山南の脱走
元治元年(1864年)年末。
新選組では、隊士が増えた事による屯所移転の問題が勃発していた。
近藤をはじめとする、歳三、山南、伊東の四人は、毎夜新しい屯所の場所を巡って論議を繰り返していた。
「屯所を西本願寺に移すなんて、正気かね土方君」
局長室で山南の怒号が鳴り響く。普段はあまり激昂しない山南のそれに、近藤は驚いてマジマジと山南の顔を見た。
「ああ。不貞浪士を匿っているという噂もある事だし。牽制にもなって一石二鳥だろ」
至極正気だと言い置いて、歳三は山南の顔を冷たく思えるような眼差しで見返した。
山南ははじかれたように肩を振るわせる。山南の頭の中には、伊東が京へ来た日の夜に言った言葉が浮かんでいた。それは歳三達が、立身出世の為に手段を選ばず、幕府に媚びを売っているという言葉だった。
その時は、半信半疑だった伊東の言葉が、歳三の言葉によって真実であったと証明されてしまう。
京に着いたばかりで、右も左も解らないとだんまりを決め込んでいる伊東が、山南の顔をちらりと見やる。その顔には伊東の言った言葉が当たっていただろうという真意が滲み出ていた。
それを山南は、小さく頷く事で返す。
歳三が言う西本願寺の移転には、尽忠報国の意志を山南は探す事が出来なかったからだ。
信じ始めていた歳三の裏切りにも思え、山南は憎悪の念を歳三に抱いた。
「仏を祭る寺を脅すような真似をして良いわけがあるまい」
山南は歳三に道理を説く。
「仏を守っている奴が、不貞浪士を匿ってるんだから、いい加減なものだろう」
皮肉な笑いを歳三は唇に乗せた。
「大体、山南さんは他に代替案があるっていうのか」
「…」
山南が拳を握り締めた。怒りにそれが震えても山南は言い返す言葉を見つける事が出来なかった。
それに追い討ちをかけるように歳三が言った。
「それに…今の組に、新しく屯所を建てている金がどこにある。どこかを借りるしか方法はないだろう。山南さん理想だけでは組織はまわっていかない。」
「…失礼する」
屈辱感が山南を襲う。山南はそれに絶えられず、その場を立った。伊東は形ばかりに山南を止める。
近藤の静止も聞かず、勢い良く局長室の襖を開け放ち、振り返る事なく山南は自室に戻っていった。
「どうしたんだ。最近の山南さんは」
近藤が困ったように、腕を組んだ。
「さぁ、どうしたのでしょうな伊東さん」
歳三が、ちらりと伊東に視線をやる。それは伊東への疑いを隠しもしない態度だった。
「私には想像もつきませんが、山南殿は総長としての責務を果たそうとしただけなのではないですか」
伊東は回る口で、のうのうと言い放つ。それは、山南を散々けしかけた事など覚えてもないと言ったような口調だった。
歳三は伊東のしたたかさに眉を寄せる。
「伊東君は、西本願寺移転について意見はないのですかな」
近藤は、持ちなおしたように議論を再開した。この時近藤は、伊東も反対するようなら、西本願寺の移転を考えるつもりだったのだ。
だが、山南をたき付けた筈の伊東の言葉は、それを裏切るものだった。
「私ですか。私は決まった事に従うまでです」
(この野郎。山南さんを孤立させる気か…)
「伊東さんは、山南さんと同じ意見かと思いました」
歳三がさも意外だというように、伊東に水を向けた。
「京の事は私にはまだ解らないですから」
やんわりと伊東が口を濁す。
その言葉に、歳三の眉間の皺は更に深くなった。
「では、西本願寺の線で考える事にするから、山南さんにその旨を伝えてくれないか」
近藤がそう言うや否や、歳三が名乗るよりも前に、伊東が口を挟んだ。
「では、私が伝えておきましょう」
そう言って、立ちあがると伊東は部屋を後にした。
そして、近藤と二人になった部屋で、歳三は膝で近藤の傍へにじり寄り声を落として言った。
「近藤さん。山南さんは担がれてるぜ」
「ああ…解っている」
苦々しい顔をして、近藤は煙管台を引き寄せた。
「なんとか出来ないものか」
歳三が、心配そうな顔を見せると、近藤は少しだけ笑った。
