(2)
「今日もお見舞い? 弥生ちゃん待ってたわよ」
病室へ行く途中、顔見知りの看護師に会った輝哉は声を掛けられた。
「はい。……変わった様子ないですか?」
「ええ、落ち着いてるわ。明後日手術だけど……しっかりしてるわ」
リオは輝哉の袖を引っ張った。
「弥生ちゃん、手術するの? ……そんなに悪いの?」
輝哉は一瞬困った表情を浮かべた。
看護師と目を合わせ、輝哉は小さく頷いた。
看護師は軽く会釈をしてその場を去っていった。
輝哉はリオを連れて人通りの少ない廊下の隅へ移動した。
「弥生本人も知ってることだけど、今回の手術の成功率は30%。失敗すれば命を亡くす」
輝哉の感情を押し殺した声がリオの耳に届く。
リオは自分の耳を疑った。
「弥生ちゃんが死んじゃうってこと、……ないよね?」
輝哉は無情にも首を振った。
リオは小さく「そんな……」と呟くことしかできなかった。
「今回の機会を逃したら次はもっと成功率は低くなる。いや、手術できないかもしれない。体が耐えられないんだって。手術しなければ数年は生きられるけれど、今度大きな発作を起こしたら危険なんだ。かといって手術をして失敗したら、その数年の命さえ奪われてしまう。医者から告知された時、弥生は俺に言ったんだ。俺と共に生きていきたい。そのためだったら戦えるって」
輝哉の表情に影が落ちる。
弥生が精一杯戦っているというのに自分は彼女に何もしてやれない。それが歯痒かった。
「弥生ちゃんが羨ましい」
輝哉はリオを凝視した。リオの言葉が意外だった。
リオはそんな輝哉を見て目を細めた。
「誰かをそんなに愛せること、一生かけてもできない人だってたくさんいる。たとえ何十年、何百年生きてもね。弥生ちゃんはまだ20年しか生きてないけど、もう愛せる人を見つけたのよ。それってすごいことだと思う」
輝哉はリオから顔を逸らした。
「……でも俺、何も弥生にしてやれない」
リオは両手を伸ばす。輝哉はビクッと一瞬身を竦めた。
輝哉はリオを見て目を見開いた。
リオの強い眼差しが輝哉の息を止める。
リオに両手で頬を包まれた輝哉は、その力強い瞳を前に身動きが取れなくなっていた。
「もっと自信をもって。輝哉くんの存在そのものが弥生ちゃんの生きる力になってるのよ。輝哉くんが精一杯生きることが、弥生ちゃんの力になってるの!」
輝哉は暫くじっとリオを見つめていた。リオも目を逸らそうとはしなかった。
ふと輝哉の顔に笑みが浮かぶ。
「ありがとう。リオちゃんの人を元気づける力、分かった気がする」
輝哉はすっきりした顔で言った。
リオにも笑みが零れる。
(もう大丈夫だよね)
いつもの様子に戻った輝哉を見てリオは胸を撫で下ろす。
安心感と共に嬉しさが込み上げる。リオは輝哉の穏かな笑顔を見るのが好きだった。
人間の笑顔にこれほどまで惹きつけられたことはなかった。
いつだって笑顔をあげる側にいたリオ。笑顔を貰う側など経験したことがなかった。
輝哉の笑顔が、リオの心に一等星のような光を灯す。
リオはその光が洩れないよう、大事に胸に手を当てた。
(嬉しい、嬉しいのに……なぜ切なさを感じるの?)
