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梅散らず  作者: 花河燈
12/27

禁門の変

「まだ戦は、はじまらねーのかよそこまで長州の奴ら来てんじゃねーか」

 そういって、イライラとした声を上げたのは、副長助勤の原田左之助だった。切腹の作法を知らないと馬鹿にされ、実際切腹してみせた事があるという原田に、血の気の多さで適うものは隊内では誰もいない。

元治元年(1864年)七月。池田屋事件の1ヶ月後の事である。

新撰組に陰謀を叩き潰され、多くの死傷者を出された長州は黙ってはいなかった。

急進派の長州藩士達は、一斉に萩(山口県)から兵を上げたのだ。

その情報をいち早く掴んだ会津藩の松平容保は、新撰組にも出動要請をした。

それが六月の半ばの事である。

そこで、近藤や歳三をはじめとする新撰組は、竹田街道から九条河原に布陣する事となり今に至るわけだが。

待てど暮らせど「出陣」との報が入らないのだ。

陣をかまえてもう十日以上が経っている。

すぐにでも戦闘に入れるように、重い上に暑い着こみを着ているのでたまらない。

「まぁ…当分はここで待たされるんだろうぜ」

甲冑に身を包んだ歳三は、原田に追い討ちをかけるように呟いた。原田は心底嫌そうな顔をする。

「何故そう思う」

近藤が汗の滲んだ額を歳三に向ける。

「大方、長州勢が京に入るのを待ってるんだろうぜ。総大将は大義名分が一番大事みてぇだからなな」

「なんだと?一ツ橋慶喜公がまさかそんな事を考えて、出陣を控えているというのか?」

近藤は、眉をしかめた。

「まぁそれだけでもないだろうが」

「というと?」

「一ツ橋公は水戸の出だからな尊王の心が熱い筈だ。だから尊攘派の気持ちもわからんではないんだろう」

 なんでもない世間話のように歳三は言った。

「そんな…馬鹿な。一ツ橋公とて、将軍の後継人をなされたほどの幕閣の雄だ。徳川に一番近い所にいる人間がそんな筈はない」

幕府に忠誠心の熱い近藤は、今戦おうとしている長州に、統率者が同情的などと思いたくなかったのだ。

歳三の言う言葉に大きく首を振った。

「まぁ…それはおいといてたとしても、向こうが禁を破って京に入ったなら、例え幕軍が負けても言い訳がたつってわけだ」

「そんな保身を…」

近藤が唖然とする。呆れかえってものも言えないという顔だ。

原田や永倉、その場にいる隊士達も情けねーとばかりにうな垂れた。そして一様に肩を落として日陰の方へ移動していく。

その場には近藤と歳三の二人だけになる。

「なぁ、近藤さん。ここだけの話だが、御公儀に力はもうねぇ。いつまでも大樹だと思って寄りかかっていると共倒れになるかもしれねーぜ」

歳三は池田屋以降ずっと思っていた事を口にした。

「…うむ」

「天領生まれの俺は、京に来るまで御公儀が政をするのが当たり前だと思っていたが、ここではそうじゃねーらしい。現に天子様に政をしてもらった方が良いと、京の人間は思っている。俺たちは天子様を尊ぶのも御公儀に遣えるのも同じ事だと思っていたが、そうも言ってられなくなる時が来るかもしれねー」

(御公儀がなくなれば、俺は何の為に武士になったか解りゃしねーな)

歳三は照り付ける太陽を見て目を細める。

「…そうだな。池田屋で長州の企みを食い止めたから良かったものの、企てが成功していればまさにそんな世の中になったという事だからな」

 近藤は顎に手を当てて考え込んだ。

「なぁ、近藤さん。そうなったら、近藤さんはどうするつもりだ」

「俺は御公儀を見捨てる事は出来ん」

「俺達を召抱えてくれた恩があるからか」

(俺なら腐った御公儀など、さっさと見切りをつけそうなもんだが…近藤さんはそうもいくまい)

歳三はそう思いながら近藤の答えを待った。

「俺は御公儀を立て直す為に尽力するのを選ぶ」

「ははっ…あんたらしいや」

「歳は馬鹿だと思うか?」

「馬鹿だとは思うが俺は近藤さんの考え方は嫌いじゃねぇ。ここまで来たんだ。とことん付き合うまでさ。第一、俺達が御公儀を見限ったとしても尊攘派の浪士の敵になっている俺たちを奴らは歓迎してはくれまいよ」

