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エレンは心臓が止まるかと思った。 あの黒バラ様が、私を見つめていた。 気にしないように、目の前のスープを給仕する事に集中した。
それが、まさか、礼を言われるなんて! その上、微笑んでいた。 まさに天にも昇る心地だ。
立ち去る後ろ姿を見つめながら、ようやく私の気持ちが伝わったのだと嬉しくなる。
悪女と言われ続けていたが、それは単なる噂だと気付いてくれたのだろうか。
思い返せば、やるせない日々だった。 貴族間の権力の均等を図るため、王太子妃に決定してしまった、あの日。
それからは、嫌がらせを受ける日々だった。
やってもいない事柄を、私のせいだと言われ続け、反論するのも面倒になり沈黙を貫いた。
何も言わないのを良い事に『男遊びがヒドイ』とまで言われるようになった。
いつしか『悪女』というレッテルを貼られ後悔もしたが、そのお蔭で王太子妃から外された。
私には心に決めた人がいた。 黒バラ様以外は欲しくない。
あの幼き日に、私を助けてくれた黒バラ様。 心無い言葉に傷付いていた私に、優しく手を差し伸べてくれた黒バラ様。 あなた以外、欲しくない。
王太子妃を降りたからといって、直ぐに『悪女』のレッテルが外れる事はなかった。 どちらかといえば、余計に酷くなったような気もして、どう挽回するべきか、頭を悩ましていた。
ところが、怖れられ令嬢達に拒絶されていた黒バラ様の婚約者に、自分の名前が上がる事になり、初めて『悪女』に感謝した。
なぜ、黒バラ様が拒絶の対象になるのか理解できないが、自身の悪評のお蔭で婚約者になれた。 悪女で良かった。
(今晩の食事は、御一緒してくださるかしら?)
私は、期待に胸を膨らませる。
※※※
「奥様? 下の山小屋に居ませんでしたか? 」
要塞の建設現場で、監督とおぼしき責任者にエレンの居場所を訪ねたルカスだったが、そのような答えが帰って来た。
「いや、居なかったと思う」
「おかしいなぁ……。この時間は、手伝いをしているはずなんだが……」
首を傾げる現場監督を見ながら、ルカスは不思議に思う。 あの、悪女が人の世話をする訳がないではないか。 人にさせる側の人間だ。
この現場監督も含め、皆、流れの労働者で、港で仕事を探している所を、あの女に拾われたそうだ。
各国の城を手掛けていた腕を買われ、破格の条件もあり、あの女の元で働く事に決めたそうだ。
そして、ここでもあの言葉が出た。
「奥様は、やり手ですね」
とたん、ルカスは不機嫌になる。 いったいあの悪女は何者なのだろうか。
「ルカス、ノア、見ろよ。 すごい術じゃないか?」
カイが上を見上げながら、二人に声をかける。
見上げると、フワフワと人が浮いていた。 それも、両手に石を抱え職人の指示を聞きながら、石を積み上げていた。
それも、一人二人ではない。 両手で余る程の人が浮いていた。
これが、あの女の使う術なのだろう。
なるほど、納得だ。 これならば、半年程の期間で街が整備されていても不思議ではない。 熟練の職人もいる。
現場監督の話を聞きながら、ルカス達は、あの女が作り上げている要塞を見て回る。 口惜しいが、申し分のない仕上がりだ。 場所もいい。 ノアとカイも同意だった。
一回りしたルカス達が山小屋に戻る頃には、短い冬の日射しも消え、夕闇が迫っていた。そして、辺り一面には、食欲をそそる香りが漂っていた。
「お帰りなさい!」
小屋に足を踏み入れると、元気な明るい声が響く。
直ぐに、先ほどの女性が食事はどうするか、小屋に泊まるか、尋ねてきた。
「泊まらせてもらおう。 先に食事を頂きたい」
そう伝えると、彼女は分かりやすく喜んでいた。
そして、職人達より一段高い所にあるテーブルへと、案内された。
席に着くと、無表情の女性達が次々と食事を運んでくる。 食事自体は美味しいのだが、給仕の者達に違和感を感じ落ち着かない。
「あの子たち、あの女の術なんじゃない?」
カイが女性に手を伸ばすと、とたん一枚の紙切れになり、そしてチリとなった。
「触らないでください。奥様の術が解けてしまいます」そう言いながら、あの女の侍女は、一人分の食事を準備し出した。
そして、入れ違いに着飾ったあの女がやってきた。 情夫と噂される護衛騎士を連れて。
せっかくの楽しい気分が台無しだった。
「旦那様……」
寒々しい声で話しかけられたが、答えるつもりはない。 早々に席を立ち、割り当てられる部屋を尋ねるため階下に降りた。