(1)
「里央……?」
少女は自分の部屋に現われた、ストレートロングの茶髪、ヘーゼル色の瞳をした女の子を呆然と見つめ呟いた。
クラスメートで友達だったはずの女の子。
でも今目の前に浮かんでいるのは、背に羽のついた20センチほどの妖精だった。
「うん、リオだよ。杏子ちゃん、私ね妖精なの。あのね、夢を持てないでいる人の手助けをするのが、私達一族の仕事なの」
リオは申し訳なさそうに説明した。
「だから私の前に現れたの? 私が両親の期待を裏切らないためだけに生きてきたから……」
杏子は義父母に育てられてきた。
両親は杏子に一流大学、殊に東大に入ることを異常なほど強要してきた。二人とも受験に関して苦い経験をしているが故に、娘にその望みが向けられてしまったのだ。
杏子もそれに応えることでしか育ててくれた恩を返せないと思い、同世代の女の子の楽しみを何一つ知らずに生きてきたのだった。
そんな杏子の前にリオはクラスメートとして現れ、彼女と友達になり、杏子が自分自身のための夢を探し出せるよう力を貸してきたのだった。
「でも杏子ちゃんはちゃんと夢を見つけることができたもの。だから今日はお別れ言いに来たの」
「リオ……」
「そんな悲しそうな顔しないで」
杏子はリオとの別れが避けられないと悟った。
「……ありがとう。もう会えないかもしれないけど、リオのこと一生忘れないよ、ずっと友達だよ」
杏子は泣きながら言った。
「うん、ずっと友達でいてね。杏子ちゃんが幸せになることが私の願いだから。……夢を大切にして生きてね。じゃあバイバイ!」
リオは杏子の前から姿を消した。人間界の者には妖精の姿は見えない。
さっきのリオのように妖精の力を使わなければ人の目には写らないのだ。
ただし存在はしている。壁にぶつかれば痛いし、火の中に飛び込めば焼けてしまう。
リオもそのことは当然知っているのだが……。
杏子の部屋を姿を消してから飛んだまでは良かったが、窓から出てまもなく隣のアパートの駐車場に植えられた広葉樹の枝に羽を引っかけてしまったのだ。
ビリッという嫌な音とともに、リオはバランスを崩し墜落した。
「いったーい!」
落ちた痛みでリオは大声をあげた。
咄嗟に羽をばたつかせたとはいえ、落ちたのだから痛いものは痛い。
リオは破れた左の羽を見た。
「どーしよう。こんなんじゃ飛べないよ」
羽が治るには三日程かかる。リオはこれからどうしようか考えていた。
そしてふと気づく。羽をなくした妖精は、人間界でもその姿を隠せなくなることに。
「やだっ、私消えてない!」
こんな姿人間にでも見られたら大変だ、とリオは辺りを見渡した。そして絶句する。
(人が……いる)
自分の正面に、車から降りて鍵をかけた手を止めたまま目を点にして立ち尽くしている青年が一人。
(見られた!?)
リオの背中に冷や汗が滑り落ちる。羽が傷ついているから飛んで逃げることもできず、姿を消すこともできない。
そうこうしているうちに青年がリオに近づいてきた。そして両手でひょい…とリオをすくいあげたのだった。
「驚いた。本当に生きてるんだ。こびと……じゃないよな。もしかしたら妖精かな。ピーターパンのティンカーベルみたいだし。……あーあ、羽が破れてる。痛い?」
リオは普通に話しかけてくる青年をきょとんと見上げた。
(この人、気味悪がったりしてない。ううん、むしろ心配してくれてるの?)
