分離
「帝がお隠れになったというのに、まだ御公儀に尽くすと申されるのか」
伊東は、局長室で近藤と土方を前に時局論を展開していた。
時勢が急激に動き出した慶応二年(1866年)十二月の事である。
征長戦は新選組が参加する事なく行われていた。
結局、佐幕の中の佐幕と言われた帝、すなわち孝明天皇が崩御した事を理由に、幕府は形勢不利となった自軍を長州から撤退させた事でその戦いは終わった。
それは誰の目から見ても、長州征伐の失敗に他ならない。
一つの藩を抑える事も今の幕府には出来ないのかと人々は幕府に対して思うようになっていた。
伊東はそれを示唆して、今新選組が幕府側の味方をする事の危険性を説く。
(伊東さんの言う事ぁ、はなっから解っている事さ)
歳三は、動じる事なく伊東の顔を静かに見ていた。
「俺達は、会津の米を食っている。御公儀の形成が不利だからと言って裏切る訳にはまいらん」
近藤は、火鉢の炭を転がしながら言った。
「公武合体は、帝が御公儀を支持していたから均衡を保っていたようなものです。帝がお隠れになった今、御公儀に付く事を尊皇とは言えますまい。土方君はどうお思いか」
「俺は…尽忠報国という言葉を変える気はない」
歳三は、迷いのない目で伊東を見る。
「それでは、尊皇の心は変わらないと申されるのですね」
「ああ…変わらない」
歳三の言葉に、伊東は新選組にも先を照らすものが残されているかもしれないと思い始めた。
「ならば、この組を勤皇の組に変える事が得策というものではありませんか」
「だが、それならば尽忠はどうなる。今俺達が世話になっているのは、近藤さんの言う通り会津だ」
歳三は淡々と言葉を繋げる。
「今や薩摩や長州の方が、御公儀よりも力を持っている。それが解っていながら、名ばかりの尊皇を掲げている会津に付いて何になるのですか」
「伊東君。言いすぎではないか」
近藤が嗜める。
「ですが、事実でしょう。誠に国を思うのであれば、力のある藩に付く事が得策」
「京の町を焼き払うような計画を立てる奴らが国を思う…か」
歳三が自嘲した。
「そういう過激な方々は、それこそ池田屋で斬り捨てられた筈でしょう。今残っているのは別の人間です。腐っているのは御公儀の方でしょう。勤皇を謳う天狗党をことごとく斬罪にして…」
天狗党を支持していた伊東は、殺された同志を思い、口惜しさに唇を噛み締める。誰から見ても今の幕府は沈みかかった船なのだ。ただでさえ幕府に思い入れのない伊東は、近藤の忠犬のような忠誠心が鬱陶しくて仕方がなかった。
「薩摩や長州は、国を変えようとしています。ですが御公儀はどうですか。夷狄には弱腰であたり、国内では自分達の権威を保つ事しか頭にない。御公儀に付く事のどこが報国だというのですか」
「…」
近藤は、伊東のあけすけない言葉に、口をつぐんだ。実際伊東の言っている事はもっともで、返す言葉がないのだ。
「確かに、今の御公儀は滅茶苦茶だ」
歳三があけすけない言い方で、幕府をこけ下ろす。
「歳」
近藤が歳三を咎めるような顔で睨んだ。
歳三は、それに気付いていながらも言葉を続ける。
「強い方に付く事は、簡単な事だ。話が早い」
「そうでしょう」
伊東が歳三に期待の念を向けた。
「…だが、今の御公儀を変えれば済む事だ」
「変えられると思っているのですか?」
信じられないと言った風に伊東は首を横に振る。
「出来なくても、それをやらなければ俺達には道はねぇ。幸い新選組が幕臣に取りたてられるかもしれないという噂もある事だ」
「この時勢に幕臣など、正気の沙汰ではない。私はごめんです」
伊東は蒼白な顔をして叫んだ。そして部屋を出て行ってしまう。歳三は、その様子を見て伊東が、このまま黙ってはいないだろうと心の中で思っていた。
「なぁ…歳よ。お前も本当は御公儀に見切りをつけたいのだろ?」
二人になった部屋で、近藤は歳三と向き合って呟いた。
「…まぁなぁ」
歳三は苦笑いを浮かべる。
