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梅散らず  作者: 花河燈
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沖田総司

沖田総司


笑うなら腹の底から笑え

そう言われたのは出会った時


江戸の千駄ヶ谷にある植木屋の離れで、新撰組随一の剣客と言われている沖田総司は、肺を患い一人療養していた。

小鳥が庭の木に止まり囀り始めた明治元年の四月四日の事である。

兄同然である副長の土方歳三や、剣の師匠である局長の近藤勇達は、江戸に進軍する薩長兵を迎え撃とうとしていた。

いつ戦端が開かれるかも解らないような緊張感の中、開け放たれた障子から見える空は青く澄んでいる。

総司は、寝床の中で大きく息を吸い込んだ。

(今日は、具合が良さそうだ)

総司はいささか細くなってしまった手で枕元に置いてある愛刀を引き寄せると、布団から起き上がった。久しぶりに素振りをする為である。縁側から庭に降りる為、草履を履いている所でたしなめるような声がかかった。

「沖田さん。少し具合が良いからと言って動いては駄目じゃないかぃ」

 総司の面倒をみてくれている雅が、盆に薬湯を乗せて立っていた。

「だって、このまま寝ていたら体がなまってしまいます」

総司が肩を竦める。

「肺患いには、一に休養二に休養って言うだろ?」

部屋の中に薬湯を置くと、雅は仁王立ちで総司の前に立った。面倒見の良い雅は、総司を自分の子か孫のように接する。

「でも、土方さん達が戦っているかもしれない中で、私だけのうのうと寝てはいられません」

総司はそう言って、にこりと微笑んで見せた。歳三の家来になると総司が決めたのは、まだ試衛館に入る前の事である。

だが鳥羽伏見の戦いという大事な時に歳三の役に立てず、戦にも加われなかった総司の内心は、悔しさに包まれている。

薩摩と長州の同盟成立によって成された討幕の兵に幕軍は相次ぐ藩の寝返りにあい敗れた。江戸への敗走を余儀なくされた総司達新撰組は、今はなき幕府から甲府城接収という役目を言い付かり行軍する事になっていたのだ。

だが総司は、日野まで行った所で自分の体の限界を認め療養する事に決め、一人江戸に戻った。

歳三の足手まといになると思ったからだ。

だが、総司の心から焦りが消える事はなかった。

今まで国の為にと奔走してきた土方達が今や賊軍のそしりを受けている。

今日も幕軍の大物の一人が新政府とは名ばかりの薩長軍に捕まったという。そんな中、寝ている事しか出来ない自分が総司は歯がゆくて仕方がないのだ。

「少しだけですから」

総司は両手を合わせて、困ったような顔で眉を下げる。

雅は、悔しさを腹の中に抑え込み笑う総司を一瞬辛そうに眺めた。

「新撰組一の剣客と言われても、病には勝てやしないよ。沖田さん、あんたが戦う相手は病じゃないのかぃ?」

「…」

縁側に座り込んでいる総司の肩に雅が手を差し伸べた。

一度言い出したら聞かない総司の目が揺らぐ。

「一刻も早く治して、合流すれば良い事じゃなかぃ」

 雅の言葉に、総司は苦笑いを浮かべた。

「…その通りですね」

小さな声で呟いて、総司はすごすごと肩を落とし、寝床へ戻る。その途中で雅の持ってきてくれた薬湯を一気に飲み干して、笑顔を顔に乗せた。

「なぁに、もうすぐ良くなりますよ。今日なんてとても調子が良いんです」

「そうだよ。その調子だ」

雅は元気付けるように総司の痩せた腰を叩いて部屋を出て行った。

一人残された総司は、布団の中に入り静かに目を閉じる。

青い木々の匂いが総司の鼻を突き、ポカポカした日差しが頬を暖めていた。

そよっと吹いた風が、のどかに子供達が遊んでいる声を運んで来る。

(ああ。あの子達くらいの頃だっけ。私が土方さんの家来になるって決めたのは)

総司は思わず頬を綻ばせた。



◇◇◇



「やいっ宗次郎。いい加減に石田村の歳三さんの子分になりやがれ、もうこの辺ではお前だけなんだぜ」

子供達が五人で宗次郎(総司の幼名)を取り囲んでいた。近くの農家の子供であろう。どいつも一癖ありそうな悪ガキばかりである。

(石田村の歳三さん…)

宗次郎も名前だけは聞いた事があった。石田村に住んでいる豪農の四男坊だという男は、宗次郎より七つ年上だという話だ。日野に住んでいれば誰でも耳にする程のガキ大将である。年上三十人を相手に勝ってしまった事があるというのを友達の少ない宗次郎ですら小耳に挟んだ事があった程だ。力も背丈も大人顔負けの鬼のような男というのがもっぱらの噂である。

この辺りの子供達は皆、石田村の歳三の傘下だった。と言うか年上の子分達に無理やり子分にさせられているのが現状である。

歳三の子分達は、歳三の名を笠に着てやりたい放題なのだ。宗次郎の中で歳三の印象は悪の総大将以外の何者でもない。最悪という奴である。

だから宗次郎は、子分になるのをいつも拒んでいた。

だが、石田村の歳三という名前を出されて、びびらない者はいない。宗次郎とてその中の一人である。

宗次郎は、取り囲んだ中でも一番偉そうな男をちらりと見た。

丈の短くなった着物を着て、偉そうにしている子供の名を千次と言う。千次達の年の頃は、皆十を越えたくらいで、八才の宗次郎より格段に体は大きい。

千次達が宗次郎を事ある毎に苛めるのは勝てる相手だと解っているからである。武士という特権階級への妬みも十分あったかもしれない。

「勿論お前は、歳三さんの家来である俺達の子分だがな」

千次は、宗次郎の肩をドンっと押し付け叢へ転がした。転がされた宗次郎は、ムクリと立ち上がって千次達に向かい笑いかける。煽りにのってこない宗次郎に千次達は訝しげな顔をした。そして宗次郎は口を開く。

「私は武士の子ですから。二君には仕えられません。だから歳三さんには絶対仕えられないんですよ」

 顔に笑顔を浮かべながら宗次郎は言い切った。

宗次郎のその言葉の通り、宗次郎は江戸麻布にある白河藩下屋敷で下級藩士沖田勝次郎の長男として生まれたれっきとした武士である。だが宗次郎が生まれてすぐ、父勝次郎は急逝してしまった。家名断絶だけは避けられたものの役職を失い、江戸屋敷に住むことが出来なくなった宗次郎達は、母なおの実家である日野に住む事になったのだ。

「扶持なしで食いあぐねて、日野に来たお前が何を言うか。大体誰に仕えてるっていうんだぁ」

千次が馬鹿にしたように宗次郎を突き飛ばした。宗次郎は両手をついて千次達の言葉に笑い声を上げる。

「確かにそうですねぇ」

「何、笑っていやがる」

「ですがお仕えする先がないからこそ、仕える先は自分で選びます。ですからあなた達みたいな奴らの家来には死んでもなりません」

「貧乏侍が何を言う」

千次が口火を切ると、周りの者達も口々に、貧乏侍とはやし立てる。宗次郎はそれでも笑い顔を崩さない。

「貧乏でも武士は武士です。私はあなた達のように徒党などくみたくありません」

宗次郎の言葉が千次達の怒りに火をつける。

「こんな生意気な奴。やっちまえ」

千次の言葉を皮切りに、寄って集って宗次郎をいびり始めた。

だが、足で蹴られても踏みつけられても宗次郎は亀のように丸くなって動こうとはしなかった。



宗次郎は、千次達が飽きて立ち去った後、ムクリと起き上がる。そして今までの事を見ている者がいないかと多摩川の河原を見渡した。

勿論、苛めれていた事を姉や病弱な母に知られたくない為だ。すると宗次郎より少し西側の叢に腰を下ろしている一人の人間を見つけた。見ていたのなら口止めしなくてはと思い宗次郎はその人の方へ足を向ける。

そして、その人の顔が解る所まで近づいた宗次郎は息を呑んだ。

薄い色の着物に身を包んだその人は、洗ったばかりの髪を綺麗な細工が施された鼈甲の櫛で梳かしていた。梳き終わるとその人は鼈甲の櫛を懐にしまい、長い髪をそのまま風になびかせる。年は宗次郎よりも五つくらい上だろうか。

白い肌が、この辺に住む百姓娘とはどこそこ違って、幼心に宗次郎は胸をときめかせる。

春先のそよ風を正面に受けて、その人は気持ち良さそうに目を細めていた。その人を指して繊細な雰囲気を持った美人と言えば、この光景を見た誰もが頷くだろう。

宗次郎の足は吸い寄せられるようにその人の所へ向かっていった。膝まで生えた草を掻き分けるように足を進める。

すると、草を踏む音に気付いたその人が宗次郎の方を振り返った。

(わ…目が合った)

宗次郎はドキドキと高鳴る鼓動を抑えきれずに手を胸に押し当てる。

宗次郎が想像していた以上に目鼻立ちの整った綺麗な顔をしている人だった。少なくとも宗次郎はこれほど整った顔をした人間を見た事がない。

その人を見たまま目が離せずにいた宗次郎は、自分が泥だらけである事に気付いて慌てて着物を払った。


宗次郎初恋の瞬間である。



…が、その初恋は一瞬のウチに打ち砕かれる事になった。



宗次郎が照れたような笑みをその顔に乗せた瞬間、美人の口元が皮肉っぽく歪められた。

そして、その唇から発せられた言葉は、宗次郎の想像もつかない言葉だった。

「何へらへら笑ってやがんだよっ」

「…」

(声が…低い…)

言葉の内容が脳に到達するよりも、その美人の口から出たやけに低い乱暴な言葉が宗次郎の耳に木霊する。

(男…だったんだ)

言われている内容も酷いモノなのだが、その美人が男だと言う事実の方が宗次郎にしてみればはるかに大きい。笑い顔のまま宗次郎は固まってしまう。

そんな宗次郎を見て美人、いや美男は漆黒の髪を忌々しげに掻き揚げた。

「蹴られて頭でも可笑しくなったんじゃねーのか?」

「…あの、あなたもしかして男ですか」

宗次郎の口から初めて出た言葉は、間抜けな一言だった。

言われた美人の方は、当然眉を潜める。

「俺が男以外の何に見えるってんだ」

「ははは。そう…ですよね」

宗次郎は笑って誤魔化した。

だが、誤魔化しきれるものでもなく。

男は頭を掻いて軽く舌を打った。

「さっきからお前ぇ、何へらへら笑ってやがるんだ。あそこまですき放題言われた挙句、喧嘩で一方的にやられてよく笑っていられるな」

いかにも馬鹿にしているような口調で言われる。宗次郎は男の言葉の意味にやっと気付いた。不覚にもときめいてしまった相手なだけに反動は大きい。

宗次郎は余りのムカツキと恥ずかしさで顔を真っ赤する。

(この人…大嫌いだ)

「わ…私が笑っていようがいまいが、あなたに関係はないでしょう」

 宗次郎は小さな肩を怒らせる。どんな時でも笑っていなさいと宗次郎は母に教えられて育ったのだ。笑う角には福が来るという言葉もある。笑っていてどこが悪いという眼で男を睨みつけた。

男はそれを軽くいなして口の端を上げる。

「腹の底から笑ってるなら屁とも思わんさ。だがなぁ上辺だけの笑いってのは胸糞悪くなる」

「上辺だけの笑い?」

宗次郎の心にグサリと突き刺さる言葉だった。

「そうだろ?ムカツク事言われて笑っているなんて嘘以外の何ものでもねー」

(この人、ずっと見てたんだ)

 宗次郎は図星を刺され言葉を失う。

「それとも何か?蹴られて笑っていられる奴がいるってんなら教えて欲しいもんだぜ。お前ぇ悔しいとは思わないのか?それともそういう気があるのか?」

「っ。悔しくないわけないでしょう」

 宗次郎は唇を噛み締めた。その顔に笑顔は張り付いてはいない。

「ならなんでやりかえさねー」

「怪我でもして帰れば母様が心配します」

宗次郎は男を真正面から睨みつける。

その真摯さに男の目がわずかに見開かれた。だがその表情は一瞬のうちに消え、すぐにニヤニヤ笑いに戻る。

「へぇ、やる前から怪我をさせられると思ってるのか。ならやらなくて正解だ」

男はあきらかに馬鹿にしたような眼で宗次郎を見る。そして男はわざとらしく宗次郎の頭を撫でようと手を伸ばした。それを宗次郎は叩き落とす。

「何故…そう言い切れるんです」

「相手に怪我させて向こうの親が怒鳴り込みにでも来たら困るってんなら見込みはあるが、やる前から負けてるだろ」

「つ…」

あまりの正論に宗次郎は言葉を繋げる事ができない。宗次郎は悔しさに下を向いた。

「まぁ、石田村の歳三の家来には死んでもなりたくねーっていう心意気は買いだがな」

 男は宗次郎の頭を軽く小突いて笑った。その顔は思いのほか優しい。先ほどまで宗次郎を馬鹿にしていたのが信じられない程の変わりように宗次郎は戸惑った。

「あなた、石田村の歳三を知ってるの?」

知っているのなら、家来になりたくないと言った事を告げ口されては適わない。宗次郎は顔を蒼白にする。

「ああ。ロクでもねー奴だって事位はな。お前はどこまで知っている」

男は宗次郎を上から下まで眺め方眉を上げた。

宗次郎は居心地の悪さに視線をそらす。

宗次郎は鬼瓦に八つ裂きにされる自分を想像して眼をつぶり、ヤケになって言い放った。

「石田村のお大尽の四男坊で苦労知らずの放蕩息子で、鬼瓦みたいな人だという事くらいです」

言い切った後で、宗次郎は恐る恐る男の反応を見てみると、男は唖然とした顔をしていた。

そして堰を切ったように笑いはじめる。

「ははは、苦労知らずの放蕩息子とはよく言ったもんだ。その通りだぜ、お前名前はなんていう」

男は何が可笑しいのか腹を抱えて笑い続けている。

「私の名前は、沖田です。沖田宗次郎」

「ふーん宗次郎っていうのか。俺は、と…義豊だ。また、お前ぇがやられてる所を見に来てやるよ」

 義豊と名乗ったその男は、どこか意地悪そうな顔で宗次郎の頭をはたくとその場を去っていった。



「母さま。笑う事は悪い事ではないですよね」

その夜、家に帰った宗次郎は湯しかないような粥を食べながら母、ナオに尋ねた。義豊に言われた事が引っかかっていたのだ。

「ええ。誰だって泣いている顔や怒っている顔を見ているより笑っている顔を見ていた方が幸せになれるでしょう?」

 ナオは教え諭すように、宗次郎の顔を見て微笑んだ。

「私もそう思っていました。だけど今日、面白くない時にまで笑うなと言われました」

宗次郎は、面白くなさそうに音を立てて粥を啜った。

「宗次郎は良い友を持ちましたね」

ナオは愛好を崩す。父を亡くし、貧困を極めたような生活をしていても文句一つ言わず、笑っている幼い宗次郎をナオは不憫に思っていたのだ。宗次郎が村の子供達に苛められている事もナオは知っていた。必死で払ってはあるものの着物に付いた足跡を見れば明らかだった。粥というより重湯に近いものしか食べられない毎日を送りながら、それでも宗次郎はいつも笑っている。笑っているように躾たのは自分自身の筈なのに、ナオは心配かけまいとする宗次郎が心配だった。

