池田屋事件
「私は何も知りません」
元治元年(1864年)六月五日。桝屋、喜右衛門は壬生の屯所に連行されていた。
「じゃあお前ぇの所の蔵から出てきた。砲弾や火薬や甲冑っていうのはどう理屈をつけるっていうんだ」
取調べにあたっている歳三は、何も言おうとしない喜右衛門に苛立ちを感じていた。
近藤もいい加減うんざりしたようなしかめっ面で、歳三の隣に座っている。
「桝屋、喜右衛門。お前ぇが長州人だって事ぁ調べがついているんだ。先だって捕縛した長州人が白状したぜ?」
「…!」
その途端喜右衛門の顔からざっと血の気が引く。
歳三のはったりに動揺したのだ。
歳三の目がキラリと光った。
「武士なら、名前くれぇ名乗ったらどうだ」
からかうような声で歳三は、隊士に取り押さえられている喜右衛門の傍まで行ってニヤリと笑う。
途端、威信を傷つけられた喜右衛門は、歳三を睨み返した。
「…古高…俊太郎だ」
古高の言葉に、歳三は満足そうに頷いた。
「ほう。やはり長州の侍だったか」
「な…貴様騙したのか?」
「お互い様だろ?さぁ…知っている事を洗いざらい吐いてもらおうか」
喜右衛門こと古高俊太郎は、悔しそうに唇を噛み締めた。
そして座らされている地面にうな垂れる。
「お前達は何を企んでいる。痛い目をみる前に言った方が利口だとおもうがな」
棒を持った隊士達を古高の回りに立たせて歳三は脅した。
「知らん。私は頼まれただけだ」
蒼白になりながらも、古高は首を振った。
「そうか。痛い目にあいたいのか」
歳三は、その言葉と同時に、隊士達に古高をしたたかに殴らせた。
だが、どれだけ叩いても、古高は知らないのいってんばりで、口を割る様子がない。
叩かれた古高の体は蒼く腫れあがり、切れた唇から血をながしている。歯を食いしばって痛みに絶えている様子は、隊士の目から見て気分の良いものではない。
早く言ってしまえば良いのにと、そこにいる誰もが思っていた。
古高が痛みに意識を手放そうとすれば、水をかける。打たれて出来た傷に、水がしみて古高は痛みに喘ぐ。それでも古高は何も言わない。
四半刻後、蔵内に聞こえるのは、息の上がった隊士達の息遣いだけだった。
「なぁ土方さん。こいつ本当に何も知らないんじゃないですか?」
永倉が、古高の悲惨な様子を眺めて呟いた。
「絶対、知らない筈はない」
「何故わかるんですか?」
そこにいた誰もが歳三の言葉に永倉と同じ疑問を持つ。
「解るさ。普通ここまで絞めれば、知っている事はどんな些細な事でも話すもんだ。だが、コイツは名前以外、口をひらかねぇ」
なるほど、と一様に頷いた。
「それに…」
言葉を切って、歳三はうな垂れた古高の顔を持ち上げ意味深に笑った。
「ここまで口をわらねーって事は、こいつらの企みがとんでもねー事だ。そうだろ?」
「…っ」
ただでさえ血の気の引いた古高の顔が、さらに白くなる。
「こいつは口をわらねーんじゃなくて、口を割れないんだ」
古高の全身が強張るのを歳三は見逃さなかった。
「だからって、こいついくら打っても吐きませんぜ?下手したら吐く前に死んじまう」
永倉が弱ったように頭を掻く。
「困ったな。何か吐かせる手はないもんか」
近藤は腕を組んだまま、考えこんだ。
「近藤さん、俺に任せてくれねーか?」
「歳…何か良い手があるのか」
近藤の期待に満ちた眼差しに、ゆるく頷いて、歳三は古高に向き直った。
「安心しろ。言えるようにしてやるから」
そういって不適に笑った歳三のやった事はすさまじかった。
全員がその瞬間息を呑む。
歳三は古高を逆さ吊りにし、足に五寸釘を打ちつけ出したのだ。古高が一本釘を打ち込まれる度に苦しげな呻き声をあげる。隊士達はあまりの惨さに正視出来ずに目をそらした。
