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八・ミツとニーナ



「なにも隠してないって言ってんの!」


 休業中で静かな喫茶店『マダムの庭』内にニーナの声が響く。

 それ以上に大きなミツの声が後を追う。


「いーや、そんなわけない!」

「はぁ?」


 ニーナは一度振り返ったきり、壁画の作業に戻ろうとする。その腕をミツがつかんで引き留めた。


「アンタの様子がいつもと違うことくらいお見通しだよ。観念して白状したらどうだい!」

「しつこい。ないったらない!」


 腕を強く引きミツの手を振りほどいたニーナに、ミツはムキになって食ってかかる。


「聞き分けのない子だね!」

「喧嘩しちゃダメー!!」


 突然入口から響いた彩絵の声と、開けたドアの勢いに比例して激しく鳴るドアベルの音にニーナとミツが振り返る。

 彩絵は両手を腰に当てて仁王立ちで言う。


「もう、外まで聞こえてたよ」

「いいところに来た、彩絵」


 ニーナは渡りに船と彩絵に駆け寄る。

 彩絵の両肩をつかみ、そのまま彩絵ごとくるりと反転。ミツと自分の間に彩絵を入れて盾にしつつ、自らはドア側へ移動した。


「今夜アトリエに泊まりにおいでよ」

「ホントに!?」


 思いもよらぬ嬉しい申し入れに、彩絵は眼を輝かせてニーナを見上げる。

 一も二もなくうなずき、ニーナは片手を上げて彩絵に挨拶し、迫るミツにつかまる前に外へ出た。


「じゃ、アトリエでねー」

「お待ち! まだ話は終わってないよ!」


 入口から外を見るが、ニーナの逃げ足は速く通りに姿はない。


「逃げたな、アイツめ」


 忌々しそうにつぶやくミツに、彩絵が言う。


「珍しいね、ミッちゃんがあんな風に怒るなんて」

「まぁ、あの子とは何だかんだ長い付き合いだからね」


 首をすくめておどけた調子で言いながらドアを閉めるミツに、彩絵は小さく笑みをこぼす。


「ふふ、さっきもだけど、ニーナとミッちゃんてなんか似てるよね」

「アタシと?」


 虚を突かれたように小さな声を漏らしたミツの顔から表情が消えた。

 それを彩絵が訝しむ間もなく、ミツはいつものようにいそいそとテーブルを拭きにかかる。


「冗談だろ、何にする?」

「うーん、今日は……ああっ!」


 言いかけた彩絵は、視界の端に入った違和感に振り返り思わず声を上げた。

 駆け寄った壁面にあったのは、描きかけの窓景だ。

 鉛筆で描かれた下絵は、彩絵がニーナのスケッチブックで見たものがすべて詰め込まれている。

 彩色は三分の一ほどしか進んでいないが、彩絵の目には色鮮やかな光景として映し出された。


 白い窓枠の向こうには、緑鮮やかな下草が生えた小道が左手前から右奥へと続く。道の中央には奥へと誘うようにビスケット色のステップストーンが置かれている。

 小道はツルバラの絡むローズアーチを越えて、土壁の塀に開けられた横幅の広いアーチの奥へと消えていく。

 土壁には蔦が這い上がり、アーチを越えない絶妙な高さでフランスゴムの木やミモザが並ぶ。


 そこへ至る小道の両脇には、白と緑を中心とした小さな花が並び、その背後にレンガを積んだ低い花壇。

 右手前の花壇には、サルビアやヤグルマギクが寒色の濃淡を生み出し、淡いピンクの大ぶりなバラを引き立てている。

 小道を挟んで奥側になる左の花壇には、ハルシオンやミヤコワスレなどの明るい色の下草からニワトコ、シレネ等暖色のグラデーションを生み出す。

 その中に赤からワインレッドの大小のバラが彩りを添えていた。


 それらの花の名前は彩絵にはわからなかったが、ミツの言う『夢にまで見たフランスの庭』と呼ぶにふさわしい光景がそこにはあった。


「あ……アオガラ」


 その手前、左側の窓は外に向けて開け放たれており、窓枠には見覚えのある小鳥が留まっている。


「すごいね、すごいねぇ! 私、窓から出てこの庭に行ってみたい」


 彩絵は外国に旅行なんて行ったことはない。

 ニーナは、師であり養父であるラウルと世界中を旅したと話していた。主な拠点はイタリアだと言っていたが、フランスのこんな素敵な庭も実際に目の当たりにしてきているのだろう。

