9 逃げ出した目的
【三章】
なんだかやけに体が重い。
そう思いながらソファから身を起こすと、体の上にたくさんの毛布が掛けられていたことに気がつく。
「……」
秋の終わりといえど、これだけあれば絶対に風邪を引かなさそうな、もこもこの塩梅だ。
眠ったクラウディアに、毛布を掛けてくれる人物など、いまのところ世界にはひとりしかいない。
「ノア?」
名前を呼んでも、返事はなかった。
もちろん分かりきったことだ。だって室内には、ノアの持つ魔力の気配が感じられない。
(――思ったよりも、早かったわね)
きっといずれ、逃げ出すだろうと思っていた。それがいまだったというだけなので、クラウディアは淡々と考えるだけだ。
「んしょ」
床に降り立つと、花びらがふわりと落ちてくる。
「?」
いつのまにか、クラウディアの髪には小さな花が飾られていた。
それはどうやら、部屋に飾られていた花瓶の花を手折ったものらしい。とても小さな白い花で、ほのかに甘い香りがする。
(……毛布とお花の贈り物なんて、初めてだわ)
横髪からそっと花を外し、窓の光に翳して眺めた。
そしてクラウディアは、いくつかの魔法を唱えるのである。
***
かつて、大陸の南に位置する国には、魔力に乏しい第一王子がいた。
強い魔力を持った両親のあいだに産まれておきながら、使える魔法は庶民と変わらないという王子だ。第一王子はその屈辱を、腹違いの弟である第二王子にぶつけていた。
この国に生まれた第二王子は、母親が庶民という身の上だ。
にもかかわらず、彼は父王の才覚をすべて引き継ぎ、類稀なる魔法の使い手となったのである。
第一王子は、そんな第二王子のことを、徹底的にいたぶった。
『お前は所詮、卑しい女の血を引いているんだ!! どんなにお前が優れていようと、僕の方が上だ』
『お前など死んでも構わない。だって、僕がこの国の王になるんだからな!!』
第二王子は何度も殺され掛け、生死の境を彷徨った。
彼らの父王が死に、第一王子が王位を継ぐと、その扱いはもっとひどくなる一方だ。
第二王子はやがて、異母兄への復讐を決意する。
それも、兄の元にふたり目の子供が生まれ、兄が幸福の頂きにある真っ最中に。
『やめろ!! 庶子の分際で、僕に牙を剥くなど……う、うわああ!!』
兄とその妻は、一思いに殺してしまった。
彼にとって、それは激情に駆られた末の失敗だった。
だからこそ王になったその男は、憎い兄の子供であり、甥姪にあたる子供たちに、代わりの復讐を始めたのである。
生まれたばかりの姪は、軟禁状態で手元に置いて。
――当時まだ四歳だった幼い甥を、『妹を守りたければ言うことを聞け』と脅し、魔法による奴隷契約を結ばせた。
***
「……っ、は……」
『ノア』と名付けられた少年は、小さな息を吐き出した。
ここまで走り続けてきた所為で、心臓がどくどくと音を立てている。
息も切れ、汗が伝い、喉の奥から血のような味がした。柱の影に座り込み、何度も息を継ぐ。
(ようやく、ここまで来たっていうのに……)
すぐ傍の廊下から、慌ただしい足音が聞こえてきた。
「探せ、探せ!! 元王子レオンハルトを捕らえて引き摺り出せと、国王陛下のご命令だ!」
「前王の息子が生きていたなど、世間に知られては陛下の権威に関わる……! 総力を上げて、レオンハルトを見つけ出すぞ!」
魔術師たちが自分を探している。生まれ育った城だというのに、自分にとってここは敵地でしかない。
(落ち着け)
深く俯いて、思考を巡らせた。
(結界はすべて突破した。あの男がいるのは、この先にある王の間だ)
その方法は、魔女アーデルハイトの生まれ変わりと名乗る少女、クラウディアに教わった。
それだけでなく、ここまで来る転移の方法もだ。彼女の『掃除』を手伝う傍ら、ノアはその手法をしっかりと学び、自分の技術として絡め取った。
(クラウディアの魔力さえあれば、突破するのは簡単だろうな。……だけど)
