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エレンは戸惑った。
つい先ほど、私に食事を望んだではないか。 それも、優しく微笑みながら。
だから、侍女のローザが作業員達の給仕を一人で担ってくれたのに。 急いで身支度を整えたというのに。
エレンは、ドレスの裾を握りしめた。 こんな事なら、わざわざ着替えないでワンピースのままで良かったじゃない。
すれ違い様に彼の騎士の一人が「美味しい食事でした」と頭を下げてくれた。 それだけが救いだった。
愛しい彼が消えていった方向から、慌てた様子でローザが階段を上がってきた。
「一緒にお食事を取られるのでは無かったのですか?」
私は答えられなかった。 変わりに涙が頬を伝う。
そうか、人目がある所だったから彼は領主としての振舞いをしていたのだ。
私に心を許した訳では無かったのだ。 私は、なんと浅はかで、愚かだったのだろう。
お互いの生活に口出ししない。 公的行事以外での接触は、必要最小限。 そう取り決めを交わしたではないか。
そうだった。私は悪女、エレン・ペルラだった。 彼に愛される資格は無いのだ。
立ち尽くす私の肩を、そっと護衛騎士のミゲルが抱き締めた。 私はミゲルの胸を借りて泣いた。
その姿を、階下からルカスが見ていたとも知らずに。
※※※
「やっぱりあいつら、ただならない間柄だな……」
長めの髪を緩くまとめた優男に慰められている、我が妻を眺めながら、誰に言うでもなく、ルカスは独りごちる。
自分から突き放しておいて、なんと勝手な物言いだろろうか。
しかし、彼には関係ない。 ただただ、不快だった。
ルカスは、あの彼女に給仕してもらいたかった。 あのスノードロップのような、儚げで可愛らしい彼女に。雪の雫のような清廉な彼女に。
間違えても、男を誑かせ操るような、エレンのような女に給仕されたくなかった。
だからこそ、余計に腹立たしい。
この街は、ゲオルクは完璧だった。 いずれ交易都市として認められ、認知されるのだろう。
いつしかコーゼル子爵夫人は、ゲオルクの防衛と再生と発展に貢献した夫人として、名を残すかもしれない。
なんと忌々しい女だろうか。
王太子の婚約者になったのを良いことに、他の令嬢達に暴虐の限りを尽くした(と噂されている)悪女が、そんな女が偉業を成すなど。 容認できない。
「それにしても、あの要塞の立地条件は完璧でしたね」
「聞けば、湊町の方にも要塞を建てるようで、これまた理想的な要塞らしいですよ」
「さすが、王太子が重宝していた訳だ」
「―――王太子が重宝?」
案内された部屋に入るなり始まった、オスカー達の会話に思わず反応したルカスだった。
(王太子が重宝? どういう事だ?)
ルカスが手近な椅子に腰を下ろしたのを見計らい「噂なのですが……」と、オスカーが話し出した。
エレンの父親、ペルラ侯爵は騎士なら誰もが憧れる武勇の持ち主だった。 彼が発案する戦略は独創的であり、負けしらずであった。
ペルラ侯爵は軍神だった。 彼が居れば負けることはなかった。
そんな侯爵に、幼き頃より戦略の英才教育を受けていたエレンも、やはり優れた才を発揮していたそうだ。
ある日、家庭教師から出された問題を解くために、地形模型を睨み悩む王太子を見かけた彼女が、無言である一点を扇でついた。
それをヒントに王太子は、その問を解くことができたらしい。
「―――それがきっかけで、王太子が彼女を『是非に』と望んだ。 まぁ、噂ですけどね」
「どこかの砦の攻防戦では、兄と共に戦場に出て、敵を蹴散らした。とも言われていますよね」
カイが「さもあらん」というように頷く。
「確かに……」
ルカスは唸る。 その砦は、捨てられるはずの砦だった。
しかし、ペルラ侯爵が猛反発をしたのだ。防衛の要になる砦だと。
だが、会議で彼の意見は否決され砦は捨て置かれた。
ところが、ペルラ侯爵はその砦に居座り、子供達と共に僅か数千の私兵だけで、敵を退けたのだ。
その時の兄妹の神出鬼没な戦いかたは、軍神マルスと守護神アテナと怖れられた。
「前から思ってたんですけど、そんな策略家のエレン嬢が、あんな稚拙な嫌がらせをしますかね?」
くつろいだ様子のノアが疑問を呈した。
それは、以前から囁かれていた。
王太子妃に選ばれたエレンが、王太子妃候補に上がっていた令嬢達に嫌がらせを始めたのだ。
被害を受けたと訴えたのが、エレンと共に王太子候補に上がっていた宰相の娘だった。
ペルラ侯爵もエレン自身も、反論さえしなかった。何も言わず王太子の婚約者の立場を降りたのだ。
それもあり、誰も疑う事をしなかった。 エレンの悪い噂が出回った事もあるかもしれない。
今になって思えば、不思議な事だ。
「いや、悪女と言われる策略家だ。 それも、計算の内かもしれない」
そう言いながら、ルカスは、あの女と情夫の護衛騎士が抱き合う姿を思い出した。 あの、姑息な女に騙される訳にはいかない。
「さぁ、要塞は問題なさそうだから、明日からは騎士団の人員を捜すぞ」
発破をかけるルカスに、オスカー達は頷くのだった。