177 かりそめの
『これでなんとかなりそうね。アシュバル』
王の演説が終わったあと、それをこっそり見ていたクラウディアとノアは、別れを告げるためにアシュバルの元に向かった。
大仕事が終わった直後のアシュバルは、堅苦しい衣服の襟元を緩めることもなく、胸に手を当てて礼の姿勢を取った。
『クラウディアとノアのお陰だ。色々と力になってくれて、本当にありがとう』
『最初に言ったでしょう? ただの交換条件よ。私たちは代わりにレミルシア国の監視をお願いするのだもの』
『分かっている。状況は常に報告して、警戒し続けると約束するよ』
第一に、ここからだって大変だ。これまでの財宝の貯蓄はあり、すぐに飢える心配がないとはいえ、この国は本当の国力というものが試されてくる。
(とはいえ、この砂漠に広大な国が出来上がって二十年。そのあいだに築かれた流通や商い、人の流れ……黄金がなくなっても残るものたちがあるわ。それらを利用した活路も、一丸となれば切り拓けるはず)
いままでとこれからでは、王の仕事もきっと変わってくるはずだ。ノアが少しだけ難しい顔をしていると、アシュバルが苦笑する。
『はは、ノアの言いたいことは分かってるよ。無駄飯喰らいの大臣は、真っ先にどうにかするさ。親父の代からのしがらみで処分できないなら、これからはそのしがらみごと利用して国を発展させる』
『……それがよろしいかと。その点におかれましては、ファラズ殿がさぞかしご活躍なされるでしょう』
『おい坊主、さり気なく俺に矛先を向けるんじゃねえよ。……ま、頑張りますがね』
クラウディアがくすくす笑っていると、ぱたぱたと軽い足音が響いてきた。
『クラウディア!』
『あら。ナイラ』
彼女は演説の際に着ていたドレスから、動きやすい衣装に着替えてきたようだ。煌びやかだが有事の際にもすぐに動けそうな衣装は、ナイラによく似合っている。
『ひょっとして、もう出発するのか!?』
『ええ。残念だわ、あなたたちの結婚式まで滞在していたいくらいだったけれど……』
クラウディアが少し揶揄うと、ナイラの頬が赤く染まる。
婚約者同士ではあったものの、長らくのあいだ『婚姻の時期は未定』とされていたふたりの結婚が、急遽半年後に決まったのだ。
恥ずかしがっていたナイラだが、すぐにその表情を曇らせて言った。
『……さみしくなる。というか、今もすでにさみしい』
『ありがとう。私もさみしいわ、ミラと会えなくなるのも』
『また遊びに来てくれ……! それから是非とも、私たちの式にも』
『ナイラ』
その約束をすることは、出来なかった。
断ることもしたくなかったので、クラウディアはぎゅっとナイラを抱き締める。すると何かを察したナイラが、はっとしたように息を呑んだ。
『次に会えるのが楽しみだわ。それまでどうか、愛する人と元気でね』
『……ああ』
砂漠の国で出来たこの友人は、クラウディアのことを抱き締め返しながら祝福をくれる。
『クラウディアも。愛する人と、元気で』
『……ふふ!』
そうしてクラウディアたちは、黄金の砂漠を後にしたのである。
塔の自室の椅子に座り、ノアのお茶をじっくりと味わったクラウディアは、ほうっと息を吐き出した。
「林檎の香りのお茶なんて初めて。シャラヴィア国で作られる品々には魅力的なものが多いから、きっとこの先も安泰ね」
「……」
これで全ての気が済んだ。林檎の香りを堪能し終えたクラウディアは、カップをテーブルに戻す。
「とうさまに手紙を書いたし、カールハインツにも読むように言ったわ。にいさまたちへのお手紙も入れておいたから、きっと渡してくれるでしょう」
「姫殿下」
「ノアのお茶。本当においしかった」
ただひとり、クラウディアのために研鑽された腕前だ。すべてをクラウディアの好むように、それだけを考えて淹れてくれたお茶が、世界で一番美味しいのは当然だった。
「髪の結い方も、魔法によるドレスも。私が自分で作るよりも、ノアに贈られたものの方がずっと好きよ」
「…………」
「どうしたの? ノア」
