第五話 満ち足りず、でも満たされて
子供は無事かもしれない。
妙に冷めた頭で最初に思ったことはそれだった。
蟻塚の周りの地面には赤色が染み込んでいるが、見える限りでは大した量ではない。蟻塚からの攻撃を間一髪で避けてそのままどこかへ逃げた可能性は十分にある。まあ、今となってはどうでもいい。
とにかくどんな手段を用いてでもこの場で善希を殺した化け物を殺す。あの不快な笑い声を呻き声にでも変えるんだ。
「“引き寄せろ”」
快太は子供を抱えて蓑虫の眼前から離脱した時と同じように、蟻塚に対しそう唱えた。
蟻塚は人間じゃない。明白な事柄だ。だが彼には、“引力”は蟻塚に対しても発動するという無根拠の確信があった。
そして実際、“引力”は発動した。身体が蟻塚へと引き寄せられていく。到達すると同時にまずは一撃食らわせるつもりで、彼は腕を振りかぶった。
「!?」
しかし、事は思い通りには運ばなかった。突如進行方向が逆転し、果てには身体が巨木の幹に激突したのだ。
何かしらによって叩き飛ばされたのだと理解出来たのは、痛みを認識してから更に数秒が経ってのことであった。
どうやら“引力”は到達するまでなら絶対に継続するというわけでもないらしい。今までの使用時の状況を総合して考えると、『一定以上の力を別方向に受けた場合は強制的に解除される』と見て良いだろう。
まあ別にやりようはいくらでもある。足の状態故に機動力が削がれている以上、多少の無茶は必要になるが構わない。
快太は再び“引力”を発動するために掌を蟻塚へ向けた。いつのまにか世界は薄暗くなっており、蟻塚以外のものが色褪せて見える。
「……」
一瞬覚えた違和感はすぐに消え失せた。
これで良い。蟻塚を殺す上ではこれで全く十分だ。蟻塚以外のものなど見なくていい。集中するべきなんだ。
改めて構えを整えて、快太はいよいよ再び唱えようとした。
「“引き寄──」
『──落ち着けよ』
「え?」
突然、声が聞こえたような気がして、快太は振り返った。もう一度聞けたら強く願っていた、もう二度と聞けないと思っていた声だ。
「善希……?」
意味はないとわかっているのにも関わらず、どうしても呼びかけてしまってから前を向く。いつのまにか世界は明るく晴れており、気分も同様にどこか晴れ晴れとしていた。
「あ……」
直後快太は、蟻塚以外のものも視界に収めておきながら、それ以外のものは見えていなかったことを理解した。
視界の端に、助けた子供の姿を捉えたのだ。
こちらの反応が情報を与えてしまったのか、正面の向きもわからないような見た目でありながら蟻塚がその巨体を回転させた。
自分から見える蟻塚の顔の幾つかが生理的嫌悪感を催すほどに口角を持ち上げる。明確に子供の存在を認識したからだろう。
本当に困った子供だ。半ば難癖に近いのはわかっているが、今の自分はあの子を善希の死亡の遠因として見てしまう。正直なところ、命を懸けてまであの子を助けたいという強い気持ちは持ち合わせていない。
「……」
大丈夫だ。大丈夫だよ。何気ない一つの瞬きの後、目の前に現れた善希の姿に、快太は苦笑した。
今の貴方はおそらく思い出から組み立てられた幻想に過ぎない。そもそもからして自分達はお互いに内面の全てを把握することなど別段求めてはいなかったから、いずれにしても貴方の心配はきっと的を射てはいない。
でも、ありがたかった。『行動だけは善人でいる』ことの動機、周りにいてくれた人達の一人である貴方の姿が、特に貴方が見えたから、今からの自分も迷わずに頑張ろうと思える。死んでもなお、貴方は自分を助けてくれる。
快太は掌を子供に向け直し呟いた。
「“引き寄せろ”」
例によって身体に“引力”が働き、対象へと引っ張られていく。
行動の内容は最初に助けた時と全く同じだ。子供を抱えて勢いのままに距離を取る。余計なことは一切しない。
「……その上で駄目っぽいかも」
蓑虫の時と全く同じ行動では現状は打破出来ない。逃走の中、快太は早々に失敗を理解した。少しずつではあるが確実に距離を詰められている。
度重なる無茶により最早動作の有無に依らず最大限の痛みを以て異常を訴えるようになった足、蟻塚の気を引く囮役の不在等、理由は幾らでも考えつくほどに状況は悪い。
「仕方ない」
快太は一度振り返り蟻塚との距離を目算で測ると、子供を地面に下ろして話しかけた。
「通じないだろうけど……頑張って理解して欲しい」
我が事ながらなんて無茶を言っているのだろうと、状況に似つかわしくない愉快な気分に襲われる。
「俺があの……化け物を引きつけている間に何とか逃げて欲しい」
子供の目を見つめながら、静かに言葉ではなく心で訴えかけるような感覚でゆっくりと述べる。不思議と内容は伝わったという自信があった。
「……」
わずかな沈黙の時間が流れる。蟻塚の笑い声が少しずつ近づいてくる他には一切の変化がない。
本当に先程の言葉を理解してもらえたのか、心配になってくる。
しかし、流石にこれ以上蟻塚から、目を離すのも命取りになりかねない。快太は今まで自分達が逃げてきていた方角へ向き直った。同時に左目だけを動かし背後の様子を確認する。
