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十一・彩絵と真武と絵美



 突然の土砂降りの中を駆けて帰宅した彩絵は、玄関先でまだしみ込んでいない雨を衣服から払い落とす。


「もー、急に雨とか聞いてないんだけど!」


 幸い雨が降り出したのは、家まであと五分という距離からだった。

 アトリエを飛び出してから雨にまで降られ、泣きたい気持ちをぐっとこらえて彩絵は玄関の鍵を開けて中へ入る。

 居間へ向かう戸を開けた瞬間、いつもの場所に座る真武から声が飛ぶ。


「こんなに遅くまで、どこに行ってた」


 彩絵は真武の怒った顔に一瞬足を止めたが、すぐに階段に向かいながら言う。


「部活で遅くなっただけ」

「嘘をつくな。最近美術部には顔を出していないそうだな」


 いつもより強い口調で真武が彩絵を制する。ふたりの声を聞き駆けつけた絵美が、彩絵に両手を合わせて見せた。


「ごめんね、あんまり遅いから優香ちゃんに電話しちゃったのよ」


 優香は美術部の中でも一番仲の良い友人だ。互いに家に泊まったこともあるため、もしやと思い連絡したのだろう。

 真武は手にしていた新聞を片手にまとめ、彩絵をまっすぐ見つめたままで言う。


「お前が謝る必要はない。……どこに行ってたんだ」

「どこだっていいでしょ」


 階段に上がることもできず、両親から視線を外したままで彩絵が答える。真武は声を荒げるわけでもなく淡々と問いを重ねた。


「美術系に進学したいと言っていたのに、美術部をさぼっているのか」

「美術系に行きたいのは絵本作家になりたいからなの! 美術部よりも勉強になるところ見つけたから、その人のところに……」


 そこまで言って、先刻までのニーナとのやり取りが思い出され彩絵は言葉に詰まった。

 彩絵のその様子に、真武は怒りの矛先を見知らぬニーナへも向ける。


「どこのどいつだ、子供を遅くまで連れまわすなんて非常識だ」

「もう子供じゃないよ!」


 とっさに、彩絵は反論していた。

 ミツに家に知らせろと言ったのに黙って出かけたのは自分だ。それに、いま自分が置かれている状況にも腹立たしさを覚え、感情のままに口走る。


「なんなの、普段は関係ないみたいにしてるのに。こういう時ばっかり」


 すかさず絵美がふたりの仲を取り持つべく間に入る。


「遅くなるならちゃんと行き先と時間を言って行きなさいってこと。心配しちゃうから。そうよね?」


 最後の一言は真武に向けて掛けられた。

 真武は苦虫をかみつぶしたような顔のまま押し黙る。絵美は再度彩絵に向き直り、その腕に手を重ねた。


「ほら、謝って」

「すぐそうやってお父さんの味方する!」


 彩絵は絵美の手を振り払った。


「そんなだったら私抜きでふたりで暮らせば? いいよ、私は家出てくから」

「お前が一人暮らしなんてできるわけないだろう」


 真武の呆れた声にかっとなり、彩絵は言葉が止まらなかった。


「また! 絵で食べてくなんてできないとか、一人で暮らすなんて無理とか、どうして私のこと認めて紅の!?」

「もっと現実的に考えて」

「現実的な考えってなに? 夢を全部諦めて普通に進学して普通に就職したら現実的なの? そんなの全然楽しくない!」


 そこまで言って、アトリエでの楽しかった日々が思い出され彩絵は涙がこみ上げるのを我慢できなかった。


「どうしてみんな、みんなが思う未来に私を当てはめようとするの? 人形みたいに従ってたら満足なの!?」

「いい加減にしないか!」


 初めて聞く真武の怒鳴り声に、彩絵はびくりと身体を震わせた。真武が手にしていた新聞はローテーブルの上に投げ出されている。

 それはすぐ涙にぼやけて見えなくなった。


「お父さんなんて大っ嫌い! いなくなっちゃえばいいのに!!」


 怒りと苛立ちと悲しみとが入り乱れた心を抱えて、彩絵は絵美を押しのけるようにして階段を駆け上がった。


「彩絵!」


 絵美が階段下まで追いかけて見上げた先で、ドアが強い音を立てて閉められた。