無理に笑う事を覚えてしまった宗次郎に、そんな事を言ってくれる人物がいる事にナオはほっとする。

「友などではありません。その人の事は大嫌いです。誰があんな意地悪で嫌味な人と友なもんか」

宗次郎が、そこまで感情的になるのを見てナオはコロコロと笑い声を上げた。

「母さまっ」



ナオの言った言葉の意味が、解らない宗次郎は、日が昇ると、もう一度義豊に会う為に河原に行った。

だが、宗次郎は忘れていたのだ。そこに行けば、その場を溜まり場にしている千次達と会ってしまう事を。

「おいっ貧乏侍」

聞きなれた千次の変声期を過ぎたばかりのだみ声を無視して、宗次郎は義豊がいないかと周りを見渡した。

「おいっ」

相手にされない事に気を悪くした千次が宗次郎の肩に手をかけ、自分の方へ振り向かせる。

「何か御用ですか?家来にはならないとは再三言っている筈でしょう」

宗次郎は淡々と言い放った。その顔にはやはり微笑が浮かんでいる。

「ふん。そう言ってられるのも今のうちだ」

千次が懐から取り出したのは、餡のたっぷり乗った団子だった。それをこれ見よがしに食べてみせる。

宗次郎はゴクリと唾を飲み込んだ。

「欲しいか?欲しいんならお前にもやるよその代わりお前はその瞬間から俺の子分だぜ?これがまさに食い扶持って奴だ」

千次は宗次郎の鼻先に団子を近づけた。

宗次郎の目は、目の前の団子に釘付けになる。

ここ数日、重湯のような粥しか食べていない宗次郎にしてみれば、団子は目の毒以外の何ものでもない。

「私はそんなものはいりません」

宗次郎は目を瞑って見ないようにした。

だが、宗次郎の努力を裏切って腹は鳴る。その音を聞いて千次達は腹を抱えて笑った。

「これがまさに武士は食わねど高楊枝って奴だ」

宗次郎は頬に朱を染め、腹を押さえる。

すると、千次は宗次郎の目の前に団子を一つ投げ落とした。

「やるぜ。その場に這って食えよ。お前は今日から子分以下のポチで十分だ」

千次のせせら笑いが耳に届いたのを宗次郎はいつものように聞き流そうと拳を握り締めた。

だが、宗次郎の脳裏に義豊のあざ笑う顔が浮かぶ。弱虫と言われるのは真っ平だった。いつも貼り付けていた笑いを宗次郎は消し去る。

(もう、かまうもんか)

宗次郎は、握り締めた手で、力一杯千次の横っ面を殴りつけた。

「ってぇ。こいつ殴りやがったな。お前ぇらやっちまえ」

千次が頬を押さえて、他の四人に指図する。

宗次郎はがむしゃらに拳を振り回した。

だが、5対1では相手が悪い。

そのうち宗次郎が殴られる回数が増え、ついに宗次郎は地面に倒された。

「これに懲りたら、抵抗なんてするんじゃねーよ」

 横になった宗次郎に唾を吐きかけ、千次達はその場を後にする。

(ちくしょう。ちくしょう。ちくしょう)

宗次郎は地面に転がり、荒々しく胸を上下させ、草を毟り取った。

「惜しかったな」

声の主は、義豊である。宗次郎の傍らに腰を下ろして笑っていた。見ていたのなら加勢してくれても良いのにと宗次郎は義豊を睨みつけた。

「悪いな。俺はガキの喧嘩に首は突っ込まない主義なんだ。それにお前ぇだって嫌だろ?」

宗次郎の言いたい事が解ったのか義豊はさらりと言ってのける。

「今日は奮闘したじゃねーか」

 義豊は機嫌よく笑った。

義豊の顔にからかいの色は含まれてはいない。

「負けました。あなたの言う通りだ」

宗次郎は、両手で顔を隠して呟いた。悔しくて涙が出そうだったからだ。

「なっ?本気でやりあって負ければ、笑えやしねーだろ?」

「…」

思いがけないほど優しい色の義豊の声に、宗次郎は不覚にも泣いてしまう。今までどんな辛くても泣いた事などなかったのにだ。

「それでも笑いたければ、勝つ事さ」

しゃくりあげる宗次郎の頭を義豊は軽く撫でてやる。そしてそれからは、宗次郎の息が整うまで義豊は何も言わなかった。



「こんなドロドロの着物に、顔腫らかせてちゃ帰れねーだろ」

そう言って、義豊は宗次郎を連れて河原を出た。日も傾いてきた夕刻の事である。

道中、二人の間に会話はない。

(この人って、一体どういう人だろう)

宗次郎の中で、そんな疑問が浮かんでいた。

馬鹿にしたかと思えば、こうして喧嘩に負けた自分の面倒をみたりしている。宗次郎は夕日に照らされた義豊の顔を見た。相変わらず、中性的に整った顔はしているものの、始めて会った時のように、義豊が女に見える事はない。

「何だよ。別に取って食やしねーよ。お前ぇみてぇなガリガリな奴、食ったって美味くねぇに決まってるからな」

 義豊がジロリと宗次郎を見据えてからかう。

 宗次郎が優しいのかもしれないと思い始めれば、こうして嫌な事ばかり言うのだ。宗次郎は道端の石に八つ当たりをする。

「どこに行くつもりですか?」

「ついて来ればわかる」

 義豊はぶっきらぼうに呟いてまた歩き始めた。



宗次郎が連れて行かれた所は、老婆が一人で暮らしている民家だった。

「おタカさん。悪いがこいつに風呂と飯をやってくれねーか」

 義豊は門戸を開くと中に入りながら言う。

「あら、坊ちゃんじゃないかぃ。さぁさぁお入りよ。ほら坊やも」

出てきたのは六十を超えていそうな老婆だった。

宗次郎はペコリと礼儀正しく頭を下げる。

「沖田宗次郎です」

「あら、坊ちゃんの知り合いにしては行儀の良い子ねぇ」

 タカは皺を深くして微笑むと、宗次郎に手招きした。宗次郎は大人しくそれに従う。

「一言多いよ。おタカさん」

義豊が弱ったような、それでいて心を開いているのがよく解る顔をした。宗次郎は意外な義豊の一面を見て目を見開く。

(この人でもこんな顔をするのか)

 そう思って、宗次郎が義豊を見直そうとした瞬間。

「ノロマ。さっさと風呂に入って来い。その間にソレを洗って干しておいてやるから」

義豊は宗次郎のドロドロの着物を指してそう言った。宗次郎は頬を膨らませる。

「解りましたぁ」

「あ…それから、風呂が終わったら着物が乾くまでの間に飯を食うからな」

 義豊の言葉に、宗次郎の着物を脱ぐ手が止まる。飯をご馳走になるのが躊躇われたからだ。

「…でも」

「ガキが遠慮すんじゃねー。はいって頷いておきゃ良いんだ」

「はい」

宗次郎は、ふくれっつらをして、タカが案内してくれる風呂場に向かった。だが、顔とは裏腹に宗次郎の心は、温かくなっていく。

内心では義豊に感謝の気持ちを表しながら、風呂桶の中に身を沈める。

喧嘩で出来たかすり傷が染みて宗次郎は悲鳴を上げた。



「なぁ、おタカさん。すまねーが、あいつに俺の名前を言わないようにしてもらえねーか?」

宗次郎が風呂場に行ったのを見計らって義豊は口を開いた。義豊の手には、宗次郎の汚れた着物が握られている。

「ああ、かまわないよ。大体わしは歳三さんの事を坊ちゃんとしか言わないからねぇ」

「だから、ここに連れてきたんだ」

義豊はそう言って笑った。正確には土方歳三義豊がこの男の本名なのだ。

この男こそが、石田村のガキ大将、歳三なのである。

タカの家は歳三が居候している佐藤彦五郎の家(姉のノブの嫁ぎ先である)から近くにあり、歳三が幼い頃から通っている場所なのだ。タカも自分の孫のように歳三を可愛がっている。

「でも坊ちゃん、なんであの子に内緒なんだい?」

「あいつが歳三を嫌ってるからさ。まぁ言わない方が面白いってのもあるしな」

 義豊(歳三)はそう言って苦笑した。タカの前では素直になる歳三にタカは愛好を崩す。

「折角、坊ちゃんも来た事だし。沢庵でも樽から出してこようかね」

 タカはニコニコと笑いながらご飯を作る為に、土間へ降りた。


「お風呂。ありがとうございました」

風呂から上がった宗次郎は、膳にご飯をつけた茶碗を乗せていたタカに向かってペコリと頭を下げた。

「熱かっただろ?坊ちゃんが用意するといつも熱めだからねぇ」

(いつも、風呂に入れるなんて良いなぁ)

 宗次郎はそう思いながらも小さく首を横に振った。

「大丈夫です。熱いのは湯屋の湯も同じだから慣れています」

 宗次郎はキョロキョロと周りを見回す。

「あれ?義豊…さんは?」

「ああ。坊ちゃんは家に戻ってくるってさ。坊やの着物が乾きそうもないから取りに行ってるんだよ」

坊ちゃんは優しいから…とタカは続けた。

宗次郎は曖昧に頷いてみせる。

あれほど虫が好かない、意地悪だと思っていた義豊が、その実とても優しい事を、宗次郎はわかり始めていた。だが、どこか宗次郎は素直になれない。施しを受けているという後ろめたさか、義豊を認める事が出来ないでいた。

「ねぇ、おタカさん。義豊さんは裕福な家の子なのですか?」

 宗次郎は、タカが出してくれた大人用の着物を羽織りながら言う。

「どうしてそう思うんだい?」

「おタカさんが坊ちゃんって言ってるから」

(それに、いつも遊んでいられるなんて、苦労知らずに決まってる)

 宗次郎は、囲炉裏の前に蹲って膝を抱えた。そして鉄瓶から湯気が上がるのをじっと見つめる。

「そうだねぇ。坊ちゃんの家は確かに裕福って言えば裕福だよ」

「…」

(なんだやっぱり、金持ちの道楽なんだ。貧乏な私を気まぐれにからかってるだけじゃないか)

 宗次郎は、卑屈になって鼻を啜った。

「でもねぇ、幸せな子かって言ったらそうでもないんだよ。そう言われるのを坊ちゃんは嫌うんだけどね」

「えっ」

宗次郎は、膝に伏せていた顔を上げる。タカは意外そうな顔をした宗次郎に目を細めた。

「坊ちゃんには、決まった家はあるようでないんだよ。両親を物心つかないうちに亡くしてねぇ。年の離れた兄や姉に育てられたようなものさ。その兄達も皆、所帯を持っているからねぇ」

タカは優しい目で微笑んで、これは内緒だよと片目を瞑った。

宗次郎は、一点を見つめたまま動かない。

(貧しくても母様がいる私の方が絶対幸せだ)

