第七話 霧奈編①
霧奈碧は今、一つの扉の前を彷徨くことだけに既に数分の時を費やしている状態にあった。
昨日、四谷快太と名乗る同年代の少年を救助し、おそらくは彼を庇って亡くなった友人の話を聞いた後、これ以上は自分は役に立たないという判断から翌朝また話す約束だけを取り付けて別れた訳だが、いざ“翌朝”になってみると、中々行動に移すのが難しい。
彼の気持ちが落ち着いたかどうかが定かでなく、目の前の扉を開けたとして第一声を何にするべきか皆目見当もつかないからだ。
実を言えば自分のこの街における目的は現状達成の見込みすら立っていないため、今回の約束が先延ばしになったとて困ることはない。
しかし、約束した以上は何も言わずにいるのも失礼だ。
尚、今更言うまでもないことだが霧奈が前を徘徊している扉というのは快太の部屋のものである。
さて、どうするべきだろうか。
半ば固定化してきた徘徊の経路の途中、丁度扉の真正面に来たところで、扉の開く音がした。
「あ、ごめんなさい。待たせちゃいました? ここで話すのもアレですし中に入って下さい」
出てきたのは、当然快太だった。昨日の最初の一言以降用いていなかった敬語で話している。表情は屋上での哀しそうな顔を思うと信じられないほどに明るい。
「……」
一方の霧奈は、自分の表情はさぞ困惑を隠し切れていないものになっているのだろうな、などと考えながら促されるままに部屋へと立ち入り、気づけば椅子に座らされていた。
「えーと、」
快太が口を開いた。まあ互いに話題とすべき事柄は幾らでもあるのだから当然だ。
しかし、霧奈にはそれらよりも前に解決してしまいたい疑問があった。
「あの、まず最初に……」
「ああ、やっぱり気になりますよね」
質問を言い終わるに先んじた快太の返答を聞いて、霧奈も安心した。やはり彼も不自然だとは思っていたらしい。正直なところ昨日の方がその一面に限っては気楽であったので、何か特別な事情がないのならば戻してくれるとありがたい。
「なんで俺が元気なのかっていうと」
「待って」
違った。いや、彼が元気な理由も確かに気にはなる。気にはなるが、流石に自分から聞くつもりは毛頭無かった。親友とまで言っていた相手が亡くなった人間に対して「なんで元気なの?」に類する問いをぶつけられるのは鬼か何かだろう。
そんなある程度まとまった思考を脳内で回しつつも、実際に霧奈の口から流れ出る言葉は理路整然とは程遠いものだった。
「いや違くて、それは……いやそれも気にはなるんだけどわたしが聞きたかったのは別で、そんなつもりはなくて」
「えーと、別にこれ聞かれたからって変に思ったりしませんよ? 気になって当然ですから」
こちらとしては未だ申し訳ない気持ちは残っているのだが、快太は本心からなんとも思っていないように見える。今以上に現状を引き延ばしてしまう方が彼に迷惑をかけるのかもしれない。
「……ごめんなさい」
結論として霧奈が行き着いたのは、誠心誠意頭を下げての謝罪であった。
「だからいいですって。……でもまあ折角だし俺が元気になった理由も言っておきます。あんま大した話でもないですが」
「あの……本当に申し訳ないんだけれど、一つだけいい?」
「そんな縮こまらなくても……なんですか?」
「どうして敬語なの?」
ようやく言えた。自分が真に聞きたかったのはこれである。気楽であったのも戻して欲しかったのも、全ては敬語に関しての話だ。あからさまに同年代の相手に敬語で話されるのはむず痒く、少し居心地が悪い。
「昨日はなんだかんだ動転しててつい崩れちゃったんですけど命の恩人だしこっちが普通かなって……戻した方が?」
「出来たら……」
「じゃあ普通に話させてもらうね」
「うん、お願い……」
「あー、その、俺からも一つ良い?」
「何?」
「いや、これはお願いなんだけど、そんなに落ち込まないでよ。そもそもが命の恩人の貴方には、なんなら暴言をぶつける権利すらあるんだから」