「歳よ。お前さん京に来て、鬼だ鬼だと言われているが、心配性な所は変わってないなぁ」
「…な…何言ってやがるんだ。勇さん」
うろたえたように歳三は顔を赤くする。
「これだけ歳に心配されてるっていうのにな。山南さんも何故気付いてやれんのだ。回りは山南さんとお前さんは犬猿の仲だと言っているが実際はそうでないのは一目瞭然じゃねーか」
近藤はそう言って煙管を口に運び、大きく息を吸いこんだ。そしてそれを気持ち良さそうに吐き出して歳三に笑いかけた。
歳三は本心を見透かされて、バツが悪そうに足を崩して座りなおす。
「うるせーよ。勇さん」
「でも、歳。お前も良くねーよ。時には言葉に出さないと伝わらない事もあるぜ」
「…」
解っている事を近藤に指摘されて、歳三は口を噤む。
歳三は自分の不器用さを自覚していた。
山南と歳三の確執であっても、一言山南に本心を説き明かせば済む問題だったのだ。
それを言えなかった歳三の弱さに伊東がつけ込んだと言っても過言ではない。
だが、歳三は尊敬している山南に自分の論を言う事が恥ずかしく感じられて、どうしても伝える事が出来なかった。
「解ってもらえる奴に解ってもらえりゃ良いっていう道理も解るが、それじゃあんまり他力本願じゃねーか」
「…」
諭すような口調で言われて、歳三は唇を噛み締めた。
「解った。今度話してみるよ。勇さん」
「ああ。楽しみにしてるぜ」
近藤はそう言って、一つ下の幼馴染みに笑顔を向けた。
近藤は、このどこか不器用だが根は優しい歳三を総司共々、実の弟のように可愛がっていた。
当然、歳三が本心を人に明かす事がとても苦手で、それをするのに多大な努力を必要とする事も近藤は知っている。だから、勇気を出して山南に全てを話そうとしている歳三を暖かい目で見守る事にしていた。
だが、そんな近藤の願いは天に届く事はなかった。
歳三は山南の部屋を夜更けに訪れた。
いくら呼びかけても返事がない事に首をかしげた歳三はそっと襖を開いてみる。
「山南さん?」
暗い部屋の中。声をかけてもやはり返事はなかった。
歳三は行灯に火を入れて、部屋の中を見渡した。
そこに山南の姿はない。
布団も綺麗に片付けられていて、刀掛けには、大小も置いてない。どこかに出掛けたのだろうかと文机に目をやると、そこには以前歳三が山南にこっそり贈った煙管が置かれていた。
その下にしたためられた文を見つけ歳三は手に取った。
そしてそこに書かれている内容を理解した瞬間、歳三の顔からみるみる血の気が引いた。
『自分はいやしくも総長である。この言が局長に容れられないのは土方の奸媚に迷っているからである。かかる局長と生死を共にするわけにはいかない』
そう、書かれていた。
脱走の二文字が歳三の頭に貼りついて剥がれなかった。
歳三の文を持つ手が震える。
脱走は死罪だ。
だがこの状況を見ると山南が脱走した事に間違いはないのだ。
そこまで追い詰めた理由が自分にある事を痛感している歳三は、その場に座りこんだ。
「何故…待てねーんだ」
歳三が、力なく呟いた。
勇気を出して、山南の部屋を訪れたというのに。
歳三は、畳に拳を打ちつけた。
山南の自分を責める言葉が歳三の胸を貫いていた。
誤解させたのは歳三自身なのだ。
歳三は自分の不甲斐なさに嫌気がさす。
置かれた煙管が何を意味するかを痛感している歳三は唇を噛み締めた。
手に持った煙管は先ほどまで使われていたのか、まだ少し温かく。
歳三はそれを懐にそっと忍ばせた。
「何?山南さんが脱走?」
報告を受けた近藤が、声を荒げた。
「ああ。俺がさっき山南さんの部屋に行ったらこれが机に置いてあった」
歳三の事を糾弾している文を、隠しもせずに近藤の前に広げた。
近藤はそれを見て、歳三の気持ちを察し、山南に対する憤りに肩を震わせた。
「近藤さん。今なら揉み消せるがどうする」
歳三の言葉に、近藤は顔を上げる。
「そんな。お前は良いのか?それで…こんな事言われても許すというのか」
「山南さんは誤解してるだけさ。それに言わなかった俺が悪い」
「…」
歳三は淡々と続けた。