「…義豊さんには父様も母様もいないんだ…」

宗次郎は胸元を押さえ呟いた。



「お、宗次郎。もう出てたのか」

「義豊さん」

宗次郎が長い着物を引きずって、戸口に立っている義豊の元へ駆け寄った。そして義豊の着物の袂を握りしめる。

「なんだ辛気臭ぇ顔して、風呂の湯が傷口にでも染みたのか?」

 義豊がからかうような事を言えば、宗次郎は袂を握る手を慌てて離した。

「傷口が染みた位で、そんな顔はしません。義豊さんが帰ってくるのが遅いから、飯が冷めると思っていただけです」

「この野郎」

義豊は手に持っていた子供用の着物を宗次郎の頭に被せた。



「なんで義豊さんまでついて来るんですか」

白いご飯を腹一杯食べた宗次郎は、照れを隠すようにスタスタと義豊の前を歩いていた。

「お前の家が、どんなに貧乏か見てやろうと思ってな」

 義豊は、あらぬ方を向いて嘯く。

普段なら腸が煮え繰り返るような事を言われているのに、宗次郎は不思議と気分を害す事はなかった。

義豊の不器用な優しさを宗次郎が解るようになっていたからである。

口で何と言っていても日が暮れた夜道を子供である宗次郎に一人で帰らせるのを憚って送ってくれているのだ。

宗次郎は、そっぽを向いている義豊の顔を見た。義豊はその視線に気付いて、頬を掻くと宗次郎に尋ねる。

「お前、武士の子なんだろ?」

「…はい」

「その…剣術はやらねーのか?」

義豊は宗次郎の顔を覗き込んだ。

「悪かったですね。私の家は義豊さんがおっしゃるように貧乏なので習いに行く事はできないんです」

義豊の言葉をからかいだと受け取った宗次郎は、頬を膨らませる。

だが義豊は、それに答える事なく、顎に手を置くとしばらく黙って歩き始めた。

「義豊さん?」

何の言葉もないのをいぶかしんだ宗次郎が声をかける。

すると、義豊は突然大きな声を上げた。

「よし宗次郎っ。お前ぇ俺の憂さ晴らしに付き合え」

「は?」

「明日から毎日、昼時におタカさんの家の庭に来い」

義豊は、宗次郎の前に回って腰に手を当てる。

「えぇっ?そんな」

宗次郎は、唐突に言い出された義豊の言葉に悲鳴をあげる。

「あそこで飯を食ってから、俺の憂さ晴らしに付き合ってもらう」

「憂さ晴らし…」

宗次郎は、げんなりした。

「何だお前ぇ、文句でもあるのか?」

宗次郎の頭を軽く小突いて義豊は不敵に笑う。強引だが嫌とは言わせない強さが義豊にはある。

「…ありません」

 宗次郎はぐっと喉を詰まらせ渋々頷いた。

義豊は、そんな宗次郎の様子を見てからから笑うと、また歩き始める。

日野宿の外れにある小屋のような家が宗次郎の家だった。

宗次郎は、家が近づくにつれ、義豊にお礼を言うべきかどうか悩んでいた。

(ありがとうって言うにしても義豊さんは、送るなんて事一言も言ってないし)

 宗次郎は義豊の顔をちらりと見る。

「あの…義豊さん。私の家はここなので…あの…今日は…」

家の前についた所で宗次郎は、お礼を言おうと心に決め、口を開いた。

だが、宗次郎がお礼の言葉を口に乗せる前に、義豊は動いていた。

「ふーん。ここがお前ぇの家か」

家をぐるりと見渡し、義豊がおもむろに戸を開ける。

「こんばんは、誰かいませんか」

 小さな玄関に入ると、義豊は大きな声で家の中の人に声をかけた。

「あの?義豊さん?」

宗次郎は、義豊の行動を止める事も出来ずに戸口で立ち尽くす。

義豊は、手招きして宗次郎を傍らに寄せると、中から人が出てくるのを待った。

「お前ぇは黙ってろよ」

義豊は宗次郎の耳を引っ張って小声で呟いた。

「え…」

宗次郎は、訳も解らず首をかしげる。

そして二人の前に現れたのは、宗次郎の母であるナオだった。

「あら」

 玄関口に立つ自分の子と、隣に立っている美少年にナオは目をやる。

「宗次郎の母上ですか?」

美少年、義豊は丁寧な言葉でナオに頭を下げた。先ほどまで乱暴だった口調はどこへやらと言った感じで、義豊はやたら礼儀をわきまえているのだ。宗次郎に対する時といい、タカに対する時といい、今といい、義豊は色々な顔を持っていた。

宗次郎は、義豊の変わりように目をあんぐりと見開き、口を半開きにさせる。

「宗次郎の帰宅が遅くなって申し訳ありません。俺と悪ふざけしていた拍子に誤って宗次郎を田んぼに落としてしまって、着物が乾くのを待っていたら日が暮れてしまいました」

義豊の言葉に、ナオは愛好を崩した。

大方、宗次郎が喧嘩したのを庇ってくれているのだ。宗次郎が笑うなと言われた相手がこの美少年だという事をナオは一発で合点する。

「それで、あなたはわざわざ宗次郎を送り届けて下さったのですか」

「いえ…帰る途中だったので」

義豊は困ったように頭を掻いた。言った後で義豊は、ここが日野宿の外れにあった事を思い出す。これでは送って来たと白状しているようなものなのだ。

ナオの顔を義豊が見れば、ナオは顔に浮かべた笑みを深くしていた。

「着物は明日にでも宗次郎に持たせます。どうか宗次郎を叱らないでやってください」

義豊は照れを隠すように早口にまくし立て、もう一度頭を下げると逃げるように玄関を出て行った。

宗次郎は、その後ろ姿をじっと見送る。

(義豊さんは、私を庇ってくれる為に、ここまで付いてきてくれたんだ)

「母様。本当は…」

喧嘩したのだと、宗次郎は告げようとした。

だが、ナオは緩く首を振る。

「全て解っていますよ宗次郎。明日よくあの方にお礼を言っておきなさい。良い友を持ちましたね」

「はい。母様」

宗次郎は、全開の笑顔でナオの言葉に頷いた。



「義豊さん…憂さ晴らしって…」

次の日、タカの家で昼飯をご馳走になった宗次郎は、その後に控えていた憂さ晴らしの内容を知って涙目になる。

「ばぁーか。何涙ぐんでんだ」

義豊が宗次郎に投げて渡したのは、木の棒だった。

剣術を習えない宗次郎に剣術を教えようとしてくれているのだ。

「あの、義豊さん…ありが…」

「礼なんて言いやがったら叩きのめすからな」

義豊は照れを隠すように、わざとぶっきらぼうに言い放つ。横を向いた顔が赤くなっていた。宗次郎は自然に頬が緩むのを感じる。

「大体、俺のは自己流一辺倒だからな。後でしっかり教えてもらう段になって怒られてもしらねーがな」

 義豊は、宗次郎の方に棒を向けて笑った。

その瞬間、宗次郎の心の中に、一つの思いが飛来する。それは、義豊の家来になりたいという思いだった。

「義豊さん。私が義豊さんより強くなったら…」

そこまで言いかけて宗次郎は、家来にしてくれという言葉を飲み込んだ。

「ん?なんだ?」

義豊は棒っ切れを正眼に構えてみせながら、宗次郎の言った言葉の続きを待った。

「いえ…何でもありません」

宗次郎は、にこりと笑って義豊の真似をして棒っ切れを構えてみせた。

正眼というのは中段の構えと言われるもので、刀の先を相手の眼に向けて構えるのが基本だった。

だが、義豊の正眼の構えは、少しだけ癖があって体が右側に開いて剣先が少し下がっている。当然それを真似している宗次郎も同じような構え方をするようになった。

義豊は間合いの詰め方、打ち込みの仕方などを意外にも丁寧な教え方で宗次郎に教えた。飲み込みの早い宗次郎が、教えた事を巧くこなすたび、義豊は満足そうに笑う。

義豊の笑顔を初めて目の当たりにした宗次郎は、もっと頑張ろうと心に決めた。



そして来る日も来る日も宗次郎は、義豊が待っているタカの家に通うようになった。

ひと月もすれば、いっぱし宗次郎の剣は形になっていた。

本来持った才能故か、はたまた宗次郎の義豊より強くになりたいという気合の賜物か、ぐんぐん上達していったのだ。


そしてその日も義豊に稽古をつけて貰う為に、宗次郎は先を急いでいた。家の手伝いをしていたら、稽古の刻限に遅れそうになったからである。

タカの家へ行く一本道を宗次郎は息を切らせながら走る。

だが、必死に走りすぎて、前が見えていなかった。

宗次郎は、ドンっと何か大きなものにぶつかって尻餅をついた。

「っ?」

 宗次郎が見上げた先には、一人の男が立っている。

後ろから宗次郎にぶつかられた人は、当たり負けする事なく、尻をついている宗次郎を片手で引っ張り起こした。

「大丈夫か?」

「あ…申し訳ありません。急いでいて」

宗次郎は、その人物に頭を下げた。そして、顔を上げて宗次郎は息を呑む。

鬼瓦のように厳しい顔をしたその人は、宗次郎が想像している『石田村の歳三』像そのものだったからである。

一本道の先にあるのは、タカの家と『石田村の歳三』が出入りしているという噂の佐藤道場があるくらいのものなのだ。防具を持ったその人は、筋肉質な体をしていてとても強そうである。眼つきも鋭い。宗次郎の背中に冷たいものが伝った。

「どうした?坊主。頭でも打ったか?」

動かない宗次郎を訝しく思った男は、その場にしゃがみこんで宗次郎と目線を合わせる。

「あ…あの…あなたはもしかして、『石田村の歳三さん』ですか」

宗次郎はどもりながら尋ねた。

男は一瞬あっけに取られた顔をするが、次の瞬間声を立てて笑い出した。

「ははは。俺が歳なもんかぃ。俺は島崎勝太って言うんだ」

勝太と名乗ったその男は、大きな口を横に開いて笑ってみせる。

(ち…違ったんだ)

 宗次郎は、ほっと息をついた。

「私は、沖田宗次郎と申します。でも島崎さんは『石田村の歳三さん』をご存知なのですか」

宗次郎は勝太の顔を見て尋ねる。

「お前ぇが噂の…」

 勝太は自分にしか聞こえないような声で呟いた。

「え?」

「何でもねー、こっちの事さ。ところで歳の事だが知ってるも何も、俺と義兄弟の契りを結んだほどの仲さ」

 宗次郎は、勝太と同じような男をもう一人想像して身震いする。

「ははは。だが、歳は俺みたいにごつい男じゃないぜ?粋な色男って所だ」

「粋な色男」

宗次郎の頭に最初浮かんだのは、まぎれもない義豊の姿だった。

だが、宗次郎はすぐにその疑問を打ち消す。

(だって、義豊さんは『石田村の歳三』を馬鹿にしていたもの)

宗次郎が黙ってしまったのを見て、勝太が軽く溜息を付いた。

「そんなに歳の事が知りたきゃ、明日の夕刻にでも佐藤道場に来るといい。きっと歳もいるから」

勝太はそう言って、宗次郎に手を振り防具を担ぎ直すと歩き始めた。

宗次郎は、一人その場に残される。

(見てみたい。でも、もし歳三って人と義豊さんが同じ人だったら)

その思いを否定し、宗次郎は首を振りまた走り始めた。



「ねぇ、義豊さん。島崎勝太さんって方知っていますか?」

宗次郎は、タカの家に着くや否や義豊に尋ねた。義豊が勝太を知っていると言えば、義豊が歳三だという事になるからだ。宗次郎は義豊に鎌を掛ける。

「なんだ?遅れてきたと思ったら藪から棒に」

 義豊は、好物である沢庵を頬張り、飯を食べていた箸を止める。

「えっだって、気になったものですから」

宗次郎はギクシャクした様子で、お椀の中の汁を啜った。

「…しらねぇなぁ」

義豊がそういえば、宗次郎はあからさまにほっとした様子を浮かべる。

「なんだ?俺がそいつを知ってたらまずかったのか?」

「いえ、そんな事ありませんが」

「隠し事たぁ穏やかじゃねーなぁ。食い終わったらみっちり仕込んでやるから覚悟しろよ」

義豊は、そう言ってまた一つ沢庵を口に投げ入れた。



そして次の日。

宗次郎は義豊から稽古をつけて貰った後、近くの寺で時間を潰し、日が傾くのを待って佐藤道場を尋ねた。

道場の窓から中を覗いてみる。背が届かないので、薪を一本拝借してその上に乗っかった。

するとそこには、防具をつけている人と、つけていない人がそれぞれ入り乱れていた。

(どの人が『石田村の歳三』なんだろう)

宗次郎は、背伸びしながら必死になって歳三の姿を探す。

その時だった。

「なんだ宗次郎来たのか」

後ろから声をかけられて驚いた宗次郎は、薪から足を滑らせてしまう。

したたかに尻を打ち付けて、また勝太に笑われる事になった。

「こんな所で見てなくても中に入ればいい。丁度歳も来てるからな」

勝太は、悪戯っぽく笑った。笑うとエクボの出来る勝太の顔を宗次郎は、第一印象ほど怖いと思わなくなっていた。

勝太に従って、宗次郎は道場に足を踏み入れる。若先生と言われているのがどうやら勝太の事を指している事に気付いたのは、門人が勝太をそう呼んだからである。

「島崎さんは…若先生なんですね」

宗次郎が遠慮気味に勝太を仰ぎ見た。

「一応、天然理心流の跡取息子だからな。そう呼ばれているだけさ」

(そんな人と『石田村の歳三』は義兄弟なんだ)

宗次郎は気後れする。

「ああ。いたいた。あそこに座っている奴が歳だ。歳は正式な門人じゃないんだが強いぞぉ」

勝太が赤い面紐をつけた男を指差した。

宗次郎は、歳三の方に顔を向ける。

(あれ?そんなに思ったほど大きい人じゃないんだ)

 宗次郎は意外に思いながら歳三を眺める。

赤い面紐をつけた歳三もこちらを見ていた。その迫力に宗次郎は背筋を伸ばす。

宗次郎のそんな様を見ていた勝太が肩を揺らして笑った。

「なぁ、宗次郎。なんなら歳と打ち合ってみるか?」

勝太が宗次郎に竹刀を渡す。

宗次郎はそれを受け取るものの、首を大きく横に振った。

「めっそうもありません」

「ははは、そうか。なら歳が今から打ち合うのを見てみるか?」

「は…はい」

宗次郎の心臓は、大きく脈打つ。噂に聞いた『石田村の歳三』の実力を目の当たりにする事ができるのだ。宗次郎は渡された竹刀を握り締める。

一方勝太は宗次郎をその場に残し歳三の所に行った。そこで勝太が二・三言葉を交わすと、歳三は小さく頷いた。

「今から、歳と紋次さんで一本勝負をする」

勝太がその場で声をはりあげる。道場中に響く大きな声に宗次郎はビクリと肩を揺らす。

道場の真中に歳三と紋次は移動した。

二人とも防具をつけているが、体格が二まわりほど紋次の方がでかい。

(私なら、相手を見ただけで逃げ出しそうだ)

