九・ラウルとニーナ
朗読を聞いていた彩絵は、ニーナに詰め寄る。
「全部描き直してるからまだ全然最初だけどさ、結構良くなったでしょう?」
「自分で言っちゃう?」
「ね、ね、どう?」
褒められるのを尾を振って待っている子犬のような彩絵だが、当然ニーナは手放しで褒めることはしない。
「あたしに指摘されたところは直してきたね。いいんじゃない? このまま最期まで描ききることができたら」
「さいご?」
「物語は、ラストがとっても大事だからね」
あえてゆっくりと言い聞かせるような物言いに、彩絵は頬を膨らませた。
「すぐそうやってプレッシャーかけてくるんだから」
「彩絵はさ、なんで絵本作家になろうと思ったの?」
取り皿のピザを食べながらのニーナの問いかけは突然で、彩絵は一瞬表情が無になる。が、すぐに照れ笑いをこらえる微妙な表情でニーナを横目で見る。
「えぇ~、言うの?」
「いいよ、言わなくても」
大して興味もないといった風にさらりと返したニーナだったが、ピザを平らげてナプキンでぬぐった両手が素早く彩絵の両脇腹を襲う。
「耐えられたらね」
「きゃー! やめてやめて、言う、言います」
この急所へのくすぐり攻撃に耐えられるわけがない。
ニーナは勝ち誇った笑みを浮かべている。意外と子供っぽいところもあるのだが、それも一緒にいて楽しいと彩絵が感じる要因のひとつでもあるのだ。
観念した彩絵は、常に心の奥にしまってある宝物を取り出し、心にそれを見つめる。
「いつどこで見たのか全然覚えてないんだけど、たぶん、すごく小さい頃。とっても素敵な絵を見たの。
夕焼けの海の絵。
夕陽が海に沈んで、じゅうって音が聞こえてきそうなくらい真っ赤で。全部オレンジ色になっているのに、世界がものすごく色鮮やかに見えるような」
見たのはそう何度もというわけではないはずだった。
しかし、幼い頃から何度も心に思い起こしてきたその光景はつい今しがた見たばかりのように、鮮明に思い起こすことができる。
見た時の感動すら、胸に沸き起こるほどに。
閉じていた目をぱっとニーナに向けて、その絵への憧憬と希望に頬を紅潮させて言う。
「でね、絵本もずっと好きだったから。あんなふうに人を感動させられる絵と物語を描きたいって。そう思ったんだ」
「ふうん。その絵、あたしも見てみたいな」
「でしょでしょ? あー脳と脳を繋ぐ線があったら、私の記憶のこの絵をニーナに見せてあげるのに」
「なんだそりゃ」
「言葉で説明してもうまく伝わらないとき、あるでしょう? そういう時に直接イメージを伝えられたらいいのにな、って昔から思ってるんだけど」
言いながら彩絵は謎の機械の線を自分の頭頂からニーナの頭頂につなぐそぶりを見せる。
ニーナは彩絵の妄想に呆れながら、繋がれた線を外して捨てるふりをした。
「絵描き目指してるんなら絵を使いなよ」
「イメージ通りにサッと描けるなら苦労しないよ。それよりニーナは? どうして絵を描こうと思ったの?」
「さぁ、どうだったかな」
サラダを取りながらしらばっくれるニーナに、彩絵は猛抗議する。
「えー! ずるいよーひとに話させておいてー!」
「わかった、わかったから暴れるなって。話すよ」
古いマンガで見かけるおもちゃ売り場の駄々っ子よろしく、椅子の上で両手足を振り回して暴れる彩絵をなだめ。
『話す』の言葉にピタリと聞く姿勢になる彩絵に苦笑しながら、ニーナはサニーレタスにフォークを差して眼前にそれを見つめる。
いつもこうして食卓を囲む時、そのフォーク越しに見えていた人の面影が浮かぶ。
「最初は、さ。絵なんて特別好きでもなんでもなかったんだよ」
「えっ、だって『絵がうまかったから養女になった』って」
「よく覚えてるね」
彩絵は肝心なところで抜けていたりするくせに、変なところで記憶力や勘がよいところがある。
ニーナはサニーレタスを口に入れてしまって続ける。
「うまかったってのは、ちょっと話し盛ったかな。ただ、ヒトと同じことするのが嫌いでね。
春に、教会の絵を描きましょう、って写生会してるのに。あたしだけ木の葉っぱ赤く塗ったりしてさ」
「どうして?」
「秋が好きだったから」
つらっと答えるニーナだが、彩絵は尊敬の念を込めて微笑む。
自分が小学生くらいの頃、そんな発想ができただろうか。仮にできたとして、そんな大胆なことができたろうか。
ニーナは彩絵の空いた皿にサラダをコーンたっぷりで盛り付けながら続けた。
「そんな感じでいたから、目に留まったってのもあったんだろうな」
当時、ラウルは日本に限らず孤児院や老人ホームを回って絵を描いたり教えたりしていた。
ニーナが彼と初めて出会ったのも、孤児院を兼ねているこの街の教会でのことだった。