「だが、近藤さん。俺は勇さんの義について行こうと決めている。勇さんが御公儀に最後まで尽くすというなら異論はねーさ」
「そうか」
近藤は静かに頷いた。
局長室を出た歳三は、一つ溜息を付く。
外の庭が気付かないうちに冬へと色取りを変えているのに気付いて、苦笑いを浮かべた。
季節が移り変わるように、時代も流れているのだと歳三は痛感する。多分幕府の内部を変えて立てなおす事など今の時勢ではもう無理な話だろうと歳三は思っていた。
静かに縁側に腰を下ろすと、どこからかコホンコホンという咳をする音が聞こえてきて、歳三は眉を潜めた。
「総司お前か。咳の主は」
「ああ…土方さんどうしたんですか。こんな所で風邪を引きますよ?」
門の方から現れた総司が歳三に向かって微笑んだ。
「咳をしてるお前に言われたかねーや」
「道理だ」
総司はからからと笑う。
「それより、お前こそ何処行ってたんだ。一人で出歩くなんて物騒じゃねーか」
「土方さんこそ、いつも隊士の止める言葉も聞かずに一人で出かけてしまうくせに」
「俺は良いんだよ」
総司にやりこめられて、歳三はふて腐ったように顎に手をついた。
「全く心配性なんですから」
総司は、歳三の隣りに腰を降ろすと、ぐいっと体を前に倒し歳三の顔を覗きこんだ。
「行先ぐれぇ言って行け」
そっぽを向いて歳三が言う。
「言えない場所もあるんですよ」
総司がニヤニヤしながら惚けて見せた。
「言えない場所だぁ?」
「そうです。私も年頃ですからね。色々あるんですよ」
含みのある言い方に、歳三ははっと総司の顔を見た。
「なんだ、お前良い女でも出来たのか」
「さぁね」
総司は、それ以上の追及をゆるさないように、さらりと身を翻して廊下の向こうへ去っていった。
そんな総司を見て、まだ幼かった頃の総司が一人前に恋をする年になっていた事に歳三は今更ながらに気付いた。
一方、歳三から逃げた総司は、こっそり履物を玄関に戻していた。
「沖田さん」
気配もなくかけられた声に、総司は背中をギクリと丸めた。
「斎藤さんですか」
向き直って、斎藤の顔を見た総司は、ほっと息を漏らす。
「沖田さん体は大丈夫ですか」
「やだなぁ…何を言ってるんですか。私はこの通り元気ですよ」
力瘤を出して見せて、総司は笑った。
「沖田さん、少しよろしいですか」
「え…今日は遊び疲れたので剣術の相手は他の人にされたほうが」
「いえ…そうではない。話をしたい」
総司は、やれやれと言った顔をすると、観念したかのように、斎藤を自室に招き入れた。
火鉢を引き寄せ火種を入れる。
ぱちぱちという音がしはじめると、室内は少しだけ温度が上がった。
「で…話というのは何ですか?斎藤さん」
「沖田さんが医者に入っていくのを見た」
「…」
総司が何時になく真剣な顔をして斎藤を見る。斎藤に話があると言われた時点で腹を括っていたのか、総司の目に動揺はなかった。
「体を壊されているのではないか?」
「…」
総司は何も言わない。
「嫌な咳をしているのを時々見かけた」
「…斎藤さんには嫌になっちゃうなぁ」
鋭いんだものと総司は苦笑いを浮かべた。
「肺を患ってるんだそうです」
他人事のように話すのを聞いて、斎藤は目を見開いた。
肺を患う事が命にかかわる事だと言う事は、医学に疎い斎藤でさえ知っている事なのだ。
「それを土方さんは…」
「知るわけないでしょう。知ったらあの人の事だ。私を江戸に帰してしまうに決まってる」
「だが…このままでは」
斎藤は総司の勢いに気圧され、うろたえる。
「私は、あの人に付いて行く為にここにいる。土方さんの夢に自分を乗せたんです」
「…」
同じ気持ちの斎藤は、総司の心が痛いほどわかり黙りこんだ。
「ここにいて、あの人の役に立てない私ならば、私はいらない。ただ息をしているだけの人生なら私は、すぐにでも死んでかまわない」
「…」
いつも柔和で冗談ばかり言っている総司の激しさを垣間見て、斎藤は言葉を発する事が出来なかった。