 宗次郎は、二人を交互に見比べる。

「宗次郎見てろよ、歳の強さを。紋次さんはウチの道場では師範代位の腕がある」

審判を他に任せて宗次郎の元へ戻った勝太が説明を入れた。

宗次郎は小さく頷く。

そして審判の開始の声と共に、歳三と紋次に殺気がみなぎった。

歳三は正眼に構えようとしたが、そのまま上段へと竹刀を構えなおす。

門人がその瞬間息を呑んだ。

「歳三さんが上段で構えるなんて…紋次さんも気の毒に…」

門人の一人が、呟くのを宗次郎は耳の端に捕らえる。

二人の間合いがジリジリと狭まっていく。

最初に攻撃を仕掛けたのは、紋次だった。大きな体に似合わず素早い動きで、歳三の胴を狙う。

当てられたら息が止まりそうな程の勢いに宗次郎の肝は縮んだ。

だが、歳三はその攻撃を読んでいたかのように、軽やかに後ろへ下がりそれをかわす。

そして、紋次の面が空いたのを見逃さず、歳三はそのまま踏み込み力一杯面を打ち込んだ。

面が決まった、スパーンという綺麗な音が道場に響く。

その音から間をおかず紋次の巨体が道場に大きな音を立てて倒れこんだ。

「勝負あり。一本」

 審判が、慌てて声を上げる。

途端、道場は喧騒に包まれた。

「歳三さんの上段なんて、若先生以外の誰がかわせるっていうんだ」

「紋次もかわいそうに」

気を失った紋次の所に門人が駆け寄り水をかけてやる。

歳三は、それを目の端に止め、紋次が気を戻したのを確認すると宗次郎の方に体を向けた。そして竹刀を持ったまま勝太や宗次郎のいる方に歩いてくる。

あまりの恐ろしさに、宗次郎はその場を逃げ出そうと出入り口の方に体を反転した。

「待てよ童。逃げるのか?」

宗次郎の後ろから、くぐもった声がかかる。逃げようとした足を止め、宗次郎はもう一度向き直った。

宗次郎が振り返った先にいたのは、赤い面紐をつけた歳三だった。

「逃げません」

宗次郎は、震えそうになる声を必死で隠しながら歳三を睨みつける。

「なら、お前の腕を前見せてもらおうか」

歳三は腕を組んで言った。

(試合なんてした事ないけど、逃げるもんか)

宗次郎はゆっくり頷いた。

『石田村の歳三』相手に勝てる訳がないのだ。その実力は先ほどの試合で見せ付けられている。宗次郎は気を失って倒れる自分を覚悟した。

だが、歳三は自分が相手をする気はなかったようで勝太に宗次郎の相手を指定する。

「ふーん。面白そうじゃねーか」

歳三の言葉を聞いた勝太が、口角を上げた。

「お前ぇより年上の奴が相手だ。どうだ逃げたくなったか?」

 歳三はニヤリと笑う。勝太も興味津々といった顔で宗次郎の顔を見た。

「宗次郎。歳はこういっているが良いか?」

勝太が宗次郎に確認を取る。

「武士に二言はありません。どなたでも結構です。試合させて下さい」

宗次郎は、軽く頭を下げた。


歳三が指名した相手は松蔵という少年だった。年は宗次郎より五つ上の十三歳である。

(石田村の歳三を相手にすると思えば)

宗次郎はそう言い聞かせて自らに気合を入れた。

だが、いざ試合という段になって困った事に宗次郎は気付く。

宗次郎は与えられた防具をどうやって着けたら良いものか解らないのだ。防具を前に途方に暮れる。

何せ竹刀を持つのも初めてなのである。剣術のいろは義豊に教えられたものの、打ち合いはずっと木の棒でやっていたのだ。

困っている宗次郎を見て、松蔵はせせら笑った。

「若先生。こんな防具のつけ方も解らないような素人と僕がやってしまっていいのですか」

松蔵に言われて、勝太は宗次郎に防具のつけ方を教えながら曖昧に笑う。松蔵は同じ年の子供の中ではずば抜けて強い。だから素人の宗次郎の相手をさせられるのが屈辱に思えたのだろう。勝太は宗次郎に防具をつけさせると立ち上がらせ、二人の肩をポンと叩く。

歳三は、そのやりとりを少し離れた所で静かに見ていた。

防具をつけた宗次郎は、義豊に教えられた通り道場の真中近くまで行くと礼をし、三歩行った所で竹刀を構える。

宗次郎は、正眼に構え相手の目を教えられた通り睨みつけた。

松蔵は、あきらかに見下したような構え方をする。

そして、勝太自らの始めという声で試合は始められた。

宗次郎は、じっと動く事なく相手の出方を伺う。

松蔵の足の動かし方は、義豊の動きより随分隙がある。

手に持った竹刀は、棒っ切れの方が重かった所為かかなり動きやすそうだった。

(私は、下手な技なんて知らないから、一撃にかけるしかない)

宗次郎は一瞬の隙を狙う為に、その瞬間を待った。

だが、松蔵は一向に攻めてこない宗次郎を見て片眉を上げる。宗次郎が攻めてこない理由を、素人が恐れをなしたと思ったからだ。

松蔵は、ならば恥を書かせてやろうとほくそえみ、中段の構えから上段に構えを変える。

宗次郎はその瞬間を見逃さなかった。

松蔵の腕が上がった瞬間、宗次郎は松蔵の喉をめがけて突きを放つ。

宗次郎の手に、相手の喉を突く感触が伝わった。

松蔵は小さい宗次郎に飛ばされ尻餅をつく。

その瞬間。

「一本」

勝太の凛とした声が道場に響いた。

宗次郎は、ペコリと頭を下げると、防具を慌てて脱ぎ始める。

「宗次郎。本当にお前は竹刀を持ったのが始めてなのか?」

勝太が隣に来て宗次郎に尋ねた。

「はい。私は剣術を正式に習った事はありません」

宗次郎は外した防具を勝太に返して立ち上がる。

「そうか。暇ならまた来るといい。歳ならいつでもいるから」

勝太はそう言って、歳三の方を見た。歳三は手に持っていた竹刀を宗次郎に投げて寄越す。

宗次郎は訝しげにそれ受け取った。

「お前ぇこれで少しは稽古しな。せめて俺と打ち合えるようになるくれぇにな」

竹刀を眺めていた宗次郎に、歳三は言い放つ。

馬鹿にしたような言い草に、宗次郎はカチンとくる。手に持った竹刀を握り締めた。

「失礼します」

宗次郎は、そう言って頭を下げると道場を去っていった。



その場に残った歳三は、悔しそうに道場の床に両手をついている松蔵をちらりと見た。

(矜持を潰されたこいつが黙っている筈はねーな)

苦笑いを浮かべながら、歳三は防具を取る。

(まぁ、それが狙いでもあるんだが)

歳三が松蔵を相手に選んだのには訳があったのだ。実は宗次郎を苛めていた千次達の親分的な存在が松蔵である事を歳三は知っていたのだ。

松蔵は歳三の名をかたり、年下の者達をへつらわせている諸悪の根源だった。

だから一度思いっきり、悔しがらせてやりたかったのだ。

歳三は松蔵から背を向けると、勝太の元へ向かった。

「なぁ、勝っちゃん。宗次郎を連れてくるとは、どういう事だよ」

勝太の隣に並ぶと、歳三は責めるような視線を勝太に向ける。

「お前が誉めている奴がどんな奴か知りたかったのさ」

 勝太は悪びれもなく、笑いながら歳三の肩を叩いた。

「だからって、俺が防具つけてたから良かったものの。そうでなければバレてたじゃねーか」

「ははは。だからお前、上段で打ち合う事にしたのか」

勝太が笑い転げる。

「どうせ、俺の正眼は癖が強いらしいからな」

歳三は憮然とした顔で答えた。

「宗次郎にもそれが移っていたぞ」

勝太はからかうような視線を止めようとしない。それを歳三は目で咎める。

流石にやりすぎだと思ったのか、勝太は咳払いをして表情を改めた。それを感じ取った歳三は話題を変える。

「ところで勝っちゃんは、宗次郎をどう思った?」

「あいつか…あいつはお前が言う通り、化けるかもしれんな。天賦の才というものを俺は生まれて初めて見た気がするよ」

勝太は、心の底から頷いた。

「だろ?あれで剣術をやり始めて一月だぜ?」

「ああウチに欲しいくらいだ。江戸に帰ったら義父に話してみるよ」

「あいつがこれで素直に了承するといいんだが」

歳三は、曖昧に笑った。



次の日、宗次郎は歳三に貰った竹刀を腰にさしてタカの家へ向かっていた。

義豊に昨日あった事を一刻も早く伝えたかったからだ。歳三を目の当たりにした事や試合をさせてもらった事、言いたいことは山ほどあった。宗次郎の足取りは俄然早いものになる。

だが、タカの家に続く一本道に差し掛かった時、最近は会う事もなかった千次達が宗次郎の前に立ちはだかった。その中に首謀者である松蔵の姿はない。

「宗次郎。お前ぇ、歳三さんの機嫌を損ねたらしいな」

千次は宗次郎が足を止めたのを見はからって言い放つ。

(そうか、こいつら『石田村の歳三』の家来だっけ)

「だったらどうだと言うんですか」

 宗次郎は、あっさりいなした。

「お前ぇが生意気だから、シメロって命令が下ったんだ」

千次の言う事に宗次郎はひっかかりを覚える。

歳三ならば、家来に命令などしなくても一人で充分宗次郎をシメル事は可能なのだ。しかも歳三は竹刀を宗次郎に渡し、互角に勝負できるまでになれと挑発をかけるような人物だった。

「一つ教えてください。それを命令したのは『石田村の歳三さん』ではありませんね」

宗次郎が核心を突く。

「ああ。よく解ったな。俺達に命令したのは、歳三さんの第一の家来というお人だ」

そして、自分はその人の子分なのだと千次は自慢げに胸を張った。

「…」

宗次郎は侮蔑の目を千次達に向ける。それに煽られた千次は宗次郎を突き飛ばした。

だが、宗次郎は倒れる事なくその場に踏ん張る。

いつものように五人で囲まれても、宗次郎は怯む事はなかった。

そんな宗次郎の態度は、千次達の怒りを煽るものでしかない。

一人が宗次郎に殴りかかった。それを宗次郎は難なくかわす。やみくもに振り回すだけだった手は、静かに下ろされていた。

宗次郎が腰に差した竹刀を抜く事はない。

宗次郎は、一人一人の殺気を読む。

そして一人一人の動きを見れば、避ける事も攻撃を仕掛ける事も簡単だった。

宗次郎が避けては殴るを繰り返しているうちに、相手の息が上がってくる。

宗次郎の変わりように、千次達は自分達の不利を悟った。

「ちっ。今日のところはこの位にしておいてやらぁ」

負け犬の遠吠えを宗次郎に投げつけて、千次達は宗次郎が来た道の方向へ逃げていく。

宗次郎は、着物に付いた埃を払い、先を急ごうとした。

「宗次郎。お前ぇ強くなったじゃねーか」

道端の大木の陰に隠れていた義豊が姿を現した。

「…義豊さん、また見てらしたんですか」

 あきれたように、宗次郎は腰に手を当てる。

「まぁな通りかかったら、見知ったガキ共がお前ぇを待ち伏せするだぁ何だと言っているのが聞こえてな。見ものだと思ったわけよ」

 義豊は宗次郎の横に並び、宗次郎の背中をバシバシと叩いた。

「お蔭様でなんとか無事でした」

 宗次郎は、ツーンと横を向いて唇を尖らせる。

「でもお前ぇ何、宝の持ち腐れしてやがる」

「?」

宗次郎は首をかしげた。

義豊は、腰に差している宗次郎の竹刀を指差す。

「良いもの持ってるじゃねーか」

「これは…実は昨日佐藤道場に行ったのですが、その時に『石田村の歳三さん』に貰ったんです。まだまだ弱いから強くなって来いって馬鹿にされました」

宗次郎はそう言うと、歳三にからかわれた時の事を思い出したのか顔を顰めた。

「ふーん、そりゃちげーねぇ」

 義豊は唇の端を上げニヤリと笑う。

「だから私は強くなるんです。『石田村の歳三さん』になんか負けません。誰より強くなって私は」

 宗次郎はそこで言葉を呑み込んだ。宗次郎の言葉に義豊は首をかしげる。

「でも、だったらなんでさっきは使わなかった。相手は多勢に無勢なんだから竹刀くらい使えば良かったじゃねーか」

義豊の言葉に、宗次郎は緩く首を横に振った。

そして静かに義豊の顔を見る。

「私は武士です。私の剣は主君の為にあるもので、自分の為にあるものではありません」

「だから使わなかったって言うのか」

 義豊は心底呆れたような顔で呟いた。

宗次郎はそれに大きく頷く。そして真剣な眼差しで義豊の顔を見た。

「私は…できれば、義豊さんの為に剣を振いたいと思っています」

 宗次郎が頭を下げたのを見て、義豊はあっけにとられる。

「は?」

義豊は眼を大きく見開いた。そして宗次郎が言った事を頭の中で反芻し笑い始める。

宗次郎は、顔を真っ赤にして義豊を叩いた。

「ひ…人が真剣に言った事を笑わないで下さいっ」

「馬鹿だなぁ宗次郎。仮にも武士の子が俺みてぇな百姓に頭なんか下げるんじゃねーよ」

「え?義豊さんはお百姓さんだったんですか」

宗次郎が目をパチクリさせる。義豊は悪戯を成功させた子供のように笑い声を上げた。そして義豊は宗次郎の顔を覗き込む。

「言わなかったか?」

「聞いてません」

宗次郎は、肩を怒らせた。

「そんなに意外だったか?」

「私はてっきり名のある家の武士かと思っていました」

金を持っていて剣も強い上に礼儀もわきまえていて、上品な顔をした義豊が、まさか百姓の子だとはおもわなかったからだ。

「な?解っただろ。だから俺に言うのはお門違いさ」

そう言って義豊は苦笑いを浮かべる。

だが、宗次郎は義豊が百姓の子だと解っても引き下がる気はサラサラなかった。

「でも、剣術を習っているという事は、武士になる事を望んでいるという事でしょう」

宗次郎の真っ直ぐな視線に、内心を見透かされた義豊は言葉をなくす。義豊は幼い頃から武士になるのが夢だったのだ。

何も言わない義豊に宗次郎が追い討ちをかける。

「義豊さんが武士になった時には、私を家来にして下さい」

 一歩も引かない宗次郎に、歳三は肩をすくめた。

「…ばかな事言ってねぇで稽古しに行くぞ」

義豊は返事を誤魔化すと、宗次郎を置き去りにして歩き始める。

「義豊さん。待ってくださいよ」

宗次郎はあわてて後を追いかけた。



一方、寺へ昇る階段に腰をおろしていた松蔵は、千次からの報告を受け、臍を噛んだ。宗次郎に負けた腹いせに一泡吹かせるのに失敗したのである。

松蔵はイライラした様子で膝の上に肘を乗せた。

(何か宗次郎をぎゃふんと言わせる事はできないか)