そしてついに、それに堪えられなくなった新入隊士の奥沢栄助ともう一人の隊士が蔵から逃げ出してしまう。
近藤はそれを一瞥するだけで何も言わない。
奥沢達は蔵を出ると庭先の塀まで行ってしたたかに吐いた。
蔵の外まで聞こえてくる古高のうめき声に、二人は耳を覆う。
「土方副長は鬼だ。顔色も変えずに拷問するなんて同じ人間だとは思えない。古高にだって家族や想い人の一人はいるだろうに…そんな人が今の古高を見たらどう思うのだろう」
奥沢はよろよろと体を反転させ、塀に凭れながら呟いた。
「人間的に間違ってるよ副長のやり方は…。ゆっくり時間をかけて聞き出せば良いものを。敵ながら可哀相になってくる」
もう一人の隊士は壁に凭れ座り込んで言った。
「あれ?もう桝屋さんの主人は白状したんですか?」
巡察が終わり屯所に戻った総司が平隊士に事情を聞き蔵に向かう途中、外にいる二人を見つけ声をかけた。
「沖田先生。土方副長を止めてください。あれでは拷問にしてもむごすぎます」
奥沢はすがりつかんばかりに総司に詰め寄る。
「そんなに酷いんですか。中は…嫌だなぁ」
総司はさほど嫌だとも思っていない様子でその言葉を口にした。
「中は地獄のようになっています」
「…土方さんがそれくらいしなければならないような事を桝屋さんは隠しているって事ですか」
総司がぽそりと呟いて、蔵に向かう。その言葉の意味を奥沢は数刻後知る事になる。
一方の歳三は、逆さ吊りし、足に釘を打ち込んで、なおも吐かない古高にさらなる拷問をしいていた。打ち込んだ釘に蝋燭を立ててそれに火をつけたのである。
広い範囲に急激に痛みを加えるのではなく、断続的に鋭い痛みを一点にかける事で気を失う事も出来ないようにしたのだ。
古高もこれには絶えられなかった。
朦朧とした意識の中でついに古高は長州の企みを口にしていた。
『強風の火を選び京に火を放ち、混乱の隙に、公武合体派の公卿、中川宮と京都守護職の松平容保を討ち果たし玉を奪う』
古高達の計画は、このようなものだった。
国の為、ひいては民を守るために存在している筈の大名が権力を手中におさめんが為に、京の町を焼き払おうというのだ。許される事ではない。
(だがこいつらを一網打尽に出来れば新選組は一躍有名になれる…でも…)
自室に戻った歳三は、畳に座ると苛立ったように着ていた羽織を投げつけた。解ったのは計画までで、それが何時なされるものなのかが全く掴めないからだ。
「ちっ」
歳三は親指を噛んだ。
「土方さんよろしいですか?」
襖の向こうから遠慮がちな声がかけられる。監察の山崎だった。
「ああ。山崎か」
「屯所に、このような文が投げこまれました」
襖を開けると、山崎は腰をおりながら歳三に石に包まれたその文を渡す。
「これは…」
文には、こう書かれていた。
『今宵、四ツ時(午後十時頃)。長州浪士会合す』
歳三は、その旨をすぐに近藤に報告する。そして、それを聞いた近藤はすぐさま会津藩邸に応援を要請するために早馬を行かせた。
会津藩の手配で桑名・彦根・備中松山等の藩や一ツ橋家や町奉行所から兵を出してもらえる事になった新撰組は、待ち合わせの時間である五ツ時(午後八時)に合わせ、祭で賑わう中を小人数で悟られないように散り散りになって、待ち合わせ場所である祇園の会所に向かった。
「まだ、応援は来ないのかよ」
時間になっても現れない諸藩の応援に、苛立ちを隠せない原田は地面を蹴った。
歳三は静かに腕を組んでいる。
大名の保身をはかろうとする意図が歳三には解っていた。相手は長州藩なのだ。藩が動けば戦になる。それを恐れているのだ。新選組を捨て駒にしようという腹くらい歳三には簡単に理解できていた。
