03 ムーン・ダンス③
Ⅲ
たまに悪夢を見る。わたしが考えうるかぎりで最悪の夢だ。
わたしはリビングで、ひとりぼっち、テレビを観ている。どこで笑えばいいのかわからないバラエティ番組だ。司会が雑なフリをして、それからひな壇の、明日には忘れていそうな顔の芸人が微妙なボケをする。出演者はとりあえず笑って、きちんと観衆の笑い声の効果音も添えられる。そういうことを飽きずに繰り返している。いい仕事だな、とわたしはひねくれて思いつつ、片肘ついてテレビを観るだけ。退屈な時間が過ぎていく。
すると突然、がちゃりと玄関のひらく音がして、わたしは思わず立ち上がった。結良だ。やっと帰ってきた。そう思って、テレビのことなんか忘れて忠犬みたいに駆けていくと、いない。結良はいない。そこにいるのは、わたしの母――つまりこれは、一番目の母で、実の親だ。そのひとが買い物袋をひっさげて、顔面に笑みを張り付けて帰ってくる。あぁそうだ、結良はいないんだ、と思う。というか、ゆらってだれだっけ、とまでなる。めずらしくきげんのよい母は、わたしを抱きあげて「ただいま」という。わたしはたのしそうに「おかえり」というのだが、あまりの香水のつよさに思わず顔をしかめてしまう。そうしたら、母はたちまちふきげんになって、どうでもよさそうにわたしを床におろすのだ。
わたしは母がきらいだった。
この夢の生地は、おそらく小学校三年生ごろの思い出だ。その日はちょうどわたしの誕生日だった。起こることは、すべて夢のなかとおなじ。早くに学校から帰ってきたわたしは、テレビを観ながら暇をもてあましてどうしようもなかった。午後六時くらいだったろうか、録画していたバラエティ番組がずいぶんつまらないコーナーをはじめたころ、母はようやく帰ってきた。待ちくたびれていたわたしは思わず駆け寄って、機嫌のいい母に抱きあげられたのだけれど、そのときにわたしが顔をしかめてしまったせいで誕生日は台無しになった。
機嫌を悪くした母はあまりに子どもじみた行動を起こした。誕生日ケーキも出さなかったし、誕生日プレゼントもくれなかった――というだけなら、まだよい。ケーキは目の前でぐちゃぐちゃに捨てられてしまったし、プレゼントだったはずの児童書はハサミで八つ裂きにされた。折檻もされた。わけもわからずわたしは泣くことしかできないので、母の暴力は度を増す一方だった。
地獄が終わるのは、父が遅れて帰ってきてから。その日、夜の八時くらいに帰宅した父は、わたしを殴る母を見るなり血相を変えてとびかかった。引き離されたわたしはそのまま自室に押し込められ、両親の大喧嘩をベッドのなかで聞くことになる。母は泣いていた。まるで自分が被害者かのような泣きようだった。それでも父は怒るので、ろくでもない夫婦喧嘩は一晩中続いた。でも、でも、そういうふうな喧嘩をして、なにか変わったことがあっただろうか? ベッドのなかで震えるわたしは、あまりにも惨めだった。母の泣き言はともかく、父の怒りすらその惨めさになんの助けにもならなかった。わたしはそのとき、父のこともきらいだった。
夢でもおなじことが起こる――だから、きげんをわるくした母はじぶんで料理を台無しにするし、わたしの部屋まで押し入って蔵書をことごとくやぶりすてた。わたしは身を引き裂かれるような思いがして、必死になってそれを止めようとするが、そうやって必死になるほどつよく殴られる。おさなくなったわたしは泣きじゃくって、思わずゆらの名前を呼ぶけれど、そうすると「ゆらなんていない」といわれた。おまえにいもうとなんていない、と。いつまで妄想にひたっているつもりだと。妄想なんかじゃない、妄想なんかじゃないが、夢のなかで現実の幸福はちっとも無力だった。
わたしはみじめだった。みじめで、みじめで、何度もなんども殴られるので、あぁそうか、この世界にしあわせなぞひとかけらもないのだと思いいたる。わたしは月の軌道の静謐さを思いながら、血の味のする夢の世界をふわふわとただよいだす。やがてひときわつよい力で殴られた瞬間、わたしははっと目が覚める。