一点を見つめ、何かに思い至った松蔵の目が怪しく輝く。

「千次。明日できる限り家来共を集めろ」

「へい」

松蔵は、頭を下げて顔色を伺っている千次達を一瞥すると、佐藤道場へ向かった。

松蔵が隙を見て、歳三が大事にしている形見の鼈甲の櫛を盗み出したのは、その日の夕刻の事である。


そして、その夜宗次郎の家に投げ込まれた鼈甲の櫛を宗次郎の姉であるミツが見つけた。

「母様。玄関先にこんな素敵な櫛が落ちていたの」

ミツは凝った作りの鼈甲の櫛を天井に翳してみせる。

「まぁ、本当ね。こんなに高価なもの…落とした方はきっと慌てていますね」

ナオは繕い物をしている手を止め、困ったように首をかしげた。傍らで竹刀をいじっていた宗次郎は、母と姉のやり取りに視線を向ける。

「あ…」

「どうしたの宗次郎」

二人は宗次郎が突然発した声に驚いて宗次郎の方を仰ぎ見た。

姉の手にしている鼈甲の櫛が誰の物か、宗次郎にはすぐに解る。

それは義豊に初めて会った時、義豊が使っていたものと同じものだったのだ。凝った作りだったから覚えていた。この女物の櫛の所為で、宗次郎は義豊を女だと思い込んだと言っても過言ではない。

「母様、姉様。私はこの櫛の持ち主を知っています」

「では、返さなくてはなりませんね」

いささか、ミツが残念そうに笑う。貧しくて高価な櫛など手に入らない宗次郎の家の事情からしてみたら、降って沸いたような宝物だったからだ。

宗次郎は、ミツからその櫛を受け取ると、懐の中にしまった。



日が変わると宗次郎は義豊に櫛を返す為、いつもより少し早めに家を出た。腰に竹刀をぶら下げて、手には大事そうに櫛を持っている。

(でも、なんで家に義豊さんの櫛が落ちていたんだろう)

そう思いながらも、どこか暢気な宗次郎は、何かの拍子に紛れ込んだのだろう位に思っていた。

今日教えてもらえる技はどんな技だろうと心を躍らせる宗次郎の足取りは軽い。

だが、道の先に見知った人物を見つけ、宗次郎がうんざりしたように肩を落とした。

千次達がまた、凝りもせず待ち構えていたのだ。しかも今度は人数が半端じゃない。

二十人は軽く超えているようだった。中には宗次郎よりもかなり年上の者まで含まれている。

宗次郎が相手にしていられないと、無視して通り過ぎようとした時だった。

「おい、盗人。おめぇ歳三さんの大事にしている櫛を盗みやがったな」

千次が声を荒げる。首謀者である松蔵は後ろの方で腕を組んで見ていた。

 盗人呼ばわりされては黙っていられないと、宗次郎は歩みを止める。

「私は何も盗んだりはしていません」

「ならその手に持った櫛はなんだっていうのかな」

後ろにいた松蔵が、意地悪そうに宗次郎に言った。

「お前ぇみたいな貧乏人が持てる物じゃねーだろ」

「そうだそうだ。大方、歳三さんに馬鹿にされた腹いせに、歳三さんの大事なものを盗んだんだろ」

「今から、売りにでも行こうって思ってたんじゃねーのか」

口々に罵声を浴びせられても、宗次郎は微動だにしなかった。

「これは、義豊さんの櫛です。何故か私の家にあったので今から返しに行く所なんです」

そう言うと宗次郎は、松蔵達を無視して歩き始める。

「待ちなよ。本当にそれが義豊っていう人の物なのか歳三さんに聞いてみれば解る事だ」

松蔵が宗次郎を呼び止めた。宗次郎はゆっくり頷く。

「それほど言うなら、聞いてみればいい。これは義豊さんのものですから」

宗次郎は、二十人に囲まれながら、佐藤道場で連れて行かれる事になった。

松蔵が一人先を歩き、母屋に歳三を呼びに行く。

宗次郎を含めた他の者は、誰もいない道場に全員で上がり、歳三が出てくるのを待つ事になった。

廊下を歩く足音が耳に届き、宗次郎は戸口に目を動かす。

千次もはじめて見る歳三に、緊張しているのか唾を飲み込んでいた。

「おう松蔵か。俺に用ってのは」

歳三の声が廊下の向こうから響いてくる。

その声に、宗次郎は耳を疑う。聞きなれた声だったのだ。宗次郎の心臓は高く脈打った。

そんな筈はないという心と、やっぱりそうだったのかという思いが飛来する。

宗次郎は歳三が道場に入ってくるのを見て息を呑んだ。

歳三もそこに宗次郎の姿を認めるや否や瞬きも忘れたように目を見開いていた。

二人の間の時間だけがゆっくり流れる。

(義豊さんが、歳三さんだったんだ)

宗次郎は、体の力が抜けていくのを感じていた。

千次達は、歳三の優男っぷりにあっけにとられている。吹けば飛びそうなこの男が、噂の石田村の歳三だという事が皆信じられないのだ。

宗次郎と歳三だけでなく、誰も口を開こうとはしない。

沈黙を破ったのは、松蔵だった。

「歳三さん。こいつが歳三さんの大事にしている鼈甲の櫛を盗みました」

「…へぇ?」

歳三の目が松蔵を見てキラリと光る。その鋭さに松蔵は左右に視線を泳がせた。

「宗次郎。君が持っている櫛を見せてやれよ。君が言う通りそれが義豊っていう人のものなのかどうか」

松蔵は、宗次郎を呼び寄せる。名を呼ばれた宗次郎は立ち上がった。

義豊が歳三だというなら宗次郎の手に持っている櫛は歳三のものだという事なのだ。

宗次郎が盗んだと言われても仕方がない。だが宗次郎は歳三の前に立ってそれを手渡した。

歳三は宗次郎の目を静かに見る。宗次郎もその視線をそらしはしなかった。

「ふん。確かに俺のだ」

「やっぱり、宗次郎の奴が盗んだんじゃねーか」

千次が声を張り上げる。宗次郎はぎゅっと拳を握り締めた。

「私は、何故か家の玄関に転がっていたそれを義豊さんに届ける為に持っていただけだ」

宗次郎は、歳三の顔を見て言う。歳三は目で頷いた。だが歳三は黙っているだけで言葉を発しない。

宗次郎がガクリと項垂れた。

それを見て松蔵は口角を上げる。

「君それがどんなに大事なものか解っているのか?歳三さんの母上の形見なんだよ」

松蔵が宗次郎を追い詰めるようにほくそえんだ。

そこまで聞いて、歳三は口を開く。

「なんでこれが俺の大切なものだって宗次郎が知っているんだ?」

「あ…」

松蔵が顔色を変えた。

「しかも貧乏なこいつが、わざわざここまで来てこれだけ盗んでいくっていうのも妙な話だ」

「…」

松蔵は唇を震わせる。

「…まぁ、そんな事ぁどっちでも良いさ」

歳三の言葉に、松蔵は安堵の息を漏らした。

宗次郎は、歳三の真意を読み取ろうと、歳三の目の奥を覗き込む。

歳三は宗次郎の目を見て不敵に笑った。

「俺は、勝った方の言う事を信用する事にする」

そう言って、歳三は千次達にも竹刀を投げて寄越す。

思わぬ好展開に松蔵は、ポカンと歳三を見た。

多勢に無勢で宗次郎を叩いても良いと言うのだ。下手をすれば歳三に滅多打ちにされているのは松蔵の方だった。あまりの形勢逆転に松蔵は浮かれる。そして、松蔵はこれに乗らない手はないと竹刀を握る手に力を入れた。

千次達が竹刀を物色している中、宗次郎は歳三をじっと見ていた。

「なんだ?宗次郎、これで家来になろうなんて思わなくなっただろ?大体俺はガキの喧嘩に首を突っ込むのは趣味じゃねーし、家来なんて持たねー主義なんだ」

歳三は、いけしゃあしゃあと言いはなつ。

(やっぱり、松蔵って人や千次達は家来じゃなかったんだ)

 宗次郎は、歳三を見る。騙されていたのにもかかわらず、不思議と宗次郎の中に怒りは浮かんでは来なかった。心のどこかで解っていたのかもしれない。義豊が歳三だとしても、宗次郎が仕えたいと思う気持ちに変わりはなかった。

「義豊さん…いえ歳三さん。歳三さんは私に戦えと言いました」

「ああ?言ったぜ」

「勝った方の言う事を信じる。それは私に、あいつらをブチのめせと言っているのですか」

 宗次郎は歳三の腹の内を読んだ。歳三の目が光る。

「…お前じゃ無理か…」

歳三は独り言のようにポツリと呟いた。

その一言を聞いて、宗次郎の思いは確信に変わる。

歳三は始めから宗次郎を信用していたのだ。信頼していた上で、千次達とケリをつけさせる為にこの場を設けてくれている。それが解り宗次郎は歳三に心の底から笑いかけた。

「歳三さん。勝ったら家来にしてくれますか」

「お前ぇ『石田村の歳三』の子分には死んでもならねーて言ってたじゃねーか」

歳三は意地悪そうに笑う。

「あの時はあの時。今は今です。勝ったら考えてくれますか?」

「…ふん。考えてやるよ」

歳三はしぶしぶ頷いた。それを見た宗次郎は舞い上がる。

「約束ですよ」

宗次郎はそう言って、二十人からなる連中を相手にする為に竹刀を構えた。

歳三は、宗次郎が打ち合っている様を道場の隅で黙ってみている。

大勢の人数との打ち合い等した事がないというのに、宗次郎は持ち前の反射神経の良さで、そのコツを体得していた。

千次達のように剣術を習った事がない連中は、宗次郎と竹刀を交える事なく一方的に打ち込まれる。力加減を知らない宗次郎は、強かに打ちつけた。気絶する者を目の当たりにして、千次は青くなる。

「千次さん。どうしますか。早く終わらせたいのですが」

 宗次郎は息を乱すことなくニッコリ笑った。その無邪気な顔に千次は恐怖を覚える。

「つっ。来るな」

千次は闇雲に竹刀を振り回した。だが宗次郎が一撃加えただけで、千次の持っていた竹刀は床に吹き飛んでしまう。

千次は、あまりの怖さに腰を抜かして、尻でずり下がるようにして道場から逃げ出した。

「次は誰ですか?」

宗次郎が振り返ると、残っていた者達は一目散に竹刀を放り投げ逃げ去っていく。根が脅されて子分になっていた者が多いだけに結束は脆い。

残ったのは、結局松蔵一人だった。

「宗次郎。今度は前のようにはいかない」

松蔵は、気を引き締め宗次郎に向き直る。宗次郎も同じように正眼に構えた。

大勢を相手にしている宗次郎に対して、松蔵は今構えたばかりである。圧倒的に宗次郎の方が不利な状況であった。

一度、宗次郎が勝てたのは松蔵の油断に他ならない。宗次郎は、疲れて下がってくる腕を必死で持ち上げ考えた。

面を狙うのは、背の低い宗次郎では圧倒的に不利である。だからといって胴を狙えば、宗次郎の面が空いて同様の理由で松蔵に打ち込まれるのが関の山だった。

ならば、小手か突きしか宗次郎には残されていない。宗次郎は松蔵の目の奥を見た。

松蔵は用心してか撃ってくる気配はない。

(なら、私からいくまでだ)