歳三はニヤリと笑った。

「では、まず始めにやらなければならない事は決まったな。一ツ橋公に直談判してこよう」

 近藤も同じような笑みを顔に乗せる。

「え?近藤さん正気か?」

歳三は目を丸くする。

下手をすれば切腹になりそうな事をさらりという近藤の豪気さに歳三は珍しく愛好を崩した。

「駄目か?歳」

「…」

悪戯を思いついたような顔で近藤は歳三を見る。

歳三も近藤の真っ直ぐな目を真っ向から受けた。

「全くかなわねーなぁ」

そう言って、歳三は軽く肩をすくめる。

そして。

「いい案じゃねーか。俺も行くぜ?勇さん」

多摩にいた頃の呼び方で歳三は近藤を呼んだ。

局長の近藤を呼ぶ時とは別の。

ばらがきと言われた餓鬼大将の頃の顔で、歳三は近藤と顔を見合わせた。


結局、慶喜の宿所への近藤達の直談判は松平容保のとりなしによって事なきを得た。

そして、数日後に出陣の命が下った新撰組は、たまった鬱憤を晴らすかのように攻め、藤の森において敵方の福原隊を退けた。

だが戦の最中、歳三は、御所の方で上がった大砲の音を聞き足を止める。

「御所、蛤御門の会津勢より急使。その場は捨て置き、御所へ急行すべし。御所は現在猛攻撃を受けている」

伝令の声が歳三の耳にも入る。

「勇さん。尊王を大義名分に掲げてる筈の長州が尻尾をだしたぜ?」

 近藤の元へ馬を走らせて、歳三は叫んだ。

「何?御所へ発砲しただと?長州は何を考えているんだ」

「帝なんかお飾りって事だろ?奴らにとってみりゃあ天下取りの道具でしかねぇって事だ」

燃え広がる怒りを瞳に浮かべて、歳三は言い放った。

近藤は大きく頷くと、新撰組隊士達に聞こえるような大きな声で御所への急行を促した。


一方、京屋敷に詰めていた穏健派の桂は、急進派の愚行を耳にして、長州藩の行く末を思い絶望していた。

「なんだと?御所に発砲しただと?何て事をしてくれたんだ」

桂の普段は荒げない声に、長州の伝令はビクリと肩を振るわせた。大砲の音が屋敷内にも鳴り響いて、それが桂の神経を余計逆撫でる。

桂は、頭を抱えて下を向いた。

「これで、長州は朝敵ではないか」

「生きて恥をさらすぐらいなら死にましょう」

今にも脇差を抜かんとばかりの同士の言葉に、桂は慌てて首を横に振る。

「駄目だ。私にはまだするべき事がある。ここで死んだら長州の汚名を誰が晴らす」

 武士ならば潔く死を選ぶとばかり思っていた同士達は、少し意外な顔をする。中には腰抜けと口には出さないものの腹の中で思う者もいた。だが同士は桂の言葉に最後まで黙って耳を傾けた。負けて生き恥をさらしても生きているほうが良いという桂の考えに同士達は、絶望感の中で一筋見える光を見つけた。

