第三話 覚悟の言葉
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落ち葉の奥から覗く濁った光が目だとするならば、それは確実に快太を見下ろしていた。
逃げるべきだということはわかっているにも関わらず、体が動かない。それどころか、動かそうともあまり思わない。
動かない理由の方は、まあ、恐怖だろう。
動かそうと思わない方の理由? 「投げやりな気持ち」というやつだ。
理解出来ない事柄は正直もうこりごりであり、なんだか面倒臭くなってきた。どこか他人事のような気分だ。
隙を伺っているのだろうか。蓑虫のような化け物もまたこちらを見つめたまま微動だにしない。
張り詰めた静けさが場を満たしている。
しかし、それは意外というべきか順当というべきか、いずれにしてもすぐに終わることとなった。
蓑虫が音を立てたのだ。
落ち葉が擦れ合うような謎の音を発しながら、人間でいう腕にあたるだろう部分を蓑虫が高く掲げる。
すると、蓑虫を構成している落ち葉の幾ばくかが宙に浮き、渦を巻き始めた。
数秒後にはそれは蓑虫よりも少し大きい程度の竜巻となり、獣が唸るような音を立てて直下の地面を削っていた。
蓑虫が腕の先で快太を指し示した次の瞬間、周りの木々を切り裂き巨大化しながら蓑虫の所作と呼応するように竜巻が向かってきた。
ここでようやく彼は自分が攻撃されていることに気がついた。
当然のことではあるが彼に戦闘の経験など無い。
ましてや相手は異形。判断が出来ずに反応が遅れてしまったのも無理のない話ではあった。
だがそれは攻撃者には全くもって関係のない話であり、油断はそのまま怪我に、最悪の場合死に繋がる。
竜巻が目前に迫ってもなお回避の指示は脳から身体へ伝わっておらず、四谷快太の死はもはや避けようのない事態と言ってもいいような状況の中、彼が人生最後になりうる瞬きを特段意識もせずに終えた、その時だった。
「何突っ立ってんだ……!」
突如聞き慣れた声と共に身体へ衝撃が伝わり、風景が左に飛んだ。
勢いのままに地面を転がり終えた後目を開けると、自分を救った人物の顔が見えた。
「善希」
数十分ぶりの再会に思わず名前を呼んだ。なんとなく面白くて、自然と頬が綻ぶ。
「バカじゃねぇの!? なんで逃げねぇんだよ……てかまず逃げるぞ」
「了解……痛っ」
落ち着く間もなく走り出した善希に続こうと立ち上がったところで、左足に激痛が走った。目を落として自らの両足を視界に入れると、そこには無傷の右足とは対照的に、赤い絵の具を拭ったボロ雑巾のような状態の左足が映っていた。
「悪い。少し遅かったんだな」
視線を同じくして、善希がそんなことを言った。荒っぽさもある口調に反して、ある程度は真面目でとことん真っ直ぐな性格なのだ。
「いや、俺がぼんやりしてたのが悪いから」
一瞬、迷った。
「……貴方だけでも逃げてよ」
「バァカ。こうすりゃ済むだろ」
快太の言葉を軽く一蹴すると、善希は数時間前と同様に快太を肩に担いだ。
「つかなんならお前が無傷でもこっちの方が速いかもな」
冗談か本気か定かではないがそんなことを言いつつ、善希が駆け出した。凄まじい脚力だ。彼が全力で走った時の百メートル走は確か六秒と少しだったか。蓑虫もこちらを追ってはいるものの、彼の足に比べれば大した速度ではなく、その姿はあっという間に木々に紛れて見えなくなった。
「……ここまで来れば大丈夫だろ。降ろすぞ」
「本当にありがとう」
快太は足が出来るだけ楽な姿勢を探しながら礼の言葉を述べた。
「気にすんな。……で、これからどうするよ?」
「問題はそこだよね」
快太は腕を組んで考え込んだ。現状の自分は善希に迷惑をかけてばかりだ。ここらで一度役に立っておきたい気持ちは多分にある。
とにかくまずは……安全な場所に行きたい。あんな化け物がいる中ではおちおち帰宅方法を探すことも出来ない。
しかし、安全な場所とは何だ? そもそも今の自分達は、大雑把にすら現在地を特定出来ていない。
そんな中で絶対的な安全地帯を探すのは流石に高望みのような気がする。