リオに青年の穏かで純粋な心が伝わってくる。
「どう手当てすればいいのかなぁ。包帯巻くわけにもいかないし……。人間の消毒液つけていいのかなぁ」
リオは青年の困った様子にクスッと笑ってしまった。
「平気よ。三日も経てば自然と治るから」
「でもそれじゃあ帰れないだろ。三日間どうするつもり?」
リオは言葉に詰まってしまった。行くあてなどないからだ。
「良かったら俺ん家来る? そこのアパートで一人暮しだから他の人に見つかる心配ないし」
青年のありがたい申し出に、リオの心が揺れる。
「いい……の?」
「もちろん」
青年が目を細めて笑って頷いた。
その笑顔はリオの心を熱くした。
しかしリオはまだそれが何なのか気づきもしないのだった。
* * *
「俺、有栖川輝哉。21歳の大学3年生なんだ」
輝哉はリオを部屋へ連れ帰り、リオをテーブルの上に乗せた後自己紹介を始めた。
「私はリオ。人間の姿してる時は尾崎里央って名のってるの。妖精界の中でもセルト族って部族出身なの」
「セルト族?」
輝哉は妖精に部族があるのを初めて耳にした。
リオも人間が妖精を一纏めに考えていることを知っていた。これから三日間とはいえ、世話になる相手だからリオは詳しく話そうと思った。
何より輝哉の人柄がリオの心を開かせた。
「妖精界にも人間が考えてるような界層があるの。主に三つあってね、天上界にあたるのが妖王界。つまり妖精の王族の住む世界。で地上界にあたるのが私の住む妖使界。で冥界にあたるのが妖冥界。妖精の死後の世界ってところかな。妖使界には色んな部族があって、例えば私のセルト族は心の淋しい人間に夢を持ってもらえるよう手助けするのが仕事なの。他に人間ってよくおまじないするでしょ。その願いを叶えてあげられるようにする部族だってあるんだよ」
リオはテーブルに腰掛け、足をブラブラさせながら楽しそうに説明した。
「夢を持ってもらえるように…って、どうするの? 魔法でも使うわけ?」
輝哉の言葉にリオは首をすくめた。
「まさか。人間としてその子に近づいて、話を聞いたりして導いてあげるの。大抵の人は誰にも本心が言えずに苦しんでいる人だから。……妖精っていっても万能じゃないんだよ。セルト族は人間の姿になったり、寝てる時の夢を操ったりする力があるくらいだもの。羽を痛めたり、万一命を落とすと姿を隠すこともできないの。あ、でも人間の姿になることはできるよ。人間界で今回みたいな緊急事態があった時、人間として暮らせるようにって、王様がその力は残してくれたんだ」
リオは、ほらっとでもいうように人間の姿になってみせた。もちろん背中の羽は消えている。
「すごい。本当に人間にしか見えない」
輝哉の単純に驚く様がリオの笑いを誘う。
(こんな人、あまりいないよ。得体の知れない私を助けてくれたり、妖精の話を信じてくれるんだもん)
子供ならいざ知らず、20歳を越えた大人の部類に入る青年が、自分の存在を受け入れてくれることにリオの心はウキウキしていた。
リオは口に指を当てて、ちょっと考える仕草をする。
「私、このまま人間の姿でいた方が都合いいのかなぁ。でも体が大きいと場所もとっちゃうし……」
今度は輝哉が笑みを漏らした。
「俺はどっちでもいいよ。リオちゃんのいい方で」
リオはふと、輝哉と対等でいたいと思った。輝哉と同じ視点に立ちたいと。
「……人間の姿でいてもいい?」
「もちろん」
輝哉は嫌な顔をするどころか、即答で返事をくれた。
リオは素直に喜んだ。
しかしリオは後で考えることになる。
一人暮しの部屋なら妖精のままでいる方が小さくて誰の目につく心配もない。人間の姿の方が女の子を連れこんでると近所の人に思われて、輝哉に迷惑かけるのではないかと。
そんな不安も、リオは持ち前の前向きさで否定する。
(いざとなったら妹で切り抜けようっと)
* * *
次の日、輝哉はブランチを済ませると、どこかへ出掛ける準備を始めた。
「輝哉くん、どこか行くの? 学校?」
輝哉はふと髪をとかす手をとめ、リオを振り返った。
「大学は今春休み中。今日はちょっと病院に……」
「どこか悪いの?」
「いや……」
口ごもる輝哉。その顔が僅かに赤くなっていることにリオは気づいた。
何を照れているのか。そこまでは分からなかった。
「見舞いなんだ」
ポツリと輝哉が呟いた。
その一言で漸くリオはピンとくる。
「もしかして恋人の?」
言い当てられて輝哉は益々顔を赤くし、俯いたまま頷いた。
(今時の人にしては珍しい反応。本当に純粋なんだ)
そう思う一方で、リオは心に刺が刺さったような痛みを感じていた。
リオはこの痛みの原因が何なのか、見当もつかなかった。
「一緒に来る?」
「え!?」
輝哉の思ってもみない言葉に、リオは一瞬自分が誘われたことを理解できなかった。
恋人の見舞いにおまけがついて行っていいものかどうかリオは戸惑った。
男友達ならまだしも、女の子を連れていって彼女が悪い気しないのだろうかと思った。
「リオちゃんを弥生に紹介しておきたいんだ」
輝哉が何を考えているのか、リオには益々分からなくなった。
ただ輝哉の恋人がどんな人か、興味が湧いてきた。
「一緒に行く!」
リオは頷いた。
* * *
やがて準備の整った輝哉は、リオを連れて家を出た。
病院までは車で20分の距離である。
助手席に座ったリオは、ハンドルを握る輝哉の顔をぼーっと見ていた。
「どうしたのリオちゃん。さっきから俺の顔ばっかり見てるけど、何か付いてる?」
言われてリオは慌てて前を向く。
「ううん……別に」
リオは頬がほのかに熱くなるのを感じていた。
自分がなぜ輝哉を見つめていたのか分からなかった。言われて初めて彼を見ていた自分がいたことに気づいたくらいだ。
(何か……いつもの調子じゃないみたい。羽が破れているせい?)