「生きるんだ。生きていれば必ず好機は訪れる」

屈辱に震えながらも桂は毅然と立ちあがった。

裏門からこっそり出ると桂の耳に、また大砲の音が鳴り響いた。

そして、後ろに見える長州藩邸を見忘れないように目に焼きつけて、桂は京の町に姿を消した。

そこから桂が表舞台に立つまでの間、武士、桂の姿を見た者は誰もいなかった。


そして禁門の変と後に名付けられたこの戦いは、七月十九日、幕軍の大勝にして幕を閉じる事となる。

戦いに敗れた長州藩は、証拠隠滅の為に、長州藩邸に火を放って撤退した。

「長州のヤロー、性懲りもなく火をつけて逃げやがったか」

歳三が、戦いが終わって息をつく暇もなく、額に浮かぶ汗を拭いながら吐き捨てた。

「土方さん。まずいですよ今日は悪い事に風が強い」

そばで戦っていた斎藤が、雲の流れる早さを見て、眉を潜める。

「確かに、まずいな。燃え広がらなければいいが」

歳三が言うや否や。

幕軍のお偉方の叫び声が辺りに鳴り響いた。

「長州軍が鷹司邸に逃げこんで抵抗を続けている。屋敷に火をかけろ」

その言葉と同時に幕軍が、屋敷に火をかけるのを見た歳三は頭に血が上った。

「馬鹿ヤローが。そんな事しちまったら、京中火の海になっちまうだろーが」

「もう、駄目です。火の手が上がってしまいました」

斎藤の言葉に、歳三は舌を打つ。

「これじゃあ、何の為に長州の企みを俺達が潰したのかわからねーじゃねーか」

京の町を火の海にしない為に、必死で長州の企みを打ち砕いたと言うのに、よりにもよって幕軍が火をかけてしまったのだ。


そして、歳三が危惧した通り、京の町に火は燃え広がり一晩中燃えつづける事になった。

 火を消す事も出来ず、残党狩りに出た歳三に、後日追い討ちをかけるような情報が耳に入る事となる。


「なんだって?六角獄舎の尊攘派浪士を詮議もせずに皆殺しにしただと?」

山崎の情報に、屯所に戻った歳三は、自室の机の前に座ると忌々しげに文机を叩いた。

「はい。火の手がまわりそうだったため、浪士達を逃すわけにもいかなかったらしく」

言いずらそうに山崎はうつむく。山崎とて本意ではないのだ。

隊の中でも幕府の処置に対する不満の声が上がっている。

「何の抵抗もしてない人間を無残に殺したというのか?」

幕府に対して芽生え始めていた諦めの思いが、大きく育つのを歳三は感じていた。

「…」

「それじゃ、長州がやってる事より性質が悪いじゃねーか」

残党狩りをした際に、華々しく自刃し散っていった長州軍の姿が頭をよぎり歳三は、幕府のやり方の汚さに吐き気を覚える。

(俺たちが何とかして、立て直るとはとても思えなくなってきたぜ)

