六・解田家
彩絵の生家、解田家は彩絵と大樹がいつも利用しているバス停がある丘から坂道を降り、曲がり角をひとつ折れた先にある。
この辺りは古くからある住宅街で、隣にある佐藤家は剣道道場として三代に渡り受け継がれていた。
解田家は彩絵が生まれて少ししてから、佐藤家の隣の空き家に越してきたのだ。
解田家は両親と彩絵の三人。
佐藤家は両親に大樹、祖父の四人。
隣同士になった時から、家族ぐるみでの良き付き合いが続いている。
解田家のリビングダイニングは、カーペットを敷いた上にローテーブルがひとつ。
そこには座布団の上であぐらをかき、夕刊を読んでいる父・正剛の姿がある。
歳は五十五歳。クセのある髪は半分以上白くなっており、険しい顔に刻まれたシワ同様年齢を感じさせた。
細身ではあるが、全身黒く日焼けしており、ゴツゴツとした手や腕の筋肉は長年力仕事を続けてきた証である。
見るともなしに流れているテレビから、よく耳にする結婚情報誌のCMが流れていた。
台所から切り干し大根の煮物とビールを持ってきた母・絵美が、正剛の前に置いたグラスにビールを注ぎながら言う。
「彩絵は外国で式挙げてくれないかしら」
絵美は正剛に比べると随分若く、今年で三十八歳だ。
また年齢よりも若く見えるため、正剛と並ぶと十中八九親子と間違われる。
その表情と同じく快活な印象を与えるショートカットがよく似合っている。
「親族だけで海外挙式って、よく聞くのよね、ハワイとか。行ってみたくない?」
言って絵美は正剛の方へ身を乗り出す。
正剛は夕刊に視線を落としたまま、
「まだ早い」
短く言い放ち、ウェディングドレスを着たモデルが青い海辺の砂浜を歩く映像を映し出すチャンネルを変えてしまう。
そんな夫の様子にほくそ笑みながら、絵美はキッチンに戻った。
そこへ玄関からのドアが開き、彩絵がリビングへ入ってくる。
「おかえり。最近遅いのね、部活忙しいの?」
「ん、まぁ……そこそこ」
キッチンからの絵美の問いかけに彩絵は曖昧な返事を返す。ここしばらく部活には顔を出していない。
油が焼ける音と肉の焼ける香ばしい香りが漂ってくる。
話を逸らすつもりでもなかったが、自然と彩絵の口をついて絵美へ問う。
「今日なに?」
「ハンバーグ。もうできるから、着替えておいで」
「お母さんのハンバーグ、久しぶりかも」
彩絵の中で、母の作るハンバーグは好きな食べ物の中でかなり上位に位置している。ソースは何味だろうと期待しつつ、入ってきたドアからまっすぐリビングを横切って、二階への階段に向かう。
ちょうどリビングの真ん中を抜けたあたりで、絵美がパタパタと駆け寄ってくる。
「待って待って。お母さん忘れちゃったら困るから、先に言っておくね」
「なに?」
「三者面談なんだけどね、お父さんが行ってくれることになったから」
笑顔の絵美に反し、彩絵はあからさま不機嫌な顔を見せた。
「はぁ!? なんで! お母さん来てくれるって言ってたじゃない」
「それがね、同窓会のお知らせが来ちゃったの。今回は先生もいらっしゃるっていうから、お母さんどうしても行きたいのよ」
絵美は申し訳なさそうに言うが、彩絵は同じ表情のまま無言を返す。
そんな娘に、絵美は両手を合わせて顔をのぞき込んだ。
「お願い、ね?」
「娘の進路と同窓会とどっちが大事なの」
折れない彩絵に、正剛が助け舟を出す。
「お母さんを困らせるんじゃない」
彩絵は正剛を振り返った。
しかし父は背中を見せたまま。視線は手元の夕刊に向けられたままだ。
