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167 太陽の幼馴染



 砂漠の果てに陽が沈み始めると、辺り一帯は赤く染まる。


 幼い頃から後宮に住まうナイラは、高い場所からその夕焼けを見るのが好きだった。

 空も砂原も写鏡のように同じ色へと染まり、美しい。燃えるようなその赤は、アシュバルの瞳と同じ色だ。


 けれどもいまは、この夕焼けが恐ろしい。

 正しくは夕焼けの後にくる月夜が、震えるほどに怖かった。


『ナイラ。……ナイラか、可愛い名前だな!』


 子供の頃に出会ったアシュバルは、ナイラを見て嬉しそうにそう笑った。


 足からは大量の血を流し、痩せこけて渇き切った状態で迷い込んできた癖に、痛みも飢えもまったく感じさせない振る舞いだ。


 それでも小さなアシュバルは、同じくらい小さかったナイラの手をぎゅっと握って、少しだけ泣きそうな笑顔でこう言った。


『ありがとう。お前が居てくれなかったら、俺はきっといま生きてはいなかった』

『……!』


 それからナイラの一番の友人は、時々何処かから後宮に忍び込んでくるアシュバルとなったのである。


『この後宮は、結界で守られているそうだぞ? アシュバル、お前は一体何処から入ってくるんだ』

『そんなことよりナイラ、この蛇! こいつ砂漠で餌が獲れなくて、いつかの俺みたいに干からびそうなんだよ。匿える場所を一緒に考えてくれないか』

『まったく……こっちにおいで。こっそり私が後宮で飼おう、内緒だぞ』


 互いに秘密を共有し、内緒で遊ぶ友人だ。ナイラが食べ物を分けてあげる代わりに、アシュバルは外の世界の話や、後宮には無いお土産をたくさん持ってきてくれた。


『アシュバルは自由で羨ましいな。私もいつか、砂漠を駆け回ってみたい……』

『駄目だ。お前は弱いからすぐに死ぬ』

『わ、分かっているさ! 魔法の練習をする。外の魔物とも戦えるように!』

『魔物もそうだけど、体力をつけないと話にならないぞ?』


 出会ったときよりも少し成長したアシュバルは、背が伸びて筋肉もついた。それが外の生活の過酷さに説得力を与えていて、ナイラは項垂れたのだ。

 そんなナイラを微笑ましそうに見ていたアシュバルが、ふと思い付いたように言った。


『……そうだ。次に来るときに、俺がいいものを持ってくる』

『いいもの?』

『それを使って鍛錬すればいい。矢を射るのは意外と力も使うし体力も要るから、鍛えられるんじゃないか』

『待て、何の話をしているんだ。矢を射るって、一体……』


 するとアシュバルは、悪戯を企むときのような笑顔を浮かべるのだ。


『俺の分身だと思って大事にしてくれよ。ナイラにやるから』

『っ、だから。それは一体なんだと言って……!!』


 答えはすぐに分かった。アシュバルが後日持ってきたのは、金色の美しい弓だったのだ。

 翼を広げた鳥のような形をして、大きなルビーが嵌め込まれている。太陽のように眩しい弓は、ナイラにとって本当にアシュバルの分身のようだった。


(……あの頃は、楽しかったな。アシュバルが王だということもまだ知らなくて、それでも度々一緒に遊んで)


 大人になったいま、ナイラはアシュバルにもらった金色の弓を握り締め、途方に暮れている。

 燃えるような夕焼けを眺めながら、もうすぐ登ってくるはずの満月を恐れていた。


(あいつの顔を見るのが、こんなに怖いなんて)


 体が震えてしまうのを抑え、ぎゅっとくちびるを結ぶ。


(なるべく考えないようにしていた。だけど、アシュバルではない偽物の王がここにいることも、やっぱりあの件が……)


 不安を掻き消す方法は、知ることだ。ナイラは縋るような気持ちで、この場所の対となる宮を見上げた。


(偽物のアシュバルが後宮に連れてきた、アーデルハイトの姉君。ディアさま……)


 ナイラはまだ一度も会ったことがない。アーデルハイトが良き友人となってくれている件で、互いに挨拶の品を贈り合ってはいるものの、なかなか対面する機会に恵まれていなかった。


(ディアさまが私を避けているように感じられて、こちらも顔を合わせないようにしてしまった。だが、一度彼女にお会いするべきではないか?)


 俯いてそう決意し、支度をするために宮内へ戻ろうとする。

 けれどもそのとき、ナイラは驚いて顔を上げた。


「こんばんは。ナイラさま」

「……あなたは……」


 少し離れた場所、庭のヤシの木々の間に立っている女性に目を奪われる。


 さらさらとしたミルクティー色の髪に、朝露を溶かした蜂蜜のような色合いの瞳。その双眸は蠱惑的な雰囲気を帯び、上向きにカールを描いた睫毛に縁取られていた。


 透き通るほどに滑らかな肌が、夕焼けの光を浴びて輝くばかりだ。

 豊かで柔らかな胸のラインや、その反面すんなりとした腰回りが、芸術的なシルエットを描き出している。


 そして鮮やかな色のくちびるには、見る者の視線を惹きつける微笑みを宿していた。


(この女性、間違いない……)


 あちらから名乗られなくたって、はっきりと分かる。


「あなたが、ディアさまか?」

「ふふ。いつも『アーデルハイト』にやさしくしてくださって、嬉しいわ」


 同じ女性であるナイラから見ても、目が眩むほどに美しい女性だ。おまけにひとつひとつの仕草が優雅で、舞でも見ているかのようだった。


「勝手に庭に入ってごめんなさい。ナイラさまとは女同士、是非ともお喋りをしてみたくって」

「あ、ああ……! もちろんだ、私もそう思っていた」


 急な訪問とその美貌に驚いたものの、ナイラにとって願ってもないことだ。けれどもディアがこちらに一歩踏み出すと、何故か反射で体が強張る。


「やっぱりあなた、怖いのね」

「これは、その、違うんだ。決してディアさまを恐れている訳ではなく」

「分かっているわ。ふふ、当てるわね」


 片目をぱちんと瞑ってウインクする表情に、何故だかどぎまぎしてしまった。ディアは爪紅の塗られた人差し指で、ナイラの胸元にとんっと触れる。


「あなたが怖いのは、アシュバルが――――……」


 その声で紡がれた言葉に、ナイラは目を見開く。


「どうして、そのことを」


 自分の顔色が真っ青になっているのが、鏡を見なくてもよく分かった。震える体でディアを見るナイラの手を、彼女がやさしく両手で包む。


「あなたの怖いものを無くしてあげる。だから、一緒にいらっしゃい?」

「……っ」


 そう囁く言葉が、魔法のように魅惑的だった。


 ナイラは思わず俯いて、それから大きく頷いてしまう。ディアに手を引かれ、迷子になった小さな子供のように、抵抗すら出来ずに歩いてゆくのだった。




***

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