歳三の顔に表情が浮かんでない事が、歳三の傷の深さを物語っていた。
近藤はそれを痛々しそうな眼差しで静かに眺めている。
「朝になったら総司をやって、こっそり連れ帰らせる。建前は急な公用で出掛けていたとでも言えば済む事だ」
「歳がそれで良いなら、異論はない」
山南の脱走は、それで済む筈だったのだ。
だが、次の朝。
日にちで言えば、元治二年(1865年)二月二十二日。
沖田がこっそりと屯所を出る前に、騒ぎ立てた人間がいた。
伊東である。
「総長が文を残して、脱走なされた」
隊士が集まる中で、伊東の口から出たその言葉に近藤は、頭に血が上るのを感じていた。
全員が揃っている前で言われれば、山南を不問にするてだてはなくなる。伊東の行動がそれをよんでの事なのは一目瞭然だったのだ。
文は昨夜遅くのうちに歳三が、持ち去っている。それを伊東が知っていると言う事は、この脱走には伊東が絡んでいると言う事を白状しているようなものである。
二人で共謀しての脱走だとなれば状況は変わるのだ。
歳三は許せても、近藤は山南の裏切りを許す事が出来なかった。
「総司。山南さんを追え。そして何が何でも連れかえれ」
伊東を睨みつけ、近藤は総司に言いつけた。言いつけられた総司は、黙って頷くと馬屋から馬を連れ出しに行った。
馬のたずなを握って、総司が馬に跨ろうとしている所に、歳三が現れる。総司は、傷ついているであろう歳三にかける言葉を探せずうつむいてしまう。
「総司。ここにわざわざ連れ戻す事ぁねー。何なら見つけた先で斬っちまえ」
歳三の残酷な言葉の真意が解らなかった総司は、一瞬顔を曇らせる。だが、歳三の表情を見て総司は全てを納得した。
「それは…あ…そうか。そうですね。いっそ斬ってしまいましょう。でも土方さんはそれで良いのですか」
(土方さん一人が傷を負ったままになる)
そんな意味をのせて総司は歳三を見返した。
歳三が頷いたのを見て総司も頷きかえす。
総司は、なんとも言えない顔で歳三を見ると馬に跨って、屯所の門をくぐり抜けていった。
総司の心の中は、何故という気持ちで一杯だった。
馬を走らせながら、沸きあがってくる思いを抑えられずに総司は舌を打つ。
山南が新選組を裏切るような真似をした事が信じられなかった。
だが、言われてみれば確かに最近の山南の様子は少しおかしかったのだ。頭から山南を信じていた総司は、その変化に目を瞑ってしまっていた。
歳三にあれだけ見ていてくれと頼まれたのに。
今思えば歳三は、こうなる事を危惧して、自分に山南を託していたのではないのだろうか。だとしたらこうなってしまった責任は自分にあると総司は噛み締めていた。
京から一番近くの宿場町、大津に総司がついたのは夕刻だった。
一軒一軒旅篭を改める度に、いっそ見つからなければ良いという思いが総司の中に広がっていく。
心臓が早く脈打つのを感じながら、何軒目かの改めをすると、その台帳には、変名すら使ってない山南の名が書かれていた。
総司は、一瞬目を閉じて、心を落ち着かせる為に大きく息を吸い込んだ。そして、旅篭の女将に部屋まで案内してもらう。
「山南さん」
総司が襖をあけて部屋を見る。山南は格子窓から外を眺めていた。風呂上りなのか山南は髪を下ろしていて、その髪が風に吹かれてサラサラとなびく。
「やはり総司か…下を眺めていたらそうかなとは思ったのだが…総司が相手じゃ斬る事は出来ないな」
山南は、観念したように総司に向き直った。
「……どうして、脱走なんかしたんですか」
震える声で、総司が言う。
「文に書いた通りだよ。私はあの尊皇攘夷とは名ばかりの組が嫌になっただけだ」
静かに、山南は正座し目を閉じた。
「いつそんな組に、新選組が成り果てたというのですか」
「土方君が言う事のどこが報国だというんだい。土方君がやっている事は、立身出世の為の媚びを売っているとしか思えない」
「土方さんがやってきた事をそんなふうに思っていたのですか山南さんは」
総司は、歳三の気持ちを思い、情けなさに笑えてきた。
「総司?」