午前三時。破裂しそうな心臓を抑えながら死に物狂いで呼吸している。噴き出る汗をそのままに、わたしはミミズのように這ってベッドを抜け、よろよろと立ち上がると自室を出る。すぐ目の前に結良の部屋がある。ドアには中学校の図工でつくってきたという不格好なネームプレートが下げてあり、わたしはそれを見てようやく呼吸の落ち着くのを感じる。そっとドアノブを回し、起こさないように部屋をのぞくと、穏やかな表情で結良が眠っていた。カーテンの隙間から月の光が射し、結良の氷みたいに透き通った肌を滑らかに照らして、神聖だった。
この世界には――たしかに、幸福がかたちをなして存在している。それはふいに忘れてしまうくらいあからさまに。自室にもどるとベッドに潜り、わたしは月の光を見つめている。光は糸である。それは絡まり、つうっとすべてを引き上げてゆき、なぐさめの場所へいざなう。ゆっくりと瞼を下ろす。もう悪夢は見ないと知っている。
◇
二度目の目覚めは悪くなかった。すこぶるよかったわけではないが、その日一日を健康に過ごせそうなくらいには大丈夫だった。
朝、わたしがバイトに行く支度をしていると、結良が寝ぼけまなこを擦りながら下りてきた。補習から解放されたので存分に朝寝坊でもするだろうと思っていたのに、朝八時という比較的健康な時間帯に起きている。
「おはよう」というと、
「おぁぉ」と、ちっとも発音できていないあいさつを返された。
長いあくび。そのあと、結良は台所に向かってそのままお湯をわかし、トーストを焼きはじめた。珍しいこともあるものだとそのようすを眺めていると、結良はまた目をくしくしやりながら、
「来週の土曜日」といった。「空いてたっけ、おねえちゃん」
「どうだったかな」
用意していた鞄からスマホを抜き、手早くスケジュールを確認する。来週の土曜日は――シフトも入っていないし、遊びの用事もない。
「なにかあるの?」
「その日に決まったから」
「うん、そっか」
とりあえずスケジュール表に予定を入れておくが、肝心のイベント名がわからない。
「で、なにがあるの?」
答えてくれない。結良はじいっと電気ケトルを見つめている。
こうなると仕方がないので、わたしは一旦テーブルに座ることにした。バイトまではまだ余裕があるし、なぞの早起きでうつらうつらの結良を眺めるのは面白い。
やがて朝食をぼんやり運んできた結良は、わたしの隣に腰を落ち着けた。紅茶に口をつけると「熱っ」とちいさく叫んで、ようやく目が冴えてきたようなのでもう一度、
「で、なにがあるの?」と訊く。
「え、なにがって?」
「土曜日だよ」ジャムを塗るのを見ながら、「土曜日ってだけで、イベント内容、聞いてない」
「決まってるじゃん、顔合わせだよ」
と、ブルーベリージャムを塗りたくったトーストを頬張って、そのまま言葉を続ける。もちろん、ろくに聞きとれやしないのでとりあえず飲みこむようにいい、するとすぐさまごっくんと喉が動くのが見えた。
「お父さんの再婚相手との顔合わせ会。大久野島に行くの」
「大久野島にっ?」素っ頓狂な声をあげてしまった。「それ、おとうさんが決めたの?」
「ううん、わたしが提案して、採択された。うさぎが好きなんだって、向こうの女の子」
名案でしょ、とでもいいたげなしたり顔でトーストを頬張る。そんないもうとを見て、わたしはいよいよ出口のない迷宮に叩き落とされたような心持ちになった。
いつそのような話し合いが行われたのか、そもそもいつから結良は島に向こうの家族と行く計画を考えていたのか。まずもって、父の再婚について、わたしより先に結良が知っていたというのもいま振りかえるとふしぎである。すべての重大なことがらがわたしのあずかり知らぬところで回っており、軽くめまいがした。