だが、長州が企てをやめぬ限りいつかは矛を交えなければならない事位は解っていそうなものなのに、平和ボケした諸藩士達はそれすら理解できていないのだ。少しだけ、幕府を倒したくなる長州の気持ちが解るような気がして歳三は苦笑を浮かべた。
(まぁ会津と奉行所が動かないのは計算の内だ。それは解っていた事だから良しとしよう。逆に考えれば手柄を俺達だけのものには出来るって事だ)
だが、それ以上に歳三が内心で苦々しく思っていたのは、隊士の数人がこの大捕物に怖気づき、脱走を企てた事だった。
「近藤さん。多分俺達が踏みこむまでヤッコさん達は静観するつもりだぜ?」
「…これ以上、待ってもいられんな」
近藤は、新撰組だけで乗り込む事を決断すると隊を二つに分けた。
近藤が率いる隊は、沖田、永倉、藤堂らの十人で加茂川の西側を探索する事になった。その中には拷問の時に逃げ出した奥沢も含まれていた。それは近藤が近くにおいて奥沢の胆力を鍛えようとしたからである。
その頃池田屋では、宮部をはじめとする浪士達の会合が始まっていた。
「古高先生が新選組に捕らえられた今、一刻も早く計画を実行するべきでは」
「古高先生が吐く筈はない。古高先生を救出する方が先だ」
若い浪士達が激論を繰り広げている中、上座に座った宮部は一人、得体の知れない不快感に襲われていた。
(桂殿が刻限を間違える事などあるのだろうか)
桂は会合の刻限よりかなり早い夕刻、一度池田屋に訪れている。宿屋の女将に誰もいないのを確認した桂は、どうやら刻限を間違えたようだから出直すと言い置いて後にしている。
(その上、古高殿まで捕らえられては…)
宮部は胸に浮かんだ嫌なものを飲み込むように、手に持った酒を飲み干した。
一階が騒がしくなったのはその直後である。
「方々、誤用改めでございます」
宿主の声が下から小さく響いて、集まっていた浪士達に緊張が走った。皆、脇に置いた刀を引き寄せる。
階段をかけ上がる複数の音がしたかと思うと、ガラリと襖が開かれた。
「誤用改めである。手向かい致せば容赦なく斬る」
近藤の声が部屋中に響く。
近藤の手に持った刀が行灯の光に鈍く光っていた。その後ろには総司、永倉、藤堂といった新選組の隊士でも名の知れた面々が連ねている。
その迫力に、刀を構えた浪士達は一瞬たじろいだ。
宮部は慌てる事なく静かに目を閉じていた。
(どうやら桂殿に一杯食わされたらしい)
宮部は直感的にそう思った。そして自分の運命を静かに受け入れる。宮部はゆったり刀を持って立ち上がると近藤を睨み据え、そして浪士達をぐるりと見渡した。
「皆、よく聞け。無闇に戦おうとするな。俺がここで抑えているうちに若い奴から逃げろ。そして志を遂げるのだ」
「宮部先生」
若い浪士達が宮部に詰め寄ろうとするのを宮部は目で制する。
「行けっ」
そう叫んで、宮部は刀を抜いた。その瞬間浪士達が扉という扉から走り出す。
「近藤先生、永倉さん藤堂さんも…逃げる隊士を追ってください。二階は私が守ります」
「総司まかせたぞ」
近藤はそう言って、永倉達と階下に走り出した。
二階に残されたのは、数人の浪士と沖田、そして出遅れた奥沢だった。
宮部は近くにあった行灯の明かりを消した。部屋は外から入る祭の光と月の光以外は闇に包まれる。
相手との間合いを詰めながら総司が奥沢に話し掛けた。
「奥沢さん。迷ったら斬りなさい。命を助けよう等と思わない方がいい」
「…」
奥沢は、小さく頷くと刀を上段に構えた。
恐怖心で奥沢の刃先が震える。嫌な汗が背中を伝っていくのを感じながら奥沢は、窓から入ってくる光を頼りに敵に向き直った。迷っている間にも総司は、一人又一人と浪士を斬りつけていっている。
「どうした。来ないのか?来ないならばこちらからいくぞ」
斬り込もうとしない奥沢に、宮部は間合いを詰めながら言う。
