12 重ねての誓い
その問いに、ノアは眉根を寄せる。
「……そんなこと、考えたこともなかった」
「無欲なのね。あの男はもう使い物にならないから、王位交代にはちょうどいい機会ではなくて?」
十六歳の姿をしたクラウディアは、屋上庭園から王都を指さした。
いまはノアも大人の姿をしているので、そんな彼女を見上げることもない。それどころか、随分と見下ろす形になりながら、クラウディアの声を聞く。
「これが、お前のものに出来るのよ」
「……」
王都に面した海の向こうに、夕陽が落ちたばかりだった。
紺色に染まった王都の街並みは、こうして見ると懐かしい。この五年間、地下牢の外に出る機会は少なくて、ゆっくりと景色を眺めることもなかったのだ。
それでも、いだいた感情はそれくらいである。
「必要はないし、あの男にも子供がいる。俺のひとつ下の従兄弟で、優秀だって噂は聞いたから、国はそいつが継ぐだろ」
「あら。憎い相手の子供なのに、見逃していいの?」
「俺は、復讐相手を混同したりしない」
それに、と思う。
「……一度だけ、大きくなった妹の姿を見たことがある」
クラウディアには、ノアの身に何があったかの仔細を話していない。
だが、話さないでいるのを許されているような気がして、それに甘えた。
「妹は、笑っていた」
遠目に見たその姿を、ノアははっきりと思い出せる。
木漏れ日の中、母譲りの金髪を風に靡かせながら笑っていた。傍らには叔父がいて、従兄弟もいて、妹の頭を慈しむように撫でていた。
叔父が母を好いていたことも、妹が母に似ていると感じていたことも、きっと本心だったのだろう。妹は、幸せに育てられていたのだ。
「だったらもう、それでいい。この手で弔いたかったなんていうのは、俺の欺瞞でしかないんだ」
「……そう」
クラウディアが、冷めたまなざしを城下に向ける。
ノアから手を離し、屋上庭園の芝生を歩き始めた。色とりどりの花が咲く庭園は、日中であればきっと美しいのだろう。
だが、いまはすっかり夕闇に浸されている。
「お前の妹は、何が好きだったの?」
「……」
尋ねられたが、ノアには答えられなかった。
なにせ、まともに対面したのは妹が生まれた直後くらいで、それ以外は母のお腹越しに話しかけていたくらいだ。好きなものなんて、はっきりと分かるはずもない。
「……あいつの姿を見たときは、両手に花を摘んでいたな」
「そう。お花ね」
クラウディアは庭園の先に立つと、城下を見下ろした。
白茶色の髪が、さらさらと風に靡いている。彼女の指先に、小さな光の粒が集まった。
「『――……』」
クラウディアは、何かの呪文を詠唱したようだ。
続いてノアを振り返り、小さく手招きをする。それに従って隣に行き、ノアは息を呑んだ。
「これは……」
夜に染まった城下から、ふわふわと光が舞い上がる。
紺色の闇に浮かぶのは、淡いオレンジ色をした灯りだ。ひとつひとつが花の形をしていて、ゆっくりと瞬きながら空に浮かぶ。
城下町は、星を散りばめたかのようにきらきらと光を放っていた。
言葉を失くしてしまうほどに、美しい光景だ。
「弔いよ」
クラウディアが指先で空をなぞると、呼応するように光が生まれる。
「城下のどこに埋葬されていても、これならきっと見えるでしょう?」
「……クラウディア」
「弔うことが欺瞞だなんて、そんな風に思う必要はないわ」
オーロラのように色を変えるその瞳が、真っ直ぐにノアを見上げる。
「これまで、よく頑張ったわね」
「……っ!!」
微笑まれた瞬間に、胸が詰まった。
ともすれば泣いてしまいそうで、それだけはご免だと拳を握り締める。結局何も出来ていないのに、ここで泣くような資格はない。
「可愛いノア。別に強がらなくていいのよ」
「別に、強がってない。――クラウディア」
横髪を耳に掛けながら、クラウディアが首をかしげる。
「俺はあんたを利用した。一度は従うと言っておきながら、嘘をついてあんたから逃げ出した」
「最初から分かっていて契約したわ。お前に騙された覚えはないわね」
「そうであってもだ」
殺されなかったとしても、見放されるのが当然だろう。
それなのにクラウディアはノアを助けた。
眷属であることから逃げ出したノアを前に、眷属だから守ると言い切って、妹の弔いまで果たしてくれたのだ。
「信用に値しないのは、百も承知で言う。俺は、これから先の生涯をかけて、あんたに恩義を返したい」
クラウディアの瞳に、光る花の輝きが映り込む。
それを間近に見下ろして、ノアは告げた。
「改めて、あんたの眷属としての忠誠を誓う」