ならば自分達が目指すべきは相対的な安全地帯、化け物がいない場所、つまりは森の外だろう。
この森がいかほどのものか知らないが、外に出るだけならば容易い。
単に真っ直ぐ進み続ければ良いのだ。森の広さは無視するものとする。
「……みたいな感じでどうだろう?」
「良いんじゃねぇの。仮に間違えててもお前の方が賢いし俺が間違えるよりはマシだろ」
「じゃあ、まずはあの化け物と反対方向に歩き続けてみようか」
「応……ところでお前歩けんのか?」
「……どうなんだろう」
「ま、歩けないなら運べばいいか」
「流石に悪いよ。取り敢えず立ってみる」
今後の短期的方針も決まり、いよいよ行動へ移すために快太が自らに気合いを入れるのと、ほぼ同時の出来事だった。
「────!」
絹のハンカチーフを引き裂いたような高音が、微かに聞こえたのは。
「……お前も聞こえたよな?」
善希の確認に、快太は頷いた。
今のは間違いなく悲鳴だ。この森の中でそんなものが聞こえたとなると、その心当たりは一つしかない。誰かがあの化け物に襲われているのだろう。
「ちょっと行ってくる」
「……は?」
善希の言葉に対して飛び出したのは、間抜けとしか表しようのない声だった。
「そんな驚くなよ。お前だっていつも、それこそ六時間くらい前だって似たようなことしてただろ?」
「理由にならない」
単純に簡潔に言い放ちながらも、快太は必死に思考を巡らせていた。善希を引き止められる言葉を探し続けた。
だが、見つからない。彼が止まる光景が想像出来ない。
「いぃやなるね。俺は行くからな。……その前にコレ渡しとく」
善希が突然放ってきたものを快太は慌てて受け止めた。掌からなんとなく気味の悪い雰囲気が伝わってくる。半ば正体を察しつつ指を伸ばして確認すると、それはやはり洗面所の床で拾った例の“何か”だった。
「…………ッ」
響いた歯軋りの音が自分からのものだと気づくのに、数秒の時間を要した。
これは明らかに“きっかけ”だ。自分達が謎の森で遭難している原因であり、更にはかなりの高確率で日本に帰るための鍵だ。
実際のところどうなのかは関係ない。ただ、そんなものをこちらへ渡すに至った、善希の想定する最悪の未来だけは考えたくもない。
「じゃあ、後でな」
「待……」
自分達が蓑虫から逃げてきた方向へと歩み始めた善希を止めるために立ち上がろうとした瞬間、左足に痛みが走り言葉が途切れた。
思わず瞑ってしまった目を開けた時には、善希は普通の人間ならば絶対に不可能だと断言出来るような距離まで離れていた。快太は善希の膂力の強さを憎んだ。
「……勘違いすんなよ? 別にコンプレックスとかじゃねぇ」
不意に足を止めて善希が言った。
「俺が、やりたいんだ。怪我さえしていなかったらお前だったらするように」
「……ッ!」
今の自分の歪んだ表情は善希から見えていただろうか。
違うんだ。違うんだよ、善希。
快太は内心呼びかけた。
確かに怪我をしていなければ、俺も悲鳴の場所へ向かったと思うけれど、それは“自分に決めたこと”があるからでしかないんだ。
“怪我をしていない今の自分”の頭には、仕方のない逃げ道を持ち合わせている時の自分には、他人を助けるなんて発想自体、全く出てこないんだ。
そもそも自分は、「貴方だけでも逃げてよ」と口にするのを一瞬躊躇ってしまうような人間なんだよ。
「だから……!」
善希の行動の根本にあるのが、例外なく善希の内面より来るものだったらば別に良い。まずは止めるにしても、無駄だとわかれば最後には命の危険の有無に関わらず友人として尊重出来る。
だが、コレは駄目だ。嫌だ。彼が四谷快太を過大評価した結果、自分の命を無造作に扱うような行動へ走るなどということは単純に──。
「──受け入れられない」
その言葉は自分の口から出たとは思えないほどに、いっそ他人のものかと感じるほどに力強かった。
快太は驚いた。自らの言葉の力強さに対してではない。
依然手の上に乗っていた“何か”が、前触れもなく『再び光りだした』からだ。
「え?」
