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―――兄が怒っている。
窓から差し込む夏の西陽が、オレンジにギラついて見えるのだが、部屋の中はどこかヒンヤリとしていた。
一人掛けのソファーに、ゆったりと腰を下ろした兄のスラリとした両足は、優雅に組まれている。
片肘をついては、形の良い顎付近を、指先が忙しなく撫でている。
兄の目の前のソファーには、私とルカスが向かい合って座っていた。 水を打ったような静けさの中、こめかみから汗がしたたる。
暑さからなのか、冷や汗なのか………、もはや、わからない。
「それで、コーゼル卿が不貞を働いた結果が、これなのか」
凍てつくような視線が、ルカスを射ぬく。
「………はい」
チラリとルカスを盗み見ると、『血塗られ軍神』とまで呼ばれた彼が、萎縮していた。
クスリと笑みを漏らすと、刺すような声で「エレン?」と、名前を呼ばれた。
「そもそも、お前があの噂を否定しないから、このような事態を引き起こしてのだろ?」
私はハッとして顔を上げ、兄様を見つめる。
「それは違います。 あの噂のお陰で、王太子妃の内定が白紙になり、黒バラ様と婚姻できたのです。 感謝しかありません」
「あの噂とは?」
不思議そうにルカスが尋ねる。 その問いに対して、兄が丁寧に説明した。
王太子妃候補だった令嬢達に、エレンが嫌がらせをしている。と、同じく娘が候補者だった宰相が申し立てたのだ。
それを理由にエレンは、内定を取り消された。
「まぁいい。 お前達の離縁を取り消すのは簡単だ。 その代わり、少しこの状況を利用させてもらうよ」
兄は不敵に微笑むと、部屋を出ていってしまった。
後には不安そうな黒バラ様と、私だけが取り残された。
※※※
毎晩のように繰り広げられる夜会に、今、話題のルカス・コーゼル子爵が現れた。
『血塗られた軍神』は『夜会の毒蛾』に裏切られ、その不貞の証拠が彼女の中に芽吹いている。と囁かれていた。
彼らは、退屈な貴族達の格好の噂の的だった。
だが、その『血塗られた軍神』は今、その傍らに『夜会の毒蛾』とは正反対の清楚な可愛らしい女性を伴っていた。
彼女を見つめるその瞳は、今まで誰も見たことの無いほどに優しく、その微笑みは心の内側をくすぐられる程に柔らかい。
「あの令嬢は誰だ?」
ざわざわとした人々の囁きが、波紋の様に広がっていく。 貴族達は、ルカスとその令嬢の、一挙手一投足を見つめていた。
彼らは王太子の元へと赴き、挨拶をするようだった。 皆の視線が集まっていた。
「やぁ、エレン。 体調はどうだい?」
驚愕の声が上がった。 悲鳴のような声が連鎖する。どよめいている大衆を尻目に、彼らは談笑を続けていた。
そして、頃合いを見て会場から姿を消す。 誰一人とも関わること無く。
至極当然に、ルカスの連れていた令嬢に、関心が集まった。 なぜ、あの令嬢が『エレン』なのか。
彼らの知っている『エレン』は、華美な装いで、流行の先端を走り、氷のように冷ややかな眼差しが、刃の様な美女であった。
たまに扇の端から覗く口の端が、嘲笑しているように見える、妖しげな月下美人のような令嬢だった。
それに、婚約破棄をしたはずの彼女に、王太子は親しげに『エレン』と呼びかけていた。
『エレン』は王太子に忌避されていたのではなかったのか?
※※※
―――また別の舞踏会。 そこにもルカスと『エレン』は現れた。
襟ぐりの広いドレスで現れた、彼女のその肩口には、なにやら傷跡が見え隠れする。
隣国からやってきた貴賓の女性達が、『エレン』に近付き挨拶をしている様子を、噂好きの貴族達が聞き耳を立てて見守っている。
「ゲオルクでの、あの反乱をお二人で治めたとか。さすが、『守護神アテネ』ですわ」
「その肩口の傷は、名誉の負傷ですわね」
そう言われた『エレン』は、恥ずかしそうに頬を染め「ルカスが………主人が治療してくれたのです」と答える。
聞き耳を立てていた貴族達から、ざわめきが広がる。 彼女は本当に、エレン・コーゼル子爵夫人なのだろうか?
―――『ゲオルクの反乱』は有名だった。
いち早く反乱に気付いたコーゼル子爵夫人が、単騎で駆け出し雪山で首謀者を仕留めたが、傷を追ったと。
「そういえば、あの事件。 夫人を子爵が追いかけていなければ、夫人は命を落としていたって本当ですか?」
一人の年若い令嬢が、騎士姿の紳士に尋ねていた。
「よくご存知ですね。 あの時我が主が奥様を追いかけていなければ、奥様の命どころか敵国の侵略を許すところでした」
「今、この王都が平和なのも、珍しい品物で溢れているのも、すべてコーゼル子爵夫妻のおかげなのですよ」
隣にいた騎士姿の紳士達も、同調している。
チラチラと騎士姿の紳士を盗み見ていた貴族達は気がついた。 彼らの紋章は『コーゼル』のものだ。
仲睦まじいコーゼル子爵夫妻に、騎士達に慕われる夫人。 貴族達は首をかしげる。
エレン・コーゼルは『悪女』ではなかったのか。 毎夜、男を選り好みしている『夜会の毒蛾』ではなかったのか。
王太子妃に内定したのを良いことに、他の候補者に悪意ある嫌がらせをしていたのではないのか。
※※※
その後もコーゼル子爵夫妻の仲睦まじい様子は、度々夜会で、舞踏会で度々目撃されていた。 それに比例するように、貴族達のエレンに対する評価が、噂が良い方へと塗り替えられていった。
『エレン・コーゼルは不貞を働いて離縁された』
そのような事はあるはずがない。 見よ、目の前の二人を。
『血塗られた軍神』と呼ばれたルカス・コーゼル子爵が、妻を見つめるその瞳を。
そして、彼に寄り添う女神のごとき優雅で、それでいて、たおやかな彼女を。
そんな様子を満足気に眺める一団があった。 彼らの視線に誘導されるように、複数の令嬢が、噂をしている貴族達の輪に近づく。
そして、素知らぬ顔で噂話をし出した。 わざと回りに聞かせるように。
「子爵夫人の方が、嫌がらせ受けていたんですって?」
「そうらしいわよ。 それを、とある令嬢の父親がねじ曲げたんですって」
「聞いた話だけど、とある令嬢を威嚇する為に、わざと華美な衣装や態度を、取っていたって」
「それでは、とある令嬢の方が『悪女』じゃない」
「それなのに子爵夫人は何も反論しなかったっの?」
「実はね………」
一段と声を落とす令嬢達。 その声を拾おうと、近寄る貴族達。
別の所では、エレンがルカスの腕に手を添え、恥ずかしそうに俯きながら、頬を染めている。
「えぇ、実は………幼い頃から、コーゼル子爵をお慕いしておりました」
「勇敢に反乱者に立ち向かう姿と、普段のたおやかな姿の懸隔に心を揺さぶられました」
そう言っては、ルカスは愛おしそうにエレンを見つめる。




