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五・彩絵とニーナ




 翌日の放課後から、早速彩絵はアトリエへ通い始めた。


 アトリエ通いが始まって数日後。

 ニーナに迎え入れられた彩絵はリュックを空いている椅子に置き、促されるままキッチンへ立つ。

そこにはちょうど飲もうとしていたところだったのか、昨日同様のコーヒーセット一式が用意されていた。


「今日はあたしがやってみせるから、ちゃんと見てなよ」

「……絵は教えてくれないの?」

「それは後。良い絵を描くには、何事も経験することが大事だよ。良い画家は、美味いコーヒーくらいサクッと淹れられないとね」


 おずおずと尋ねる彩絵の鼻先に指を突きつけて、ニーナはもっともらしく言う。

 彩絵は真剣な顔でうなずいた。


「お願いします!」


 ニーナは笑いをこらえて沸いたケトルを取る。

 言ったことに嘘はないが、あまりにも疑うことない彩絵を相手にするのは楽しい。

 お湯をドリップポットに移し、それをおもむろに手に取ってみせる。


「まず、こうやって全体にお湯を含ませて……」


 ドリップポットの細口から、ドリッパーに入れられているコーヒーに少量ずつお湯を落とし行き渡らせると、彩絵を見た。


「待つ」

「どのくらい?」

「美味しくなるまで」


 きょとんと目を丸くする彩絵をよそに、ドリッパーの様子をうかがっていたニーナはさらにお湯を注いでいく。


「そしたら多めー、まんなかー、少なめーってお湯を入れて……ほら、フィルターの中がこんなふうになってたら美味しく淹れられてる証拠」


 ね? と言わんばかりに振り向くニーナに、彩絵は駄々っ子のように小さく身体を揺らしつつ訴える、


「ニーナの教え方、大雑把すぎるよ~」

「見て盗むっての、知らないの? 何秒、何CCって言っても感覚は人それぞれなんだから。

 注ぎ方、注ぐ間隔、お湯の細さ。そういうのをよく観察して」


 彩絵に教えながらも、ドリッパーをサーバーから下ろしてテーブルへと持っていく。


「カップ持ってきて。ミルクは冷蔵庫から。たらたらしない!」


 カップを素早くテーブルへ運び、コーヒーミルクを出す。

 カップへコーヒーを注ぐニーナを彩絵が仰ぎ見る。


「ね、もう一回! もう一回やって見せて?」

「だーめ。何杯飲むつもり? また今度」


 言ってニーナは席に着く。彩絵もそれに続き、ミルクと砂糖を入れたコーヒーを飲む。

 濃いめに淹れられたコーヒーに、たっぷりのミルクが双方を引き立てている。


 元々コーヒーよりも紅茶が好きなのだが、ニーナの淹れるコーヒーは美味しい。

 ニーナに会うまでは、彩絵がそう思えたのは『マダムの庭』のミツが淹れるカフェオレだけだった。


『マダムの庭』で思い出し、彩絵は身を乗り出した。


「じゃあ、あのスケッチブック。もう一回見せて」


 ニーナはコーヒーを口に運びながら考える素振りをして見せた。

 彩絵はそんなニーナに両手を組み合わせて祈るような視線を送る。

 元より断るつもりもなかったが、スケッチブックを渡した彩絵の嬉しそうな顔を見ると自然と口元がほころぶ。


「高いよ、あたしの絵は」

「ちゃんとお手伝いするから! ……あ、いたいた。この青い鳥」


 スケッチブックの開かれたページには、枝にとまる一羽の鳥が描かれていた。


 頭から背、羽根にかけて鮮やかな空色。

 顔は白く、両目、くちばし、顎にかけて黒いY字のバンド。

 顎から続く腹は淡い黄色をしている。


『マダムの庭』で初めて見せてもらった時に気になっていたのだ。


「この青い鳥ってほんとうにいるの?」

「さぁ? どう思う?」

「教えてよー、いじわる」

「答えは自分で見つけないと価値がないの。他人(ひと)からもらった答えは自分のためになりませーん」