「どうしたの」と、結良の声がする。「おーい、おねえちゃん、おーい」
「あぁ……」わたしは数回あたまを振って、「いや、なんでもない。バイト行かないと」
「がんばってね。あ、土曜日だけど、帰りはおとうさんが運転するって」
「まるで行きはわたしみたいな言い方だね」
「だって、最初はそういう話だったでしょ。おねえちゃんの運転で観光に行くっていう」
「うん、そうだったね」
わたしはずっしりと重くなった腰をもちあげて、どうにか支度を整えてしまい、すぐに家を出た。朝っぱらから疲れている。なんだかことごとく蚊帳の外で調子が狂っているのかもしれないし、そんなことは関係なく、そもそも深夜に見た悪夢が原因かもしれない。
どちらにせよ――と、わたしはバスを待ちながら頬を叩いた。切り替えていかないと。今日のシフトはすこしハードなんだから。
◇
寧々先輩がお昼をおごってくれるというので、そのご厚意に甘えることにした。市立図書館のすぐ隣にあるカフェでわたしは遠慮なくオムライスを注文し、やがて古き良き洋食屋さんのオムライスが運ばれてくる。ケチャップライスをふわふわの卵で包みこみ、そのうえから真っ赤なケチャップがふんだんにかけられている。ケチャップまみれだ。
「オムライスといえば」と、寧々先輩がいう。「おいしくなーれ、だよね」
「そういうお店じゃないですから」
先輩の前にもオムライスが運ばれてきた。わたしとまったくおなじものだ。で、先輩はスプーンをもつでもなく、子犬のような目でわたしを見ている。
「いや、やりませんからね!」思わず吹き出してしまった。「ほらほら、はやく食べないと休憩終わっちゃいますから」
「あたしのおごりなのに」
「別途オプションです、それは」
「世知辛いね」
先輩は快闊に笑うと、手を合わせてから食事をはじめる。わたしもそうする。
寧々先輩とは高校からの付き合いで、かつてはわたしとおなじ女子バスケ部のマネージャーだった。といっても、わたしは一年でバスケ部を離れたから「おなじ部活の先輩」といいきってよいものか、どうか。
どちらにせよ、そのころからずっと気にかけてくれた先輩である。高校時代の大半を、わたしはやつれたいもうとの介護に必死になって過ごしていたが……わたしはちっともうまくやれなくて、余裕がなく……そういうときにいろいろと相談に乗ってくれたひとでもある。そしていまは、おなじ大学で、おなじバイト先の先輩だった。
「図書館の仕事にはもう慣れた?」と、先輩に訊かれる。わたしはぼんやりした声で、
「たのしいですよ」と返す。
「ふふ、大変だよね」
「はい」
実際、思いのほか力仕事だった。重い本を持ち上げることもあるし、配架やらで館内を歩き回ることもそれなりにある。
とはいえ、体力には相応の自信があるのでつらいというのもあまりない。もしひとつ挙げるとするなら、たまにとんでもない長時間のシフトが――ちょうど今日みたいに入れられることぐらいか。最近は人手が足りないというので、仕方ないといえば、まぁ。
どうであれ図書館で働くというのは、わたしが幼いころから抱えてきたちいさな夢のひとつだった。先輩が図書館のアルバイトを紹介してくれたとき、わたしは跳ねて喜んだものである。ちょっとやそっとの苦労など、たいしてこたえない。
図書館は子どものときからずっと好きだ。小学生のころの夢は自前の図書館をつくることで、いまはちょっとどうかなと首を傾げもするが、もしできたらすてきだなとも思う。本が好きなのか、静かな場所が好きなのか――うん、おそらくどっちもだと思う。いまでこそアウトドアな人間だが、わたしは元来インドア志向である。
「あ、そうそう、わたし来週の土曜日にうさぎ見に行くんですよ」
「え、なに。うさぎ?」
先輩はスプーンを口に運ぶ手前で、ぱっと静止する。
「あ、わかった。あれだ。ペットの大展覧会みたいなやつ」
