31 魔術師の忠誠
実の娘が微笑んでも、フォルクハルトはその表情を変えない。
「邪魔だ、クラウディア。どこから入り込んだ? あちらに行っていろ」
「やっ! クラウディア、カールハインツがほしいもん!」
クラウディアはつんとくちびるを尖らせ、跪いているカールハインツを振り返る。
「ね? カールハインツ」
「姫殿下……。なりません、どうぞお部屋にお戻り下さい」
クラウディアを制止する声に、どうしても焦りが滲んでしまう。
ただの少女でないことは分かっているが、それでも六歳の子供だ。どれほど強い魔力を持っていようと、フォルクハルトの怒りを買えばただでは済まない。
そしてフォルクハルトは、自分にとって有害だと判断すれば、実の娘であろうと排除するだろう。
想像の通り、フォルクハルトは瞳孔の開いた冷たいまなざしのまま、クラウディアの前へと歩み出る。
「陛下、何卒。姫殿下はまだお小さく、遊んでいらっしゃるおつもりなのです」
「黙れ。いまお前に発言を許した覚えはないぞ、カールハインツ」
向けられた威圧感は、本気の殺気だった。
本能からの警告が、この状況は危険だと告げている。カールハインツは無表情のまま、クラウディアを守るための計算を巡らせた。
(陛下がこのまま、クラウディア姫殿下に危害を加えるようであれば。……たとえ、陛下への叛逆と言われようとも……)
「ふん」
フォルクハルトが、整った顔に歪んだ笑みを貼り付ける。
「見ろ、クラウディア。忠実だったはずの私の臣下が、すっかりお前に取られてしまったようだな?」
「えへへ! カールハインツね、クラウディアのことだいすきなの!」
「ああ、そのようだ。……だが」
フォルクハルトが、クラウディアの顔を片手で掴む。
「躾がなっていないな、我が娘よ。お前には、人のものを取るなという最低限の教育が、為されてこなかったらしい」
「陛下!」
「どれ。たまには父らしく、娘に指導してみせようか?」
「――!」
フォルクハルトが、魔法を詠唱する気配を見せた。
カールハインツは顔を上げ、それに対抗しうる呪文を探す。ほんの一瞬の時間だが、数秒ほどに長くも思えた。
(ここで処刑されても構うものか。……どれほど力を付けたところで、守りたい者が生きているうちでなければ意味がない)
恩人の消息を見失って以来、ずっとそのことを後悔してきた。
カールハインツにとって、彼女がクラウディアの母だと気付いた瞬間は、彼女の死が決定付けられた瞬間でもあるのだ。
(俺は今度こそ、守らなければ――……)
その一心で動こうとした、その瞬間だった。
「……んしょ!」
「姫殿下……っ」
フォルクハルトに顔を掴まれたクラウディアが、小さな手をまっすぐ前へと伸ばす。
かと思えば、その両手はフォルクハルトの顔を包んだ。
そして、ぎゅむ! と頰を押さえるのだ。
「――――……は?」
完全に虚をつかれたフォルクハルトが、素っ頓狂な声をあげた。
それを見ていたカールハインツも、思わずぽかんとして固まる。
クラウディアは、冷徹な父の顔をぐにぐにと揉みながら、至って無邪気に笑うのだ。
「おとーさま、にらめっこじょうずー!」
「…………」
明るい声が、謁見の間へと響き渡る。
「クラウディアと遊んでくれるの? だからおてて、クラウディアのお顔をぎゅってしてる? クラウディアのほっぺ、ぷくぷくでしょー!」
「…………」
「あ。でもクラウディア、おとーさまとあそべるのがうれしくて、にこにこしちゃったから……」
クラウディアは真剣な顔をしたあと、力の抜けたフォルクハルトの手から逃れ、カールハインツを見上げた。
「カールハインツ。クラウディア、まけちゃった?」
「……姫殿下……」
カールハインツが答えに窮した、その直後。
「……ふっ、く。……はは、はははははっ!!」
「陛下……?」
フォルクハルトが、声を上げて笑い始めた。
「ははっ! ふ、この私の顔を……。無遠慮に触れ、ましてや好き勝手に弄り回したのは、お前が初めてだ。クラウディア」
「あ! おとーさまも、わらってる!」
「本当に、一切の恐れを知らぬらしい。……まったく、こうなれば私も馬鹿らしくなってくる」
その言いように、カールハインツは息を呑む。
(お怒りでない、だと? ……平素であれば、あの状況で姫殿下にお咎めがないなど考えられない。だが、いまの陛下は正真正銘、楽しんでいらっしゃるように見える……)
そしてクラウディアは、花の綻ぶような笑顔を浮かべるのだ。
「おとーさま! おとーさま、わらったから、クラウディアのかち?」
「何を言う。先に笑ったのはお前だぞ? クラウディア」
「あ! そーだった!」
小さな手がぱっと口を塞いだ。
するとフォルクハルトは、まさしく幼子に言い聞かせるための、穏やかな声で説明する。
「こういうのはな。引き分け、というのだ」
「ひきわけ!」
「お前も私も負けであり、お前も私も勝ちとなる」
クラウディアはふんふんと頷いたあと、にこっと微笑んだ。
「クラウディア、おとーさまとおそろい?」
「そうだな。……カールハインツ」
「……は。陛下」
カールハインツは改めて、フォルクハルトに礼の形を取った。
「いま言った通りだ、馬鹿馬鹿しくなった。お前の報告に『手落ち』があったこと、ひとまずは見逃してやろう」
(……陛下に状況を伏せたのは、手落ちではなくれっきとした背信行為だ。それを分かっていらしても、なお……)
いまのフォルクハルトは、心の底から機嫌が良さそうに見える。
(駄目だ。陛下はこう仰るが、この状況に甘んじるべきではないだろう。俺は、責任を取らなければ……)
「カールハインツ!」
「!」
クラウディアの小さな手が、カールハインツの服を引く。
「ほらはやく、ねんねしましょ! ノアがいないの。だれかがお歌をうたってくれないと、クラウディアねむれない」
「……」
「はやく」
そう言って、もう一度強く引っ張られた。
「……!」
その力強さに、ふと昔のことを思い出す。
『――起きて! ねえ君、起きて、しっかりして!』
雪の夜、死の眠りから揺り起こしてくれたあの少女は、いまのクラウディアのように真っ直ぐカールハインツを見据えていた。
(……いまの行動は、クラウディア姫殿下にとっても賭けであったはずだ。陛下の不興を買えば、この先に姫殿下の安寧な暮らしが脅かされ、最悪の場合は殺されていたことをご理解なさっているだろう)
どれほどクラウディアに魔力があろうと、魔法の扱いが優秀であろうと、難局であることに変わりはない。
にもかかわらず、クラウディアはカールハインツのために動いたのだ。
(……俺の恩義を、彼女を守ることではなくて、子守りで返すことになるとはな)
思いもよらない運命を見付け、知らずのうち笑みが溢れてしまう。
「――あなたさまの仰せのままに。姫殿下」
そしてカールハインツは、クラウディアに深く頭を下げた。




