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春の始まりを感じさせる、暖かな日射しが降り注ぎ、そこかしこに小花が咲き乱れ、彩り鮮やかになった庭のテラスで、エレンは優雅にお茶を嗜んでいた。
側には難しい顔をした執事のヴィンセントと侍女のローザが控えていた。
それというもの、ゲオルクで精力的に動き回るエレンを、エレンの侍女だと思い込み、ルカスが想いを寄せている事について、小言を言われ続けていた。
なぜ、エレンだと告げなかったのか。
そんな事は簡単だ。 侍女の『ネル』でいれば、黒バラ様から蕩けるような微笑みが頂ける。
エレンでは、こうはいかない。 完全無視か冷笑を浴びせられるだけだ。
要塞から戻った後、ルカスはエレンの目を盗んではネルの姿を探していた。
そして、甘く囁く。「ネル、愛している」と。
人目を避けるように二人きりになると、身体中に唇を寄せる。 時には、身体を重ねる事もあった。
愛おしい黒バラ様に愛される幸せは、手放せるものではない。 それに、私は嘘をついていない。 私はエレンであり、ネルなのだ。
勝手に向こうが勘違いをしているのが悪い。
ところが今日はいつも以上に小言が長い。
ヴィンセントが手紙を手渡してきた。 宛名を見るとルカスが彼に宛てた手紙だった。
彼に急かされるように手紙に視線を落とすと、そこには『白い結婚を理由にあの女との離婚を申し出る。 そして、ネルと婚姻したい。 ペルラ領から来た者達が、お嬢様と呼ぶ所をみると、ペルラ領の貴族なのではないかと思う』とあった。
私は声を上げて笑った。 面白いではないか。
堂々と不貞を働いていながら、離縁したいだなんて。
私の中で、何かがプツンと切れた。
「いいわ。離縁するわ」
高笑いしながら、そうヴィンセントに告げた。
どこにもいない『ネル』を探して、後悔すればいい。
※※※
その数週間後、エレンの身体に変化が現れた。
なぜか式が使役できない。『まったく』という訳ではないのだが、調子が悪い。
それに、何をするのも億劫だった。 そして、兎に角眠い。
食欲もなく、口当たりの良い物しか、口に入れたくない。
ゲオルクに来てから、精力的に動き回ったこの半年。 今頃になって、疲れが現れたのだろうか。
夏には、契約書にある王家主宰の夜会に出なくてはならない。 それまでに、このだるさは取れるだろうか。
ガゼボの長椅子にだらしなく横たわり、ぼんやりと風に揺れる小花のさざ波を眺める。
頬を撫でる柔らかな風が心地良い。
テンポよく聞こえてくる、騎士達の剣の音がより眠気を誘う。
いつしか、エレンはうたた寝を始めた。
※※※
フワリと何かがかけられる気配と、呼ばれた様な気がして、エレンは眠りの淵から引き戻された。
「奥様、風邪をひいてしまいます」
「ここは、冷えますよ」
まだ、ハッキリとしていない頭を働かせるが、この声は聞き覚えがない。ローザでもミゲルでもない。
うっすらと開けた瞳に、黒バラ様の部下のノアとカイの姿が映った。
二人とも、心配そうに私を見下ろしていた。「奥様」と言いながら。
そこでハタと気が付いた。
なぜ、私を奥様と呼ぶのだろうか。
今日は、ゆったりとしたワンピースを身にまとっている。
身体を締め付けられる感覚がとても不快に感じ、ローザに頼んで、より緩いワンピースに着替えたのだ。
私の今の装いは『ネル』なのだ。
思わず疑問が声に出ていた。「なぜ、奥様と呼ぶの? 私がエレンだとわかるの?」
彼らは笑いながら、私が起き上がるのを助けてくれる。
「主を見つめる、その瞳ですよ」
確かに初めは全くの別人だと思っていた、そう彼らは言う。
―――確かに、社交の場のエレン・ペルラ侯爵令嬢は、冷ややかな眼差しが特徴で、たまに扇の端から覗く口の端が、嘲笑しているように見える、とも言われている。
その高貴なエメラルドの瞳は、とても神々しく、ある種の信仰をも、もたらしていた。
『その緑碧玉の奥底を覗いてはならない。魅入られてしまう』と。
だが、彼らは気付いていた。 その緑碧玉の輝きが優しく和らぐ時があることを。
そして、その先には必ずルカス・ロデリクス・コーゼル子爵がいたことを。
ゲオルクに来て最初こそは、王都との装いの違いのせいで気付く事はなかった。
しかし、あの山小屋で疑問を持った。 どこにも居なかったエレン・コーゼル子爵夫人が、突如現れたあの時。
そして、あの凍えるような冬の日、夫人を追いかけて馬を走らせたはずなのに、その場にいたのは侍女だった。
その儚げな面持ちの彼女の瞳が鋭い光を放ち、てきぱきと意見を述べたあの日。
あの研ぎ澄まされた輝きをもつ緑碧玉の瞳は、紛れもなくエレン・ペルラだと悟ったのだ。
「ただ、主が気付いているのか、と問われれば『否』としか答えられないのが、歯がゆいです」
申し訳なさそうに彼らは項垂れた。
「構わないわ。彼のお気に入りが、この世で一番疎ましく思っている女だと……、そう気付いた時の、彼の顔を見るのが楽しみなの」
そう言うと、彼らは寂しそうに微笑んだ。