奥沢は、宮部を前に動く事が出来なかった。人一人の人生を奪う事に迷いがあった。だが、その優しさは乱闘の中では持ってはいけないものだったのだ。
迷いのある奥沢に対して、討ち死にを覚悟している宮部では相手が悪かった。
「奥沢さん危ないっ」
浪士と鍔迫り合いをしていた総司が、奥沢に注意を促した。
だが、奥沢が我に返るよりも宮部の刀が奥沢の胸を貫く方が一瞬早かった。結局、奥沢は剣を交える事無く、鼓動を止めた。
総司は、数人を斬った後、二階に自分と宮部だけになったのを確認し、宮部に向き直る。
(あれ…おかしいな…体が重い)
総司は、意識が遠のきそうになるのを気合でつなぎとめ刀を構えた。
一方、歳三が率いる隊は、斎藤、原田らの二十三人で川の東側を調べていた。歳三は斎藤達を連れて、一軒一軒、茶屋から旅館、はたや民家までを、訪ねて廻った。
だが、歳三達が廻る中で、一番怪しいとされていた四国屋という旅館に、浪士の姿はない。という事は俄然池田屋にいる確率が上がる。人数の少ない池田屋では不利になると、歳三は調べる足を早めた。
そして、そこからニ、三軒廻った所にある木屋町の町家に、歳三は思わぬ人を見つける。
「お前は…松助」
「これは土方さん。こんな所でお会いするとは」
松助は、歳三を見やるとニコリと微笑んだ。
松助とは、以前歳三に長州の動向を伝えた商人である。勿論歳三はいまだに、松助が桂小五郎だと言う事を知らずにいる。
「知合いですか?土方さん」
隣にいた斎藤が歳三に伺いを立てた。
「ああ…まぁ」
歳三は引き戸に手を掛けたまま曖昧に頷く。そして顔を上げ様、歳三はさりげに部屋を見まわした。そこに老婆と松助しかいないのを確認する。
まだ歳三は松助を信じているわけではない。このような日に、商人がこの場所にいるのもおかしい気がしたのだ。
「松助。何故こんな所にいる」
「この人に届け物をしにきたのですが?」
一応頷いてみせて、歳三は松助の目の奥を覗きこむように見た。
松助は一瞬目をそらした。それを瞬きしたように見せる事で上手く誤魔化して、歳三のもとへ駆け寄った。
「土方さんちょっとよろしいですか」
松助は土方の羽織の袖をひいて、誰もいない奥の部屋まで連れていく。
待ちぼうけの隊士達は、その場に立ち尽くした。
「どうした?」
神妙な顔で歳三は松助を見る。
「ちょうど良かったです。実は、今日情報を掴みまして、長州のお人が池田屋に集まるそうなんです」
「やはり池田屋か」
歳三の脳裏に、たった十人で探索している、近藤や総司の顔がちらついた。
「もしかして、今日の昼の投げ文もお前か?」
「わかりましたか」
弱ったような顔を松助はした。
「恩にきる」
歳三は、松助にぺこりと頭を下げると部屋を出た。
「池田屋だ。行くぞ」
斎藤達に向き直って、歳三は怒鳴る。そして改め帖を書いている隊士だけをその場に残し、矢のような早さで去っていた。
紙と矢立を手にしている隊士は、遅れをとって困ったような顔をしている。
松助の苦笑いに隊士は苦笑いで返した。
「行かなくてよろしいんですか?」
「行かなくてはいけないのですが…」
隊士は用意してしまっていた矢立を見せる。
「副長の知合いだと言うことなので、形だけで良いのですが、お名前を言って頂けますか?」
開き直った隊士は、松助に向き合って、頭を掻いた。
「私の名前ですか?」
松助は、少し間を取ってから、微笑んで言った。
「私は、桂です」
最後に出ていった隊士を見送ると、桂は大きく息を吐いた。
(本当に、あの人を相手にする度に、寿命が縮む思いだ)
池田屋に藩士達への面目の為に桂は顔を出していた。
予定の刻限よりも早いうちに。
