(3)
弥生が手術室に入って数時間が経過しただろうか。
手術室の前に弥生の両親と輝哉が沈痛な面持ちで長椅子に腰掛け、、時折いたたまれず辺りをうろうろしていた。
苦しそうに口を真一文字に結んだ輝哉の横で、リオはそっと輝哉に話しかける。
「あのね私、弥生ちゃんの手術終わったら帰るね。もう羽は完治してるけど、輝哉くん達と一緒に祈ってたいの、弥生ちゃんの無事を。一人でも願う心が多ければ、きっと願いは届くから……」
輝哉はそっと瞳を細め切なげにリオを見た。
「そうだな……」
そして再び廊下に静寂が広がる。
遠くから微かに聞こえてくる声と、たまに辺りを歩く足音が響く状態のまま、時間だけが更に経過していった。
突如リオの体がビクッと震え、驚いた眼差しを手術室の扉へと向けた。
「どうかした……?」
リオの様子に輝哉が問う。
リオは凍りついた表情で輝哉を見つめる。唇が微かに震えていた。
(弥生ちゃんの生命力が急激に弱ってきてる。このままじゃ……)
そう、……妖精には感じることができるのだ。生命力のかなり弱まった魂を。
命の灯火が消えようとしているこの瞬間を……。
この感覚が妖精としての仕事を探し出してきた。例えば自殺願望を抱えている魂を感じたりなど、人として救える範囲で生命力の弱い人間を助けてきた。
でも今回のように病気や事故で消えようとする命は、感じることはできても救えはしない。
リオはこんな状況に出くわすといつも思う。自分は無力だと。
「輝哉くん、ちょっと来て!」
リオは輝哉の手を引っ張り、弥生の両親達と少し距離を置いた。
「どうしたんだよ、リオちゃん」
戸惑う輝哉にリオは向き直り、真っ直ぐ瞳を見つめた。
「落ち着いて聞いて。弥生ちゃんの生命力、かなり弱ってきてるの。たぶんもう、そんなにもたないと思う」
輝哉はリオを凝視した。
「嘘………だ」
「嘘じゃない。私達にはそれが分かるの」
「嘘だ。……信じない、そんなの」
そう言った輝哉の瞳からは、大粒の涙が溢れ出していた。
口では否定しながらも、心の中では人間でない妖精のリオの言葉を肯定していた。
(私は輝哉くんに何をしてあげられるんだろう。こんなこと今伝えたって、受ける悲しみの度合いに変わりはないのに……)
「俺、無力な自分が悔しい。あいつは俺を助けてくれたのに、俺にはあいつを助ける術がない。あんないい子よりこの俺の命を絶ってくれ!」
噛み締めた口から、握り締めた両の拳から血が滲み出していた。
(このままじゃ本当に自分の命を絶ちかねない!)
リオは悲しみに沈む輝哉を見つめた。
ふとその表情にリオの大好きな輝哉の笑顔が重なる。
あの笑顔を取り戻してくれるのなら……と、リオの胸にある考えがよぎり、それはすぐさま決心へと変わる。
「輝哉くん、弥生ちゃんを救える方法がたった一つだけあるの」
輝哉は瞬間、すがる様にリオを見つめた。
「その前に確認させて。輝哉くんは弥生ちゃんをずっと大切にできると誓える?」
「もちろん」
「もう一つ。私、あなたの笑顔が大好きなの。だからいつまでもその笑顔を忘れないでいてくれる?」
輝哉は噛み締める思いでゆっくり大きく頷いた。
リオは吹っ切れたように、輝哉に清々しい表情を向けた。
「私の命を口移しで弥生ちゃんに分ければ、きっと手術は成功するはずよ」
リオが何気なく言った一言に、輝哉の心は動揺を隠せない。
「命を分けるって…リオちゃんは大丈夫なのか、そんなことして」
「平気。妖精の命は2000年もあるから少しぐらい大丈夫なの。それに輝哉くんにはお世話にもなったし、恩返しってことで」
納得しない輝哉に、リオは力強い眼差しを向ける。
「まだ事を大きく感じてるなら、弥生ちゃんを守って幸せにしてあげて。それを私に見せてよ」
「……分かったよ。弥生を頼む」
「任せて!」
その時新たな患者が手術室に運ばれてきた。これから空いている第2手術室で行われるらしい。
彼らに付いて手術室の扉をくぐろうと思い、リオはすぐさま妖精の姿になる。
姿は透明でも、扉は開かなければ通れないからだ。
「じゃ、行ってくるね」
「リオちゃん……ありがとう」
明るい声に輝哉は答えた。
リオは弥生のもとに向かいながら、輝哉の笑顔を思い浮かべた。
* * *
何とか弥生の手術室に潜入し、たった今命が消えようとしている弥生の枕元にリオは飛んでいた。
そして透明なまま人間の姿へと変わる。
(弥生ちゃん、輝哉くんと幸せになってね)
リオは純粋にそう思った。もうどこにもいられない自分の分とともに……。
リオは輝哉に二つの重大なことを隠していた。
妖精の命が2000年といってもそれは妖王界の王族のことで、自分達は200年程であること。
そして人間に自分の命を与えることが罪であること。
その罰は魂の消失、――つまり転生することもなく、魂そのものが抹消されるのだ。
リオだって簡単に決意できたわけではない。できていたら手術の前から弥生にずっと付いていたし、輝哉にも「安心して」と真っ先に伝えていたはずである。
