220 生きるよすが
黒百合の上に、ぱたたっと赤い血が落ちてゆく。
その血は金色の光を帯びて、ノアの手にした短剣の刃を輝かせた。
(呪いの術式の構成は、分かっている)
つい先ほど、ノアをわざわざ苦しませることで、欲しい情報はすべて得た。
眷属契約によって、クラウディアとノアの魔力は繋がっている。クラウディアが理解した魔法のことを、ノアだってよく分かっているはずだ。
(十年前……あのときの私では、ノアの呪いを断ち切れなかったからこそ、こうして眷属の契約を結ぶことになったわ)
目覚めたばかりのクラウディアでは、そうすることが限界だった。
けれどもそれも、ライナルトの呪いを利用した母が目論んだことだったのだ。
ノアを目の前にすればそうするはずだと、母にそう信じられていたからこそ、こうしてノアとの契約を結んで今に至る。
(ライナルト。あなたがノアを苦しめた呪いが、あなたの計画を阻んでいるわよ)
その皮肉さに微笑んで、クラウディアはジークハルトに告げる。
「怖くても、暴れちゃ駄目」
「……っ」
左胸から短剣を引き抜いたノアが、その剣の形を変化させる。
金色に輝く血を纏い、真っ直ぐに伸びた長剣の切先が、ジークハルトへと向けられた。
「レオンハルト……!!」
「――――……」
ジークハルトの激昂が、クラウディアの制御を振り解いた。
彼らの剣同士が、再び剣戟の音を散らす。
剣と魔法の絡み合うそれは、荒々しい音を立てながらも、まるで一種の舞踏のようだ。ノアの剣先には迷いがなく、すべての動きを計算しつくし、淀みない流れでジークハルトを追い詰めてゆく。
一方で対峙するジークハルトには、一切の余裕も見えなかった。
深い怒りをぶつけているかのような、力任せの剣術だ。子供の頃、ノアと彼が戦った姿を見たときは、もっと洗練されていたはずだった。
(ライナルトに与えられたはずの力が、却ってジークハルトを阻んでいる)
もちろん、ジークハルトが弱い訳ではない。
その一撃は力強く、まさに猛攻といった様子で、刃はノアの体を抉り斬ろうとする。しかしそれを回避するノアの動きは、ジークハルトの苛烈さすらも利用していた。
ジークハルトが振り下ろした剣を、ノアは刃で受け止める。ジークハルトはそれを押し返そうとするが、ノアは素早く刃の角度を変えた。そのまま二振りの剣が交差し、互いを弾いて、次の一撃を繰り広げる。
重心を僅かにずらしたノアが、肩口を狙うジークハルトの剣を受け流した。
「……っ!」
ジークハルトの眼前に、再びノアの剣が迫る。
それを躱したジークハルトが、自身の剣をノアの首筋に突き立てようとした。それを一閃で弾いたノアが、後ろに跳んで間合いを取る。
「……俺は、彼女を手に入れる」
自身へ言い聞かせるかのように、ジークハルトの低い声が響いた。
「ずっと、そのために準備を重ねてきたんだ」
「――言っただろう」
剣を上段に構えたノアが、目を眇める。
「このお方を手に入れるなどという考えは、すぐに捨てろ」
「黙れ。黙れ、黙れ……っ!!」
ジークハルトが激昂しながら、ノアへと一気に間合いを詰めた。
剣先に迸る黒い光は、暴走寸前の闇魔法だ。呪いの崩壊寸前にも似た不安定さが、触れたものすべてを害するような禍々しさを伴って、ノアの方へと襲い来る。
「姫さまは……」
けれどもノアは冷静に、はっきりとジークハルトに告げた。
「俺の主君は、俺のものだ」
「……僕が、お前でさえあれば……!!」
短く息を吐いたノアが、ジークハルトの剣を避ける。
かと思えば、ノアは手にした剣ではなく、拳をジークハルトの鳩尾へと叩き込んだ。
「っ、く……!!」
「――――……」
口元を押さえたジークハルトが、聖堂の床に膝をつく。剣先を床へと向けたノアが、ジークハルトに問い掛けた。
「その状態で、よく生きていたな」
先ほどとは正反対の光景だ。ノアの血を纏わせた剣は、依然として金色の輝きを帯び続けている。
「……ライナルトの呪いが、お前の体を脆くしたのか?」
「…………」
ジークハルトは浅い呼吸を繰り返し、視線を落とす。
「三年間に及ぶ大喪の儀で、お前はライナルトに何かされているらしい。……たとえば、ゆくゆくはお前の体を乗っ取るような、そんな魔法式を仕込まれている」
(――――……)
クラウディアも、おおむね同じ想像だ。
おおよそ八年前、見合いのためにと称して訪れた国で、クラウディアは前世の弟子と再会した。その弟子は、いつかクラウディアの魂を入れ込むための器として、何人もの少女たちを眠らせていたのである。
(シーウェルが用意した私の『器』も、呪いの魔法道具によって作られた魔法によるもの。その呪いを与えたのも、間違いなくライナルトだもの)
それと同じ思考に基づくことを、自らの子孫に行っている。
クラウディアの知るライナルトからは、あまり想像のできない行いだ。けれど五百年が経った今、誰がどんな風に変わっているかすら、断言できないことも知っていた。
「……くそ……」
ジークハルトは何度も荒い呼吸を継ぎ、聖堂の床へと額を擦り付ける。
ノアはそれを見下ろして、冷静な表情でこう続けた。
「俺が施されたのと変わらない、奴隷の契約も同然だ。……逃げたら死ぬ、だからこそお前は」
ジークハルトの首元に、黒い靄が浮かび上がっている。
「姫さまを、生きる理由のよすがとして、執着しているふりをしているだけだ」




