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愛しい彼女の姿を求め、ルカスは馬で雪原を駆けていた。 どんなに目を凝らしても、彼の瞳には、誰も何も捉えられない。
雲間から漏れ出る月明かりに照らされているのは、一人分の足跡だけだった。
(道を外れたのか?)
そう、不安に思い始めた頃、風に乗って金属音が響いてきた。 耳を澄ますと、微かに話し声のようなものも。
ルカスは、馬を急かせた。 雪煙が上がる。
しかし、彼の目に映ったのは雪原に剣を押し付け、踞る一人の姿だけだった。
キラリと月が反射する。
後の記憶は無い。
気が付けば、踞る男の背に、剣を突き立てていた。
大きく見開かれた彼女の瞳に、自分が映る。
(間に合って良かった)
そう思いながら彼女を引き起こしたルカスは、心底安堵していた。
彼女を雪の中から引っ張り起こし、我が腕の中に抱く。
(あぁ、間に合って良かった)
彼女の温もりを確認しながら、再び思う。 腕に力がこもる。
彼女が抵抗しないのを良い事に、首筋から立ち上る体温と香りに酔いしれていた。
そして、気が付いた。
(抵抗しないんじゃない、出来ないんだ)
彼女の四肢は力無くダラリと垂れ下がり、大きく見開かれていた瞳は、今や閉じている。
そして、漂う血の香り。 あの男の物だと思っていたが、見下ろした足元の雪が、彼女の左肩が、朱に染まっていた。
※※※
パチパチとはぜる薪の音が、薄暗い室内を温めていた。
反乱者達から取り戻した要塞の部屋の一つに、エレンとルカスがいた。 他の者達は、まだ戻っていない。
こじんまりとしたベッドに横たわるエレンを、かいがいしくルカスが世話をしていた。
「つっ……」
エレンは、左肩に走る痛みに気が付いた。
「大丈夫か?」
そこには心配そうに自分を覗き込む、黒バラ様の漆黒の瞳があった。 慌てて起き上がろうとするが、激しい肩の痛みと、自分の姿に驚き動けない。
「あぁ、すまない。身体が冷えきっていたので、全部脱がした。 ―――極力、見ないよう心がけた」
そう言う黒バラ様の頬が赤く見えるのは、暖炉の炎の揺らめきなのだろうか。
ボーッとする頭で、なぜこんな事になっているのか考えていると、再び肩口に痛みが走る。
「すまない。 滲みるだろう。 少し我慢していてくれ」
黒バラ様は丁寧に、パックリと開いている肩口の傷を消毒し、布を巻いていく。
そして、魔法をかけてくれた。 とても心地のよい魔法だった。
そして、唐突に思い出す。
「敵襲は? 隊長は?」
ガバッと起き上がり尋ねる私から、顔を背けた黒バラ様は、「何も心配しなくていい。もう、全て終わった。 皆、無事だ」と教えてくれた。
安堵すると同時に、猛烈な寒気が襲ってきた。 ブルブルと震え、歯がカチカチと鳴り出した。
その音に気が付いた黒バラ様は、私を毛布でくるみ直した。
「少し眠りなさい。 血を失い過ぎた」
優しく横たえる黒バラ様の腕が、堪らなく愛おしい。 彼の漆黒の瞳から目が離せない。
動く右腕を、黒バラ様の首に巻き付けた。 なぜ、そうしたのだろうか。
無性に温もりを感じたかった。
よくよく見れば、黒バラ様も裸で、腰に布を巻き付けただけだった。
ピタリとくっついた素肌の感覚が心地よい。
(あぁ、私は生きている)
その事を確かめるように、私は胸を押し付け、自分の物か、黒バラ様の物か分からなくっている鼓動を感じていた。
「いいのか?」
そう尋ねる黒バラ様に、私はコクリと頷いた。
※※※
春の近付きを知らせるように、ほのかに温かみのある冬の朝の日射しが、窓から深く差し込んでいた。
隣には黒バラ様が、穏やかな寝息を立てている。 柔らかな日射しが照らす、黒バラ様の長い睫毛を、私はただ、眺めていた。
昨夜、私達は結ばれた
愛おしい黒バラ様との営みは、夢心地だった。 破瓜の痛みは、耐え難い物ではなかったが、心の方が痛かった。
黒バラ様は、侍女を抱いたのだ。妻の侍女を、何度も何度も。
―――信じられない話だが、黒バラ様は、私をエレン・コーゼルだと、子爵夫人だと、妻だと本当に認識していなかった。
「君の名前を教えてくれる?」
耳元で甘く囁かれた時、頭から冷水を浴びせられた気分だった。
「ネル」私はそう答えた。
黒バラ様は妻がいる身で、『ネル』を抱いたのだ。 ゾクゾクするほどの甘く響くその声で、私の耳元で「ネル」と囁きながら、妻の侍女を抱いたのだ。
『ネル』それは、私の愛称。
私は彼に時限爆弾を仕込んだ。 気付いたとき、どんなに後悔するだろうか。
でも、貴方は不貞を働いたのだ。 これは、とても甘く性悪な復讐だ。
※※※
日が昇り、切通からミゲル達が戻ってきた。
多少の汚れはあるものの、無傷と言ってもいいくらいだった。 聞けば、敵軍は攻めいる事はなく、少し刃を交えるだけで、まるで様子を見ているようだったと言う。
皆の無事を喜ぶエレンの隣には、優しく彼女を支えるルカスが並び立っていた。
誰もが、二人の仲が深まったと誤認していた。
―――再び平穏で平凡なゲオルクでの日々が続き、春の訪れと共に、ルカスがオスカーを伴い、王都に戻っていった。
腹心のノアとカイをコーゼル騎士団に残して。