 真武は渋面のまま静かに立ち上がり、重い足取りで玄関の方へ向かう。


「出かけてくる」

「えっ」


 絵美は二階と真武を見比べたが、小さく息をついて真武の仕事着であるジャンパーを取って夫に着せる。


「しょうがないか。現場、そんなにひどいの?」

「この間の土砂崩れが復旧途中だ。このまま雨が続くとどうなるか」


 急な雨に復旧現場の様子を見に行こうとしていたのだが、彩絵が帰ってきていないからと出かけずにいたのだった。

 玄関まで出て長靴を履く真武に絵美は明るく笑いかける。


「お父さんも気を付けて。彩絵の方は何とかしておくから」


 真武はうなずいて外へ向かう。ドアを抜けるその背中は心なしか小さいように絵美には感じられていた。

 夫の後姿を見送ってから、絵美は誰にでもなく両こぶしを握って意気込む。


「よし!」


 物置から探し出した大きめの段ボール箱を抱え、小気味よいテンポで階段を駆け上がる。

 ドアに耳を当てて、彩絵の部屋の中が静かなのを確認してからノックした。


「彩絵ー? 開けるわよ」


 返事を待たずにドアを開けて室内に入っていく。

 ベッドの上にこんもりと盛り上がった毛布の中から、くぐもった声が聞こえてくる。


「もう開けてんじゃん。やっぱ鍵つけてよ」

「つけたら開けられないじゃない」


 しれっと答えて、絵美はベッドの前に陣取った。


「ほら見てー。いいもの持って来たんだから」


 ピンクの丸いシャギーラグの上に座り、持って来た箱を開くと中からA4サイズの紙を次々と取り出す。


「うわぁ、なっつかしー! こんなのもあったのねー。こっちは……いつのだったっけ?」


 毛布の中にうずくまっているであろう彩絵からは反応がないが、構わず紙を取り出しては床に広げていく。

 その様子を、彩絵はこっそり細く開いた毛布とベッドの隙間からのぞく。しかし見えるのは絵美の後姿だけで、床に置かれている紙が何かはわからない。


「これ? これ……何かしら。ドラたろう、じゃないし。ロボモン?? いや違うかな」

「見せて」


 我慢できずに自ら毛布を剥いで起き上がった彩絵は絵美の手から紙を取ろうとしたが、その手は空を切った。


「だめー!」


 絵美がベッドの上の彩絵から届かない位置に紙を持った手を遠ざけたのだ。

 彩絵もムキになって取りに行く。


「もう、見せて!」

「ダメ! 見せないもーん」

「いいから」

「ダメよ、ダメダメ……って、あぶなーい」

「わぁっ」


 子供のように意地悪をする絵美とその絵を取り合っているうちに、二人はバランスを崩して床に重なるように転がった。

 たまらず声を上げて笑い出した絵美につられて、ふくれっ面だった彩絵も思わず笑いだす。


「もう、やめてよねお母さん……」


 手に入れた件の絵を見た彩絵は固まった。


「なにこれ」

「自分で描いた絵でしょう?」

「このただグルグル塗っただけのやつが!?」


 彩絵は愕然とする。手の中の紙は、幼児用のらくがきちょうを剥がしたと思われるものだ。クレヨンを使って、よくわからない形を雑多な色で塗りつぶされている。

 床に散らばる絵も、どれも似たり寄ったりの物ばかり。

 と、絵美は彩絵の持つ紙の裏側に自らの文字を見つけて指さした。


「あ、私ウラに書いてた。オバケの十太郎だったのね」


 言われて裏返すと、絵美のきれいな文字で『オバケの十太郎 彩絵 三才』と書かれている。


「もしかして、これ全部?」


 箱の中にも、まだまだ紙が詰まっている。

 絵美はそれらを取り出しながら得意げに言う。


「小さい頃から絵描くの好きだったでしょう? ちゃんと全部取ってあるんだから。ほら、小学校の時に市の展覧会に張り出されたやつ」


 絵美が丸めた画用紙を広げると、二足歩行にディフォルメされた動物たちが気球に乗って虹がかかる空の雲間を飛ぶ絵が不透明水彩で描かれている。


「そうだっけ」


 絵を描いたことも覚えていなかったが、絵からして小学校低学年くらいだろうか。その頃から空を飛ぶことに憧れていたのかと思うとこそばゆい心地がした。