リオは自分の心がその答えにブレーキをかけているのを感じていた。
結論を出してはいけないと、警告を発していた。
「病室、行こうか」
「う、うん」
我に返るリオ。気を取りなおすように、リオは輝哉に向かって大きく頷いた。
「行こう、弥生ちゃんに会いに」
リオは輝哉の後に続いて廊下を歩き出した。
リオはもう一度手を胸に当てる。
(知らないことがいいってこともあるもん。輝哉くんのあの表情を見れただけで良かったって思おう)
「ここだよ」
輝哉の声にリオは顔をあげる。
「どうかした?」
リオの強張った表情に、輝哉は問いかけた。
「どうもしないよ」
リオは何でもないふりをして言った。
輝哉も「そう…」と答えただけで、リオに背を向け扉をノックする。
「はい、どうぞ」
弥生と思われる声が返ってきた。
(何て爽やかな声なんだろう)
緩やかな風が新緑を通りぬけるようなそんな感じの声だった。
(輝哉くん以上に純粋に生きてきた人かもしれない)
そう思った。その答えが的中したことにリオは気づく。
病室に入り輝哉の恋人弥生を目にしたリオは、彼女の持つ雰囲気を見抜いた。
病人とは思えない芯のしっかりした姿。力一杯生きてきたその力が、今の彼女を創っていた。
(弥生ちゃんは守られるだけの人じゃない。守る人でもあるんだ。輝哉くんが守るだけじゃなくて、お互い守り、守られてるんだ)
とても太刀打ちできないと思った。
(太刀打ち……? 何に? どうして?)
自分に湧き上がった感情をリオは持て余す。
「弥生、体調の方どう?」
「うん良好だよ。ねえ、あの子誰?」
弥生の声が自分に向けられたリオは弥生の傍に歩み寄る。
「私、……輝哉くんの親戚だよ。ちょっとの間お世話になってるの」
輝哉の恋人なら妹がいないことを知っていると思ったリオは、機転を利かせ親戚と答えた。
それが一番無難な答えだと思ったからだ。
「違うよ」
リオはその声に驚いて声の主を見た。
輝哉は真っ直ぐな瞳をリオに向けていた。
「弥生には何一つ嘘はつきたくないんだ。彼女にだけは本当のこと伝えたい。いいかな?」
リオはその視線に射抜かれていた。
(そんなに大切なんだね……)
輝哉の弥生を思う気持ちと、弥生の純粋さにリオは頷くしかなかった。
「いいよ。他の誰より、弥生ちゃんなら」
「ありがとう」
輝哉はあの笑顔をリオに返した。
輝哉は本当に包み隠さずリオのことを話した。
妖精であること。リオがなぜ輝哉の世話になっているのか。妖精の世界についてさえも弥生に打ち明けていた。
リオの思った通り、輝哉同様弥生もすべてを信じた。
「私も一度でいいから空を飛んでみたいな。自由に、どこへでも行けるなんて素敵ね。羨ましい」
「行けるよ。手術頑張ったら自由にどこへだって行ける。空は飛ばせてあげられないけど、飛行機に乗って遠くへも行けるようになれるんだよ」
入退院を繰り返してきた弥生にとって、自由な生活は憧れだった。
それを感じとってリオは弥生を励ましていた。成功率は低いと分かっていても、夢を、生きる力を少しでも持ってもらいたいと思った。
「弥生、手術頑張ろう。ずっと傍にいるから。ずっと祈ってるから、決して諦めたりしないでくれ」
輝哉は弥生の手を握り締め、真剣な眼差しを真っ直ぐ弥生に向けた。
「諦めたりしない。輝哉くんの傍にいたいから、絶対諦めないよ」
弥生も笑顔を、力強い瞳を輝哉に返す。
(とても……とても入りこめない)
リオは胸に握り締めた手を当てた。足はすくんでいた。
(胸が苦しい。痛い。どうして……!?)