池田屋についた歳三は、まず近藤の気合いを聞いてほっと息を付いた。隊士達に捕縛の指示をだし、歳三は真っ暗な中、二階にかけ上がった。気配を伺いながら部屋に入る。
むせ返るような血の匂いに、歳三は眉を潜めた。
だが、二階はあらかたカタがついているのか、生きている人の気配は感じられなかった。
浪士達が逃げる為に開け放たれた戸から、月の光がさしこんで部屋の中をうすぼんやり照らしている。
その何とも異様な静寂に、歳三は小さく息を吐く。
だが、その部屋の真中に総司が血だらけで倒れているのを見つけた時、歳三は全身が凍りつくような気持ちに捕われた。
歳三はその瞬間、今まで忍ばせていた筈の足音を盛大に立てて総司の元へ駆け寄った。
「総司?しっかりしろ総司」
歳三は総司の体を抱え上げ必死で呼びかける。
「…あ?土方さん」
幾分か顔色の悪い総司が、そっと瞼を開けた。
「お…お前、どっか斬られたんじゃねーのか?」
「え?私はなにを…あ…そうか二人ほど斬って宮部と言う人を倒したところで意識が…」
頭が動き出したのか、腕やら指やら死体やらが散らばる座敷の中で総司が一人で頷く。
「やだなぁ昨日、よく眠れなかったから調子が悪いなぁって思ったら。土方さんにはカッコ悪い所見せちゃったなぁ」
「…」
総司はそう言って、呑気に笑う。
思いのほか元気な総司に、歳三は肩の力が抜けるのを感じていた。
「総司…お前その血は怪我じゃねーんだな?」
「私が斬られるわけないじゃないですか。返り血ですよ。ですが、奥沢さんが…」
総司が視線を向けた先には奥沢の亡骸が横たわっていた。
「…そうか。長生き出来そうにねーとは思っていたが…」
歳三は、拳を握り締める。
「優しい人でしたからね。新選組には似合わないくらい」
「…」
歳三は、じっと奥沢が握っている、血のついてない刀を見ていた。それを見て総司が溜息を付く。
「それに比べて、土方さんは長生きしそうですね」
「どうせ俺は優しくねーからな」
ここが修羅場だと言う事を忘れそうになる総司のいつもの口調に、半ば呆れた歳三は総司をその場に置いて、まだ斬り合いの続いている一階に向かった。
「ねぇ。土方さんったら待ってくださいよぅ」
まだ幾分か力の入らない体で、総司は情けない声を上げた。
そして、池田屋で多くの浪士を捕縛した新撰組は、京の町を大火から守った者として一躍有名になった。
池田屋の事件によって長州藩は、京での立場を一層悪くした。
だが、それを歳三は喜んではいなかった。
奥沢を含め隊士が二人も死んだのだ。
藤堂は額を割られ重症。永倉も手に傷を負った。そして総司も斬り合い中その場に倒れた。
それは、隊士が十人という人数だったのだから無理もないと歳三は思った。
だが、人数が少なかったのは、隊士が脱走を企てたからだ。
歳三は新撰組という組織の甘さを感じていた。
減った隊士を補充する為に、会津藩から藩士を数名借りていた新撰組にある事件が起きた。
池田屋から逃げた残党を狩る日々続いていた。
捕縛した浪士の自白により、東山にある料亭・明保野に多数の長州人が潜伏しているという情報が入り、副長助勤である武田観柳斎が率いる新撰組十五人と会津藩からの応援五人がその場に捕縛に出掛けた。
その中に会津藩士である柴司はいた。
歳三が知る武士の中でも、筋の通ったいさぎ良い男だった。
真面目で、剣の腕も立つさわやかな青年で、歳三もこんな隊士ばかりならと思うほどだったのだ。
その柴が、明保野で名前を聞いても名乗らず、逃げようとした土佐藩士である麻田時太郎を長州人と誤って槍で刺してしまった。
麻田は、翌日に逃げた末に刺された事が士道不覚悟という事で自刃した。
土佐藩との軋轢を恐れた会津は柴に切腹を申し渡した。
その事は、歳三に大きな打撃を与える事となった。