 箱の中にはまだ幼稚園の頃に描いた絵も入っている。十太郎よりは多少マシになっているが、遠近感やバランスが無視された絵の数々に、彩絵は思わず笑ってしまった。


「ははっ、なにこれ。小学校前のやつ、ひどいね」


 ふと、箱の中に紙ではない硬い手触りを感じた。

 それを手にして引き出すと、それは額に入れられた油彩画のカンバスだった。


「これ……!」


 忘れもしない、一面夕陽の色に染まったそれは、絵の道をを志すきっかけとなったあの絵だった。

 A3に近い大きさ、3号サイズのそれは幼い記憶にあるものよりも小さく見えるが間違いない。

 彩絵はすかさず底部を確認する。右隅にサインのような筆跡があるが、崩したその文字は判別できなかった。 

 絵美はそれを見てほっと表情を和らげて言う。


「なんだぁ、ここに一緒にしてたのね」

「これ、この夕陽の絵! なんで、誰の?」


 慌てて詰め寄る彩絵をよそに、絵美はその絵を彩絵の手から受け取り懐かしそうに眺めた。


「お母さんの、大切な絵。探してたのよ、良かったぁ」

「ねぇ、誰の絵なの!?」


 彩絵も、ずっと探していた。どこにある絵なのか。誰が描いた絵なのか。

 誰かに話しても、ネットで検索しても、図書館で調べても。今まで探し当てることができなかったのだ。


 絵美はその絵を彩絵に掲げて、もったいぶるようにゆっくりと話す。


「ふふーん、これは……お父さんの絵!」


 彩絵は言われた意味が理解できず、ただ茫然と絵を見つめた。

 絵美はそんな彩絵に優しい視線を送り、絵を膝の上に乗せて話し始める。


「お父さんに頼まれてずっと秘密にしてたんだけど。お父さん、昔は画家だったの。お母さんが大学生の頃アルバイトしてたカフェにお父さんの絵が飾ってあってね。お父さんもお店にはよく来てたから」

「お父さん、絵、描いてた? うそ」


 ぺたりと座り込んで絵美とその絵を見つめる彩絵だが、絵美は変わらぬ調子だ。


「ほんとよー。嘘ついてどうするの」

「だって……じゃあ、なんで私のこと反対するの?」

「それはね、うーん……」


 絵美は少し言葉を探してから、娘の疑問に答える。


「絵で食べていくことの大変さを知ってるからじゃないかな。

 出会った頃も、お父さん、アルバイトしながら絵を描いててね。お母さんも働いてたけど、彩絵が生まれる時に私、お仕事辞めたから。

 そしたらお父さん急に『絵を描くのはやめて働く』って。その時、画材も、手元にあった絵も、全部捨てちゃったの」

「ええっ、もったいない」

「お父さん、頑固だし不器用でしょう? 趣味で続けるって中途半端なこと、できなかったのね。この絵だけは、こっそりしまっておいたの。お父さんがプロポーズしてくれた時にくれた、初デートの想い出の海の絵なんだから」


 彩絵は探し続けていた、彩絵にとっても大切なその絵を見つめる。

 ふと、思いついてしまった考えが口を衝いて出た。


「じゃあ、私が生まれなかったら、お父さん絵を続けてたんじゃ」

「もー! すぐそうやって考える」


 絵美は一度落ち込んだらマイナス思考になってしまう娘の鼻をきゅっとつまんだ。


「絵で成功することより、彩絵やお母さんをちゃんとした家に住まわせて、暖かいごはんを食べさせる方が、お父さんには大事だったの!」


 と、エプロンのポケットに入れていたスマホの着信音が鳴り、絵美は絵を置いて立ち上がる。

 夫の職場の名が表示されているスマホを持って部屋の隅へ行き、電話に出た。


「はい、解田です。いつも主人がお世話になってますー」


 常の声よりもワントーン高いよそ行きの声で話していた絵美が、突然声を上げた。


「えっ、主人が土砂の下敷きにですか!?」


 彩絵は心臓が跳ね上がると同時に立ち上がっていた。


「はい、すぐ。すぐに行きます!」


 切迫した絵美の声を聞いて、考えるより先に彩絵は部屋を飛び出していた。

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