すると心配そうにこちらを見つめている子供の姿が目に入った
多少、納得した。
確かに自分はあまり頼もしくは見えないだろう。わかりやすいところで言えば、肩幅も決して広くはない。
子供は純粋な分、そんな相手を置いて逃げるのは気が引けるのかもしれない。
正直上手く折り合いをつけてさっさと逃げて欲しいと思うが、まあ、考え方次第ではこれは自分の落ち度だ。
助けられる側の人間の心に不安を、禍根を残す人助けなんて善行じゃない。
自分は自信ありげに笑わなければいけない。出来る限り無傷で生き残らねばならない。
それを踏まえて、快太は子供にも自分が笑っているとわかるように声を弾ませながら言った。
「大丈夫。俺は強いから」
虚勢、嘘っぱち、何なら少し震えてもいる。しかし、子供の不安を払拭するには十分だろう。
少しの逡巡の末、彼が走り去っていくのが背中でわかった。
怪我をしているからか足音が安定しておらず、その速度は遅いのだろうと明確に察することが出来る。
やはり時間稼ぎは必要になりそうだ。
「……!?」
真正面へ意識を戻すと、いつの間にか蟻塚は目前の位置にて静止していた。一瞬で冷や汗が吹き出し、焦燥と共に後ろへ飛ぶ。
笑い声は当初よりも小さくなっている。接近を気づかせないために抑えていたのだとしたら、あまりにも恐ろしい。実際自分は接近に気づかなかったのだ。
その数秒にも満たない、戦闘にすら至っていない出来事の顛末だけで、快太は勝ち目が無いことを悟った。
だが、やるしかない。
快太は掌を蟻塚へと向けると、改めて覚悟を固めた。
まあ、わかってたことだ。
最早足だけでは収まらず全身ボロ雑巾のようになった快太は今、木にもたれ掛かり死を待っていた。
なぜだか他人事のように思えてしまうほどに、身体は凄まじい状態になっている。
右半身に関しては首の付け根から指の先まで余すところなく感覚がない。
血で霞んだ景色の中に、ありえない方向へ曲がった自分の左足が見える。
左腕で殴りかかることは殆どなかったので、そこは比較的無事だ。親指以外は何処かに消えてしまったが。
向かっていったは良いものの、まさか三分持たないとは思わなかった。
いや、命のかかっている場面においては実際に流れている時間以上に長い時間が経ったと錯覚してしまうという話を聞いたことがある。
それが本当ならばもしかしたら一分すらも稼げていなかったりするのかもしれない。無駄死にもいいとこだ。
快太は僅かに面白く思えて、多分に自らを嘲るかの如く笑った。
笑いによる肺の伸縮すらも激痛に変わるほどに身体は弱りきっており、それが更に自分を情けないものとして知らしめてくる。
こんなことになるならば無視して反対方向へ直進していれば良かった、なんて死が近づくと自らの覚悟を撤回して後悔する自分が堪らなく嫌いだ。
出来る限り善に近い死に方をしなければと、あの子供が自分の死体を見つけないように離れ隠れたところで死ななければと思う。
もう面倒くさいと、どうして死の直前まで他人のためを考えなくちゃいけないんだとも思う。
相反する二つの本心が、自分の中で暴れている。
どうしようか、どうしたいか、どうするべきか。
「……」
迷いの末に頭へ浮かんだのは、善希の姿と、自分で自分に決めた矜持の二つであった。
快太は絞り出すように血混じりの息を吐くと、残り僅かな気力を振り絞って身体を動かし始めた。
両手十本の指の中で唯一健在な左手の親指を地面に突き刺し、引き付けるように力を込めて自らの身体を運び始めた。
遅々とした移動だ。進む度に余命が削られていくのを感じる。
脱臼していた親指が人差し指ほどに引き伸ばされてしまった頃、快太はようやく目的地に辿り着くことが出来た。大木の影、何処からも見えない死に場所だ。
あの子供が無事だったら嬉しい。楽な姿勢を探しつつ思った。そしたらば、今の自分に意味がある。あの子供の心に禍根を残さず、完全に助けることが出来たことになる。
だが実際は、ここまでしてもなおやりきったとは言えないだろう。自分が負けた以上、あの子供も追いつかれてそのまま殺されたかもしれないからだ。虚しい。ただ虚しい。
しかし、今の快太の胸中を大きく占めるのは、どちらかといえば満足に近い、つい微笑みたくなってしまうような感情だった。
死ぬのは怖く、見捨てておけば良かったという気持ちはやはり拭い切れないにしても、自分で決めたことを貫き続けることが出来たのは心地いい。
なんとなく、最期に空を見ようと顔を上げた。
残念なことに、見えなかった。何かの影になっている。上手くいかないものだ。
霞んだ視界では明らかではないが、なんとなく、その影は人の形をしているように見えた。
突拍子もなく、もしかすると母の幻覚だろうか、などと考える。
「……いや、善希かな」
思考を終えるよりも先に呟きが漏れた。
命を使ってまで自分を助けてくれた彼には申し訳なく思うべきだというのに、また会えるかもしれない嬉しさが偽れない。口角が上がるのを感じる。
空が見えなかった代わりに、笑うことが出来た。上々だろう。
「……眠い」
そう独りごちたのを最後に、快太の意識は断絶された。