(7)
その夜、リオは妖使界の自分の家から抜け出そうとした。もう戻れない覚悟はできていた。
家族は別れの手紙を後で読むことになるだろう。
リオはそっと窓を開け、そこから出ていこうとした。その時。
「リオ……」
囁くような小さな声がし、ドアを見るとそこには姉が立っていた。
「行くのね。……もう、戻ってこないのね?」
瞳に涙をいっぱい溜めそれでも堪えようとする姉を見て、リオは彼女だけが気づいていたことを悟った。
「姉さん、ごめんね。父さんと母さんにも謝っておいて」
姉はリオを抱きしめた。
「もう、止められないのね。後悔しないのね?」
リオも涙を流さずにはいられなかった。でもゆっくりしている時間はあまりなかった。
「姉さん、伝えて。リオは幸せでしたって。精一杯生きましたって」
それだけ告げると、リオは振り切るようにして窓から飛び立って行った。
* * *
集中治療室の一角に、弥生はいくつかの配線に繋がれ静かに眠っていた。
母体へのダメージは大きく、昏睡状態であった。
ガラスで隔てられた廊下の片隅にある長椅子に輝哉はいた。
衰弱しきった顔は精神的ダメージの大きさを物語っている。虚ろな瞳は一体何を映し出しているのだろうか。
リオの言葉を信じようと何度も何度も心の中で繰り返した。が、弥生の姿を前にして輝哉の心は不安の渦に呑み込まれていく。医者からは今日明日が峠と宣告されていた。
リオは透明な人間の姿で2人の間に降り立ち、双方を見てひとまず深呼吸した。
(間にあったようね、良かった)
リオの視線はじっと弥生を見据えた。
(やっぱり弥生ちゃんの魂、持ち堪えられないね……)
魂の放つオーラがリオの目にはぼんやり消えかかって映った。
あまり時間は残されていない。このままでは数十分後に容態は急変するだろうと予測できた。
リオは輝哉の目の前に跪いてその顔を見つめた。
(弥生ちゃんは守るからね。輝哉くんと弥生ちゃんと赤ちゃん、三人の家族の幸せ願ってるよ。私の渡した命の分も精一杯生きてね。それで私は報われるから……)
リオは微笑み、そっと輝哉の両頬に両手を添えた。そして静かに口づける。
触れるか触れないかの最初で最後の輝哉へのキス。
(あなたを愛せて私は幸せだった。あなたと出会えたことが私の人生の最高の出来事だったって、今なら胸張って言えるよ。……輝哉くん、さようなら)
リオは輝哉に心の中で別れを告げ立ちあがった。その足で集中治療室へと入っていく。
誰もいないはずがドアが勝手に開いた。だが、その異変にも輝哉は気づくことはなかった。
中では数人の看護師がせわしなに仕事をこなしている。
リオは弥生へと近づいた。
機械だけが今弥生がまだ生きている証だといわんばかりに、規則的な音を発していた。
(弥生ちゃん、もうすぐ目覚めさせてあげるね)
リオは励ますように弥生の片手を両手で包み込んだ。そして意識を彼女の夢の中へと集中させる。
夢ならリオは自由に操作できる。リオは弥生とだけでも面と向き合って話がしたいと思った。
『弥生ちゃん、……弥生ちゃん、私が誰だか分かる?』
宇宙のような闇の中、弥生はポツンと立っていた。リオはそんな彼女に近寄り声をかけた。
『ええ、リオちゃんでしょ。天使じゃなくて妖精のリオちゃんが迎えに来てくれたの?』
弥生は自分の命が尽きたものと思っているようだった。リオは否定する。
『弥生ちゃん、諦めちゃいけない。あなたは生きてるの。これからもずっと生きていくの。輝哉くんと赤ちゃんと三人で幸せになるのよ』
『赤ちゃ……ん?』
『そう。無事産まれたんだよ。女の子だって』
弥生はホッと安心したように涙を流した。が、すぐさま淋しそうに俯いた。
『逢いたい。でももう戻れないみたい……』
リオはぎゅっと抱きしめた。
『諦めないで。絶対逢えるから。私が保障する!』
そして弥生の瞳を見つめ願いを託す。
『輝哉くんをお願いね』
そう言い残し、リオは現実の世界へと戻ってきた。