 ニーナにスケッチブックを取り上げられ、彩絵は頬を膨らませてカップに口をつける。


「飲み終わったら窓拭きね」

「はー……」


 返事をしかけて、横目でこちらを見たニーナの視線に居住まいを正し言い直す。


「はいっ」


 三分の一程残っていた中身を一気に飲み干し、空になったカップをシンクに下げる。

 代わりにシンク横からバケツを取り水を汲むと、窓拭き用の雑巾と洗剤を手にニーナの背面にある南向きの窓を拭き始めた。


 一方ニーナはスケッチブックを広げて新しいページにデッサンを始める。

 窓を拭きながら、そのデッサンを盗み見ようと彩絵はつま先立ちになって身体を伸ばす。

 が、伸ばした身体が重力に負けてがくりとずっこけた。


 物音に振り返ったニーナに彩絵はとりあえず笑顔でごまかす。

 窓拭きに戻りながら、ずっと抱いていた疑問をぶつけてみる。


「ねぇ、ニーナは日本人なの?」

「んー? 産まれたのは日本だと思うよ」

「じゃあ、外国で育ったってこと? もしかしてハーフ?」

「さぁどうかなぁ。両親とも日本人じゃないの? ハーフっぽい顔立ちでもないでしょう」

「適当~。自分の事じゃない」

「いや、分からないんだよねー。そこの丘の上に教会あるの知ってる? 孤児院やってるとこ。そこの入口んとこに捨ててあったんだってさ。赤ん坊の頃」


 ニーナの口調はいつも通りあっけらかんとしたものだったが、その内容は彩絵に先刻の自分の発言を後悔させるに充分だった。

 戸惑う彩絵の様子を察し、ニーナは鉛筆を持った手をひらひらと振って言う。


「気にしなくていいよ。あたしも別になんとも思ってないし

。おかげでラウルにも会えたんだしね」

「らうる?」

「言ってなかった? 師匠の名前。ラウル・バルバーリ・黒須って知らない? ヨーロッパでは結構支持されてる画家だよ」


 まるで自分のことを自慢するように誇らしげなニーナの様子に、彩絵も目を輝かせて尋ねる。


「へぇー! すごい人なんだ」

「そ! 父親が日本人てこともあって、若い頃からちょいちょい日本に来てたみたいでさ。

 教会へは、絵を教えに来てたんだよ。そこでたまたま絵が上手かったってんで、拾ってもらえたわけ」


 いつにも増して饒舌なニーナに、聞いていた彩絵も嬉しくなり雑巾を胸の前で両手で握り締める。


「なにそれ! ドラマみたい。運命の出会いってやつ!?」

「あんた本当に物語ならなんでも好きなんだね」


 思わず苦笑するニーナだったが、ラウルが自分の人生を変えた人物であることは紛れもない事実だった。


「まぁ、運命の出会いって言えばそうかな。今のあたしがあるのはあの人のおかげだから」

「いいなぁー! 私にもそんな出会いがあったらなぁ」


 そう言って彩絵は雑巾を窓の桟に置いた。 

 かと思えば、壁際に置かれていた布がかけられたイーゼルの前で絵を描く振りを始める。

 急にくるりと向きを変え、絵を描いていた立ち位置を後ろ斜めから眺める位置へ移動すると低めの声で言う。


「なんて素敵な絵を描く女性(ひと)なんだ!」


 そして元々彩絵がいた位置の横で片膝をつき、恭しく女性の手を取る素振りをして見せた。


「宮廷画家として、私の城に来てくれないか」


 言い終わるが早いか素早く向きを反転し、手を取られている彩絵に変わる。


「はい……なーんて! いやー! どこまでもついて行きます、王子様~」


 自らの妄想に悶える彩絵をニーナは呆れ半分、面白そうに見つつ妄想を打ち砕く。


「どこのおとぎ話だよ。ま、王子が来たとしても今の彩絵の実力じゃあねぇ……」

「じゃあ早く絵を教えてよ」


 そう訴える口調はちょっと拗ねたようなニュアンスになる。

 アトリエに通い始めてから、まだ一度も絵の手解きを受けていないのだ。


