青天井
「空はいつになったら、私を攫いに来てくれるんだろうね」
彼女は空に手を伸ばしたまま、呟くようにそう言った。それはきっと誰かに言うわけでもなく、自然と心の隙間から洩れたような、そんな声だったのだろう。
「空はいつも私たちの頭上にあって、なんでも吸い込んでしまいそうな顔で私たちを見下ろしてるの。それなのに、望んでもちっとも吸い込んでくれない。奪い去ってくれない」
その顔は、睨んでいるようにも見えた。
「どうしてそんなに、空に攫われたいの」
僕は彼女に聞いてみた。そんな詩的な言い方をしたって、本当に言いたいことはきっと変わらない。彼女の目から常に溢れるものが、彼女が空に求めるものを語っている。
それでも、僕は彼女の口から知りたかった。知った方がいいと思った。
「うーん・・・空ってさ、なんでも受け入れてくれそうじゃん。だって自分から攫っていくんだから、文句言えないはずでしょ?」
僕は首をかしげる。そもそも、空そのものに意思がある時点で可笑しいじゃないか。文句もなにもあったものではない。そんな僕の疑問を悟ったように彼女は続ける。
「自分で空に行くのは、駄目なんだって。私たちには自分で空へ行く自由がない。だから空が連れ去ってくれなきゃ、私たちはいつまでたってもたどり着けないんだよ」
長袖から腕がのぞく。飛行機雲が空を切り裂くのが見えた。
「ねえ、君は空が好き?」
彼女の突然の問いに、僕は言葉を詰まらせる。そんなこと、考えたことなどない。空が好きか嫌いか、普通は言わない。
「私は結構好きなんだ。昔から、どんな時でも、何があっても、この空は、この夏の空だけは、私の前からいなくならない。いつも変わらない。ずっとそばにいてくれたの」
彼女はずっと上を見ていた。蝉の声が遠くで鳴り続けている。
「ねえ、君は?」
顔を覗かれているのに気がついた。自然と下を向いていたようだ。
改めて考える。僕はいつだってこんな風に下を向いて逃げていた。逃げて逃げて逃げ続けて、たどり着いたのがこんな学校の屋上という、いつも見ている地面から一番遠い場所なのだから皮肉なものだ。
「あんまり見たことないから、好きとか嫌いとか、よくわかんない」
彼女は少しおいて、「そっか」と小さく相槌を打ってくれた。
蝉の声がまた響いて、夏の匂いがする。
「じゃあ、今見て、どう思う?」
僕の顎を無理やり上げて、彼女は僕に空を見せた。うなじの辺りに少し衝撃が来て、眼球がふらふらする。
同時に飛び込んでくるのは、見事なまでの青天井。ぽつぽつと大きくも小さくもない雲が浮かぶ、広く青い空。
「・・・青い」
僕の間の抜けた言葉に彼女はクスクスと笑った。頬のあたりが熱くなる。
「小学生でも、もう少し情報量のある事言うんじゃないかな?」
「そ、そこまで言わなくても」
明らかに少しバカにしているとわかる彼女の返しに、ついムッとしてしまう。だがすぐに、僕もつられて笑ってしまった。
「僕も、空に行きたい」
そう口にしてみた。正直、彼女がどんな顔をするか気になったのもある。彼女は思ったよりも大きく反応はしなかったが、固まったように僕を見ていた。
「ど、どうしたの」
「いや、私って、そんな顔しながら、いつも空を見てたのかなって思って」
本当に意味が分からなくて、おそらく僕は今、とても眉間にしわが寄っている。僕の察しが悪いのか、彼女の言い回しが遠回り過ぎるのか。まあ、どちらもだろう。
「私ね。ここにいるのがすごく嫌なの。誰にも必要とされなくて、望まれてなくて、ただいるだけ。誰かの邪魔になるだけ。惨めで仕方ないじゃない」
彼女の視線は空に吸い込まれたまま、ただそう答えた。
「何度もあの空に行こうとした。私から、自分の意志で飛ぼうとしたけどダメだった。どれだけ頑張ったって私たちは人間だもの、天使にはなれないの。翼なんてない」
僕の視線は彼女の背中に引き寄せられる。確かにない。当たり前だ。けど見た、なぜ?翼なんて人にはないはずなのに
「イカロスの話を知ってる?翼を作って、空に憧れて、死んだ人間の話。私はそれなの。子どもの頃に絵本の中で見て憧れた、神様に望まれて、空を自由に飛び、生きることを許された天使たち。私はそれになりたかった」
陽炎がユラユラと揺れる。
「でも、そんなものになれるはずもなくて、私の翼は何度も人のエゴと、自分の恐怖で崩れ落ちた。私の翼は、きっと蝋なんかよりもずっともろい」
崩れそうな身体を支えるように、彼女は自分の身体を抱き、翼のない背中をさすった。
だんだんと歪んでいく彼女の声と顔が痛々しくて、僕は少しだけ目をそらした。辛いのは自分だけだと思っていた。世界で最も不幸なのは自分だった。
授業開始のチャイムが鳴る。おそらく今は四時限目が始まるころ。
遠くから、体育教師の声が聞こえる。
「ねえ、私はどうすればいいの?どうすれば神様は私を受け入れてくれる?」
とてもとても悲痛な声だった。小さな子供がはぐれた親を探すように、藁にも縋るとは、きっとこの時のための言葉だろうと思うほど、彼女の声は迷子だった。
「僕が神様だったなら、僕は君を心の底から許すと思う」
「どういうこと?」
「だって、こんなにも頑張って、自分のもとへ来ようとしている子がいるんだもの。ちょっとズルいことしたって、目をつぶってやりたくなるよ」
それもまた人のエゴ、僕の可哀想という感情。それでも、僕は今、彼女をどうしたら救えるのかを必死に考えていた。
彼女と同じように、誰にも望まれず、虐げられ、罵られ、人であることを否定された僕だから、汚らしく、同じく救いを求めるように彼女に同情した。
「自ら会いに来て、天使にしてくださいって言っても、許してくれるかな」
「保証はできないけど、一緒に頼むくらいならできると思う。君が望むのであれば」
僕は必要としてほしかった。否定してきたあいつらを、すべて捨てて、誰かのためになりたかった。
「神様は私を必要としてくれる?」
「神様はわからないけど、今の僕には、君が必要だ」
僕たちは自然と手を取った。蝉の声が鳴り響く。
彼女の背中に視線を向けると、そこには白く輝く大きな翼があった。
「今度こそ、飛べる気がする」
「あぁ、大丈夫だよ。きっと届く」
鉄の柵の先には大きな空気が広がっていた。彼女の瞳から落ちる宝石が宙を彩る。
空が青々と足元に広がる。
目が回るほどの青天井。
吸い込まれる。
辛いことも、苦しいことも、楽しいも、好きも、嫌いも、哀しいも、全部全部奪い去って
僕たちの頭上は
ずっと青く澄んでいr・・・