「だから…お願いします。土方さんには絶対言わないで下さい」
総司の気迫はすさまじいものだった。総司は斎藤から視線をそらさずに、斎藤の返答を待っていた。だがここで斎藤が否を唱えれば、刀を抜いて斎藤を斬る。それほどの覚悟だという事が斎藤にも見て取れた。
斎藤は大きく息を吐いて、目を瞑る。
「承知した。沖田さんがそれほどの意志で決めた事だ。…俺からは何も言わんよ」
「良かった。だから斎藤さんって好きなんですよ」
そう言った総司の顔は、いつもの顔に戻っていた。
「総司っお前ぇ仕事もしないで何処行きやがる」
歳三の怒声から逃げるように、総司は門の外に駆け出した。
「土方さん。大目に見てくださいよ。最低限、隊務はこなしてるんですから」
「だからって、ほぼ毎日だろーが」
歳三は青筋を立てて怒鳴る。
「可愛い弟分の色恋が実か実らないかって時なんですから、良いじゃないですか」
「総司っ!待たねーか」
「見逃してくださいね。土方さん」
総司は、そう言って屯所を走り出ていった。
その場に残された歳三は、総司の能天気さに、肩を竦め大きな溜息を付く。
時代が流れ、この混沌とした時に、総司が腑抜けていてもらっては困るのだ。伊東一派が陰で何やら画策しているという不穏な動きもある。
そんな緊迫した状況の中、呑気に色恋にうつつをぬかしている総司に、歳三は舌を打つ。総司という人間は、いい加減な奴ではない筈なのだ。冗談は言っていてもやる事はしっかりやる人間だと歳三は思っている。だが、そんな総司から真剣味が欠けている。隊士の稽古もめったにみないで、外に出かけてばかりだという事を歳三は隊士から聞いていた。
(色恋って奴ぁ…やっかいだな)
歳三は憮然とした表情で、総司の走っていった方向を睨みつけた。誰もいなくなった細い道は、どこか淋しげで歳三は門の中に視線を戻す。
そして、屯所内に戻るところで稽古を終えた斎藤に出くわした。
「斎藤。今から暇か?」
「はい。空いてますが」
「出掛けないか?」
伊東達の動向を探らせている斎藤からの報告を聞く為に、歳三は外へ誘う。
「珍しいですね。出掛けるなんて」
斎藤が意外そうな顔で歳三を見た。いつもならば報告は自室で済ませてしまう筈なのだ。
「ああ…気分転換を兼ねてな」
そう言って、歳三は斎藤を促した。
料亭の二階に座敷を取って、歳三は斎藤から報告を聞いていた。
「やはり伊東達は離隊を考えたか…」
予想していた斎藤の言葉に、歳三は顔を顰めた。
「はい。薩摩や長州に内密に働きかけている模様です。近々九州に直接出向いて、離隊への下準備をするとの事」
「そうか…斎藤。離隊に際してだが」
歳三が声を落とす。
「俺が伊東さん達に付いていけばよろしいのですな」
「ああ…本当にお前は話が早くて良い」
歳三は、ここにはいない総司に当てこするように呟いた。
歳三が総司の事が気がかりにしている事が見て取れて、事実を知っている斎藤は教えたい衝動に駆られる。
「沖田さんは…」
そこまで口を開きかけて、斎藤は口を噤んだ。総司の必死な顔を思い出したからだ。
「なんだ斎藤。総司の事で何か知っている事があるのか?」
「い…いえ」
斎藤は、誤魔化すように歳三の猪口に酒を注いだ。
「大体、あのヤロー色ボケする時期かどうか位ぇ考えやがれ」
酒に弱い歳三は、わずかに赤くなりながらぼやいた。
「きっと沖田さんにも、なにか理由があるんですよ」
斎藤は、少しでも歳三の気持ちを宥めようと必死になる。
「悪い女につかまってなければいいが…」
弟を思うような、歳三の心配に斎藤の胸が痛んだ。
総司の病状が悪化して、医者に通わなければならない頻度が増してしまっている事を斎藤は知っていたのだ。
知っていて黙っていなければならない事がこれほど辛いと斎藤は思ってみなかった。
「だからって、沖田さんに監察を付ける事は野暮かと思われますが」
「そりゃそうだ」