宗次郎は、突きを打って出た。松蔵はそれを間一髪かわす。だが、松蔵が立て直す前に、二の太刀を宗次郎は打った。

「何っ!あんな素人が二段突きだと?」

今まで状況を見守っていた歳三が、思わず声を上げる。

松蔵はあまりの速さに、宗次郎の動きについていけない。防具をつけてない状態で突きを食らい、松蔵はその場に昏倒した。



歳三は、宗次郎を顎でしゃくり表へいざなう。

昏倒している者達を捨て置いて、二人は道場の庭へ出た。

「歳三さん。これで私を家来にしてくださいますね」

宗次郎は、にっこり微笑んだ。

「ばーか。俺はお前ぇを家来にするだなんて言ってねーよ」

「えーだって、先ほど勝ったら考えてやるとおっしゃったじゃないですか」

宗次郎は地団駄を踏む。歳三は宗次郎のデコをピンと弾いた。

「考えてやるとは言ったが、家来にしてやるとは言ってねー」

「そんなぁ」

宗次郎は情けなさそうに眉を下げる。

「別に家来になんてならなくても良いじゃねーか」

「良くありません。私は歳三さんの家来になるって決めたんです。だから先ほども竹刀を使ったっていうのに」

宗次郎は鼻息も荒く言い放った。言い出したら聞かない宗次郎に歳三は天を仰ぐ。

「なんで、そこまでなりたいって思うんだ」

「なんでですって?犬だって餌を貰えば、その恩は忘れません。まして私は武士の子です。私は歳三さんにどれくらいの事をしてもらってると思うんですか」

「はっ。俺は何もしてねーよ」

 歳三はうすら惚けてそっぽを向き歩き始めた。

それが歳三の照れ隠しだという事に気付いている宗次郎は、後を追いかけて歳三の前に素早く回りこんだ。

「剣を教えてくれたのはあなたです」

「うっ…憂さ晴らしだって言っただろうが」

突然目の前に現れた宗次郎に面くらいながら歳三は宗次郎から目をそらした。

「飯を食べさせてくれたのは誰ですか」

「俺じゃねーおタカさんだ」

歳三は苦しい言い訳をする。

「では竹刀をくれたのは誰ですか」

「あれはお前ぇをからかっただけだ」

「でも、そのおかげで私は家でも本格的に素振りをする事が出来るようになりました」

宗次郎は逃げを打つ歳三を逃がすまいと追い込んだ。

 歳三は言葉を詰まらせる。

「勝ったら家来になる事を考えてくれるとおっしゃいましたよね。だったら考えてください」

宗次郎は歳三に詰め寄った。

「…お前ぇが俺から一本でも取れるようになったら認めてやるよ」

「えぇー」

宗次郎が弱音を吐く。義豊だと思っていた時ならいざ知らず、宗次郎は歳三の実力を目の当たりにしていた。歳三は死ぬほど強いのだ。そう簡単に勝てる相手ではない。宗次郎はガクリと頭を垂れた。

「俺より強くない奴に後ろを任せられるかよ」

歳三が、一本取ったとばかりにニヤリと笑う。

「いつか…勝ってみせます」

 宗次郎は挑むような視線を歳三に向けた。それを歳三はからかう事なく受け止める。

「そのいつかを早くする事は出来るぜ?」

「え?」

宗次郎がその言葉に目を輝かせた。

「勝っちゃんが、お前ぇの腕を見込んでな、本格的にやってみないかって言っている」

「勝太さんが…?」

天然理心流の後継者である勝太が見込んでくれたのだ。宗次郎の鼓動は早くなる。確かに本格的に教えを請えば、自己流の歳三よりも強くなれる可能性はあるのだ。だが、宗次郎の家には、剣術を習う事に費やす金はない。

宗次郎の顔が暗くなったのを見て、歳三は続けた。

「勝っちゃんは、お前を江戸の道場の食客として招きたいって言ってるぜ?」

「食客…」

食客というのは居候のようなものなのだ。勿論金はいらない。宗次郎が一人いなくなれば、沖田家も楽になり一石二鳥だった。剣術を習いに行くという事ならば、ナオもさぞ喜んでくれるに違いない。

だが、宗次郎はこれ以上歳三に世話をかける事へ申し訳なさを感じていた。

「馬鹿だなぁ宗次郎。ゴク潰しになるのが嫌なら、向こうに行って下働きでもすればいい話じゃねーか」

「あ…」

宗次郎は俯いていた顔を上げる。

「それとも何か?母ちゃんのおっぱいがないと眠れねーってのか?」

「そ…そんな事ありません。早速帰って母様にお話します」

「ああ」

「見ていてください。すぐにでも歳三さんより強くなって家来にしてもらうんですから」

宗次郎はそう言って、作り笑いなどではない腹の底からの笑顔を歳三に向けた。




◇◇◇




あれからもう何年たったのだろう。布団の中で総司は指を折って数えた。

試衛館に食客として入り、宗次郎が十七になった頃。歳三から宗次郎は一本取る事が出来た。

それから数年後、浪士隊の募集に加わった事で、晴れて武士になった歳三の家来に宗次郎はなれたのだ。

京では、新撰組として名をあげ、歳三の右腕として存分に働く事が出来た。

(もう…それで充分じゃないか)

総司は瞑っていた目を開け自嘲する。

死ぬのなら、歳三の為に死にたかったと総司の心が悲鳴をあげていた。

(私のような足手まといは、いたら土方さんの迷惑になる)

総司の中にある歳三の家来であるという誇りがそれをさせない。

一人、千駄ヶ谷に残された総司は、相反する思いに苛まれ、孤独感に押しつぶされそうになっていた。

その時である。障子が遠慮気味に開かれた。

「沖田さん。お客さんだよ」

雅が声をかける。障子の向こうにはもう一人、人間の影があった。

「入ってもらってください」

総司は、布団から体を起こして、声をかける。

しばらくして入ってきたのは、ついて行きたいと切望し、それがかなわなかった相手だった。

「…どう…して…」

総司は笑うのに失敗する。

「ばーか、お前ぇ。まだ笑う癖が抜けてねーのか」

その人物は、初めて会った時と同じ事を言った。

長かった髪は、短く切りそろえられ、淡い色の着物だった服が洋装になっていた。どれだけ見かけが変わっても変わらない歳三に、総司の胸は熱くなる。

(そうだ。この人は、いつもこうして私が辛い時にどこからともなく現れて、さりげに手を差し伸べてくれる)

「土方さん。今日はどうしたんですか」

本来ならば江戸に歳三がいる筈はないのだ。下総流山に転陣していると総司は聞いていた。いる筈はない歳三の訪れに、総司は戸惑う。

「ちょっと野暮用でな。そのついでにお前ぇがしょげてねーか見にきたって訳だ」

歳三はそう言って、総司に包みを渡した。

総司はそれを開ける。包みの中には、百両もの金子が入っていた。

「土方さん…これは」

「これは、お前ぇに渡す軍資金だ」

「え?」

総司は金子と歳三を交互に見比べる。

「俺はまだ、お前ぇをあきらめちゃいねーって事だ。幕臣共は江戸を薩長に明渡すつもりみてぇだが、俺達はこれから会津に転戦する。お前ぇはさっさとその体を治して追いついて来い」

歳三はそう言って不敵に笑った。

「土方さん」

総司は金子を握り締める。総司自身でさえ諦めていた体を歳三は諦めてないというのだ。

「病は気からって言うだろ?俺の家来なら気合いで治せ」

「解りました」

総司はこみ上げてくるものを必死で呑み込む。

「じゃあまたな。待ってるぜ」

歳三はそう言って立ち上がった。別れの挨拶ではなく、『またな』と言う言葉が総司を救う。

「すぐに追いつきますから待っていてください」

総司は手を振って歳三を見送った。

だが歳三の消えた後、総司はある事に思い至る。

歳三が野暮用と言った用事。

(今日、幕軍の大物が薩長に捕らえられたって…)

総司の頭に雅から聞いていたそれがよぎった。自分の師であり、歳三の盟友でもある勇(勝太)の顔が総司の前をちらついて離れない。

総司は首を振った。

(もしかして、土方さんが江戸にいたのは近藤先生を救出する為?)

総司の中の疑問が確信に変わる。

それなら、歳三が江戸にいる理由も合点がいった。歳三は、あの時ここにいる理由を誤魔化した。それは病人の総司を煩わせたくないからだろう。

ならば、今辛いのは歳三だ。総司は弱気になっていた自分を恥じる。

(私はこんな所で寝ている場合ではない)

 総司は布団を握り締めた。


そして、五月も末になったある日。

総司は部屋に雅を呼びつけた。

「お雅さんに最後のお願いがあります」

総司は、いつになく真剣な眼差しで雅を見る。

「最後って、縁起でもない事いうんじゃないよ」

雅は総司に嗜めるように言った。総司は曖昧に笑う。そして耳を貸してもらうと総司は雅に何言か呟いた。

「そんな事したら…おミツさん達が悲しむじゃないか」

 雅は総司の言った事に涙ぐむ。

「良いんです。私が死んだらお通夜などせずさっさと夜中に埋めてくださいね。早く自由になって私は一刻も早く会津へ行きたいんです」

「沖田さん…解ったよ。それが沖田さんの選んだ事だってんなら、あたしは協力を惜しまないよ」

「ありがとう。今日は体の調子が良いみたいだから少し寝ます」

総司はそう言って静かに目を閉じた。

その顔には子供のような笑みが浮かんでいる。

作り笑顔などではない本当の笑顔が。


総司が息を引き取ったのはその日の夜だった。雅は総司に言われた通り、夜中の間に棺桶を埋めた。

それで、新撰組一の剣客と言われた男の一生は幕を閉じたのである。


総司は自由の身になって、歳三に追いつく事が出来たのだろうか。

それを知る者はいない。


だが、次の日。

どこを探しても愛刀菊一文字は見当たらなかったという。


***



「沖田総司って、土方に会えないまま死んじゃったのかよ」

 縁側に群がった子供の一人、ケイタが、今まで話をしていた男に鼻をすすりながら言った。

「さぁな」

男は昔を思い出すように目を細めながら曖昧に答える。

「でも、菊一文字は出てこなかったんだろ?」

総司を死んだと思いたくないケイタは男に詰め寄った。

「あの刀が菊一文字だって言ったらどうする?」

男は、部屋の奥の刀掛けにかかっている刀を顎でしゃくってにやりと笑う。子供達の視線が、日の入らない部屋の奥へと一斉に向けれらた。そして子供達はゴクリと唾を呑む。そこに掛けられている刀が、妙に説得力のある物だったからだ。

「…本当なの?」

 ケイタが恐る恐る尋ねる。

「ははは。お前ら、人を簡単に信用するなって、母ちゃんに教えられなかったか?」

「高野さん。酷いー」

子供達の真剣な顔に、男は笑い声を上げた。

明治十二年。

東京板橋にあるとある民家の縁側での事である。

近代化も随分進み、江戸から東京に改められて数年が経ち。人々が新しい生活にようやく慣れてきた、季節は梅から桜に移ろうかという日の事。

板橋宿のどこにでもあるような平屋建てに住んでいる男は近所の子供達にせがまれ昔話をしていた。

その男の名を高野彌七郎という。

高野は、話にのぼっている近藤勇の身内で、数年前に新選組局長の近藤勇と副長の土方歳三の名前を連ねた慰霊碑を建てた人物だった。

京では悪名を馳せた新選組も江戸では幕末を彩った英雄である。敵対していた新政府へ手前、表立って口には出さないものの、ここに住んでいる住民達は、明治2年頃移り住んだ、近藤の縁者である高野を暖かい目で歓迎していた。

子供好きな高野に加え、今は出かけていていない同居人も子供といえば構わずにいられないほどの子供好きだったので自然、近所の子供達はこの家に集まるようになったのだ。

子供達はこぞって高野の家を訪れては、赤穂浪士の話を聞くように、新選組の話を聞きに来る。

「なら沖田総司が信望した土方歳三っていう人はどんな人だったの?」

縁側に腰掛けて草履をぶらぶらさせていたスズが高野の袖を引いた。スズは赤いほっぺを高野に向ける。洋服を身につけた高野がスズの頭に手を差し伸べ撫でてやる。

「私知ってるよ。凄く凄く良い男だったんだって、お母ちゃんが言ってた。高野さんとどちらが良い男なのかなぁ」

「おみよちゃんはオマセだなぁ。将来男泣かせな子になるぞ?」

高野は苦笑いを浮かべながら、廊下で正座をしているミヨのデコを軽くこづいた。

かくいう高野も相当の良い男で、見かけ三十をちょいと超えた位の上品な顔立ちは、近所の女どもが黙ってはいないほどである。ミヨは優しくて色男な高野が大好きだった。

「あ…おいらも父ちゃんに聞いたことある。土方歳三は最後の武士だったって」

ガキ大将の三郎がそう言って胸を張った。

「三郎。土方歳三は最後の武士なんかじゃねーぞ」

 高野はクスリと含み笑いをして三郎に視線を送る。自信満々だった三郎は納得がいかずに高野に詰め寄った。

「でも、父ちゃんは最後まで武士として戦って潔く死んでいった立派な人だって言ってたぞ?」

「立派か…。そうだな。今度は土方歳三について話してやろう」

高野はそう言って、静かに目を閉じた。身内である近藤達と過ごした日々を思い出すように。



           ***



歳三は、いわゆるバラガキ。今で言う悪がきと言われる手のつけられない子供だった。

子供達の先頭に立ち、隣村の子供達と喧嘩をしたり、徒党を組んで柿を盗ったり、神社の賽銭箱の中身を盗ったりは当たり前の。武州石田村ではちょいと有名な暴れん坊である。

だが、ひねくれた悪かと言えばそうではなく、歳三はスジの一本通った子供だった。弱い者を苛める事は絶対せず、喧嘩をする相手は、あくまで年上の者に限られていた。しかも喧嘩をしても歳三達が負けた事は一度もない。

歳三はそんな中で、毎日遊び悪戯をしては幼少時代を送っていた。

だが、ある日歳三の将来を変えるような小さな事件が起こったのである。


「なんだ?」

歳三はその日、村の子供達と遊んだ帰り道、足元に転がってきた芋に気付いて足を止めた。そして、点々と散らばった野菜の先にあるものを見て眉をひそめる。

武士の子供と思われる身なりの二人が、一人の少年を囲んでいたのだ。

地べたに這いつくばっていたのは年の頃、十をを越えたか越えないかの歳三と同じ年位の野菜売りの少年だった。

(ちくしょう弱い者苛めをしてやがるな)

あきらかに、武士の子供の方は、歳三よりもニ・三は年上で体も大きい。おまけに一丁前に刀も差している。人数が多ければ歳三だってびびりはしない。作戦の立てようもある。だが、歳三一人では直接助けるより他はないのだ。

台所から拝借し、玩具にしていた包丁で、指をちょいと切った時でもかなり痛かったのを歳三は思い出す。刀で斬りつけられたらその何倍も痛いであろう事は想像にたやすくて歳三は眉をひそめた。