「……」
きょとんとした瞬きは、それこそ幼い少女のようだった。
クラウディアは数秒の後、冗談めかした笑みを浮かべる。
「……馬鹿ね。お前ほどの気概を持った人間が、他人の犬みたいな生き方をするべきではないわ」
「『生き方を選べ』と言っただろう? これまでの俺が生きていた理由は、今日ですべてが無くなった」
これからは、妹を守るために生きるのでも、叔父の復讐によって生かされるのでもない。
自分で生き方を決めるのなら、心の底からこの道を選びたいと思う。
「だから、俺はあんたの犬でいい」
「――!」
忠誠を誓う。
もう一度、クラウディアの目を見て繰り返すと、彼女は静かに目を伏せる。
(……それに)
気に掛かるのは、先ほどの叔父が放った言葉だ。
『五百年前に生きた、伝説の魔女! 人々の称賛を浴びながら、あるとき自害して命を落としたという――』
アーデルハイトの最期について、クラウディアは何の否定もしなかった。
あの沈黙は、肯定にも思える。つまり前世のクラウディアは、自らの手で死を選んだということだ。
(強い癖に、どこか危なっかしくも見える。だったら俺は、こいつのことを……)
「……いいわ」
クラウディアの両手が、ノアの頬をそうっと包んだ。
「私の物にしてあげる。大きくて強くて美しい、そんなわんちゃんを飼いたかったから。……でも、逃げたくなったらすぐに言いなさい」
まるで、ノアが必ずそんな未来を辿るかのような口ぶりで彼女は言う。
美しいのに寂しげな、そんな透明な微笑みを浮かべていた。
「逃げたくはならない。絶対に」
「ふふ」
まったく信じていない目をしたあと、クラウディアは改めて城下を見た。
「追手の魔術師たちが、そろそろ勘付いてここに来るわ。……ノア」
「ああ」
彼女の言わんとしていることがよく分かり、ノアも再び町を見下ろす。
「……」
ここで生まれ、この国の王になるため育てられて、けれどもそれは奪われた。
妹がどこかに眠るであろう城下を、丁寧に焼き付ける。きっともう、こうして見下ろす日は二度と来ないだろう。
「ねえ。この国が欲しいなら、もう一度……」
「『転移』」
クラウディアの手を取って、言葉を遮りながら詠唱した。
次に両目を開けたときには、ノアたちはクラウディアの塔にいる。ソファの上にはたくさんの毛布と、クラウディアの髪に挿した花が置かれていた。
「従僕のくせに、主人を転移させるなんて生意気ね」
そう言うが、クラウディアはどこか楽しそうだった。
「どうせあんた、もう眠いんだろう? 声がいつもより穏やかで、甘ったるくなってる」
「んん……」
ノアの見抜いた通りだったらしく、クラウディアはソファに寝転がる。
十六歳に変化した体では、ソファに眠るのは窮屈そうだ。せめて子供の姿になってくれれば、部屋の奥にある寝台へ運んでやれる。
「おい、元の大きさに戻れ。その状態だと抱えにくい」
「嫌。いま、とっても眠くて何もしたくないの。だから……」
そう言って、クラウディアが両手を伸ばしてきた。
「抱っこ」
「……おい」
冗談だろう、と顔を顰めた。
こちらが十年は成長した姿と言えど、クラウディアだって十六歳くらいの大人の姿だ。抱えられることに抵抗はないのかと聞きたかったが、まったくなさそうな顔をしている。
「抱っこ。命令よ」
「……」
ねだられて、ノアはとても大きな溜め息をついた。
時間が経てばきっと、ノアもクラウディアも元の姿に戻るだろう。だが、それがいつになるかは分からないので、それを待っているわけにもいかない。
諦めて膝をつき、クラウディアを横抱きに抱え上げる。
「ふふ」
「……なんだよ」
「正式な従僕としての初仕事ね、ノア」
悪戯っぽくそう言われ、げんなりした。
「もっとまともな命令がよかった……」
「そのうちちゃんとしてあげるわよ。王城魔術師を追い払えとか、適当に誤魔化せとか」
クラウディアの言葉に、そういえばあいつらはどうしたんだろうと気になった。
だが、恐らくは何も説明せずに待たせているのだろうと想像がついて、わざわざ聞くことはやめておく。
そして、腕の中で眠そうなクラウディアを見下ろした。
(魔法で作った体とはいえ、いくらなんでも軽すぎるな)
寝台に運び、そっと下ろす。
そのころにはもう、小さな小さな寝息が聞こえていた。
「……おやすみ」
囁いて、ノアも大きなあくびをする。
ここでこのまま眠るのは、きっと従僕失格だろう。分かっているのに抗えず、結局は寝台に沈み込む。
そして、朝までぐっすりと寝入ってしまうのだった。