彩絵は踵を返し階段に向かいながらどちらにともなく声を上げる。
「とにかくお母さんじゃなきゃ絶対だめ! お父さんが来るんだったら三者面談受けないから!」
足音を荒らげて階段を駆け上がる彩絵を見上げ、
「ちょっと彩絵!」
二階でドアが開き閉じる音を聞いた絵美はため息をつき、正剛に気遣わしげな視線を送る。
「もう、反抗期かしらね」
正剛はチャンネルを変えた時と同じく、眉間にシワを寄せた渋い顔をしている。
三者面談の話が出た勢いでと、絵美は正剛に切り出した。
「彩絵、まだ進路悩んでるみたい」
「……」
「ねぇ、彩絵が絵を描くお仕事したいならいいんじゃない?」
「……」
「女の子なんだから、絵がダメなら結婚しちゃえば」
そのワードがでた瞬間、沈黙を守っていた正剛の反応は早かった。
「そんな中途半端な覚悟ならやらん方がいい」
やはり年頃の娘を持つと嫁に行ってしまうのが惜しくなるのね、と絵美は心の中で舌を出しつつ明るく返事を返した。
「はーい、わかりました」
正剛は苦い顔のまま、先刻から全く文字が入って来ない夕刊のページをめくった。
「……てことになっちゃってさぁ~、もう最悪!」
彩絵がテーブルに突っ伏すようにくだを巻くのは、放課後の『マダムの庭』だ。
向かいの席にはいつも通り大樹が座り、二人におかわりのコーヒーとカフェオレを持ってきたミツが尋ねる。
「大樹の時は? 景子さんが行ったのかい?」
「いえ、母ではなく父が。普段いないことが多いので、そういう時くらいは、と」
大樹が答えると、彩絵はガバッと起き上がった。
「本当!? いいなぁ、大樹のお父さんカッコイイもんなー」
「そんな、普通だろ」
謙遜ではなく言う大樹に、彩絵は立ち上がってまで訴える。
「だって国際線の機長さんだよ? あの帽子と制服で学校来たら、女子は騒然だよ!」
「そんな格好で行くわけないだろ」
「それでも! いつもニコニコしてて感じ良いし、オシャレだし。うちのお父さんとは正反対」
今度はそれを聞いた大樹が聞き捨てならないと身を乗り出す。
「彩絵ん家のお父さんはカッコイイだろ」
「どっこがぁ。ただの土建屋の一社員だよ?」
「ただのって、主任だろ。寡黙で人の上に立てるってのはアレだよ。男は背中で語るってやつ」
自らの理論に納得するように腕組みし頷きながら、大樹は憧れの視線を脳裏に浮かぶ正剛の姿に向ける。
「時が時なら、武士ってあんな感じなんだろうな」
「そんなふうにお父さんのこと見てたの? うわ、信じらんない」
彩絵は首を横に振りながら椅子に腰を下ろす。
少し冷め始めているわずかなミルクティーを飲み干し、ミツがくれたカフェオレをひと口飲んでからさらに続ける。
「毎日泥だらけで帰ってきて汗臭いし、他の家のお父さんより年取ってるし」
「親父さんのこと悪く言うもんじゃないよ」
彩絵の言いようを聞き流せずに、カウンター内からミツが口を挟む。
「あんたが学校行って勉強したり好きな絵を描いていられるのも、こうして好きなものを飲み食いできるのも。
全部親父さんが泥まみれ汗まみれで金を稼いでくれてるからだろ?」
諭すミツの言葉に、それでも彩絵は膨れっ面を崩さない。
「だってお父さんいっつもお母さんの味方ばっかりして。私のことなんてどうだっていいんだよ」
今度は反対側から大樹が問う。
「そんなわけないだろ。おじさんがそう言ったのか?」
「言わないからわかんないの! いつも難しい顔しててなにも喋んないし。なんか言ったと思ったらお母さんのことばっかり」