「ラウルが来るようになってからは、絵の時間が楽しかったぁ。あの人さ、絵を教えに来ているはずなのに、絵のこと全然話さないんだ。あちこちの国で見たり体験したことばっかり話しててさ」
酒が入っているせいもあるのだろうか。
楽しそうに話すニーナは、いつもの先生然とした彼女ではなく、友人同士で話しているような……いや、おそらくはラウルと出会ったばかりの彼女に戻っているかのように感じられた。
そして、彩絵にはそれがとても嬉しく思えた。
ニーナは彩絵のそんな様子に気付くでもなく語っている。
「かと思ったら『今の話の中から面白かったところを絵にして』とか『その国に行ったら何をしたいか描いて』って言ってくるんだよね」
「行ったことや体験したことのないことを想像で描くってこと? 急に言われたら難しいよね」
「みんなもそう言ってたよ。だけどね、ラウルはこう言ったんだ」
ニーナはやおら立ち上がり、両手を広げておおらかに話し始める。
「『想像の世界は自由だ。みんなの思った通りにできる。それを表現するのも、みんなの思うままにできるんだよ』……ってね」
おそらくは当時のラウルが皆に語るその姿を真似ていたのだろう。
彩絵は、はっと思い当たりニーナを振り仰いだ。
「じゃあ、春の庭を見ながら秋の風景を描くのも?」
「そ、自由!」
『ご名答』と言わんばかりに彩絵を指さし、ニーナはすとんと椅子に腰を下ろした。
「ぶっちゃけ親に捨てられてさ。その頃『自分には価値なんてないんだ』って思ったりしてたから、ラウルに認めてもらえた時は嬉しかったぁ。
ニーナって名前もさ、ラウルにもらったんだ。養子縁組したときに。『愛って名前は、イタリア語ではニーナっていうんだ』ってね」
「えっ、ニーナって、本当は『愛』って名前なの!?」
彩絵に身を乗り出すように誇らしげに話していたニーナが固まった。
すぐに椅子に座り直して彩絵と距離を取る。その頬は酔いのせいだけではなくほのかに染まっているように見える。
「そこはいいから! それからはラウルについて、あちこちの国まわりながら……彩絵!」
いつもの語り口調に戻ったニーナが、微妙に話を逸らそうとしているのがおかしくて口元が緩みっぱなしだった彩絵は姿勢を正す。
「はいっ、聞いてます」
真面目な顔になりきれてはいないが、失言したのは自分と諦めてニーナは小さく息をついた。
テーブルに頬杖をついて、正面の空席を見つめながらニーナは静かに語る。口元は微笑んでいるものの、昔日を懐かしむその瞳はどこか寂しげでもあった。
「ラウルの絵が認められるまでは貧乏で大変だった時期も長かったけど。あたしもできるだけ働いて稼いで。ラウルの手伝いしながら絵の勉強して。毎日本当に楽しかった」
「いいなぁ、絵の武者修行してるみたい」
無邪気にうらやましがる彩絵に、ニーナはにやりと口端を上げた。
「彩絵も来る? 一緒に」
「えっ」
「壁画とか、似顔絵とか描いて稼ぎながらさ。あたしと、世界武者修行の旅!」
「行きたい!」
反射的に彩絵は立ち上がって答える。
ニーナとラウルの話を聞いてから、何度も思い描いてみていた。夢のような暮らし。
テーブルから離れ、開けたところに駆けだした彩絵は右手を額にひさしのようにかざして見せる。
アトリエに来ているときにしばしば繰り広げられる彩絵劇場だ。
「いろーんなところを見て、いろんな土地のお話を聞いて」
ぴょんと隣に跳んで、両耳に手を当てて聞くそぶりをする。くるりと一回転してニーナの方を向いて、両手を口元にもっていって内緒話をするように小声で言う。
「いつか、誰も聞いたことも描いたこともないような絵本を描いて」
かと思えば右手、左手の順に手を斜め前方に掲げる。彩絵の視線の先には、表彰される彩絵をたたえる沢山の人たちが見えていた。
「世界的に有名な絵本作家になるの!」
その称賛に対し、いつかニーナがミツにしていた優雅な例を真似て一礼する。
ミュージカルの舞台やアニメが大好きな彩絵は、よくこうして物語のひと幕をニーナに披露していた。
今日はニーナもそれに乗って、
「そうしたら、本当に王子様が」
宝塚の男役のように姫に向けて差し出された手に、彩絵は楚々と駆け寄って自らの手を重ねる。
「迎えに来ちゃうかも!?」
「それにはたーっぷり絵の修行をしないとね」
意地悪な笑みを浮かべて言うニーナだが、彩絵もそのツッコミは想像していた。いつもの口癖が口をついて出る。
「「ですよねー」」
彩絵の言葉にぴったりと重ねてニーナが言うと、どちらからともなく笑いだす。
椅子に座って、ひとしきり笑った後でニーナが口を開く。
「あたしはもう描かないからさ。画家としては。だからラウルの技術を」
「待って待って!」
まるでコーヒーの淹れ方を話しているかのようにさらりと告げられた言葉に、彩絵がニーナを制する。