左胸を手で押さえ、シャツをぐっと握り込む。
「……」
ノアは大きく深呼吸をし、座り込んでいた床から立ち上がると、立てかけていた氷の剣を掴んだ。
『お前の魔力はね。攻撃特化の性質を持っているの』
クラウディアが、今朝方そんな風に言っていたのを思い出す。
『攻撃力は最上級だわ。その代わり、瞬間的に発動させたり、柔軟に形を変えるのが苦手なのよ』
『なら、どうすればいいんだ』
『簡単なこと。戦闘時は常に発動させておいて、形状を変えなければいいと思わない? ――たとえば、魔法で剣を作っておいて、その剣を使って戦うの』
小さな少女は、そう言ってくすっと笑った。
『でもこれは、あくまで「お前自身の魔力だけ」を使う場合』
『……つまり、あんたの魔力を使う場合は……』
『そうよ、お前にそんな不得手はなくなる。瞬間的に、柔軟に、最高火力の攻撃魔法を出すことが出来るわ!』
実質、クラウディアの塔での戦いは簡単だった。
ノアの剣で結界をこじ開け、クラウディアの魔力で隙間を押し広げる。魔術師の魔法を剣で弾き、氷魔法の波で炎を押し潰した。
そんな魔法を与えられて、高揚しなかったといえば嘘になる。
(……虫の良い話だ。あいつに命を救われておきながら、従うふりをして裏切って、逃げたくせに)
この城の結界を破るのに、どうしてもクラウディアの魔力が必要だった。
しかし、眷属であるノアが魔法を使うと、その反動は彼女に戻るのだ。
城に入ってから最上階に至るまで、すべて自分の魔法だけを使ってきた。
だが、最初の転移と結界破りの際に借りた魔力だけでも、塔に置いてきたクラウディアに負担は掛かっているだろう。
(あいつの魔力を、これ以上使うわけにはいかない)
閉じていた目をゆっくりと開き、王の間へと駆け出した。
見取り図は頭に入っている。生まれてから四年間、自分の家として過ごした城だ。
「居たぞ! あの黒髪の子供、間違いない、レオンハルト王子だ!」
「気をつけろ、一級魔術師がすでに十人以上やられている!! 拘束魔法を……ぐあっ!!」
魔術師たちを剣で薙ぎ払い、身を低くして廊下を走る。背後から縄状の光が伸びてきて、ノアの右足首に絡み付いた。
「く……!!」
ぎしりと軋む音がする。
氷の剣で斬り、身を捩って、すぐさま体勢を直した。
(あと少し……!!)
廊下の先に、王の間の重厚な扉が見える。
先ほどと違い、身体強化の魔法は施していない。無茶な動きをするたびに、体のあちこちがずきずきと痛んだ。
それでも、残りわずかで辿り着く。
そう思った瞬間に、扉の内側で何かが爆ぜた。
「……っ!!」
爆風とも呼べる熱風が、猛烈な音を立てて通り抜ける。
皮膚が焼けずに済んだのは、咄嗟に防壁を張ったからだ。事実、ノアの後ろにいた魔術師たちは、顔や腕を押さえて悲鳴を上げている。
「まだ生きていたのか。レオンハルト」
「……」
現れたのは、異母兄の息子であるノアを奴隷にし、犬以下の扱いを続けていた男だった。
父やノアとは違う、金色の髪。
それでいてノアと同じ、真っ黒な虹彩を持つ瞳。
この国の現王である男が、その手に炎を纏いながら、ノアを見下ろしている。
ノアは透明な剣を握りしめ、まっすぐに男を睨みつけた。
「……妹を、返してもらう」
「ほう?」
現王はにやりと笑い、その顎の髭を手で撫でる。
「まさか、アンナに起きたことを理解していないのか?」
「……」
「いいや違うな。理解したからこそ、お前の犬小屋を壊して逃げ出したということらしい」
くつくつと喉を鳴らして笑い、現王が目を細める。
「残念だよレオンハルト。お前が兄上に似ていれば、私はもっと愉快な気持ちになれた! どちらかといえばその顔は、お前の母君に似ているからなあ」
「……」
「何度もお前に言っただろう? 私はずっと、お前の母君をお慕いしていた。その所為で、兄上への復讐をお前に肩代わりさせているときも、ついつい手心を加えてしまったんだよ」