 歳三は溜息を付いた。

「だが、周りは池田屋に乗りこんだ俺達が諸悪の根源って事になるだろうな」

 歳三が自嘲気味に呟く。

「それは違いますよ。副長。俺達がやらなければ、きっともっと酷い事になっていました。俺達のやった事は間違っておまへん」

「そうだな。山崎」

曖昧に頷いて、山崎に労をねぎらうと、歳三は文机に向かった。

外は、数日前の戦が嘘のように静まり返っている。

だが、ときより開け放たれた襖から入りこむ風に、焼け焦げた匂いが混ざるのを感じて歳三は眉を潜めた。

故郷に、この戦の大勝利を告げる文を書こうとしても、手が進まず、歳三は舌を打つ。

歳三は、机の傍から立ちあがり、襖に手をかけてこれ以上風が入らないようにとそれを閉めた。


八月に入ったある日。歳三は、珍しく休みを取った。正確には、取らされたのだが。する事もなかったので歳三は午後、鴨川のほとりを一人ポツリポツリと歩いていた。

出掛けに共のものも付けずにと、隊士に止められたのだが、それを振りきって一人で屯所を出た。

襟元をくつろがせ、緩く着物を着た歳三を誰も、新撰組の副長だとは気付きはしない。京の女達はすれ違い様に歳三の顔に見惚れ、振り返る。

その視線を歯牙にもかけず、景色を眺めながら歳三は足を進めた。

何処までも続いていく川を眺め、ふと歳三は足を止める。

多摩川で総司達と泳いだ日々を思い出し、歳三は殺伐とした今を思い、空を眺めた。

そして歳三は川の上流の方を眺めると、見覚えのある後ろ姿が、釣りをしているのを見つけた。

癖毛で上背があるその姿は、江戸にいた頃の知合いだった。歳三が京に来ようと思ったきっかけの男でもある。

歳三は懐かしさに、知らず足を速めた。

そして、その見覚えがある後ろ姿の男の隣に座ると、歳三は声をかける。

「釣れるか?」

「全然じゃ…」

首を振りながら、その男は歳三の方を振りかえった。

「久しぶりだな。坂本」

「おんしは…」

こんな所で会うとは思わなかったという顔で、その後ろ姿の男、坂本龍馬は食い入るような顔で歳三を見た。

歳三は坂本が驚いた顔をしたのを見て、悪戯が成功した子供のような顔をした。

「おまん。京に来とったがか?」

 坂本が歳三の背中をバシバシと叩く。一度か二度会っただけの歳三を旧知の友のように接する坂本に歳三は面食らう。

「ああ…お前ぇと会ってすぐな」

 歳三は照れくさいのか、ぶっきらぼうにかえす。

「そうか。おんしは見所がある奴だとは思っとたが、まっこと来るとはおもわなんだぜよ」

 始終嬉しそうな顔を坂本は浮かべている。

「まぁな…」

「おまんはこっちに来て、やる事は見つけたがか?」

「…」

歳三は、新撰組の副長だと名乗ろうとしたがやめる。

沈黙をどう取ったのか坂本は、歳三の返事を待たずに話を進めた。

「なぁ。おんしやる事が決まっておらんのなら、わしと一緒に神戸に来んか?」

「神戸?」

「公儀の海軍操練所じゃ」

歳三が胡散臭げに坂本を見る。どちらかと言えば攘夷思想を持っている歳三からしてみれば興味がなくもない内容なのだが、唐突すぎて話についていけない。

「それで、攘夷でもするっていうのか?」

「それはまだ先の話じゃ。今戦っても、今の日本じゃあ勝てん。新しい船を買って、まずは貿易をして国を富ます。攘夷は互角に勝負できるようになってからの話じゃ」

「今すぐには、攘夷は無理だっていうのか」

「ああ。無理じゃ。知っちゅがか?これが日本じゃ」

坂本は、近くに落ちていた棒っ切れを広い、地面に地図を描いて見せた。

「それでこれがメリケン…これがエゲレスなんじゃ」

「こんなに小さいのが日本なのか?」

 信じられないと言った風に歳三の目は坂本の描いた地図と坂本の顔を行き来した。

「そうじゃ…しかもあちらの方が進んどるきに」

「攘夷は無理なのか?」

「そうはいっちょらん。今は無理だと言っただけで、先はわからんぜよ」

現実味を帯びた坂本の話に、歳三は引き込まれる。

坂本の言うとおりにすれば、攘夷も夢ではないと思えるほどに、それは説得力のある言葉だった。

「今は国が一つになって、国の力をつける時期だぜよ。国内で争っちゅうのは愚の骨頂じゃ。じゃきに会津や新撰組と来たら余計な血ばかりながしよる」

「…」

坂本の口から出た、新撰組の批判に歳三は一瞬眉を潜める。

それに気付かない坂本は尚も続けた。

「池田屋にしてもそうじゃった。有能な志士達を無惨に殺しよって」

坂本は、竿の先を睨みつけるようにして吐き捨てる。

「…だが、それは長州人が京の町を焼くなんていう大それた計画を立てたからだろう?」

 そういって歳三は聞き返す。

「今の御公儀じゃのぅ。そうされても仕方がないぜよ。幕臣である勝先生も嘆いておったきに」

「…仕方がない?」

「御公儀は今や腐りきっちゅう。腐ったものは一度、壊さな元には戻らん」

坂本の言うことは正論だった。

それは歳三も感じていた事だ。

だが、歳三はそれに頷くことが出来なかった。

「だからといって、長州みたいに御所に発砲するような奴らが国を治めて上手く行くっていうのか?」

「おんし。何故そこまで御公儀に味方しよる」

幕府を弁護する歳三を不思議な面持ちで坂本は眺めた。

歳三は手元の草を鷲掴みにし、毟り取る。

「俺が…」

「おまんが?」

 歳三は一呼吸置いた。そして、一呼吸で言いきった。

「俺が新撰組の土方歳三だからだ」

「おまんが…?新撰組の副長土方?」

驚いた坂本は、のけぞった拍子に足を滑らせて川に落ちそうになる。

目の前にいるこの虫も殺さぬような、優しげな顔をした優男が、京でいや、いまや全国に名をしらしめた鬼の副長であったとは思わなかったのだ。

坂本は歳三の顔を呆気にとられた顔で眺めた。

それを歳三は居心地悪げに顔を背けて川の流れに目をやった。

「そうだ俺が新撰組の副長だ。長州の奴らが京を焼き討ちするっていうのを知って、市中警護をしている俺達が見過ごせると思うか。長州が国を思ってだと?笑わせる。京の人々のを巻き込んで何が国の為だ。人々あっての国じゃねーか」

「…」

「殺さなければ、殺される戦場で、殺した俺達は間違っているのか?」

仲間を殺された事で頭に血が上っていた事を坂本ははじめてそこで気が付いた。

確かに歳三の言うことはもっともなのだ。

京の町を焼き討ちするという計画は、確かにやりすぎで、民衆を思うならば止めなければならないものだった。

「すまん。言い過ぎたきに」

 坂本は、持ち前の素直さでペコリと頭を下げる。

「…いや」

 頭を下げられた歳三は戸惑いながらも首を振った。

「だが、御公儀だって同じ事をしちゅうぜよ」

 それが先だっての戦いの事を言っているのは、歳三にも良く解っている。

「そうだ。だからといって、俺は御公儀も良しとしちゃあいねぇよ。あんなのは間違ってる」

「ワシもそうじゃ。…そして公儀を一度壊して立て直したいって思っちゅう尊攘派の考え方も同じじゃきに」

坂本は訴えるような目で、歳三を見る。

だが、歳三はそれに頷けず、首を横に振った。

「だが、奴らはやりすぎだ。御公儀を倒すのは間違っている。坂本も倒したいと思っているのか?神戸の操練所っていえば御公儀のものだろう」

「…なら、おまんはどうするちゅうがか?」

「なぜ壊さねばならない。間違っているなら変えていけばいい」

(今の御公儀の腐り加減を考えたら、壊した方がいっそ早そうってなるのも無理もねぇがな…)

