目だという理由があるのかね」

「子を宿しております」

そうハナが切り出した。

歳三の目が見開かれる。

「誰だね相手は、言いなさいハナ」

顔色を変えて主は、ハナに詰め寄った。だが、ハナも榊原の名前を出すわけにもいかず、そのまま黙り込んでしまう。

「言わなければ、子を下ろしてでも嫁がせるよ」

「そんな、酷い。それだけは…」

ハナはその場に泣き崩れる。歳三はそれを黙って見ている事は出来なかった。

「俺の子だ。下ろさせるなんてゆるさねー」

襖を開けるや否や歳三は、そう怒鳴っていた。


当然、歳三は店から暇を出された。

「私をかばったばかりに…堪忍して下さい」

そういって、ハナは涙を流した。

「いいんだ。俺が余計な口を挟んだばっかりに、こんな事になっちまったんだ。俺の方こそ何て言って謝ったら良いかわからねぇよ」

ハナは首を横に振った。

「いいえ、歳三さんは必死に説得してくれていたと、榊原様もおっしゃっていました。いつかこうなる事だったんです。それより、歳三さんの一生を私が汚してしまいました」

「俺のこたぁ本当にいいんだ。なにせ俺は武士になりたい男なんだし。女を孕ませたのだって、男の勲章になりこそすれ、傷にはならねぇよ」

 何せ俺はモテるから。と歳三が冗談めかしていえば、やっとハナは泣き顔に笑みを乗せた。


日野に帰った歳三は、喜六に大目玉を食らった。

よりにもよって、女中に手を付けて暇を出されるのは、何事なのかと。

どれだけ追求されても歳三は、口を割る事はなかった。

一度決めたら、頑として揺るがない歳三の意志を見て、喜六は大きく溜息を付いた。


そして、その噂は狭い村内を懸け抜けて、いつの間にか歳三は、遊び人の代名詞にされていた。

色男だったのが、噂に拍車をかけたのだ。

何時の間にか夜這いの名人扱いをされていて、指南を請う者まで現れたが、歳三は取り合わなかった。

それを見てくちさのない者は、歳三の事を気位が高いと言う者もあったのだが、歳三にしてみれば、実際やってないのだから、言いようがない。

かといって歳三は一度出てしまった噂を一々否定して歩くような狭量な真似はしたくなかったのだ。

佐藤彦五郎の道場に顔を出した時も、歳三は噂の中にさらされていた。

だが、その中で出稽古に来ていた島崎勝太(近藤勇)は、歳三に何も聞かずに、黙って竹刀を握らせて、久しぶりに打ち合いをしようと、四角い顔に大きな口を広げて、さわやかに笑ったのだ。

事情がわからずに、無邪気に擦り寄ってくきたのは宗次郎だった。宗次郎というのは、沖田総司の二十歳まで使っていた名である。

総司(宗次郎)は自分とも打合いをしてくれと歳三に約束を取りつけると、久しぶりに会う歳三の腕にしがみついた。

それが、憂さを晴らせとでも言っているようで、無言の中にある二人気遣いが、噂に参りきっていた歳三の心を癒していた。

ひとしきり、竹刀を振って汗を流した後、近くの原っぱにねそべって、歳三は一人ハナの事を思った。

もう、心の傷は癒えたのだろうかと

歳三は、自分がハナの子の父親だと言った時の事を思い出して、苦笑した。

あの時の自分は、侍になりたいという気持ちは忘れ去っていた。このまま子供が下ろされてしまう位なら、父親になっても構わないとさえ思っていたのだ。

その気持ちが、恋愛なのか、姉に似たハナと榊原の関係を守りたい気持ちから出たのか、歳三にはわからなかった。


志れば迷い 志らなければ迷わぬこひの道


そう詠んだ句には季語が含まれてはいなかった。


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