「そこまで!」
ミツが彩絵の愚痴を遮った。いつも笑顔を絶やさないミツが真剣な表情をしているのを見て、彩絵は大人しく口をつぐむ。
緊張した面持ちで黙った彩絵に、ミツは優しく語りかける。
「あんた、言霊って知ってるかい?」
「ことだま?」
「言葉には魂が宿るってやつさ。嫌だ嫌だって口にすればするほどその思いも強くなる。良くないことばっかり言ってると、そのうち本当に良くないことが起こっちまうよ」
「そうだぞ」
ミツに便乗してしたり顔で言ってくる大樹を彩絵は睨んだ。
「うるさい」
いつもの応酬を始めた二人に、ミツはカウンターの端にしまっておいた紙袋を取り出して見せた。
「ほら、悪い子にはお土産あげないよ」
「おみやげ!」
急激にテンションが上がる彩絵。大樹も興味深げに尋ねる。
「どこか行ってきたんですか?」
「アタシじゃないよ。知り合いの占い師がくれたんだ。お守りのますこっとだってさ。龍神様の御加護があるとか言ってたっけねぇ」
ミツが紙袋から出したそれは、龍神……を象っているのだろうか。フェルトでつくられた十センチくらいの大きさのマスコットだが……。
龍の角とたてがみを持っているが、形はアルパカのそれに近い。首は長いが四肢が短く、先細りの尾の先にたてがみと同じ房がついているのは龍っぽくもある。
大きめの頭部に付けられたボタンの目も刺繍された鼻も、全体の印象がアンバランスでとにかくユルい。
胴体の部分に腹巻なのか服のつもりか。巻かれた布がオレンジと黄の縞、ピンクと水色の縞、紺と白の縞の三体が、頭頂から出た同系色の紐でミツの手にぶら下がっている。
「かわいい!」
彩絵がカウンターに駆け寄り、龍神? をまじまじと見つめている。
正直、大樹にとってはどの辺に可愛さを感じるのか理解に苦しむ。
そんな大樹の心中は知らず、ミツは得意げに掲げて言う。
「これに強い気持ちでお願いを言うと、言霊として宿って龍神様が叶えてくれるってさ。いるかい?」
「ほしい!」
彩絵は迷わずピンク×水色のマスコットを手に取った。
見せびらかすように掲げながら大樹に歩み寄り、
「大樹ももらいなよ。お願いすればいいじゃない『カノジョほしいです~』って」
「なっ……!」
からかうように言ってくる彩絵に、大樹は驚いたような焦ったような表情でそっぽを向く。
「俺がいつ彼女欲しいって言ったよ! いらないよお守りなんて」
「大樹も高校生なんだから、彼女のひとりくらい作った方がいいって」
まるで母親か姉のような口ぶりに大樹が言い返そうとした矢先、彩絵は飾り棚のオルゴール時計を見て驚く。
「あっ、もう行かないと! じゃあまた明日ね」
言っている間にリュックを背負いドアに駆け寄りミツと大樹に手を振って、忙しなく出ていった。
ドアベルが店内に響き、音が止んだ頃。
大樹は静かに立ち上がり、ミツに歩み寄ると左手をそっと差し出した。
「ください、それ」
「はいよ」
ミツはにっこり笑って紺×白の龍神を大樹に手渡した。
こういう時、必要以上に干渉しないでいてくれるミツがありがたかった。
大樹は手の中に収まるサイズのそれを見つめながら、ぽつりとこぼす。
「あいつ、毎日どこに行ってるんだ?」
「ニーナのアトリエに行ってるんだよ」
「えっ」
驚き振り返る大樹の表情に、ミツも驚く。
「なんだ、彩絵から聞いてないのかい。アンタには話してると思ってたんだけどねぇ」
大樹は龍神をそっと握ったまま、彩絵が出ていったドアを見つめた。