第二話 森の中にて
今の自分がどんな状況にあるのか、まるで把握できていない。
考えよう、考えるんだ。
快太は湧き上がる混乱を抑えつけながら思考の制御に努めた。
自分はついさっきまで家で濡れた洗濯物を回収していたはずだ。それは間違いない。
ではなぜ自分はこんな森の中にいるのか。それはわからない。
少なくとも、日常の価値観の範囲内では。
「……巻き込まれたのかなあ。二人共」
実は日常の価値観と離れて考えてみれば、思い当たるところがないでもない。その思い当たるところの答えは意外と簡単なもので、一言で言えば“超常”だ。
「……流石に無いか」
口ではそう呟きつつも、快太の心はその可能性に強く寄っていた。
“超常”。改めて言葉にしてみた時、それは現実を生きる人間の耳には随分と安っぽく聞こえてしまう。組織としての国家やメディアがその存在を認めていないことも原因の一つかもしれない。
だが、実際のところ、各個人個人単位において“超常”の存在は「まあ、あるだろう」ほどの認識となっている。理由はいくつか存在し、その最たるものは結局のところ件の光の壁だと断言出来る。
光の壁。地球を、日本側、つまりは現在の東半球と、かつて地球上で日本から最も離れた場所に存在していた国、ブラジル側、つまりは西半球に分ける原因となったもの。三十数年前、突如出現した謎の結界。
西半球を完全に包み込み東半球から遮断しているそれを、当時の科学者はこぞって解析しようとした。無理だったとのことだが。
西半球がどうなっているのかは未だ誰にもわからない。
さて、そんな光の壁が出現して以降、当然東半球に限った話ではあるが、人間世界は少し変わった。
必ず船が転覆する海域や行方不明になった人間の遠い異国の地における発見、遺伝子上ありえないはずの髪色の赤子の誕生など、既存の科学ではなんとも説明し難い事象の発生頻度が跳ね上がったのだ。
超常としか言いようのない光の壁の存在が明確な中でそんな曖昧なことが起きると、人の心は超常を認める方向に傾いていく。快太と善希の間でも、善希の異常な腕力は十中八九“超常”だろうと話が纏まっていたりする。
とにかく、快太がその傾向が出来上がった後に生まれた人間である以上、現状の原因を超常に委するのは、さほど不自然でもないだろう。
「で、なんだ」
快太は思わず呟いた。現状の推測が終わったにも関わらず、その結果は家に帰るための一助程度にすらならない。大して時間を使ったわけではないにせよ、この結果は中々の徒労感に襲われる。
「どうしろっていうんだよほんと」
溜め息が出てしまう。
雨晒しの洗濯物を回収しようとしただけなのに何故こんなことになったのか。快太はしばらくの間、頭を抱え座り込み、嘆いていた。
そして三十分程が経った。時間をかけて嘆いた甲斐あって、彼は多少落ち着きを取り戻すことが出来ていた。
さて、ここからどうするべきだろうか。
座り込んだまま、思考する。
やはり最初に思いつくのは善希の捜索だ。彼の腕力等から考えるにあまり心配する必要も無いような気もするが、また、そもそも彼がこの転移に巻き込まれているのかも定かではないかまだ、それと心情は別の話だ。
「……」
まあ、善希の位置もわからないのだ。彼の捜索を方針に据えるにせよ、もう少し色々と考えてからにすべきだろう。快太は大きく深呼吸をした。
「えーと」
“色々”の一つ目として、まずは自らの記憶の中に何か当てになる知識がないか探ってみよう。
真っ先に思い当たる知識として、山などで遭難した場合、闇雲に歩き回るのはあまり良くないというものがある。
しかしそれは、ある程度の所在地が特定されていてかつ捜索隊が出されることが前提の方策のような気もする。
所在地の特定に関しては考えるまでもなく絶望的だろう。「富士山に行く」と言ってそのまま行方不明になるのとは訳が違う。自分がこんな場所にいることには何の脈絡もない。
では捜索隊についてはどうか。
いなくなった時に心配してくれる人はそれなりにいると自負しているが、何せ自分は一人暮らしの男子高校生である。行方不明という事実に気づかれるまでにそこそこの時間を要するはずだ。捜索隊が出されるまでには更にそこから数日かかる。
「……」
自分で帰る方法を探した方がいくらかマシなような気がしてきた。善希もこの森の中にいると仮定した時、帰り道を探していれば善希と出会う確率も自然と上昇するだろうから、一石二鳥である。
「とりあえず歩き回ってみるか」
快太はゆっくり立ち上がると、自らの勘が命じるままに適当な方向へ周りを観察しながら歩き出した。
思えば周囲をしっかりと見るのはここに来てから初めてだ。
現在地の把握、という意味ではこれはもう少し早く手をつけるべき事柄だった。
冷静になったつもりであったが、その実、自分でもわからない心の中では焦っていたのかもしれない。
そんなことを考えてながら已然周囲を観察しているうちに、快太はとあることに気がついた。
「……こんな植物見たことない」
そう、周りの植物にまるで見覚えがないのである。
いや、日本にある植物なら全部知って知っているのか、と言われれば当然否なのだが、今自分の周りにある植物は、見てすぐに日本には絶対生えていないと断言出来るほどに日本のそれらと異なっている。
なんというか、進化の根本の部分から違うような、そうでなくとも大分早い段階で分かれてしまったような、そんな感じだ。
葉を一枚毟ってみた。落ち葉があればそれでも良かったのだが、どういうわけか一枚たりとも見当たらなかったので仕方ない。
快太は手元の葉に目を向け、触った。不思議な質感だ。軽く見ただけではわからなかったが、触ってみると中央部はそれなりの厚みを感じる。
更には、生命の重みとでもいうのか、なんとなく脈打っているような気もする。
「うわっ」
違う。本当に脈打っている。気持ち悪い。
思わず投げ捨ててしまった。
先ほどまでは沖縄や北海道などの森の可能性も捨ててはいなかったが、これで確信した。
ここは日本ではない。日本にこんな気色悪い植物は生えていない。
快太はぶつくさと文句を言いつつ服に手を擦り付けた。
そして再び今までと同じ進行方向へと歩き出した……訳だが何とも落ち着かない。
先ほどまでは単なる植物だと気にしていなかったそれらが、脈を持ったよくわからない何かだと知った今は何だか恐ろしく見えてくる。
森の中特有の響くような風音も、頭蓋の奥まで入り込むような匂いも、落ち葉を踏み締める音も──
「──ん?」
何か、おかしい。違和を感じる。
快太は考える。
違和感の原因は何だ。
風音? 違う。こちらの受け取り方はともかく、それら自体は最初から変わっていない。
では匂いか? これもまた違う。理由は風音に同じだ。
ならば答えは必然的に決まる。
おかしいのは、落ち葉を踏み締める音だ。この森に落ち葉が無いことを不思議に思ったのは自分であり、実際、今の自分の足元にも落ち葉は無い。
つまり、この音が示していることはただ一つ。
「自分以外の何かが近くにいる」
快太は答えを声に出し、足音の主が善希である可能性に期待してゆっくりと振り返った。
結論から言えば目に入ったものに対して投げかけたのは再開の言葉ではなくため息だった。
もううんざりだ。
そこにいたのはこれまでを遥かに超える無茶苦茶の塊。光の壁に匹敵するほどの超常。
明らかに人間ではない。
二メートルほどの人型に落ち葉を纏わせた蓑虫、というのが最もしっくりくるだろうか。
とにかく、快太の目線の先にいるのはそんな化け物だった。