 それこそ、彩絵にとっては物語の中でしかありえない話だった。

 だが実際にそれを経験している人物が存在しており、今自分と共に時間を過ごしてくれているのだ。


 この感動を共有したくてたまらず、彩絵はミツを振り返った。


「ね、ミッちゃんもこういう庭のある家に住みたかったんでしょう?」

「え?」


 驚いた顔を見せたミツは、一呼吸遅れて返事を返す。


「ああ。ニーナもいい絵を描くようになったよ。道具をほっぽらかして出てったのはいただけないけどね」


 そう毒づくミツはいつものミツに戻っていた。ミツは思い出したように彩絵に尋ねる。


「そうだ、今日なににするって言ってたんだっけ」

「今日はいいや。ニーナのところに行かないと!」

「ちゃんと親御さんに断ってから行きなよ」


 急いでドアへ向かう彩絵に、ミツが言う。

 ミツは聞くべきか聞かざるべきか迷い、彩絵がドアノブに手を掛けた瞬間。反射的に呼び止めていた。


「彩絵!」

「えっ、なに?」


 思っていたよりも強い呼びかけになってしまったのをごまかすように、ミツは持っていた布巾を折り返してたたみながら言う。


「いや、さっきの……アタシと似てるって。ほら、あの子と」

「ニーナ? うん、なんとなくね。あ、似てるといえばさ」


 彩絵は思い出してよかったというように、ぱっと笑顔を咲かせると飾り棚に駆け寄った。


「前から言おうと思ってたんだ。この赤ちゃん抱いてるお母さんの絵、これもちょっとミッちゃんに似てるよ」


 温かみのある色調だが、優しいだけではなくしっかりとしたタッチで描かれている。

 顔が似ている、というわけではない。

 ただ、胸に抱く我が子を見つめるそのまなざしが、カウンター越しに彩絵や大樹を見守ってくれているミツのそれと同じように感じられたのだ。


「今度、どこで買ったのかとか詳しく聞かせて! じゃあまたね、ミッちゃん」


 彩絵はアトリエでのお泊りが待ちきれないといった様子で、慌ただしく店を後にした。


 ひとり残されたミツは、彩絵の肩越しに見つめていた母子画から目を離せないまま。

 布巾をテーブルに置きそれに歩み寄った。

 置き型の額に入れられたその絵を手に取る。

 忘れもしない、ラウルがこの絵を手渡してくれた時のことを今でも鮮明に思い出す。


「もらった時は、アタシに母子の肖像画なんて、って思ったけど。今思えば、そういうつもりでこれを描いてくれたのかもねぇ」


 ミツはその額をそっと胸に抱く。


「できることなら、直接会って確かめたいよ。ラウル……」


 彼女の横顔は、ラウルがニーナを連れて初めてこの店を訪れた時と同じく様々な感情がないまぜになったものになっていた。






 一度帰宅した彩絵はとりあえずの着替えと、画材とを大きめのバッグの中に詰め込んでアトリエを訪れた。

 テーブルをキッチンに近い側に動かし、イーゼルのある側の床にネイビーと白でネイティブ柄を織り込んだフロアラグを敷いたその上に画材が広げられていた。

 そのスペースで二人は座ったり腹這いになったりしながら、お題を出し合って絵を描いたり、色の使い方や塗り方についてやり取りしながら時間を過ごした。


 彩絵にとっては、ニーナから絵の手ほどきを受けるのは初めてで。美術の時間や部活で習うのとは違うニーナ独特の捉え方や表現方法を知るのは楽しく、時間はあっという間に過ぎていく。