わけの分からない感情にリオは振り回されていた。
ただ目の前のあまりに自然に溶け合っている二人の姿から目を離せなかった。
(私の方も見てほしい)
そう思った自分にまた疑問が湧く。
あの笑顔をもう一度自分に向けてとリオは願っていた。
その瞬間、リオの心に出会ってからの輝哉の顔が、言葉が次々とオーバーラップした。
リオの胸に当てていた手が力なく下がる。
「私、ちょっと外行ってくる。輝哉くん、ゆっくりしておいでね」
リオは硬い表情を無理に笑顔に変え病室を後にした。
リオは足早に歩き中庭の木陰に身を隠すと、力なく崩れるように座り込んだ。
(私、……どうしよう)
ずっと胸が警告していた。感じていたはずなのにと後悔しても、もう遅かった。
(私、輝哉くんを好きなんだ)
――とうとうリオは気づいてはいけない想いに気づいてしまったのだった。
* * *
弥生の手術前日、リオの羽の治る前日でもある2日目。リオは近所に買い物に行っていた。
輝哉は弥生の見舞いへ行って留守である。
リオも誘われたが、弥生と輝哉の二人の時間の方が大切だからと断っていた。
それは嘘ではないが、二人のあの姿を再び見るのは自分の想いに気づいてしまったリオには酷なことだった。
弥生のことを憎めたら、嫉妬できたらまだ良かったのかもしれない。けれどもそれすらできないほど、二人一緒にいるのが自然だったのだ。
リオに残されたのは、諦めること、忘れること。ただそれだけ。
(妖精が人間に恋するなんて、そこからもう叶うことなんかないのに、私もバカだなぁ)
リオは自嘲的な笑みを浮かべた。
(もっとバカなのは、弥生ちゃんを想ってる輝哉くんに惹かれてるってことなのかな)
弥生を一番大切にしている、守ろうとしている、そんな輝哉の姿がリオは切なくなるのに好きだった。
「……リオ、なの?」
聞き覚えのある声がしてリオは俯いていた顔をあげた。
「杏子……ちゃん」
一昨日別れたばかりの少女、杏子が反対側から歩いてきていた。
杏子は嬉しそうにリオに駆け寄ってきた。
「もう会えないって思ってたのに嬉しい。この近くでお仕事なの?」
「ううん。実はあの日杏子ちゃんと別れてすぐ、杏子ちゃん家の隣の駐車場にある木に羽引っ掛けちゃって、ちょうどその場にいた人に助けられたの。で、治るまでその人のうちに居候中」
「居候って、その人リオの正体知ってるの?」
「うん。すごく純粋で優しい人なの。だから話しちゃった」
杏子はリオの初めて見せる表情に少々驚いていた。
明らかに恋心を胸に秘めたリオを前にして、杏子は自分以上にリオに幸せになってほしいと願わずにはいられなかった。
「ねぇ私の家にちょっと寄ってかない? リオとはもっとゆっくり話したいの。あの時のお礼も充分してないし」
「……お礼なんて別にいいけど。そうだね、杏子ちゃんと再会できたのも何かの縁だね」
リオは笑顔でOKした。何よりも杏子の明るさがリオには嬉しかったのだ。
彼女のそんな様子をもっと見ておきたいと思ったのだった。
その場から僅か5メートル先が杏子の家だった。
杏子の部屋で彼女がお茶を取りにいっている間、リオは部屋を見渡した。
以前は勉強道具しかなかった重苦しい部屋が、今では明るく色づいて見える。
(よかった。杏子ちゃん幸せそうで)
妖精として、セルト族として、この仕事をやっていて良かったと思う瞬間をリオは噛み締めていた。
「おまたせ」
杏子が紅茶とクッキーを持って部屋へ戻ってきた。
「ありがとう」
二人は床の上に向き合って座る。
「杏子ちゃん、頑張ってるみたいだね。嬉しいな、杏子ちゃんが元気でいてくれて」
「それもリオのおかげだよ。私が今こうして自分の足で立って生きていられるのも、みんなリオがいてくれたから。本当にありがとう」
リオは笑顔で首を振った。
「違うよ。私はきっかけを与えただけだもん。杏子ちゃんが両親や自分とちゃんと向き合えたから乗り越えられたんだよ」
「でもリオがいてくれなかったら、私ずっと逃げてた。自分を殺してた。本当、感謝してる。だからリオには幸せになってもらいたいって思うよ」