「島に観光に行くんです」
「島でやるの? 瀬戸内海の向こうでやるんだね」ぱくり、とオムライスを食べている。「あ、それともさらに向こう? われらが太平洋?」
われらが、というのは寧々先輩の口癖である。会話的にも政治的にも深い意味はない。
「展覧会とかそういうんじゃなくて、うさぎのいる島なんです。けっこうな数がいるみたいで、それで……」と、ふと顔合わせのことを思い出す。「あー、なんか、そうなんですよ、はい」
「え、なになに、どうした急に」先輩は笑っている。「いきなりやる気なくすじゃん」
「いやぁ、あの」頬を掻く。「ただの観光じゃないんです。実は父が再婚することになって」
先輩は目を丸くして、かなり純粋な笑顔で「おめでとう」と相槌を打ってくれた。
「あ、じゃあ、もしかしてそこで会うことになったの? 再婚相手さんと」
「そうなんですよ」と、話の速さに感動しつつ、「でも、そういう場所のセッティングとかは、いもうとと父だけで決めちゃったみたいで。なんかわたし、蚊帳の外っていうか」
と、言葉にしてみるとなんだか自分がまったく情けない人間に思えてきた。井戸のカエルがもし大海を臨んだら、こういう気持ちになるのだろうか。
「わたしって、頼りないんですかねぇ」
半ばため息まじりだった。
「ふふ、寂しいんだ、いつきちゃん」
かわいいねぇ、と先輩はあまり本気に聞いてないふう。あっさり茶化された気分だが、寂しいというのはあながち間違っていなさそうである。畢竟、単にそれだけなのかもしれない。
「まぁでも、安心なさい。あたしはいつきちゃんのこと、頼りがいのある子だって思ってますから」
「本当に思ってます、それ?」
「もちろん。ほら、暗い顔してないで。おいしいオムライスでも食べなさい。ちなみにこれ、あたしのおごりなんだよ」
と、先輩はわざとらしい恩着せがましさを見せて、また一口運ぶ。
先輩は、むかしからへんなところで気前のいいひとでもあった。いまさらだが、こうしていまお昼をご馳走してもらっているのは、わたしの自動車免許の取得祝いらしい。なにもそれだけで、と思わないでもない。
が、もちろん気前のよさには裏がある。つまり、このおごりには先輩のある企みが潜んでいるのだ――といってはみるものの、大層なことではない。人並に企みはすれど、大それたことは考えつかないかわいい性格のひとなのだ。
今回のおごりは、免許取得のお祝いであり、「免許を持ってる人には貸しをつくっておくといい」という先輩の人生哲学にもとづくかわいらしい打算に満ちたものである。ひらたくいえば、「朝寝坊したときに運がよければ車を回してくれるかもしれないから、その種をまいておこう」ということである。
そして急いで付け加えると、これを本気でいっているわけではないというのもまた先輩の本質である。たとえ借りが返されなくとも先輩は怒らないし、もし恩をあだで返すようなまねをしてもあっけらかんとした顔で笑って許してくれるだろう。先輩は実のところ見返りをほとんど期待していないし、というか、わたしが思うにこのひとは他人に期待するということを知らない。こういうとあまりに冷淡に聞こえるが、結局のところ裏表がないということでもある。
わたしは――そういう先輩がすこしこわくて、すごく好きだ。
◇
帰りのバスはかなりがらんとしていた。もうすっかり夜の色に染まった街並みは、徐々に都会のふうをぬけでていき、いまは閑静な住宅街に向かっている。よく揺れるバスで本を読んでいると、いつのまにかうつらうつらとしてしまう。
大学生の夏休みは長い。そう高をくくっていると、気づけばすべて終わってしまうていどには。ことがらというのはすべてそうだ。永遠に思えるものは等しく永遠でなく、永遠でないものはまさしくその通りに永遠でない。
今夜は月が出ている。鉄塔のうえに凛としてたたずむ月は、欠けているが、もうしばらくで満月である。