 キッチンの方から漂う香ばしい香りが強くなってきたところで、ニーナは立ち上がった。


「はい、休憩ー。そろそろ焼きあがったんじゃない?」

「もうお腹ぺこぺこー。ずっといいにおいしてるんだもん」


 彩絵も立ち上がり、ニーナの背後からオーブンをのぞく。


「ピザ手作りするなんてすごいね」

「そう? 小麦粉練るだけだよ」


 オーブンから木製のカットボードに焼きあがったマルゲリータを移しながら、ニーナが言う。


「冷蔵庫からビール出して。彩絵はジュースね」

「今ずっと飲んでたのに、まだ飲むの?」


 驚き半分、呆れ半分で彩絵が尋ねる。確認はしていないが、彩絵がアトリエに着く前から飲んでいたのではないだろうか。

 缶ビールを手にし、いくつか並んだ缶のジュースのどれにしようか迷っていると、下の段にラップをかけて置いてあるサラダが目に入った。

 ウッドボウルの中はレタスとベビーリーフ、それにホールコーンがたっぷり乗せてある。


「このサラダもニーナが作ったの?」


 かがんで冷蔵庫をのぞいていた彩絵が顔を上げる。

 振り返ったニーナは、思わず口元が緩む。彩絵の顔は『食べたい』という感情で構成されていた。


「いいよ、それも」

「やった!」


 彩絵はビールとジンジャーエールの缶をテーブルに乗せると、すぐさまサラダを取りに戻る。冷蔵庫を閉め、サラダを手にくるりと一回転し


「コーン大好き~」


 歌うようにテーブルに乗せる。

 実は事前に、ニーナはミツから彩絵がコーンが好きだと聴取していたのだ。喜ぶ彩絵に、ピザをカットしながらぼそりと言う。


「お子様」

「聞こえてますー」

「聞こえるように言ったんですー。ほら、座って」


 ニーナは彩絵に促し、ピザを取り分けた皿を各々の前に置くと自らも席に着く。

 ビールの缶を開け、彩絵がジンジャーエールの缶を開けるのを待ってビールを掲げた。


「じゃあ……何に乾杯する?」

「えっ!」


 まさかそんな問いが飛んでくるとは思わず、彩絵は慌てて腰を浮かせた。しかしすぐに腰を落ち着け、頭を働かせる。

 こういった時、どのように言っていただろう。映画や漫画、アニメ……。


「えっと、えっと……じゃあ、ニーナとの出会いに?」


 ニーナの表情を窺いながら言うと、彼女は満足そうに微笑んだ。


「いいね。彩絵との出会いに」


 ニーナはビールを彩絵に差し出す。持っているのは缶ビールなのに、そのしぐさは優雅で、彩絵は貴族がワイングラスを差し出している姿を思い描いた。

 彩絵もいつも友達とする乾杯とは違って、ニーナの持つワイングラスに自分のグラスを重ねるように、ジンジャーエールの缶を小さく当てた。


 乾杯の直後に、ニーナは一気にビールをあおる。缶半分くらいまで減ったのではないだろうか。

 そして、缶を持っていない方の手を彩絵に差し出した。


「さ、召し上がれ」

「いただきます……美味しい!」


 お世辞ではなく彩絵の心からの賛辞が飛び出す。

 生地の表面はパリッと焼きあがっているが、内側はもっちりとしている。

 何種類かのチーズを混ぜているのか、伸びの良いチーズの程よい塩味がトマトの甘味と酸味を引き立てたソースと合う。そこに、フレッシュバジルがさわやかな香味を添えている。

 彩絵がよく食べる味の濃い宅配ピザと違い、素材の旨味を引き立てる味付けがされていた。


「ニーナ、料理上手なんだ。意外」

「よく言われる」


 むしろ誇らしげな様子で言うニーナは、あっという間に一切れを平らげた彩絵に取り分けたサラダを渡し、空いた皿にもう一枚ピザを乗せる。

 しかしニーナの皿に置いたピザは手つかずのままだ。


「ニーナは食べないの?」

「もう少し飲んでから」

「あ、じゃあこれ見てみて」


 彩絵はリュックの隣に置いてあったB4サイズのスケッチブックをニーナに渡す。


「ラッコ、描き直してきたの」

「どれ……お、名前つけてきたね」


 ニーナが開いた一ページ目が絵本の表紙となっており、海に浮かぶラッコと隣に舞い降りようとしているカモメが描かれている。

 上半分の空の部分に、タイトルなのだろう、彼らの名前が記されていた。


「ラッコのアーヤとカモメの……」


 目で追いながら読み上げていたニーナの視線が止まり、ゆっくりと彩絵に向く。


「ニーナ?」


『やりやがったな』というニーナの視線を受けた彩絵は、いたずらが成功した子供の表情で笑う。


「名前つけた方がいいって言ってたもんね。ね、ね、また読んでみて」

「ったく……」


 ニーナは小さく舌打ちをしたものの、嫌な気はしなかった。

 彩絵をもじった名のラッコと、自分の名がつけられたカモメがいる表紙を開く。

 次のページには海を背に浮かぶラッコ……アーヤの腹に乗るニーナが描かれている。

 そこに描かれている文章を、ニーナは幼い子供に読み聞かせるように声に乗せた。

 

『アーヤはニーナが聞かせてくれるいろいろなお話の中でも、森のお話がいちばんすきでした。

「ニーナは空を飛べていいなぁ。ぼくも空を飛べたら、いっしょにその森まで飛んでいくのに」

 するとニーナはいいました。

「ならいっしょに行くかい?」

「むりだよ。ぼくにはつばさがないもの」

 かなしそうに首をよこにふるアーヤのおなかにばさりととまって、ニーナは白いつばさをひろげました』


 ニーナはページをめくる。

 次のシーンには、二人の上に海と森を繋ぐ川の地図が描かれている。

 それを見上げるアーヤの目は輝いており、ニーナに自分の話を聞いているときの彩絵の表情を思い出させた。


『「その森の上からは川がながれていて、この海までつながっているんだ。つまり、海から川をのぼっていけば」

「ぼくも森までいける!?」

 ゆめにまで見た花がたくさんさいている森へ行けるとおもうと、アーヤはいてもたってもいられなくなりました。

「おねがい、ニーナ。ぼくをその森までつれていって!」

 こうしてアーヤの、森をめざすぼうけんがはじまったのです』

 

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