杏子の真剣な眼差しにリオは紅茶を飲みかけた手を止める。
杏子はさっき言おうとしたことを口にする。
「リオ、同居してる人のこと……好きになったんでしょう?」
リオの息が一瞬止まる。
リオは静かにカップを置いた。口の端には苦い笑みが零れていた。
「そんなに顔に出ちゃってたんだ……」
「ごめんね。でもさっきその人のこと話すリオがすごく女の子らしかったの。私、リオには幸せになってほしいの。何か私にできることがあったら言って!」
リオは杏子の自分を思う気持ちが嬉しかった。だがそれに応えられなかった。
ただ首を振るだけ……。
その様子に杏子の胸が痛んだ。
リオの切なげな顔が、彼女に片想いであることを悟らせる。
「人間と妖精だから?」
リオは答えるのを躊躇った。
住む世界が違う。確かにそれも大きな問題であることに変わりはない。だがそれだけではないのだ。
リオは正直に伝えようと杏子を見つめ、泣きたくなるような微笑を浮かべた。
「それもあるよ。でも輝哉くんにはもう恋人がいるの。二人でいるのが自然で、どちらかが欠けるなんてありえない。……そう思えるぐらいなの。奪おうとか、嫉妬するとか、そんな思いにもなれない。私の想いはずっと永遠に一方通行でしかないの」
「リオ……」
杏子はリオの切ない胸の内を知り励ます言葉がなかった。
「そんな顔しないで。確かに羽は明日には治って私はあの家から出ていくけど、人を愛せたこの想いは私の一生の宝物だよ。あと一日で一生分の思い出を作るんだから。私はこの想いを糧に生きていける」
リオの悲愴な決意に、杏子は思わず涙が零れた。
「辛かったり苦しくなったらいつでも私のところに来てね。励ましてあげられないかもしれないけど、一緒に泣くことはできるから。リオの力になれるんだったら何でもするからね」
杏子はリオを抱きしめた。リオを守ってあげたいと思った。
「ありがとう、杏子ちゃん」
(一緒に泣いてくれただけでもう充分だよ。ありがとう)
杏子の温かい思いが、リオの心を満たしていった。
* * *
その日の夕食後、風呂上がりの輝哉は近くのコンビニまでビールを買いに出掛けた。
普段は酒はあまり飲まない輝哉だが、明日の手術のことを考えると落ち着かないのだ。
そんな輝哉を見て、リオは心底手術の成功を願わずにはいられない。
もう一度笑顔を見せてくれるのなら、たとえそれが自分に向けられたものでなくてもかまわなかった。
そんな時ベランダからガラスを叩く音がした。
「ソラ、どうしたの!?」
リオの幼馴染みの妖精がガラス越しに浮かんでいた。
同じ部族の仲良しの男の子の姿に思わす心が和む。
リオは窓を開け迎え入れた。
「さっきからずっといたのに気づかないんだもんな。たまたま様子見にきたら人間の世話になってるようだし。あいつ、お前のこと知ってるみたいだな」
「うん。羽怪我して落ちたとこ、目撃されちゃって…。治るまでここにいていいって」
「お前もうちょっと警戒心ってものないのか? 相手は男なんだぞ」
「平気よ。輝哉くん、素敵な彼女いるもん」
「だってお前……」
ソラは言葉に詰まった。
しばらく外から眺めていたリオの輝哉を見つめる視線。その中に秘めた想いをソラは感じ取っていた。
片想い以上にはなり得ないとリオの覚悟を思い知る。
「お前ちゃんと怪我治ったら帰ってくるんだろうな!? 気持ちの整理、つけられるんだろうな!?」
ソラの言葉にリオは目を大きくする。
ソラにも自分の想いがバレてしまったことを知った。
「明日中には帰るから心配しないで。大丈夫、絶対帰るから……」
リオは笑顔で答えた。しかしその切なげな瞳はソラの心に痛みを残した。
「ただいま!」
輝哉の戻ってきた声がした瞬間、ソラはベランダへとその姿を消した。
リオは一瞬ソラの姿を探したが、もういないと思い輝哉といつもどおり何気ない会話を交わす。
決して自分の想いを悟られないよう、つとめて明るく……。
「お前、バカだよ」
ガラス越しにその様子を見ていたソラは小さく呟いた。