歳三は淡々と答える。

「おまんはげにまっこと面白い事を言うのう。変えていけると言うがか?勝先生でも匙を投げたものを」

「やってみるさ」

歳三は不敵に笑った。

その様子を見ていた坂本は、頭から水をかけられたような思いで歳三の晴れやかな顔を見た。

「わしは、わしで動くとするか」

「…なんだ坂本も新選組に入るのではないのか」

「ちゃちゃ。わしに人斬りは向かんぜよ」

龍馬の言葉に歳三は笑い声を上げる。龍馬も豪快に笑って見せた。

そして二人はどちらともなく竿に視線を向ける。

すると、竿が上下に揺れた。

「坂本。魚だ魚。かかってるぞ?」

「お…やっと来たか」

嬉しそうに竿を引き寄せながら坂本は一言呟いた。

「釣れないと思っちょった釣りもこうしてただ待っているだけで釣れたんじゃきに、動けばなんとかなるかもしれんのう」

坂本は釣り上げた魚を川に戻してやると、竿を片付けて立ちあがった。そして、しわの寄った袴の尻の部分を何度か払うと坂本はその場を去っていった。

残された歳三は、一人で川を眺めていた。

何時の間にか日が暮れて、夕日が川面をきらきら光らせている。

歳三はそれを一瞬まぶしそうに目を細め、顔を上げた。

「そろそろ帰るかな。また総司のやろーがうるせーから」

一人呟いて歳三もその場から立ちあがった。


そして鴨川から帰った歳三は、屯所の前で一人、立ち止まっていた。

襟元までピッシリ着こまれたその姿は、出ていった時とは程遠い新選組の副長と呼ぶに相応しいいでだちである。

涼しげな顔には少しの表情も浮かんではいない。隊士達が恐れる鬼の副長は、何やらそわそわした様子で辺りをキョロキョロと見渡した。

そんな歳三を同じく外出先から帰ってきた島田が目に留める。いつもと違う雰囲気に島田は首をかしげた。

(何をそわそわしていらっしゃるのだ)

多摩にいた頃の歳三を知らない島田は、それまで完璧に隊務をこなす歳三の姿しか印象にない。とても年齢が十近くも下だとは思えない程の冷静な判断力と感情を挟まない徹底振りに島田は畏怖の念を抱いていた位だった。だが、今日に限ってはどうも様子がおかしい。表情はいつもの鬼副長そのものなのだが落ち着きがない。

歳三の周りには、子犬が一匹いるだけだ。

(もしかして土方副長は…)

島田は自然に笑みが浮かんでくるのを感じていた。

一方の歳三は、島田に見られている事に気付く事無く、辺りに誰もいないと思い込み、袴の裾をまくりあげるとその場に座り込んだ。

「お前かわいいなぁ。どこの子だ」

そう言って歳三は、子犬を抱え上げる。

顔をなめられてくすぐったい歳三は、笑いながら片目をつぶった。

(年相応な顔も出来るのではないか)

歳三のそんな顔を見て、島田は愛好を崩す。

そして、歳三が子犬を離し、立ち上がったのを確認して、島田は止めていた足を動かしその場に近づいた。

「副長。今、お帰りですか」

「あ…ああ。島田か」

歳三の肩がビクリと揺れる。表情の中に焦りが浮かんでいるのを見て、島田は親しみが湧いてくるのを感じていた。

「なんだよ。島田…にやにやして。まさかお前今の見てたのか」

いささか顔を赤くしている歳三を見て、島田の顔に浮かんだ笑みは更に深くなる。

「何の事ですか?」

島田がとぼけて見せれば、歳三はムっとした表情を顔に乗せた。

「…もういいっ」

そう言って、ズカズカと音を立てながら屯所に戻っていこうとする歳三を島田が呼び止める。

「副長」

「なんだよ。まだ何かあるのかっ」

歳三は、肩を怒らして怒鳴る。当然照れ隠しだ。

(畜生。機嫌がいいからって気を抜いたのが間違いだった)

 歳三はふて腐りながら屯所の門を潜ろうとする。島田は歳三の近くまで追いつくと歳三の着物に手を伸ばした。

「副長。屯所に戻る前に、犬の毛を取った方が良いかと思いますが」

「わ…解ってる」

そう言って慌てて毛を払う歳三は、とても年相応には見えなかった。



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