あまりにも予想外の現象に、快太は今日何度目かわからない、今しがたの言葉の力強さが嘘かと思えるほどの間抜けな声を上げた。
そしてそれは一度だけでは済まされず、更なる情けなさを伴う二度目がすぐに口を衝いて出た。
「ウェっ!?」
身体に謎の力が働いたのだ。地面を蹴るどころか立ち上がってすらいないというのに、光景が独りでに後ろへ流れていく。
「は?」
何かにぶつかったと思うやいなや、今度は三度目の、しかし自分から出たものではない、間抜けな声が聞こえた。
「……そこまでして止めるか普通?」
声の主は、今現在快太の下敷きになっている善希であった。どことなく息苦しそうなのは、彼の胸部に自分の肘が刺さっているからだろう。実行に移す気は無いが、このまま押し込んでいけば彼をこの場に引き留められるかもしれない。
「貴方が死にそうだったら止めるよ。まあ、今のは別に俺がやったわけじゃないけど」
「どういう意味だよ?」
「いやなんかコレがまた光り出してさ」
「怖っ……まあ、雰囲気は崩れたけど、
やっぱり俺は行くからな」
持ち前の怪力で特に力んだ様子もなく快太を退かした後、善希は再び蓑虫がいると思われる方向へ走り出した。
「……」
一方の快太は、黙って“何か”を見つめていた。
今の現象は一体? 不思議な感覚だった。まるで善希と自分の間に断裂の寸前まで伸ばされたゴム紐が存在していたかのような“引力”。
「……俺?」
根本的な理由はわからないが、末梢的にはそれは自分が“何か”に触れていたがために起きた現象のような気がした。
無言で“何か”を握り締めると、快太はその掌が善希の走っている方向と垂直になるような姿勢を取り、先程自分に“引力”がかかった時の感覚を思い出すために目を瞑った。
「……」
一瞬、迷った。
可能性が低いのは重々承知している。“引力”を意識的に扱えるかどうか以前に、そもそも“引力”が自分の内から発現したものなのかも不明なのだ。何か別の要因による現象であると考えた方が遥かに妥当だと言える。
だが、もしも。
もしも、今から試してみることで“引力”を引き出せると明らかになってしまったならば、そのごく僅かな可能性が現実であったならば。
『自分も悲鳴の主を助けなければいけなくなる』
別に試さなくても良いか、とふと思う。万事において怪我は仕方のない理由だ。ただ待っていれば、善希が悲鳴の主と共に帰ってくるかもしれない。
善希を一人で死地に送り出すなんて、とも思う。この状況下、しかも友人が行こうとしている以上、何か出来うるならば試すのが『善』だろう?
そんな逡巡の理由の大部分を占めるのは、怪我でも恐怖でもない。嫌悪だ。見も知らぬ他人のために、どうして命を懸けないといけない。痛いこと、辛いこと、自分の利益にならないことは全部全部大嫌いだ。
「……」
快太は深く息を吐いた。
でも、やらねばならないのだ。自分で決めたことだから。自分で決めたことくらいは。
自分のことは知っている。自分の人間性については受け入れている。
故に、“覚悟のための言葉”は常から胸に据えている。
「……」
日常を、そして自らを回想した。
人助けは……別に嫌いじゃない。助かった人を、良い方向へ変わった人を見ることが不快だなんてことはない。
嫌いなのは、自己犠牲だ。きっと自分はあまり善い人間でないのだろう。
孤独になった時周りに居てくれた人達のように、善希が自分にしてくれたように気持ち良く他人を救うことは出来ない。己を僅かにでも削って他人を心の底から想える善人にはなれない。
わかっている。嫌気が差すほどにわかっているんだ。
でも、むしろ、だからこそ。
「行動だけは善人でいたい」
三度、“何か”が輝いた。再び“引力”が働いた。身体が善希へ引き寄せられる。
関節と筋肉が痛むほどの力を身体に込めて姿勢を制御した甲斐があり、今度は真っ当な状態で善希へと到達出来た。
「俺も行くよ」
鏡が欲しい。今の自分の表情は晴れやかなものだろうか。それともどこか鬱陶し気になっているだろうか。
唖然とした善希の顔をながめながら、快太はそんなことを考えていた。