突然笑い出した総司に、山南は戸惑う。総司の肩に手を伸ばそうとするのを総司はさえぎった。
「はは…土方さんばかりが貧乏籤だ。山南さん、土方さんが何故御公儀に媚びを売るような真似をしているか解りますか?」
総司の目から零れ落ちる涙を見て、山南は目を見開いた。
「…」
「土方さんは、江戸にいる頃からずっと口にしていました。時勢を語る近藤先生や山南さん貴方を舞台に上げて、意見を言う事の出来る所に持ち上げてやりたいと。尊皇の心を一番解っているのは土方さんです。報国の意味を解っているのは土方さんなのですよ?」
総司の言葉に山南は愕然とする。それが本当ならば山南は歳三に酷い事をしてしまった事になる。
山南が脱走をしたのは、伊東と黙約を交わしての事だったのだ。黙約とは隊を脱して長州側に寝返る事だった。
脱走を見逃させない為に、歳三を糾弾する文を残し、山南は隊を飛び出した。そうすれば追っ手が必ず来ると思ったからだ。歳三へのあてつけの意味もあったかもしれない。
そして、大津で山南が草鞋を脱いだのは、追ってきた隊士を切り捨て、証拠の品として首を差し出し、長州側に信用を得ようと思っての事だった。
総司が来てしまった事で、それは失敗に終わる事となったのだが、山南は自分のしでかした事実に恐怖を抱き、首を左右に振った。
「そんな、土方君は私をいつも馬鹿にしていたではないか。私の言う議題にすら乗って来ず、構っていられないという目で私を見ていたでは…」
「土方さんは、言えないだけなんです。貴方を尊敬しているなんて、照れ屋なあの人にはとても言える事ではなかったんですよ」
総司は、どこにぶつけて良いのか解らない激情を拳の中で握りつぶした。
「馬鹿な…」
山南は信じられないと後に続ける。その後はどちらも口を噤み部屋に少しの沈黙が訪れた。外から聞こえる旅籠の客引きの声がかすかに響く。
沈黙を破ったのは総司だった。感情を吐露し落ち着きを取り戻したのか総司の顔は穏やかになっていた。
「…私が言いたかったのはそれだけです。山南さん、私は今からあなたを斬らなければならない」
「…そうか。そうだな総司に斬ってもらえるのなら幸せかもしれないな」
魂の抜けたような顔で山南は呟いた。そして山南は姿勢を正して総司の刃を待つ。その顔には怯えも迷いも浮かんではいない。山南は裁かれるのを、目を閉じて待っていた。
総司が刀に手をかける。そして刀を振り上げそれを少しの迷いもなく振り下ろした。
刀は山南の頬を掠めるように下ろされる。
「…総司?」
山南は閉じていた目を開けて総司を見た。すると総司は刀で切り落とした一総の髪を束ねて懐紙にくるんでいる。
「土方さんは、見つけたその場で斬り捨てろと私に言いました。逃げろと言えない立場の土方さんの精一杯の言葉です。これで私は山南さんを斬りました」
「土方君は斬り捨てろと言ったのだろう?」
「土方さんは天邪鬼なんです。そんなの顔を見ればどんな意味で言ったのかくらい解りますよ」
そう言って笑って総司は立ち上がった。
「山南さん元気で」
「総司」
部屋を出て行こうとする総司を山南は呼び止める。
「あ…そうだ忘れてました。最後だから言いますが、土方さんは俳句を読むのが趣味なんです。しかも大好きなものしか読まない。春の句ばかり読むんですよ。」
くすくすと総司が笑う。そして山南が止めるのも聞かず、総司は旅籠を出て行ってしまった。
残された山南は、その言葉の意味がわからず途方にくれる。
だが、自分の荷物の所に置いてある冊子を見つけた山南はそこで初めて総司の言った言葉の意味を知ることになった。
総司が置いていったらしい冊子には、俳句がびっしりとしたためられていた。
総司の言葉どおり春の句ばかりである。それが歳三の句帳なのはあきらかだった。
そして紙がはさんである頁があるのに気付き山南はその頁を開く。そしてそこに書かれた、一つの句を見つけた瞬間山南の句帳を持つ手が震えた。
(そんな馬鹿な)
歳三の句帳にはこう書かれていた。
「水の北 山の南や 春の月」