リオはまさかそんなことはないと考え直す。
羽が破れたら妖精本来の力は失うけれども、気分的なものまで支障がでてくるとは聞いたことがない。
リオは何か話題を…と思いつきざまに口を開く。
「輝哉くんと弥生ちゃん、いつから付き合ってるの?」
「そ、……それは」
いきなり聞かれて、輝哉はさっと頬を赤く染め口ごもった。
もう少しで急ブレーキをかけそうな勢いだった。
「弥生ちゃんてどんな子? 輝哉くんが選んだ人だから、可愛らしい子だと思うんだけどなぁ」
リオは想像した。
輝哉の真っ直ぐで穏かな包容力のある性格からすると、同じように純粋さのある、守られるタイプの子ではないかとリオは思った。
「素敵な子だよ。今の俺があるのは弥生のおかげだから」
意外な答えに、リオは反射的に輝哉を見た。
輝哉も一瞬リオを見て二人の視線が交錯する。
(何だろう。胸が痛い……)
彼女のことを思っている輝哉の瞳が切ないほどに優しかった。
(すごく……好きなんだね)
リオはまるで自分に言い聞かせるように胸の中で呟いた。
「弥生と出会ったのは4年前。俺が高校2年で彼女は16歳の時」
いつもの調子に戻った輝哉が、リオの質問に答えだした。
宝物の箱から一つ一つ取り出すように大切に話を始めた輝哉を、リオはただそっと見つめる。
「俺ね高校、サッカーの特別推薦入学だったんだ。全国でも名門校でさ、部員は皆寮生活で管理されてたぐらい。俺、1年の終わりにはレギュラー取れて、行く末はプロか…とまで周りに注目されてたし、俺自身ももちろんそう考えてた。……でも2年のある時、練習試合中に、俺、左足に大怪我したんだ」
車が赤信号で停止する。
輝哉はふとリオを見た。輝哉は当時のことを思い出したのか、その辛さが瞳から滲んでいた。
「医者からはリハビリで普通の生活や遊びくらいの運動はできるようになるけど、激しいのは無理だって言われた。プロどころか高校の部活も無理だって。小さい頃から目標がサッカーしかなかった俺だから急に目の前が真っ暗になってさ。自暴自棄って言うのかな、……すごく荒れてね。病院抜け出したり、怪我して入院してるっていうのに、未成年だしスポーツマンだからって手を出したことのないタバコや酒を始めたりもした」
リオは信じられない思いで輝哉を見つめた。
今の彼の姿からはそんな想像もできないことだった。
輝哉は信号が青に変わったのを確認すると、再びアクセルを踏んだ。
「ある日病院の裏でタバコ吸ってた時、同じ病院に入院していた弥生に出会ったんだ。弥生はただ、俺の隣にずっと静かに座ってた。そんな彼女の存在が温かくて、俺は自分のことを話してた。彼女は無言だったけど俺の話に真剣に耳を傾けてくれてさ、やがて話し終えた俺に彼女は言ったんだ。『生きていくのって辛いけど、素敵なことだよね』って。俺、ガツンと頭殴られた気がして、彼女の前から逃げるように立ち去ってた。でも忘れられなくて看護師さんに聞いたら、弥生は小さい頃から心臓が悪くて入退院を繰り返していて、いつ命がなくなったっておかしくない状態だって教えられて……。自分がちっぽけな存在に思えた。それからはもう必死で、弥生に認めてもらおうとリハビリに励んでさ、そんな俺の傍にいつもいてくれたんだ」
やがて車は病院へ着いた。
エンジンを切った輝哉は最後に一言付け加えた。
「俺にとって弥生は夢をくれた妖精なのかもしれないな……」
と。
「君の笑顔を守りたい」をお読み頂きありがとうございます。
「小説家になろう」二作目の投稿です。
感想お待ちしております。