「残念でしたね。柴さん」
落ち込んでいるのを表面には出さない意地っ張りな歳三を慰めるように、総司は葬式から帰って来た歳三を部屋で待って出迎える。
「ああ」
柴の切腹から口数が更に少なくなった歳三を総司は内心でとても心配していた。
「なぁ、総司。組織を守る為に死ぬ人間がいても良いものなのか?」
「戦になれば、町の人を含めて大勢の人間が死んでしまいますから、武士なら仕方ないのかもしれませんね」
総司は、懐にしまっておいた菓子の袋を取り出して、歳三に差し出した。
「…武士ならか…くそったれだな」
忌々しげな表情で歳三は、差し出された菓子に手を伸ばす。口に広がる甘さが、歳三の疲れを癒してくれるような気がした。
「土方さんって、武士が嫌いなんですか?」
忌々しげに吐き捨てた歳三の言葉に総司は首をかしげる。
「ああ。そうかもしれねーなぁ」
総司の目が大きく開かれた。
「俺は武士という地位が欲しかっただけだしな。厳密な意味で言うなら俺は武士には一生なれやしねーよ」
お茶を入れてやりながら、歳三は呟いた。
「足し算で人の命を計って良いものだとは思いませんけど、武士というものは国の為に死んでいくものだと柴さんはおっしゃってました」
「死んじまったら何もできねーだろーが」
そう言って歳三は、手にしたお茶を一気に飲み干した。
藩と藩の友好関係を保つ為に失われた柴の命を思って、かなり歳三が落ち込んでいる事を総司は解っていた。表面は鬼のように繕っていても歳三は多摩にいた頃のままなのだ。
「でも、土方さん。柴さんの死で、戦にならなかったのも本当の事じゃないですか」
「…そうだな。組織を守る為…か」
歳三は、心にある苦々しい新撰組の現状を慮った。
死を恐れて逃げ出すような隊士達と柴を比べてみる。
「いるのかもしれねーな。ウチにもそれくらいの厳しさが」
歳三は、一瞬目を細めて遠くを見た。
新撰組を守らなければ、大きくして意見力を付けなければ、歳三達の国を変える為の声は、聞き入れられる事はないのだ。
歳三は目を瞑った。
「総司。俺は今まで以上に鬼になるぜ?」
「では私も鬼になりましょう」
淡々と、だが真剣に総司は頷く。
総司の迷いのなさに歳三は救われた気がした。背負うものの重さに潰れそうになっていた自分に気付き、苦笑いを顔に乗せると、ほっと息を吐いた。
「…そういう話は俺も混ぜてください」
斎藤が、襖の向こうから声をかける。
「斎藤。お前も最近総司に似て来たぞ」
歳三が部屋に入ってくる盗み聞きをしていたらしい斎藤を睨めつけた。
「…沖田さんと同じなのはどうかと思いますが、俺も鬼がいい」
「酷いなぁ斎藤さんは。でも鬼ごっこでも逃げる方よりは鬼の方が確かに良いですもんね」
にっこり笑う総司に呆れ顔の二人。
「どういう了見だ。そりゃ」
歳三が斎藤にも茶を入れてやりながら総司に尋ねる。
「だって、鬼は目標があるでしょ?」
「…」
どこまでも歳三を理解している総司に、歳三は何も言うことができなかった。
「…沖田さんに一本取られましたな」
斎藤が歳三に入れてもらった茶を啜りながら、頷いた。
「あ…でも、節分はヤダなぁ」
沖田が真剣に嘆くのを見た、歳三と斎藤は、隊士達に豆を投げつけられるのを想像して笑い声をあげた。
それから間もなくして、歳三は隊内に軍中法度という厳しい規則を設けた。歳三や総司や斎藤、永倉らの試衛感の仲間や、山崎や島田などといった、命をかける事を知っている者にしてみればなんと言う事はない法度なのだが、中途半端な気持ちで入隊した者達の背筋を凍らせるには十分すぎるものだった。
想像以上に背く者が多かったその法度は、背いたものは全員切腹か斬首というとてつもなく厳しいものだった。