馬鹿にされていると思っていたのは、山南の思いこみだという事に、その時になってはじめて気付いたのだ。
歳三は、山南を馬鹿に等していなかった。
好きだという春に、山南を謳ったそれには、侮蔑の意味合いは少しも含まれてはいない。
それどころか、句から滲み出る歳三の優しさが、山南の中にじんわりと波紋のように広がっていくのを感じていた。
山南の目から涙がとめどなく流れ始める。
「私は…土方君に…なんて事をしてしまったんだ」
力なく畳に両手をついて、山南は自分の行動を改めて責めた。歳三は何時だって山南の思うようにしてくれていたではないか。憑き物が落ちたように、山南は思い出していた。
歳三の行動の全てが、総司が教えてくれた感情から来ているのだとすれば辻褄が合う。総長という地位に据えたのだって、尊攘派の浪士を斬る事に抵抗を覚えた山南の為だったのだ。煙管を表立っては渡せず、こっそりと机に置いていくような歳三を理解する事など簡単な事なのに。
山南は嫉妬と焦りに冷静な目を持てなくなっていた。
だから、付合いの浅い伊東の言う事を真実だと思ってしまったのだ。
机にこれみよがしに置かれた煙管を見て、歳三はどう思ったのだろう。そう思うと山南の心はちぎれそうなほどに軋んだ。
山南は、その場から立ち上がると、先ほど出て行った総司を追う為に走り始めた。
その頃、総司は繋いでいた馬に水を飲ませていた。
「良かったまだ、いてくれて」
息を切らせた山南の声が聞こえ、総司は振り返る。
「どうしたんですか」
「総司。ここで逃げたら私はまた土方君を裏切る事になる。今更会わせるような顔もないが私は屯所に戻るよ」
山南はさっぱりした顔で、言い切った。その顔に一分の迷いもないのを見て総司の顔色が曇る。
「帰ったら切腹が待っているだけです」
辛そうに総司が言った。
「解っている。だが私はどうしても土方君に会わねばならない。ただ戻る前に寄りたい所があるんだが寄っても良いかい」
総司が頷くのを確認すると、山南は晴れやかに笑った。
「沖田さんが戻りました」
襖越しにかけられる隊士の言葉に、歳三は書いていた文の手を止めた。
そして門前で総司の隣に山南の姿を見た歳三は、一瞬だけ泣きたいように眉を垂れた。だが、すぐに副長としての姿に戻る。
「総司ご苦労だったな。部屋に戻ってゆっくり休め」
労をねぎらって、総司を部屋にやると歳三は山南に向き直った。二人の間に会話はない。だが山南が帰って来た事が全てを物語っていると歳三は思っていた。
「土方君」
山南は土方を呼びとめてみるが言葉にならなかった。謝るのは違う気がしたのだ。
結局何も言えずに山南は懐から出した句帳と包みを歳三に手渡した。
手渡された歳三は、一瞬それを眺め、無言で袂にしまいこんだ。
「近藤さんが帰ってきたら、判断を仰ぐ事になる。それまで謹慎していてくれ」
歳三はそう言い放って、踵を返した。
その時握り締められた拳が震えていたのを山南は見逃す事はなかった。そしてこの時はじめて本当の歳三に出会えた気がした。
一人牢屋の中で謹慎している山南に、伊東が再度の脱走を勧めても、山南は首を縦に振りはしなかった。静かに切腹の沙汰を待ち。
近藤から言い渡されると山南は軽く頭を下げ。
そして、最後の言葉を山南は口に乗せた。
「今までありがとう」
静かな静かな言葉だった。
そこにいる誰もが言葉を失う程の。
その山南の目が歳三の方を向いていた事を歳三のみが知っていた。
歳三は、山南の最後を看取った後、一人部屋に戻った。
そして文机の前に座る。
静かに硯に水を入れ、墨を刷ると透明だった水に黒い色がふわりと広がっていった。
手を動かしながら、それをしばらく眺めていた歳三がふと硯から視線を離す。
逸らした視線の先には二本の煙管があった。
一本は歳三が山南に贈ったもの。
もう一本は山南が歳三にとくれた朱色の漆塗りの煙管だった。
山南は知っていたのだ。歳三の好きな色を。
歳三は、紙を取りだして、一人筆を取る。
書いたのは、江戸にいた頃に読んだ句だった。
水の北 山の南や 春の月