弥生の命を、輝哉の絶望する姿を目の当たりにした時、リオの決心は固まった。
自分の命と引き換えにしても、輝哉の笑顔を、その源である弥生を守りたいと。
ただ輝哉には自分のことで心を痛めてほしくはなかった。真っ直ぐな心の輝哉にできれば嘘なんてつきたくはない。けれどこの先自分を辛い思い出にしてほしくないとリオは願っていた。
リオはそっと呼吸器に触れる。
(輝哉くんのこと、幸せにしてあげてね……)
リオは僅かな隙間を作り、そこから息を吹き込むようにして、自分の命を注ぎ込んだ。
リオが顔を上げると同時に、医師の驚きの声が響く。
「血圧上昇、状態安定してきました」
「本当か!?」
執刀医がモニターを確認すると、確かにそこにはさきほどまで低下していたものが、正常値に近い数字になっていた。
「奇跡だ。これならもちこたえられる、救える!」
医師の目の端から安堵感が窺える。
(もう大丈夫だね、よかった)
リオも安心し、事の成り行きを見守ろうと妖精の姿に戻り弥生の枕元にちょこんと腰掛けた。
それから一時間程経過して手術は終了した。もちろん成功である。
弥生の状態はことのほか安定を保っていた。
手術室の扉が開いた瞬間、両親と輝哉が医師に駆け寄る。
「成功ですよ」
その一言が皆の緊張の糸を緩め、涙を溢れさせた。
「ありがとうございます、ありがとうございます!」
何度言っても言い尽くせない感謝の言葉が皆の口から漏れた。
やがて医師が去り弥生が運ばれてきた。むろんまだ麻酔のために目を開けることはない。分かっていながら誰もが彼女に語りかけた。
リオは廊下の陰で人間の姿になりその様子を見つめていた。
(これでよかったんだよね?)
自分に問いかける。
(よかったんだよ。後悔はしない。たとえ何があっても……)
もう一つの心が答えた。人を愛せただけで充分幸せだったと。
弥生を見送った後、輝哉がリオに気づいて歩み寄ってきた。
輝哉は両手でリオの両手を包み込んだ。
「ありがとう。リオちゃんには何て感謝すればいいんだろう。どうお礼したら……」
「お礼なんて……。そうだ、私もう帰るから最後にもう一度輝哉くんの笑顔を見せてくれるかな?」
輝哉はそんなことでいいのかと思ったが、自分を見つめるリオの瞳に真剣さを感じ、承諾する。
輝哉は目を伏せ、ゆっくりあけるとともにリオの望んだ出会った時の笑顔を彼女に向けた。
「………ありがとう」
リオは見納めとなる彼の姿を心に焼き付けるように呟いた。
「もう弥生ちゃんのところ行ってあげなよ。きっと待ってるよ。……ここでバイバイ、しよ」
その言葉に輝哉はリオの手を握る両手に力を入れた。
「本当にありがとう。リオちゃんのことはずっと忘れない。この三日間、妹ができたみたいで楽しかった。ありがとう、さよなら!」
輝哉は振り切るようにして、弥生の方へ駆けていった。
(私の方こそありがとう。人を愛する心を教えてくれて……)
リオも立ち去ろうとふと後ろを振り返った時、そこに立ち尽くしている人物を見て息を呑んだ。
「なかなか帰ってこないと思って来てみれば、……お前、何してたんだ?」
ソラの押し殺した声が響く。
「あ、あの今から帰るとこで……」
ソラのただならぬ様子に、リオの言葉がたどたどしくなる。
「何してたんだって聞いてるんだ!!」
怒りの声に、リオはビクッと肩を縮めた。
(ソラは知ってる、私のしたことを!)
とても言えない……と、リオは唇を噛んだ。
「あいつは知ってるのか? お前がどうなるか知ってて、お前に頼んだのか!?」
リオはただただ首を横に振って答えるだけだった。
「あいつ、許せねぇ」
「ま、待って、ソラ!」
輝哉のもとに駆け出そうとするソラの腕をリオは咄嗟に掴んだ。
「離せよ! あいつ、ぶんなぐってやる。自分のしたこと分からせてやるんだ!!」
「やめて、お願い!」
それだけは駄目だと、リオはソラを懸命に引き止める。
自分がどうなるか……それを輝哉が知ったら、輝哉の心に一生傷を残すことになる。
彼の心の傷になんかなりたくない。自分が彼から笑顔を奪う原因にはなりたくはなかった。
「彼は……輝哉くんは何も知らない。私が強引に輝哉くんを説得してやったことなの。だから彼を責めないで。彼に言ったらソラのこと一生許さないから!」
ふと、ソラの力が弱まった。
振り返った彼の目とリオの視線が重なる。
「お前、そんなにあいつのこと……好きなのか?」
切ない瞳だった。
「このままじゃお前、消えちまうんだぞ。それでも……いいのかよ?」
ソラのやり切れない思いが伝わってくる。それでもリオにはソラの気持ちに応えることはできない。
「……ごめんね」
リオの潤んだ瞳を見て、ソラは改めてリオの決意が固いことを思い知った。
「どうして、自分の命を犠牲にまでできるんだよ。俺には分からないよ」
やり切れない思いがソラの胸をついてでた。
「心の底から人を愛した時、分かるよ」
リオは頬に一筋の涙を零しながら、微笑んでそう一言口にしたのだった。