第四話 望み
5話は22時に
6〜10話は明日更新します
「アレか……?」
善希の言葉より伝わってくる僅かな疑念の理由は、快太にもよく理解出来た。
木々の間より覗く光景が自分達が予測していたものとはかけ離れていたからだ。
絹のハンカチーフを引き裂いたような高音は間違いなく女性から発せられたものだろうと、二人とも暗黙のうちに判断していた。それほどにあの悲鳴は、妙な言い方が許されるならば、完成された甲高さを持ち合わせていた。
しかし、今目の前にいる蓑虫の被害者は意外にも“ごく小さな子供”だった。その足には赤色が見える。あの竜巻を食らって怪我をしたのだろう。
地面に腰が抜けたように座り込んでいる子供に対し蓑虫は徐々に近づいてはいるが、それでも両者の間にはまだある程度の距離が残っている。全く余裕が無いわけではない。
快太達は取り敢えず木陰に身を隠し、ごく僅かな時間の許す限り策を振り返ることにした。
「俺が囮になる。お前があの子を助けて離れる。後でお前が走ってった先で合流。……合ってるよな?」
「うん。貴方だったら追い付かれはしないだろ?」
「余裕」
「……不安じゃないの?」
問いかけてから気づく。不安なのは自分だと。
“引力”についてはあの後数回善希と共に実験したため、大まかな性質や使い方を理解は出来た。だが、それだけだ。土壇場での実践は今回が初めてであり、ただでさえ足を痛めている自分が失敗しない保証などどこにもない。
肺の中を砂で埋められていくかのような感覚がひたすらに息苦しい。
そんな状態のこちらへ一瞥すらくれずに、善希が言った。
「お前のことは信じてるよ」
次の瞬間、まるで魔法のように呼吸が楽になった。
「……そっか」
今の状況に至るまでの悩みに悩んだ時間と覚悟の言葉は、自分にとって重要なものだ。何があろうと軽んじたくはない。
その上で、善希と話しているとあの躊躇いの全てを些事ではないかと錯覚してしまう。
もう大丈夫だ。絶対に上手くいく。
「応。じゃあ三秒経ったらやるぞ」
「了解」
三、二、一。
“零”が脳内へ響くと同時に、善希が駆け出した。
その姿を視界の端に捉えつつ、快太は“何か”を携えたままの掌を子供へ向けた。
限られた試行錯誤の中で判明した“引力”の性質は二つ。
一つ目は『対象に引き寄せられるのは自分』だという大前提。“引力”をゴム紐に例えるならば、“対象”は壁、“自分”はゴム紐に括り付けられた球と表せる。つまるところ、対象は“引力”それ自体の影響を受けないのである。
二つ目は『使用出来るのは“何か”を持っている時と対象が人間の時に限る』という条件。“何か”に触れていなかったり、周囲の木々を対象に取ろうとした際は、どんなに強く念じようとも“引力”は発生しなかった。もちろん、実験の間自分以外でその場にいたのは善希のみであったので、対象が彼に限定される可能性も潜在はしているが、まあ、流石に無いだろう。
以上を踏まえて立案した作戦における自分の役目は、『子供を対象に取った引力を発動した後、そのまま子供を抱き抱えて離脱する』ことである。
「“引き寄せろ”」
その言葉を終えるよりも早く、身体に“引力”が働いた。合わせて地面を蹴り上げ、足を宙に浮かせる。摩擦により勢いが弱まらぬようにするための工夫だ。
快太達が隠れていた木陰は子供、蓑虫の双方から十分に離れていた。故に、“引力”により加速し続けた彼の身体は、多少大袈裟に述べるとすれば弾丸の域にまで達しうる。
「よし……」
子供へと到達するや否や、怪我をさせないように、かつ勢いを殺さないように快太は子供を抱き上げた。
その時点で“引力”は停止している。ここより先は根性の問題だ。呆気に取られている子供が我に返って暴れ出すなどするより前に、出来る限りの距離を取らなければ。快太は痛む足を押して進み続けた。
特に追われているような気配は感じない。善希が囮として付かず離れず、蓑虫の注意を一身に背負ってくれているのだ。
「……そろそろいいか」
もう十分だろうと自信を持って言える場所まで来たところで、快太は子供を地面に下ろした。
その子供は性別のわかりにくい中性的な雰囲気をしていた。髪こそ黒いものの、顔立ちからは外国人のような印象を受ける。まあ、あまり自信のない推測ではあるが、おそらくは男の子だろう。見たところ、足の怪我以外には特段目立つ外傷も無いようであり、それは不幸中の幸いだ。
彼が身につけている服はどこか病衣を彷彿とさせる。ところどころ破れてしまってはいるとはいえ、丁寧に縫製された跡が見える当たり、この森の近くにはある程度文明的な地域が存在していると見て間違いはなさそうだ。
一度蓑虫を完全に撒かねばならない以上、善希との合流には今しばらくの時間が必要になると考えられる。
早急にこの森から脱出するためにも、叶うならば今のうちにこの子が暮らしている街だか村だかの場所を聞き出しておきたい。
未だ戸惑いの様子が消えない子供に対して、快太は地面に座り目線を合わせて話しかけた。
「アー、言葉わかる?」
「……」