(輝哉くんを幸せにしてあげてね。それができるのは弥生ちゃん、あなただけだから……)
リオが弥生へ命を吹き込もうと身を屈めた、その時。
「リオ、やめろ!!」
悲痛な大きい叫びが廊下から響いてきた。その姿を見て、リオは目を見開いた。
「ソラ……」
嫌な予感に念のためリオの家へ様子を見に行き、リオが姿を消したことを知ったソラだった。
突然響いた大声に、さすがの輝哉もビクッと我に返り、どこからともなく聞こえてきた声の主を探していた。
「やめてくれ、お前死ぬんだぞ!!」
ソラは叫びながらその身を人間へと変化させ、猛然とリオのもとへ向かってくる。
輝哉は突如現れたソラに驚き、彼がリオの知り合いで、更にリオが何かしようとしていること知った。そしてその何かが弥生の命と関係していることも。
「リオちゃん、まさか……」
弥生を助けようとしているのではないかと思う輝哉。
一方リオは急いでやってくるソラがここまで来ないうちにと、瞬時に弥生へ命を吹き込んだ。
直後ソラがリオの肩を掴み振り向かせる。リオの目に苦しく切ない瞳を宿したソラが写った。
「ソラごめんね。誓い……守れなかった。ソラの想いに応えられなくて……ごめんね」
そう言って弱々しく微笑んだリオはゆっくり瞳を閉じ、二度と覚めない深い眠りに吸い込まれていった。
ソラの手から滑り落ちたリオは人の目にも写る妖精の姿となって、まるで人形のように床に横たわっていた。
「リオ……?」
何の反応もないリオを、ソラは跪き震える両手で愛しそうにすくいあげる。すでに魂のない抜け殻となったリオの体を、ソラは抱きしめるように胸に押し当てた。
「リオ―ッ!!」
慟哭が響き渡る。ソラの瞳からは止めど無く涙が溢れ出した。そしてその胸の内には深い哀しみと同じくらい、憎しみという感情が湧きあがる。
「許せねぇ……」
ソラはリオを抱えたまま輝哉に向かっていった。
輝哉もまた内で起こった出来事に尋常でないものを感じ取っていた。自分のもとへやってきたソラに、何が起こったのか輝哉には尋ねるしか術がない。
「リオちゃんに何があったんだ、教えてくれ!」
きつい視線を向けたソラは無言でリオの体を輝哉に突きつけた。
「リオ……ちゃん?」
輝哉はリオに触れようと手を伸ばした。
「触るな!」
輝哉はソラの一言にビクッと手を引っ込める。
輝哉は血の気のないリオの顔を見て、ソラの「お前死ぬんだぞ!」という言葉を思い出した。
「まさか、死……」
輝哉は息を呑んでソラを見た。
その瞬間バキッと骨の軋むような音がし、輝哉は吹っ飛ばされていた。ソラは握り締めた片方の拳を震えるほど強く握り締めていた。
「俺達妖精は人に命を分けることを御法度とされてる。その罪を犯せば魂そのものを抹殺されるんだ。前にリオが助かったのは、王様が今回だけはとお許し下さったから。でも二度目は必ず抹殺されることになってたんだ!」
輝哉が初めて知る真実。輝哉の心に命を分けると告げた時のリオの笑顔が浮かんだ。
輝哉はあの時の笑顔の裏に隠されたリオの決意に今更ながら気づいた。
「どうして本当のこと言ってくれなかったんだ。リオちゃんを犠牲にするなんて思ってもみなかった……」
「知らなかったで済まされるかよ!」
ソラは輝哉の胸座を掴み、憎しみを湛えた瞳で輝哉の目を見る。
「あんたは気づいてたはずだ、あいつの想いに。その想いを利用したんだ。自覚がなくても、あいつがあんたを裏切れないのは分かってたはずだ。違うか!?」
ソラに見据えられた輝哉は思わず目を逸らした。
確証があったわけではないが、輝哉はリオの想いに何となく気づいていた。でもリオからは何も告げられなかったため、自分の思い過ごしかと思ったのだった。
そしてようやく気づく。
リオが想いも事実も口にしなかったのは、自分の死を輝哉のせいにさせまいとした彼女の思いやりだったということに。それが彼女なりの輝哉への想いの表現だったということに――。
「どう償えばいい。……どう償えるというんだ、君はもういないのに!!」