 ニーナは椅子に座ったまま向きを変え、正面から彩絵に向き直る。

 その顔には、ニーナがよく見せる挑戦的な笑みが浮かんでいた。


「技術があれば絵が上手くなるって思ってる?」

「なる」


 答えかけたものの、正面からそう問われると自信がなくなりこう付け足した。


「……んじゃないの?」

「ただの巧い絵なら、描けるようになるかもね」

「上手に描けてるなら、いいんじゃないの?」


 彩絵が素直に疑問を口にすると、ニーナはスケッチブックを閉じて立ち上がり大きく身体を伸ばした。


「上手い絵イコール人の心を動かす絵ではないってこと。

 絵には……絵だけじゃあないけど、芸術って言われてるようなものには、生み出す人の人生が詰まってる」

「ただの静物画とかでも?」

「そこに描き手の想いが込められていればね。人の心を動かすのは、あくまでも人の心ってこと」


 ニーナは『心』のくだりで彩絵の鎖骨下中央辺りをトントンと指で突いた。

 突かれた位置に残る感覚を確かめるように、彩絵は両手を当てる。


「こころ、かぁ。わかったような、わかんないような」

「とりあえず。今の彩絵に出来ることを、一生懸命やればいいんじゃない?」


 両の肩に手を置いたニーナを、彩絵は期待に満ちた目で見上げた。


「私に出来ること?」


 ニーナは笑顔で頷き返し、彩絵の身体をくるりと反転させて押し出した。


「窓拭き」

「……ですよねー」


 そうそうすぐに絵を教えてもらえるほど甘くはないということか。

 この間観た剣士のアニメでも、主人公が山に修行に入ってから何ヶ月も刀を持たせてもらえてなかった。


 彩絵は置きっぱなしになっていた雑巾を取り、窓拭きを再開する。

 隣の窓に移ろうとして、窓の下にあるトランク型の木製画材ケースが目に止まった。

 ぶつかって倒れてはいけないと、場所を移すために手を伸ばす。


「これ、ちょっと避けるね」


 彩絵が声を掛け、トランクの持ち手に触れる直前。

 それが視界に入ったニーナは血相を変えて立ち上がった。


「Non toccare!」


 鋭い声に、彩絵はびくりと身体を震わせ手を引いた。

 反射的にこちらを振り返った彩絵の顔を見て、ニーナの表情から力が抜ける。


「あ……ごめんごめん。これは、大切なものが入ってるからさ」


 言いながら、ニーナはケースをいくつか並ぶイーゼルの影に置いた。


「う、うん。ごめんなさい」

「いや、そんなとこに置いてたあたしが悪かったよ」


 そう返したニーナは、すっかりいつもの彼女に戻っていた。


 たとえ相手が年下でも関係なく素直に謝れるニーナを。

 自分は知らないことをたくさん知っているニーナを、彩絵は尊敬していた。

 美術部にいる時のように絵を描くことはないけれども。

 それでもここで過ごす時間は、彩絵には楽しく有意義な時間に思えていたのだった。






 別の日。

 いつものようにアトリエを訪れていた彩絵は、ひとりでキッチンに立ちドリップポットからドリッパーへ慎重にお湯を落としている。

 ドリッパーをサーバーから外して、テーブルへ運ぶ。

 スケッチブックと資料の本を見比べているニーナの横で、カップにコーヒーを注ぎながら彩絵が言う。


「ね。あの青い鳥、アオガラっていうんでしょう?」

「当たり! ちゃんと調べてきたんだ。えらいえらい」


 スケッチブックを閉じて頬杖をつき、ニーナは隣に立つ彩絵を見上げる。


「もー、子ども扱いして」


 頬を膨らませる彩絵だが、その目は笑っている。

 立ったまま、自分の分に砂糖とミルクを入れる前にひと口味を見る。


「なんか違う気がするなぁ」

「お、味の違いが分かるようになってきた? 雑味が入ると味が落ちるんだよ」


 ニーナの言葉を聞きながら、彩絵は首を傾げつつ砂糖とミルクを追加する。


