2 手負いの仔狼に近付いてみる
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クラウディアの前世である『アーデルハイト』は、今世と同じ王女だった。
小国でありながら、代々王家が強大な魔力を持ち、それゆえに存在が続いた国だ。
その血統の中でも、歴代最高傑作と呼ばれる存在として、アーデルハイトの足元には様々な人物が傅いた。
『アーデルハイト、君はとても美しい。ライラックの花のような髪色も、その魅惑的な強い瞳も、この世にふたつとないものだ』
『あなたの魔力こそ至高の力。これほど強く純粋な魔法を、僕は見たことがありません』
『お前が妃となってくれれば、我が国は未来永劫に栄えるだろう。アーデルハイト、どうか私の妃になってくれ!』
各国の王や王子たちさえ、アーデルハイトを求めて頭を下げる。
だが、アーデルハイトにとってはすべてが退屈だった。
靴の先にキスをされようと、高価な贈り物を捧げられようと、心はちっとも動かない。
男たちが与えようとするものは、アーデルハイトの魔力があればいかようにも手に入ったからだ。
(あんなのはもう御免だわ。少々の美貌では驚かないし、地位にも名声にも飽き飽きだもの)
んしょ、と大きな木の枝を乗り越えて、クラウディアは森の先に進んでいった。
(それよりも、前世で出来なかったことをしましょう。たとえば、憧れの大きなワンちゃんを飼うとか!)
目下の夢を考えながら、心はわくわくと躍っている。
(美しくて賢い犬がいいわね。一緒に眠るとふわふわして、あったかくて気持ち良さそうな……この森、フェンリルとか居ないかしら?)
森のあちこちには、魔物の痕跡が残されている。暇を見つけて探しにくれば、フェンリルくらいは見つかるかもしれない。
(王都から遠く離れた場所で、好き勝手に暮らせるなんて最高だわ。……あら、さっそく……)
森の奥から足音が聞こえてきて、クラウディアはそちらに目を遣った。
近づいてくるのは大型の、四つ足を持った魔物だろう。
肉食か、大型か、はたまた群れの大群だろうか。なんでもいいから見繕って、良さそうなペットがいれば手に入れたい。
そう思うのと同時に、森の奥から巨体が飛び出してきた。
現れたのはグリフォンだ。鷲の上半身、獅子の体を持つ魔物が、一直線にこちらへと向かってくる。
希望していた犬ではないが、代わりに飛んでもらえるのは便利かもしれない。そんなことを考えながら、ひとまず従えようと手をかざす。
その瞬間、悲鳴のような声を発したグリフォンは、クラウディアの頭上を飛び越えていった。
「!」
ほんのちょっとだけ驚いて、森の奥に目を向ける。
クラウディアを素通りし、グリフォンが逃げてきたのであろう方向からは、魔物とは違う異質な気配が感じられた。
(ふうん……)
クラウディアはくちびるに微笑みを浮かべる。
そのあとで、小さな足の先をそちらに向けると、迷わずにとことこ歩き出した。
(グリフォンは決して弱い魔物ではない。縄張り意識が強いのに、脇目も振らず逃げ出すだなんて)
軽い音を立てて落ち葉を踏みながら、奥へ奥へと進んでいく。
そうすると、朧気だった気配がはっきりと感じられるようになってきた。
随分と、色濃い殺気が暴れている。
(生き物というよりも、天災の前触れみたいな魔力の揺れね)
この先に『何か』がいるはずだ。そう思いながら辿り着いたのは、小さな湖の畔だった。
普段であれば清浄な空気が流れているであろう場所は、淀んだ魔力が充満している。そしてその持ち主は、クラウディアが見つけた人物に間違いない。
地面に蹲まっていたのは、ひとりの少年だった。
九歳くらいの見た目をした、黒髪の少年だ。
地面に片手を突き、重そうな上半身を支えながら、ふうふうと息を繰り返している。汗の雫が顎を伝い、ぽたぽたと地面を濡らしていた。
(あの魔法……)
彼の周囲には、黒い靄が立ち込めている。
その靄は無数の蛇のように暴れ狂い、禍々しい殺意を放っていた。クラウディアは少年に向け、一歩踏み出す。
すると、ぴくりと細い肩が揺れた。
「――近付くな」
まだ声変わりすらしていない、澄んだ声だ。
けれども気迫を帯びており、緊張感に頰がぴりぴりとする。クラウディアを睨み付けたその瞳は、黒曜石のような黒色だった。
「こっちに、来るなと、言っている」
彼の周りでは、数頭のグリフォンが死んでいた。本来ならば、一頭で町のひとつやふたつくらいは壊滅させられる魔物が、そう簡単に倒されることはないはずだ。
「あなたがこれを殺したのね」
「……」
この場に漂う黒い靄は、彼の心臓辺りから生まれ出ているようだ。
蛇のような形を持った靄のうち、何本かは彼の首へと絡み付いている。
まるで、飼い犬を拘束する鎖みたいだ。
(なるほどねえ)
こちらを睨み付けた少年の、その顔をじっと眺めてみる。
手入れをすれば美しくなりそうな短い黒髪と、幼いながらに切れ長の涼しい目元。はっきりした二重、形の良い鼻に、薄いくちびる。
顔立ちがそもそも整っており、成長すればさぞかし美青年になりそうだ。
しかし、クラウディアが何よりも目を向けたのは、彼の持つ瞳だった。
(吸い込まれそうなほどに真っ黒な、強い瞳。揺るぎない意志が宿っていて、鋭くて、凛としている)
少年が、掠れた声でこう告げてくる。
「あと一歩でも近づいたら、お前も殺す」
「……すてき」
「は?」
クラウディアはふわりと微笑みを浮かべた。
わくわくして、心からの気持ちで感想を述べる。
「――なんて綺麗なワンちゃんなのかしら!」
「……っ!!」
少年が目を見開いたその瞬間、彼に纏わりつく黒靄の蛇が、ぐにゃりと歪んだあとで大きさを増した。
「ぐ、あ……!」
少年が両手で左胸を押さえつける。けれどもそこから溢れる靄は、ますます激しさを増すばかりだ。
かと思えば、黒靄はうねりながら大きな口を開け、クラウディア目掛けて突っ込んできた。
「っ、くそ! おい、さっさと逃げ……」
「ふふ」
真っ黒な靄に手をかざす。
「『排除』」
「!!」
その直後、ばちん!! と蛇が弾け飛んだ。
クラウディアにその牙が届くはずもない。白いドレスの裾がふわりと舞い、それで終わりだ。
「――――な……」
少年が、短く息を吐き出す。