歳三が、手酌で酒を煽ろうとするのを止めて、斎藤が注いでやる。
「きっと、沖田さんも言わなければならなくなったら言いますよ」
「そうか?」
「そうです」
歳三が注いでくれた酒を喉に流しこんで斎藤は頷く。飲んだ酒がこれほど苦く感じられた事はなくて、斎藤は舌を打った。
総司が倒れたのは、年が明けた二月の事だった。
巡察から帰った所で発作に襲われた総司は、酷く咳込んでその場に昏倒した。事情を知っていた斎藤がその場に駆けつけ、総司を部屋に連れていく。
そして、潮時だと思った斎藤は全てを歳三に話して聞かせた。
「何故もっと早くに言わなかった」
総司の病を知らされた歳三は、苦々しそうな顔をして、その場に座りこむ。
総司は、心配かけまいと医者に通っている事を隠し、女が出来た事にしていたのだ。
傍に寝ている総司の顔は蒼白で、かすかにやつれている。(腑抜けていて当然じゃねーか)
歳三は総司を見ながら自嘲する。縁側に座った時、もうすでに咳き込んでいたというのに。伊東達の動向ばかりに気を取られ、気付いてやる事が出来なかった。
(俺っていう奴は、どこに目をつけていやがるんだ)
歳三は総司の顔を見て奥歯を噛み締めた。
「…申し訳ありません。俺がもっと早く言えば」
斎藤は歳三の顔を見ていられずに俯いた。
「ここまでになる前に、江戸に帰せばこんな事にはならなかったものを」
歳三が畳に手を押し付けて掌を握り締める。
「そうなるのが嫌だから、騙したんですよ。斎藤さんは悪くありません」
いつの間にか気付いた総司が、布団の中でニコリと笑った。
「馬鹿野郎」
歳三は、総司の顔を見て怒鳴りつけた。普段冷静な歳三には珍しく、かすかに語尾が震えている。総司は激情を抑えきれずにいる歳三を見て目を細めた。
「私は、土方さんの傍にいて、あなたの夢をかなえる手助けをすると心に決めたんです」
「だからって命あっての物種じゃねーか」
歳三がやりきれないように言う。
「私の命は、私が決めます。それはいくら土方さんでも決める権利はない」
「…」
「息をしているだけでは、生きている事にはならないと言ったのはあなたでしょう」
「…」
歳三は言葉を放つ事も体を動かす事も出来なかった。
「私は私であなたの志に殉じる事に決めたんです。それが私の生きた証になる。それを土方さんは奪うというんですか?」
何時になく厳しい言い方をする総司を歳三はただただ見ていた。
総司の迷いのない視線が決意の強さを物語っている。
生き延びる事を望まない総司に、歳三が言える言葉はなかった。
そんな歳三の様子を見て総司が悲しげに笑った。
はじかれたように歳三が顔を強張らせる。
後ろをついて回っていた子供が、一人前の壮士の顔をしているのだ。
歳三は肩の力を抜いた。
「…勝手にしやがれ」
歳三は静かにそう呟くと、立ちあがり部屋を出ていった。
「嫌な役をさせてすみませんでした」
総司は、布団の中から斎藤に頭を下げる。
「いや」
斎藤は静かに首を横に振った。
「でも、土方さんを傷つけてしまいました。あの人はあれでいて結構繊細なんです。これからは斎藤さんが見ていてあげて下さいね」
「駄目です。私はもうすぐここをいなくなりますから」
「なんですって?」
総司が布団から起きあがる。
「ここだけの話ですが、私は伊東さん達と供に、組から離隊します。勿論間者としてですが」
斎藤が総司を寝かしつけながら、声を落として言った。
「…」
「だから、沖田さんは一刻も早く病を治して、土方さんを支えなければならない」
斎藤のそれが、総司を力付ける。
「そうですね。こんな所で寝てなんかいられない」
「そうですよ」
斎藤はそう言いながら、総司の病が快方に向かう事を心の底から祈っていた。
斎藤が孝明天皇の墓を守る御陵衛士として、伊東一派と供に新選組を離隊したのはそれから一ヶ月後、慶応三年(1867年)三月の事である。
そしてその六月に新選組は、征長に失敗し権威を失墜した幕府の直参となった。