「そう言ってもらえるのはありがたいけど……まあ、頑張ってみる」
霧奈のそんな言葉に対して快太が何かを言うことはなかったが、彼の笑顔は返事の代わりとしては十分だった。昨日何回か目にした力無い笑顔とは異なった、どことなく人好きのする表情だ。屋上で「友達は結構いた」と話していた彼の姿が脳裏へと浮かび上がり、時を全く同じくしてそれに納得した。
「で、やっと俺が元気な理由だよね。これは本当単純で、凹んだままではいられないよなって思ったからだよ。後は……目標が出来たことも大きいかな」
「目標?」
「うん、目標。まあ、“あいつを連れて日本に帰る”ってだけだから大使館とかに行けば割と簡単に解決するものではあるんだけど」
「……え?」
快太の物言いに対して、霧奈は眉を顰めずにはいられなかった。予想もしていなかった可能性が浮上し始めるのを感じたからだ。
しかし、いざその可能性を考えてみると、快太と彼の親友が一切の装備を持たずにあの森にいた理由がわかってしまうようで、それがまた恐ろしい。
「だから変なことを聞くようで申し訳ないんだけど……ここがどこの国のなんて場所か聞いてもいい?」
「ちょ、ちょっと待って? 一応聞かせて。……まさか望んで“壁”を越えてきたわけではないの?」
霧奈は半ば確信を持ちながらも、やはり信じきれぬ己が心に従って快太にそんな問いをぶつけた。
「“壁を越える”というのは? 俺達、普通に家にいたはずなのに気づいたらここにいたから何もわからなくて……」
霧奈は唖然とし、同時に『快太は望んでこちら側に来たわけではないのかもしれない』という浮上していた可能性が事実であると、とうとう心においても確信した。
最初は彼も自分と同じように自らの意思で“こちら側”に来たものだと思っていた。
そもそも“こちら側“がそういう場所だ。入り込むだけでもかなり面倒な手順を踏んで条件を満たす必要がある。そしてその条件を偶然達成するのはほぼ不可能だ。
「どうしたの?」
黙り込んだしまったこちらに対して、快太が心配そうに声を掛けてきた。
完全なる無知であろうことを思えば仕方のないことなのだが、感じるがままに言わせてもらえば今の彼の状況で他人の心配だなんて能天気もいいところだ。
「……これからわたしが言うことを落ち着いて聞いて」
「はい」
こちらの深刻な雰囲気を察したのだろう、快太の顔が昨日とはまた異なる神妙なものへと変化した。
その推移を目の端で捉えながら、霧奈はこれから伝えようとしている衝撃的事実の、出来る限り彼が受け入れ易い表現を考えていた。
言葉選びには次の条件が求められる。快太の気を動転させないことだ。
今から行う説明が必要になるのは完全なる予想外であり、本来話したかった事柄がまだ残っている以上、落ち着いて聞いてもらえるならその方が良いに決まっている。
「……」
無理かもしれない。事柄自体が衝撃的過ぎる。霧奈は諦めの溜め息を吐いた。
大きく息を吸い込み、最早博打のような心持ちで早口に述べる。
「ここは西半球。それで他に聞きたいことは何?」
「待って待って待って待って流せないよ」
まあ、当然の反応だ。殆ど予定調和だ。
妙に冷めた気持ちで快太の焦燥ぶりを眺めているうちに、霧奈は自分の発言が含んでいた矛盾に気がついた。
さも重大なことを伝えようとしているかのような雰囲気で「落ち着いて聞いて」と宣っておいて、いざ喋り始めたら大したことでもないかのように流そうとしたのだ。もしかすると、快太が混乱したのは自分が思っている以上にこちらの落ち度なのかもしれない。
「え? 西半球? は?」
快太は未だ動揺から脱し切れない様子だ。
こうなっては仕方ない。ゆっくりと時間をかけて、懇切丁寧に説明していこう。
「取り敢えず落ち着いて」
我ながらどの口が言っているんだと思う。
妙な言い回しかもしれないが、長い朝になりそうだ。霧奈は再び溜め息を吐いた。