「お湯の温度かなぁ。注ぐ量?」

「いいね、要研究。いただきます」


 ニーナがコーヒーの香りを確かめて口をつけるのを見ながら、彩絵は隣の席に移動して座る。


「美味しく淹れられなくても飲んでくれるよね」


 にこにこしながら言う彩絵を横目に、ニーナは芝居がかった口調でコーヒーカップを掲げる。


「彩絵に不味く淹れられたコーヒーが可哀想で」

「毒舌」

「聞こえてるよ」


 額を指で小突かれ、彩絵は小さく笑ってカフェオレを飲む。

 そして、今日ここに来たら聞こうと思っていたもうひとつの質問をニーナに投げかけた。


「ねえ、ニーナの師匠ってさ。ニーナを養女にしたってことは、お義父さんってことだよね?」

「そうだね。戸籍上は」

「?? 実際は違うの?」

「違わないよ。孤児院から引き取られてから、ずっとあの人について世界中を回ってさ」


 幼少期を思い出しているのか、ニーナはコーヒーカップの中を懐かしむような目で見つめている。

 ニーナが自身のことについて語るのは初めてだ。彩絵はつい身を乗り出す。


「じゃあ転校ばっかりだった?」

「学校なんて行ってない」

「えっ」

「生きてくために必要なことは、周りのいろんな人から教わったよ。絵のことは全部あの人に教わったしね」

「なんで『あの人』なの? 『おとうさん』じゃないの?」


 勢い込む彩絵に苦笑し、いつかも言ったセリフを繰り返す。


「本当に質問が多いね、彩絵は」

「ニーナのこと、もっと知りたいんだもん」

「父親とか師匠とか、そんなひとことで片付けられないの」


 再び彩絵から視線を外す。頬杖をつき、見つめる正面はラウルがいつも座っていた席だ。


「ラウルはあたしにとって、父親であり、師匠であり……人生でただひとり」


 そこまで言って、いつの間にか隣から彩絵の気配がなくなっていることに気づき振り返る。

 彩絵は布がかけられた大きめのイーゼルへ移動していた。


 自分で話を振っておきながら、途中でこれが気になっていたことを思い出して我慢できなかったのだ。

 彩絵が両腕を広げてようやく抱えられるくらい、40号だろうか。カンバスが載せられている。


 めくりあげた布からのぞく光景に、彩絵は目を奪われていた。


 星空から地平の夕暮れに向かう群青から紫、ピンクを経ての地平に沈んだあとの太陽の名残り。

 夜迫る世界に描かれた景観は冬の森。

 その泉に映っているのは星空ではない。塗りかけではあるが別の風景のようだ。


 布をめくって見える部分だけではあるが、色使いや筆のタッチは躍動感溢れている。

 それでいて穏やかな優しさも感じさせる不思議な印象を受感じさせた。


 彩絵は心震える昂りを抑えられずニーナを振り返る。


「これ、この描きかけの絵、誰の? もしかしてニーナが描いてるの?」

「勝手に覗いて、しょうがないね。フランスの画展に出そうと思って描いてたヤツ」

「わぁ……完成したの見てみたいな」

「その絵はもうそのままだよ」


 浮き立つ彩絵の声に反し、ニーナの最後の返事に感情はこもっていなかった。

 不思議に思った彩絵が振り返って見たニーナは、いつもの彼女と変わらない。

 立ち上がり、時計を指して言う。


「ほら、もう遅いから早く帰んな」

「ほんとだ!」


 彩絵は焦りつつも、名残り惜しそうにそっと布を下ろすとリュックを背負って玄関に向かう。

 ドアを開けて「じゃあ、またね!」と手を振る彩絵に手を振り返す。

 ドアが閉じられたと同時に、さっきまでの賑やかさが消え静寂が訪れた。


 ニーナの顔からも笑みは消え。

 先刻まで彩絵が見ていた絵と、その陰に場所を移した画材ケースをひとりしばらく見つめていた。


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