クラウディアがノアを誉めたとき、いつもならそれを受け取っての言葉が返されるはずだ。けれども今日のノアは目を伏せて、静かにこう紡ぐのだった。
「まるで別れのようなお言葉を、そんな風に笑って口になさらないでください」
クラウディアは微笑みのまま目を細め、立ち上がる。
寝台にぽすんと腰を下ろすと、おいでおいでと手招きをした。それに従ったノアが迷わずクラウディアの前に跪こうとするので、その手を取って引き寄せる。
「こっち」
「姫殿下」
クラウディアの隣に座ったノアは、物言いたげなまなざしを向けてくる。少し怒っているかのような、さみしそうな、拗ねて甘えるかのような表情だ。
「主君に置いて行かれるときの、ワンちゃんみたいね」
「……状況に相違はありませんが」
「あら。違うわよ」
クラウディアはノアの頭を撫でながら、安心させるように言い聞かせる。
「私はずっと、お前の傍にいるわ。……偽りの死を迎えても、ね」
「…………」
ノアが眉根を寄せ、言葉を押し殺すかのように両手を握り締めた。
だからクラウディアはもう一度、ノアに先日と同じ言葉を告げる。
「この『クラウディア』の体は、『アーデルハイト』の器として保たないの。だから魔法を使うと眠くなるし、その体質が成長しても変化しない」
そのことの特異さは、ノアだって何年も前から感じていたはずだ。
「そのために、偽りとはいえ死を選ばれると?」
「もう。言ったでしょう? 本当の死ではないのだと」
魔法を使うと眠くなるのは、幼い頃の体が強力な魔力に耐えられないからだと考えていた。
けれども十三歳になったクラウディアは、前世のアーデルハイトが十三歳だったときの、十分の一も魔法を発揮できないままだ。
(そんな体に生まれてきた理由も、なんとなく推測できるけれど……)
思い出すのは、シャラヴィア国で目にした女神像だ。
あの女神像が何処かクラウディアを思わせるのだと、最初にノアから聞いていた。実際にクラウディアも目にしたところ、ノアがそんな風に言う理由が分かったのである。
あの女神像は間違いなく、クラウディアに関わったとある人物をモデルに作られていた。
クラウディアたちはずっと、各国の王族に呪いの魔法道具を渡し、唆してきた存在を探していた。呪いの魔法道具と共にあった像も、恐らく無関係ではないだろう。
これまでの様々な経緯を集めてきても、何処となく予想される存在はあるのだ。
けれども今のノアにそれを伝えれば、きっとどれほど危険であろうと、ノアがひとりで対処してしまう。
(それを告げるのは、私が生きて戻れたらね)
そんなことを考えながら、ノアの頭を撫で続ける。
柔らかな髪、可愛いつむじ、それから下ってその頬を。
「私はただ少し、長い眠りに就くだけ。――呼吸もしないし、心臓の鼓動も聞こえない。それでも亡骸の朽ちない眠りよ」
「……」
「そのあいだ、私の体には魔法が巡り続ける。無事に目覚めることが出来たらきっと、お前の主君は力を取り戻すはず」
体を仮死状態にした上で、魔術を使って補強する。
いわばこれは、治療のための長い眠りなのだ。器として不完全な、それでも愛着のあるこの体を、魂の強さで壊さないようにするために。
(――そうしなくては、ジークハルトたちとの戦いでは保たない)
自分の体がとても脆いことを、クラウディアは改めて思い知った。
だからこそこれを決断し、ノアにだけこっそりと告げたのだ。ノアは動揺し、何度もクラウディアに質問を重ねた上で、最終的に頷いた。
主君の意向に忠実な、とても可愛い従僕だ。
それでもやはりこうやって、引き留めたがる仕草を見せる。
いつもは自分からクラウディアに触れることなんて少ないくせに、クラウディアがノアを撫でる手を掴むと、自ら頬を擦り寄せるのだ。
(かわいい)
クラウディアはくすっと目を細め、ノアを見詰める。
仮死の魔法に危険が伴うことも、下手をすればクラウディアがそのまま二度と目覚めないことも、ノアにはすべてを話している。
(それでも信じて、私のしたいことに従ってくれる。私のノア)