無視をされているわけではない。子供の目線は真っ直ぐこちらを向いている。
しかし、彼はただ困ったようにこちらを見つめるばかりであり、その口は結局最後まで開かれなかった。言葉は通じていないようだ。
やはりこの森はどこか日本以外の国に位置する場所なのであろう。
まあ、この程度で引き下がるわけにもいかない。言葉が駄目ならば身振り手振りを用いてみるまでだ。
「えー……貴方が……住んでる……ところ……駄目だな」
子供の様子を見るにどうも難しそうである。「住んでる」の時点でかなり無理のあるジェスチャーになっていたので、当然と言えば当然だ。
「待つか……」
早くも独力による意思疎通を諦め、快太は善希と合流してから諸々に手をつける意思を固めた。
「……」
「……」
沈黙の十数分。静寂が場を支配する。
いくら日本語の通じない相手と言えど、十かそこらも下の子供に対して気まずさを感じている自分が快太には情けなかった。
それにしても善希は今どのような状況下にあるのだろう。彼に限って蓑虫に追いつかれはしないと断言出来るが、こうも時間がかかっているようだと流石に心配だ。
改めて、子供に目を向ける。もしも彼が帰ってこないようなことがあればその原因は──。
「──こんなとこまで来てたのか。まあ、距離取って悪いことは無いけどよ」
「善希」
背後から聞こえてきた声は、紛うことなき善希の声だった。同時に胸の中の何かが晴れていくような気分になる。
「あの化け物割としつこいのな。もうお互い豆粒くらいにしか見えてないのにいつまでも追ってくんの。折角だから反対側に一キロくらい引き離しといたわ。もう出くわすことはないだろ」
「それはアツい。ありがとう」
「……で、今どんな感じ?」
「言葉が通じない感じ」
快太は子供からの情報収集の顛末を簡単に説明した。
「あー、やっぱここ外国なんだな」
善希は頭を掻きながら溜め息を吐き、その後、不思議そうな顔をして問いかけてきた。
「てかお前がコミュニケーション上手くいかなかったのが意外だわ。人と仲良くなるのは得意だろ?」
「言葉が通じないと限界はあるよ……」
善希の言う通り、老若男女を問わず人と仲良くなるのは比較的得意だった。だが最近、それはある種のバイアスがかかった結果ではないかと思うようになった。
母の死以降出会った人たちは軒並み、少なくとも自分にとっては善人だった。間違えた時は怒るのではなく叱り諌め、成功した時は褒め認めてくれるような人達だったのだ。仲良くなれて当然のような気がする。まあ、確かめる術は無いが。
「いや、俺も無理だわ。言語の壁って厚いのな」
そんな善希の言葉で、快太は思考の渦から現実へと引き戻された。
彼を以てしてもなおあの子との意思疎通は難しかったらしい。正直意外である。なんだかよくわからないまま懐かれる自分と異なり、善希は気質が明確に子供好きのする人間のはずだ。
「……何があったらあんな風に?」
だが、善希の失敗は子供の様子を見れば明白だった。自分が失敗した時は単に沈黙の時間が生まれたのみであったが、今のあの子供は木の陰に隠れて身体を震わせながらこちらの様子を伺っている。
「いや本当何もしてないって。最初に一言話しかけた瞬間に隠れられたんだよ」
「じゃあ言語の壁関係ないじゃんか」
「まあ確かにそうなん……」
突如善希の言葉が途切れ、身体を乱暴な痛みを伴う衝撃が駆け抜けた。
自分を置き去りにして前へと進む光景の中、善希に突き飛ばされたのだと理解する。しかし、彼は理由もなくそんなことをする人間ではない。
「いきなり何を……」
だからこそ快太は理由を聞こうと顔を上げた。
次の瞬間、目元から頬にかけて生温かく粘土を持った肌触りを感じ、その気持ち悪さについ瞑ってしまった目を開けるよりも早く、半ば反射的に手で拭った。おそるおそる瞼を持ち上げてまず目に入ったのは鮮やかな赤色のこびり付いた自らの手の甲だった。
現状を理解する間もなく、まずはとにかくと前を向く。誰もいない。だが、視界の下方には何かが見える。
何も考えずにその“何か”に焦点を合わせた。光を失った目。赤く染まった服。そこにあったのは、明らかに大切なものが抜け落ちた善希の肉体だった。
状況が判然としない。脳が情報を処理せずに放置している。
「……」
だから快太は無心で音がした方向に、子供が隠れていた木陰の方角に視界を移した。
最初に認識したのはまたも赤色。そしてそれに続くは蓑虫と同じく自分の常識の外にある異形の姿。丁度蟻塚から人の手足や顔を生やしたように見える不快感の結晶。
幾つかの顔からは子供にも似た笑い声が響いており、伝わってくる無邪気な悪意が善希の死をようやく現実として快太に認識させた。
何気ない会話の合間に最後の言葉すら交わすことなく善希は死んだ。
程無くして気づいた時には、心は一つに定まっていた。日常の中蜚蠊や蚊に為す時とは全く異なる害意を自らに感じる。
「……」
言葉は出ない。不思議と眉間が痛む。ただひたすらに、善希の仇の尊厳を踏み躙り、生を奪ってやりたいと思った。