だが、弱い者が苛められているのを見て黙って通りすぎる事は歳三の性格が許さなかったのだ。

歳三は自分に気合を入れる為、両頬をぴしゃりと叩くと、そこへ足を向ける。

「堪忍して下さい。これを渡したら、おら達の生活が…」

少年が、必死で袋に入った売上を渡すまいとしている。

「うるせー。俺様達が使ってやろーって言うんだから、大人しく寄越せばいいんだよ」

 武士の子供の一人。赤ら顔の方が、力任せに袋を取り上げて、せせら笑った。

「ちぇ…しけてやがる。これじゃ春画本すら買えやしねぇ」

団子鼻の方が袋の中を覗きこんで、金の少なさにケチをつけた。

「返してくれよぉ。これがないと明日の食べ物も買えねーんだ」

涙ながらに訴える少年を二人は蹴飛ばしてその場を去ろうとした。

歳三はそれを目の当たりにして、我慢できなくなる。農民の生活がどれだけ苦しいか、歳三は知っていた。歳三の家は幸い豊であったので食べるのに困った事はない。だが一緒に遊ぶ村の仲間が、食べ物にありつけない時もある事を目の当たりにしている。そんな少年が死にものぐるいで稼いだ金をこの武士の子供達は取り上げ、自分の遊び代にしようとしているのだ。

歳三は腸が煮え繰り返るのを感じた。そして頭一つは大きい二人を睨みつけた。

「てめぇら。コイツに金を返しやがれ」

「なんだ?このチビは」

赤ら顔の少年が、歳三を見て片眉を上げる。いかにも弱そうな歳三を馬鹿にしているのがありありの顔だ。

歳三はそれを綺麗に無視した。そして、少年の元にしゃがみ込んで、少年のつぎはぎだらけの着物に付いた泥を払ってやる。

「今、取り返してやるから」

「え…でも、こいつら刀を…」

少年は、自分よりも下手したら小さい歳三の言葉が信じられないと言った風に泣くのをやめた。口調さえ荒くなければお雛様のように見えるような歳三が、気丈に振舞うのが少年には信じられなかったのだ。

戸惑う少年に向かって歳三は小さく頷いて、武士の子供達を睨みつける。

「てめぇらのやった事は、追い剥ぎか泥棒だ」

歳三は両手に一杯の砂をさりげなくかき集め、二人に負けじと立ちあがった。

「お前。百姓の分際で、俺達を愚弄するのか」

頭に血が上った団子鼻が刀を抜こうする。それを目に止めた歳三は、両手に持った砂を思いっきり二人の顔に投げつけた。

「うわ…何しやがる」

目潰しを食らった二人は、両手を刀から外し、必死で目を擦った。当然手に持っていた袋も地面に落ちる。歳三はそれを拾い上げて、少年に渡した。そして、相手が復活するより前に、歳三は二人の足を思いっきり蹴飛ばす。

「いっ」

しゃがみ込んだのを見計らって、歳三は少年の手を掴むと一目散に走り出した。逃げ出すのは尺に触るが刀を持っている相手にかなうわけはないのだ。刀を自分に向けられた時、歳三は心臓がキュっと縮みあがるのを感じた。どんなに棒っきれで叩きあいをしてもこんな事はなかったのにだ。歳三は内心で悔しさを噛み締めた。

二人が、追って来ない所まで逃げた所で、歳三は少年の手を離す。

「良かったな。お金取られなくて」

「うん」

 息を切らせた少年は、嬉しそうに頷いた。

「でも、売り物は台無しか」

「良いんだ。ありがとう。でもよく、あいつらを怖くなかったね。刀持ってたんだよ?」

「怖いにきまってらぁ。心臓が今だって踊ってやがる。でもだからって泣き寝入りするのは間違ってるだろ」

そう言って歳三は額に浮かんだ汗を拭う。

「でも…」

「侍の子なんて奴ぁは、銭がふって沸いてくると思ってやがる」

そんな奴らに、お前が必死で働いて稼いだ銭を渡す事はないと歳三は続けた。

「そうだね。でも…お侍は特別だから」

少年の諦めにも似た言葉に、歳三は胸の中がモヤモヤするのを感じていた。

歳三は家に帰るや否や、兄の為二郎の部屋に転がりこんだ。そこに為二郎の姿を見つけると歳三は当然のように兄の膝の上によじ登る。

「どうしたんだい歳三喧嘩で負けでもしたのかい」

「違うよ為兄ちゃん…俺」

一端言葉を切って歳三がどこか悔しそうに唇を噛んだ。

「なんだい?」

「なぁ侍をやっつけるにはどうしたらいい?」

「…歳三は侍が嫌いなのかぇ?」

「大っ嫌いだ。あんな偉そうな奴らっ」

為次郎は歳三の腰に手を回してやる。

「そうだなぁ。侍をやっつられるのは侍しかないだろうなぁ」

開けっぱなしにした襖から西日が部屋を照らして、二人の顔を橙色に染めている。

 歳三は眩しそうに片目を瞑りながら続けた。

「なら俺、大きくなったら、侍になる」

「は?」

為二郎の見えない目が大きく見開かれた。農民の家に生まれた者が侍になる事など、天地がひっくりかえっても無理な時代なのだ。村の人からいくらお大尽と言われる程、裕福な豪農の家に生まれたからといっても農民は所詮農民である。

やんちゃな末っ子の突拍子もない一言に、為二郎は微笑ましげな笑みを浮かべた。

「歳三が侍になるのかい?」

 膝の上に座った歳三の頭を軽く撫でながら、為二郎は笑顔を絶やさずに歳三にたずねた。

「うん」

 歳三は元気に頷いた。

「侍になってどうするんだい?」

「侍になって、弱い奴らを守るんだ。本当は侍なんて大嫌いだけど、侍をやっつけられるのが侍だっていうなら俺は侍になる」

 胸を張って言う歳三に、為二郎は愛好を崩した。

「そうだね。なれるといいな」

「うん絶対なる」

『なりたい』のではなく、『なる』と言いきる歳三を為二郎はぎゅっと抱きしめた。


 弘化ニ年(1845年)、歳三が十一歳の頃。

「上野の呉服屋へ奉公に上がれ」

次兄の喜六に言われたのは、すぐ上の姉であるノブが、嫁いで少ししてからの事であった。


歳三はその日、外でちゃんばらごっこをして、帰ってきたところだった。井戸で埃だらけの足を洗って家に入ろうとしたところを喜六に呼びとめられた。

「歳三。すぐに俺の部屋に来い」

「げ…喜六兄。わ…わかった」

兄弟の中でもとりわけ厳しい喜六の呼びとめに、歳三はギクリと肩を震わせた。

部屋の一番奥には喜六が、斜め横には為二郎が座っていて何やらただ事ではない雰囲気だった。

歳三は内心で、着物を汚してきた事を叱られるのかと思って肩を竦めた。

だが、話の内容は歳三が想像もしてなかった、奉公の話だったのだ。

歳三の口がへの字に曲がる。

自分が侍になりたいことは、為二郎も知っている筈なのにどうして…と、歳三は為二郎を睨みつけた。

睨みつけられたのが気配でわかるのか、為二郎は苦笑して言った。

「良い話なんだよ?歳三。行っておいで」

「やだ、俺ぁここにいて侍になるんだ」

商人になるのなんか、まっぴらだと言わんばかりに、歳三は、反抗する。

「何夢みたいな事ばっか言ってんだ」

 喜六は、両親を早く亡くしたこの末弟を心配していた。

食扶ちに困る程、土方家は貧乏な訳ではない。

むしろ遊んで一生暮らせるくらいの貯えはある。だが、末っ子の歳三が家を継げるわけではないのだ。

だから喜六は先を考えて、歳三を奉公に出す事にした。

 その点、いとう呉服店といえば江戸でも一・二を争う大店で、そこに奉公に上がれば歳三の将来も約束されたものなのだ。

何も、歳三が憎くて言っている訳ではないのに、聞き分けない歳三に喜六は苛立ちを隠せないでいた。

「行くんだ。もう決めたんだからな」

「やだったらやだ。俺ぁ絶対いかねぇ」

頑として、首を縦に振らない歳三を見て、喜六は大きく溜息を付いた。煙管に手を伸ばして吸い始めたのを匂いで感じた為二郎が助け舟を出す。

「歳三は侍になりたいんだよな?」

「うん」

歳三の目が輝く。為二郎が自分の味方をしてくれると思ったからだ。だが、為二郎の口から出た言葉は歳三の思っていた言葉と違うものだった。

「なら…我慢する事を覚えなきゃいけないって事だ」

「…我慢する事がいるのか?…」

歳三は、訝しげに為二郎を眺めた。

「武士は食わねど高楊枝って言葉があるくれぇだ。我慢が出来なきゃ話にならねぇ。それに学問もできなきゃな」

「学問…」

 歳三の瞳が揺れる。

「そうだぞ?歳三。いとう呉服店に行けば、お侍さんだって沢山来るんだ」

歳三の迷いに便乗したように喜六が言う。

「でも、俺ぁ商人になりてぇ訳じゃねぇ」

 下を向いてしまった歳三の近くに為二郎は座りなおすと歳三の頭を撫でた。

「人生無駄な事なんか何もないんだぞ?」

「無駄じゃない?」

「そうだ無駄にするかしねぇかは、自分次第だ」

「自分次第なのか?」

 歳三は、為二郎の言葉を復唱した。

「自分のやりたくねぇ事だからってふて腐ってやりゃあ何にもならねぇが、どんな事でも無駄にせずに吸収すれば、いずれ必ず自分の役に立つ時が来るもんだ」

「そう…なんだ」

為二郎のその言葉が歳三の中の何かに触れる。

奉公に出る事は、歳三にとってみれば、意味のない事だと思っていたのだ。

だが為二郎は奉公の中からでも将来の為に得られる物があるという。

意味のないものにするもしないのも歳三次第だと。

歳三は少し考えた後、思い切るように顔を上げた。

「解った…奉公に行くよ」

 そう言った歳三の顔は、ばらがきと言われる童の顔を卒業していた。




「歳三…ちょっと聞いても言いかい?」

 番頭の吉兵衛が、客足がいないのを見計らって、店先の掃除をしている歳三を手招きした。

「なんですか?番頭さん」

慣れない敬語で、歳三は返す。

日野の石田村から江戸に出て来たその日のうちに、直されたのは言葉や行儀だった。

居住いを正して歳三は番頭の次の言葉を待った。

「この反物なんだがね、二朱と値段を安くしても中々売れなくて困ってるんだよ。お前ならどうやって売るかね」

「俺なら?…」

歳三は、同年代の丁稚達が固唾を飲んで様子を伺ってる中で、首をかしげた。

同年代の丁稚達は、売れない物を売るなんて、そんなの無理に決まっている…と言わんばかりの顔で状況を見守っている。

だが歳三は、頭の切れる子供だった。

それをいち早く見抜いた番頭の吉兵衛は、歳三の機転の良さを誰よりも買っていた。

当然そうなれば、同じ年頃の丁稚達よりも歳三は可愛がられる事になる。

吉兵衛にだって、贔屓をするという事が、決していい事ではないという事は解っていた。

だが表立っての贔屓はしてないつもりでも、人形のように色白で可愛らしい上に、覚えも良く機転もきく歳三を吉兵衛は、つい気がつけば贔屓してしまうのだ。

実際、歳三の任されている仕事というのは、庭先の掃除や小さな雑用くらいのはずなのだが、吉兵衛は時々こうして歳三に商売の案を求めたりしている。

「そこの棚に並べてある人気のある反物っていくらを付けて売っているんですか?」

「三朱だが?」

何故そんな事を聞かれるのが解らないと言った風に、吉兵衛は答えた。

「俺なら、その反物を一本四朱に値上げをして、二本買ってくれたお客さんにただであげます。そうすれば、お客は得をしたと思うし、こちらも損は出ない」

「なるほど…それは良い考えだねぇ。二朱なら損したって思う客もただで貰えるとなれば話は別だろうからね」

 吉兵衛は、歳三のかしこさに目を見張る。

同年代の丁稚達は、憧れの入り混じった視線を歳三に向けていた。

だが、それを面白くないように見ている者もある。

それが先輩の手代達だった。

いとう呉服店は年功序列な上に、決められた制度で昇進していくので、実力はなくても手代だという輩は沢山いたのだ。

出来る人間は嫉妬される。出る杭は打たれるという訳だ。

それは、歳三に限っても例外ではなかった。

突出した才能や容姿は、普通なら賞賛されるべきものだ。だが、時としてその如才のなさが仇となる事がある。

集団生活において、一番下の地位にある歳三の場合がまさにそうだった。

出来る上に、見目も麗しければ、当然番頭達が可愛がる。可愛がれば可愛がるほど、手代達の感情は割りきれなくなってくる。

歳三の人形のようにと言われる整った容姿が、手代の威信を傷つけることに拍車をかけていた。

手代の中でも大人げない者は、何かにつけて、歳三のする事に文句を付け、大変な仕事ばかりを回して意地悪をした。だが、歳三は文句一つ言わず淡々と仕事をこなしていった。

毎日がそれの繰り返しである。

歳三は内心では、こん畜生と思っていた。

だがそこはそれ、為二郎に言われていた、「侍になるには我慢を覚えろ」という言葉が頭に残っていた歳三にしてみたら、堪える事が侍になる為の修行だと思えば痛くもない。

それに、歳三は仕事をする事自体は嫌いではなかった。

沢山の人間を見るには良い機会だったし、侍も店にはよく来るので歳三は、この店に奉公に来た事をそれほど後悔はしていなかった。

嫌な相手はいるが、相手にしなければいい。

そう思っていたからだ。


だが、いくら歳三の方が相手にしなければと思っていても相手が黙っていてはくれない事もある。

飄々と何でもこなしていく歳三を良しとしない手代の一人又吉がまさにそういう行動に出た。

「歳三…水を撒き終わったら、ちょいと使いに行ってくれ」

「どこに行けば良いのですか?」

 水を撒き終わり、濡れた手を前掛けで拭いた歳三は、店内に戻る。

又吉は、藍染めの着物を風呂敷につめ、書状を上にのせて歳三に手渡した。

「浅草の旗本である江川様の家だ、九つまでに持ってきて欲しいとの事だ。時間に遅れるのを嫌う気難しい御仁だから、急いで持っていってくれ」

「解りました」

歳三は、ぺこりと頭を下げると、店を飛び出した。

その時、又吉がニヤリと笑ったのを見ていれば、後の事件はおこらなかったのだが、その時の歳三は見ていなかったのだ。

だが、浅草に入った所で歳三は、ふ…と違和感に気が付いた。

よく考えてみればおかしい。

歳三は歩みを止めて立ち止まる。

お得意先周りは、手代の仕事の筈だった。しかも今日行くのは、旗本様の家だ。

そんなおいしい役を気に入らない自分に回すなんて、絶対におかしいのだ。

まさかと思いながら、歳三は書状をあける。

 歳三の顔から血の気が引いた。

案の定、書状のものと品物が違う。

騙された事を知ったが、もう店に戻っている時間がなかった。しかもお客は、時間に煩い御仁だという。

歳三は、途方にくれた。

このまま行って怒られるべきなのか、時間に遅れてでも正しい品物を持っていくべきなのか。

自分が怒られるだけですむのならそれで良いと歳三は思っていた。

だが、そういう落ち度が、店の信用にかかわる事を歳三は幼いながらも知っていたのだ。

責任感がめっぽう強く、それでいて完璧主義な歳三は、やると決めた事を中途半端にするのが死ぬほど嫌いだった。だから不本意な奉公でも、一度入ると決めたならばそれに尽くすのは筋だと思っている。