輝哉の瞳から涙が溢れ出した。吐き出すような叫びを受け取る人はもういない。分かっていながらも、輝哉は叫ばずにはいられなかった。その時。
「………もうやめて」
微かな声が二人に届いた。もうどこにもいるはずのない女の子の声に、二人は驚きを隠せなかった。
「やめて。誰も悪くないんだから……」
二人の前に、儚い幻影のごとくリオは妖精の姿を現した。
ソラは輝哉の胸を掴んでいた手を離し、信じられない思いでリオへ手を伸ばす。だがその手は幻影を擦り抜けた。
リオは悲しそうに微笑む。
「これが私の最後の力。お別れする時間は残されてたみたいね」
そう言ったリオの目の前で、輝哉は廊下に土下座するように座り込んだ。床につけた両拳は震えていた。
輝哉はリオを振り仰いだ。
「どうしたら償える? どうすれば君の想いに報いることができる? ……俺の命じゃ君を生き返らせられないのか?」
リオはそっと輝哉の手元に舞い降りる。リオはまずソラを見上げた。
「私は誰も恨んでないし、後悔もしてないよ。私は私の心に正直に従ったまで。だからソラ……輝哉くんを責めないで。私からの最後のお願い。……いい?」
リオはすっきりとした表情に笑みさえ浮かべていた。その様子に、ソラはリオに対してできる最後のことだと痛感し頷いた。
リオは涙を流し続ける輝哉を見る。
「輝哉くん、私は償いなんていらないよ。……前にも言ったよね。一生かけても心の底から愛する人を見つけられない人がたくさんいるって。でも私はあなたと出会って、あなたを愛せた。それだけで充分だよ。それでも償いたいというなら、弥生ちゃんと赤ちゃんを幸せにすること、笑顔を絶やさないこと。この二つ、私と約束して」
輝哉の心はリオの明るさに救われていく。リオは輝哉が後ろめたい思いを残さないよう、あえて約束を提示したのだった。
「……約束するよ。俺の命にかけても、この約束だけは守るから」
輝哉の力強い言葉にリオは微笑んで頷いた。
そしてとうとう最期の時が訪れる。リオの姿は益々薄くなっていった。
「二人とも幸せになってね。じゃ、本当に………バイバイ!」
リオは二人に笑顔で手を振った。
リオの魂の最期は、まるでダイヤモンドダストのようにキラキラ輝き、散っていったのだった。
* * *
目覚めた弥生の傍に、輝哉は彼女の手を握って跪いていた。
弥生はその手を動かし輝哉の頬に触れる。
「何かあったの?」
まだ乾ききらない涙の痕に弥生は気づいたのだった。
輝哉は弥生に責任を感じさせまいと首を横に振った。
弥生は天井を見て深い呼吸を一度し、再度輝哉を見る。
「リオちゃんに感謝しなくちゃね」
その言葉に輝哉は驚いた。
「夢の中で励ましてくれたの。リオちゃんのおかげで私戻ってこれたの」
輝哉は知る。弥生がそれとなく気づいていることに。
「弥生……」
輝哉は弥生の手をぎゅっと握り、自分の頬を近づけ触れさせた。
輝哉の瞳から新たな涙が一筋伝う。それを拭おうともせず、輝哉は弥生の顔を見つめた。
「子供の名前、……里央ってつけてもいいかな?」
リオの死ぬ前に産まれた子が、リオの生まれ変わりであるはずがない。リオは消えたのだ。
分かってはいるが、輝哉は自分の子にリオの名をつけたかった。
リオが見るはずだった未来を、子供の目を通して彼女にも見せてあげたい、伝えたいと思ったのだ。
そしてリオのように優しくて明るい笑顔の似合う子になってほしいという願いもこもっていた。
弥生は優しく微笑んだ。
「私もそう思ってたの。女の子が産まれたと知った時からね」
弥生の言葉を聞いた輝哉の顔にも笑みが浮かぶ。
輝哉は天井の遥か高くに視線を向けた。
――リオが笑顔で見守っている気がした。
【終わり】
7回に渡って投稿しました「君の笑顔を守りたい」、今回で完結です。
お読みくださった方々ありがとうございました。
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