さっきまでの楽しい気持ちがどこかへ消えるほど、彩絵にとっては衝撃的な宣言だった。
聞き違いであってほしいという思いで尋ねる。
「今、絵は描かないって?」
「仕事としては描くよ。作品としての絵はもう描かないって決めたんだ」
ニーナの横顔に、いつもの冗談めかした口調で話すときの雰囲気はかけらもない。ただ、静かな決意だけがそこにあった。
彩絵は心に風穴があいたような気持だった。その穴のせいなのか、感情が浮かばない。やっとのことで疑問を言葉に変えて、力なくぶつける。
「どうして? おとうさんは、ラウルさんは知ってるの?」
「死んだよ」
言ってニーナは立ち上がる。
彩絵に背を向けたのは、表情を見られたくないからだろうか。彼女の言葉に悲壮感はなく、明るい調子で先を続けた。
「病気してたんだ、ずっと。心臓悪くして、もう六年くらい。
最初に倒れた時に、手に震えが出るようになっちゃってさ。それから、ラウルの作品は全部あたしが描いてた」
ラウルの手が筆を握れなくなった時に感じた衝撃を、今でも覚えている。
当人の方がショックだったろうに、ニーナを気遣ってかそんなそぶりは全く見せなかった。
だから、自分から申し出た。
ラウルのかわりに筆を取ることを。
「ラウルと一緒に、ラウルが思い描いたものを、ラウルから受け取った技術で余さず表現する。そのために、あたしはここにいるんだって」
そう、言い聞かせていた。
限られたラウルとの時間を、絵という形に残したかった。
「ニーナ……」
気遣うような彩絵の声が背後から聞こえ、ニーナはいつの間にか浮かんでいた涙に気付いた。
もしかしたら、声にも涙がにじんでしまっていただろうか。
今更だがごまかすように小さく笑い、笑顔を作って彩絵を振り返る。
「いつかはこうなるってわかってたけど。あの人がいなくなったら、何のために絵を描くのかわかんなくなっちゃったわけ」
「……それで、その絵はもう描かない、って言ってたんだ」
彩絵の視線の先には、布が掛けられたイーゼルがある。ニーナがフランスの個展に出すためと言っていた、描きかけのカンバスだ。
「あたしの描く絵は、世間ではラウルの絵なんだから。描いたってどうせ、ね」
気にするな、というつもりで明るく言ったニーナに対し、彩絵は言ってよいものか迷った。
しかしどうしても我慢できず、まっすぐニーナを見て言う。
「そんなの、わかんないよ。ニーナの絵を見てもらわないうちから、どうしてダメだって決めちゃうの?」
彩絵の問いかけにニーナは驚いたようだったが、彩絵は言ったままの勢いで続ける。
「前に教えてくれたじゃない。『想いを込めた絵には描く人の人生が詰まってる』って。
だったら、ラウルさんと同じ技術で描いたって、ニーナが描けばニーナの絵になるんじゃないの?」
「絵の世界のこと知らないから、そんなこと言えるんだよ」
絵を描くのをやめてほしくない一心で訴える彩絵の言葉は、ニーナには届かない。
彩絵の心に開いてしまった穴から、感情が湧き上がってくる。それは悲しみと怒りだった。
思わず彩絵は立ち上がって言う。
「怖いの?」
「は?」
ニーナの表情から笑みが消えた。
だが、彩絵も退かない。
「『どうなるかわからない先のこと怖がってても意味ない』って教えてくれたの、ニーナじゃない!
絵の世界とか難しいことはわからないけど、そんなのニーナらしくないよ」
ニーナは再び背を向け、帰ってくるのは沈黙だけだった。
うつむく彩絵に、フロアラグの上に散らばった落描きや画材が飛び込んできた。つい先刻まで楽しく過ごしていた時間が幻のように感じられ、視界がぼやけていくのを止められない。
黙ったまま立っているニーナの背を見つめ、彩絵はあることに思い当たった。
それがニーナにとっての真実かどうかなど、判断できる余裕は彩絵になく。
心に開いた穴の中で生まれたその考えは大きく膨らみ、彩絵の口からあふれ出た。
「私をニーナの代わりにして、ニーナがラウルの代わりに弟子を連れて旅をするって。そういうことなんだ」
「なんだよ、代わりって」
「だってそうじゃない。ニーナはラウルの代わりをやめたくないんでしょう? でも、代わりに絵を描くことができなくなったから。だから私を連れていきたいって、そういうことなんでしょう?」
涙に濡れた目で見つめる彩絵に、ニーナは口を開きかける。
しかし、そこから言葉が紡がれることはなく。彩絵はそれを肯定と受け取った。
置いてあったリュックとパーカーを取り、スケッチブックをリュックに突っ込みながら怒りに任せてニーナに声を上げる。
「ニーナだけは、決まった枠にはめないで私のことちゃんと見てくれてるって思ってたのに」
彩絵は速足で表へ飛び出す。
ドアが勢いよく閉まる音と、ニーナひとりがアトリエに残された。