店の信用を落とすのだけは阻止しなければならない。

そう思った歳三は、必死になって良い案はないかと思案するが、こういう時に限って何も浮かんでは来なかった。

刻はどんどんすぎていく。

歳三は道の端に蹲って、傍を流れる川を眺め、必死で冷静になろうとしていた。



その頃、丁度その場を通りかかった初老の侍が、歳三の困り果てている姿を見かけて、どうしたものかと声をかけてきた。

最初は、自分の失敗を悔やみ黙っていた歳三も、迫り来る刻限には勝てずに、その初老の侍に事の次第を話してきかせた。

「持っていくのは、何処のお屋敷かね?」

「旗本様のお屋敷で、江川様というのですが…」

初老の侍は、少し目を見開いて、次に苦笑をその顔に浮かべて言った。

「大丈夫だよ。今から店に戻ったのでは大変だろう。そのままその屋敷に行きなさい」

「でも…」

戸惑う歳三に、初老の侍は大丈夫、大丈夫…と言って、呑気に歩いていってしまう。

歳三は、腹を決めた。

そして、勢いをつけると目を瞑って走って、足をもつれさせてわざと盛大に転んだ。

「ってぇ…」

膝小僧を擦り剥いたが、歳三は気にせずに江川邸まで、痛い足を引きずりながら、走っていった。


「申し訳ありません。いとう呉服店ですが…」

 ボロボロの格好なので、敷居の外から声をかけると。

「これはどうした事なんだい?」

主人らしい声が頭の上から降りかかった。

「私の不注意で、着物を駄目にしてしまいました。もう一度店に戻りまして、同じ物をお持ちしますので、堪忍して下さい」

歳三は、頭を下げたまま言い募る。返事がないのは、いよいよ怒っている証拠だと体を硬くすると、その場の空気が和んだ。

「頭を上げなさい」

苦笑まじりのその声に反応して、恐る恐る歳三は顔を上げる。

「お侍様は!」

そこにいたのは、先ほど、事の次第を相談した初老の侍だったのだ。あきれたような顔で歳三を見ている。

歳三は言葉が繋げなかった。このままでは店の評判は最悪になってしまう。私怨でお客に迷惑をかけた等とあってはならない事なのだ。

「申し訳ありません。どんなお怒りでも受けますのでどうか店の名前に傷を付ける事はしないでいただけませんでしょうか」

「もしかして、その怪我はわざと転んでこしらえたものなのかい?」

「…」

 江川は、今の歳三の哀願で全てを理解した。

違う品物を渡せば店の信用に傷が付く、だからといって、時間にも遅れるわけにはいかなかった。

だったら、自分一人が叱られれば良い事だと、この十を越えるかどうかの年端のいかない少年は思ったのだろう。

こんな男気を持った子供がいたものなのか…と江川は瞠目した。

「このまま放っておいて傷口が膿んでしまうと大変だ。屋敷に入りなさい」

江川は愛好を崩すと歳三を家に招き入れた。

「え…でも、お侍様の家に俺なんかが…」

「童が遠慮するもんじゃない。来なさい」

優しく笑ったその顔に、歳三もやっと笑いをのせて手当てを受けた。



そして、江川は間違って届けた汚れ物を引きとってくれた。

その親切に、目を潤ませながらも歳三は自分を嵌めた又吉への怒りをふつふつと膨らませていた。江川が笑って次で良いと言ってくれたから良いものの、そうでなければ大変な事になっていたのだ。

又吉の無責任さが腹立たしかった。仕事に私情を持ちこむなど、もってのほかだと歳三は痛感していた。

自分が気に入らないのであれば、仕事が終わってから正々堂々と殴りつければ良い事なのだ。

あまりにも頭にきていた歳三は、石を川に蹴りこんだ。

そして、また砂を蹴るようにして歩きはじめる。

又吉を百発殴ってもあきたらないと歳三は肩を怒らせながら店への足を進めた。

だが、店に戻った歳三は、又吉を見ても殴り飛ばすという事をしなかった。本当はそうしたかったのだが、それでは後々がよろしくないと判断したからだ。


「ただいま戻りました」

そう言いながら、なにもなかったように又吉の所へ行く。

「あれ?叱られなかったかい?違うものを渡してしまったからどうしようかと思っていたんだ」

叱られて来たのを期待しているのがあきらかだった。又吉はニヤニヤとした顔を歳三に向ける。

歳三は、この無責任な手代に心底むかついていた。

「ええ、間違って持っていた物も運良く気に入って頂けたらしく、終始機嫌良く笑ってらっしゃいました。頼んでいる品物は次で良いそうです」

「…違った物を受け取ってくれたのかい?」

又吉は信じられないといった顔になる。歳三をぎゃふんと言わせる筈が、失敗したのだ。

ちっ…という舌打ちの音が耳に届くが、歳三は素知らぬ顔で答えた。

「たいそうそれを持たした人の趣味を誉めてらっしゃいましたよ。こういう見る目のある人は中々いないものだとも言ってました」

「そうかならば色々見繕って、他の品物と一緒に頼まれの品は私が持っていくことにしよう」

又吉は、自分のご贔屓が出来たと勘違いして浮かれた。

浮かれながら反物を物色する又吉の様子を見て、歳三は冷たい視線の中に軽蔑の色を浮かべ薄く笑った。

まんまと歳三の策に嵌まったのである。

次の日、浮かれた足取りで、色々持って行った又吉は、自分が違った品を持って行かせた張本人だと江川に名乗り、大層叱られたという。



そして平穏に日は流れ、その諍いがあった数日のち、歳三は番頭の吉兵衛の部屋に呼ばれた。

何か不手際でもしたのかとはらはらした足取りで、襖をあけると、そこにはお茶菓子が用意されていた。

吉兵衛が座るように促したので、歳三は吉兵衛の目の前にかしこまった。

それを見届けて、吉兵衛が口を開く。

「歳三…お前は、六人兄弟の末っ子だと聞くが本当かい?」

「はいそうですが」

唐突な問いに、歳三は戸惑う。

「武士になりたくはないかい?」

(なりたいにきまってらぁ…)

すぐにでも答えたかったが、仮にも商人の家に丁稚に上がっている状況で口にするには憚られて、歳三は伺いを立ててみた。

「どうして、そんなことをおっしゃるのですか?」

「実はね、お前さんを養子に欲しいと言って下さっているお方がいるんだ」

「養子」

「お前も知っているだろう。浅草の江川様だ。大層お前を気に入ってねぇ…是非にとの事で私の方に話があったんだよ」

歳三の手のひらに汗がにじんだ。

武士になれるかもしれないのだ。ドキドキと鋼のように打つ心臓を掴み、乾きそうになる口から声をしぼりだした。

「…俺」

「よく考えてみてはくれないかい?悪い話じゃない。受ければ、旗本様だ。私もお前みたいに出来る子を手放すのは惜しいんだけどね」

ぺこりと頭を下げて、歳三は部屋を出た。

踊り出したい気分だった。

夢がかなう。

そう思うと、俄然歳三の足取りは軽くなった。

だが、その話の一部始終を部屋の裏側で盗み聞いていた人間がいた。

 又吉達である。

歳三が、丁稚達の寝起きする部屋に戻ろうとすると、通せんぼするかのように人が数人立っていた。

歳三は相手が誰か確認もせずに、軽く会釈しながら通り抜けようとする。

「歳三…」

呼びとめられた相手が又吉なのを確認して、内心で歳三は舌を出した。

他の二人も歳三を快く思ってない手代達だった。

「なんでしょう」

「お前、旗本になるんだって?」

柱に身を持たせながら、又吉が言う。

「……」

挑発的な声音を無視して通りすぎようとすると、もう一人が肩を掴んで止めた。

「旗本様になるとなったら、俺らと話す口もないっていうのかい?」

「は…旗本って言っても、色小姓として欲しがられてるだけなんじゃないのか?」

顔に手をかけられ、 口々に罵られても歳三は口を開かなかった。相手にするだけ無駄だという眼で相手を見た。

「幸い面だけは、良いもんなお前。精々尻は大事にしろよ」

「江川のじーさんも好きものだねぇ」

その言葉に、歳三はきれた。

今まで、どれだけ喧嘩を売られても、買ったりしなかった歳三だが、恩ある江川を馬鹿にされたのが、許せなかったのだ。

「てめーら、今の言葉…取り消しやがれ」

いつも貼りつけていた敬語が剥がれ落ちた。

声変わりしてない声を出来るだけ低く出して、六つも七つも年上の相手を睨み付ける。

「なんだ?やろうってのかい?」

なめきった声で、又吉は歳三を見下ろした。

「大体鬱陶しいんだよ。お前ら…いい年こいて、自分の馬鹿っぷりをひけらかしやがって」

 歳三は今まで、腹に溜めこんでいたものを一気に吐き出すと、そのまま又吉に殴りかかった。

その場は一気に修羅場となる。

三人を相手に喧嘩するのは歩が悪い、体格も力もかなわない事は解っている。歳三はすばしっこさを利用して、中庭に飛び降り目潰しをしたり、木の枝を使ったりして奮戦していた。

喧嘩を女中が見つけて、番頭を呼びに行き、吉兵衛が現れる。その途端、三人は逃げ出して歳三だけがその場に残った。

「どうしてこんな事になったんだい」

 厳しい口調で攻められても歳三が口を開く事はない。

大方の理由は想像がついたのか、吉兵衛も多くを言わずに溜息を付きながら、その場を去って行った。

一人残された歳三は縁側に尻を下ろし、庭に目をやる。

そこには、弓矢を作る為の矢竹が茂っていた。

侍になれるというのだ。

嬉しくないわけはなかった。

自分の気持ちだけならば、すぐにでも養子にして下さいとこちらから願い出るくらいだ。

だが、又吉の言った言葉が歳三に重くのしかかっていた。

自分が養子になると言えば、くちさがない者が、江川の事を貶めてしまう。

歳三自身の事を馬鹿にしたいのであれば、すればいいと歳三は思っていた。

色小姓であろうが陰間であろうが、言いたいやつには言わせておけば良いのだ。

だが、店の信用も落とさずにおいてくれた挙句、養子に欲しいとまで言ってくれた江川がそんな扱いを受ける事を、歳三は許せなかった。

でも、歳三によくしてくれている吉兵衛の顔も立てなければならない。

歳三は迷っていた。

片方を立ててれば片方が立たなくなるのだ。

どちらも歳三に取ってみれば恩人で、どちらも大切だった。

歳三は決心する。

そして、何かを立ち切るように矢竹を睨みつけた。



歳三が荷物をまとめ、いとう呉服店を後にしたのは、その日の夜の事だった。

歳三は、逃げ帰る事を選んだのだ。

逃げたとなれば、責めは歳三にあると思ったである。

これならば、江川の評判を落とす心配も、吉兵衛の顔を潰す心配もない。

だが、為二郎の残念がる顔と、喜六の呆れ顔が歳三の頭をよぎる。我慢する事を言い渡されていたのに、こうして半年も経たないうちに、どんな理由があるにせよ逃げ帰るのだ。

情けなさと悔しさを噛み締めながら、歳三は十里(四十キロ)はある石田村への道のりを一晩かけて歩き続けた。

夜道は心細くて、何度もくじけそうになりながら、それでも決めた事だからと歳三は自分に言い聞かせ、マメだらけの足をひきずるようにして歩き続けた。

世話になった吉兵衛と恩人の江川の顔を立てるために。

 侍になる為の機会を自ら握り潰した歳三は、帰り道で自分の力でいつか本当の侍になってやるのだと、小さな胸に誓っていた。



その後、戻ってきた理由を喜六が聞いても、頑として歳三は口を割らず、どれだけ諭しても決して店へは戻るとは言わなかった。

そしてその頃から歳三が、侍になりたいという事を口にする事がなくなった事を為二郎だけは気がついていた。

周囲の者は、奉公がつとまらなかった歳三の行く末を心配した。

だが、土方家が作っている打ち身の薬の原料となる牛革草の刈り入れの時。

村の人を上手く束ねて采配をふるった歳三を見た喜六は、奉公先で遊んでいた訳ではなかった事を知り、辞めてきたのには理由があったのだと理解し微笑んだ。


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