この男に受けてきた仕打ちの中で、手心などを加えられた覚えはない。
だが、自分の身に受けたことなど、一切がどうでもよかった。
「……妹を、こちらに渡せ」
ノアはゆっくりと繰り返す。
それでも、現王はにやにやと笑うばかりだ。
「いいことを思いついたな。せっかくお前が戻ってきたことだし、今度はその顔を焼いてしまおう」
「……」
「そうすれば、思いっ切りお前を苦しめられる! なあ、それはどうだ?」
現王が右手に纏う炎が、ゆらりと大きく膨れあがる。
「妙案だと、思うだろう……!!」
「っ」
そして、黒煙を吹きながら襲い掛かってきた。
冷静に、慎重に、正確に流れを見極める。氷の剣を真っ直ぐに構え、それを大きく振り下ろした。
「く……!!」
炎の流れがふたつに割れ、ノアの左右を通り抜ける。
剣が弾き飛ばされそうになり、渾身の力で耐える。炎というよりも、膨大な水の流れに歯向かっているような感覚だ。
「ははは。あの兄の子とは思えんほどの、素晴らしい魔力量だなあ!! だが荒削り、未熟、あまりにも甘い!!」
「!!」
氷の剣が砕けると同時に、咄嗟の防壁を目の前に張った。
けれども完全には防御できない。
炎の熱から逃れた代わり、ノアの体は弾き飛ばされ、背中を床へと打ちつけた。
「か、は……っ」
肺に伝わった衝撃で、呼吸がうまく出来なくなる。
咳き込みながら、すぐさま身を起こして体勢を直した。再び氷の剣を出現させ、その手に握り込んでみるものの、こんなものではあの男に届かない。
(退くな。……あの男に押し負けるな。何があっても)
「諦めろ。なにせお前は、父親のしたことの償いを私にしなくてはいけない運命だ」
現王は、心から楽しそうにノアを見下ろす。
「お前はあの男の代わりとして、一生私に嬲られて生きるんだよ」
「……」
ノアは、まっすぐにその男を睨みつけた。
「…………生き様は、自分で選ぶ」
「なに?」
ノアの言葉に、現王のその双眸がぐっと歪んだ。
「恩人に、『死に様ではなく生き様を選べ』と言われた。……だったら、たとえここで死んだとしても、妹の亡骸をお前から取り戻す」
「……ふん……!!」
品のない舌打ちと共に、現王は再び炎を纏った。
「貴様、まさか本当に、アンナが死んだと分かっていながら戻ってきたのか! なんと愚かな……」
「生きているあいだに守れなかったんだ。死んだあとまで、あいつをひとりにしておけるものか」
だが、その望みはきっと叶わない。
目の前の男との戦力差など、ここに来るまでもなく痛感している。
クラウディアの魔力を使ったなら、あるいは勝てたのかもしれない。だが、その選択肢は最初から選ぶ気が無かった。
(……クラウディアを裏切り、勝手に力を借りて、ここまで来た)
呼吸を練り、剣の柄を強く握り込む。
(これ以上、あいつに負担の掛かることはしない)
「……ずっとだ。奴隷の鎖を首につけても、お前はずっとその不快な目で、私のことを見続ける」
次の一撃が来たら、それで終わりだ。
「顔を焼くだけでは足りないな。お前をもう一度捕まえたら、今度はその目も焼いてやろう!!」
「っ!!」
迫り来る炎を前に、覚悟を決めたその瞬間。
「――とんでもない愚考だわ」
「!!」
すぐ傍で、さらりとミルクティー色の髪が揺れた。
「な……」
華奢だが、ちゃんと大人の大きさをした手が、ノアの右肩に添えられる。
見上げるとそこには、十六歳くらいの美しい少女が立っていて、鮮やかな微笑みを浮かべていた。
「馬鹿には理解できないのね。この子の持つ、黒曜石のような色の瞳が、どれほど美しいものなのか」
「まさか……」
「そうでしょう? ノア」
信じられない気持ちになる。
けれどもそれは間違いなく、ノアが裏切って置いてきた、あの少女だ。
「あんた、どうしてここに」
「ふふ」
大人の姿をしたクラウディアは、炎にまっすぐ手のひらを向ける。
「――『排除』」
「!!」
その瞬間、雷鳴のような轟音を立てて、放たれた炎が弾き飛ばされた。