97.はっきりと分かったので、
王宮でまだ全体会議が行われていた明るい頃、ショコラはミエルの部屋にいた。そしてそこで聞かされた話の内容に打ちのめされていたのだった。
――屋敷を出て、オードゥヴィ領へ行く。
ミエルは確かにそう言った。
言葉を失ったショコラは何かを言おうと、口をパクパクとさせた。しかし、何と言えばいいのだろうか…。
「そんなのは駄目よ!私は許さないわ‼」
…本当は、そう言いたい。だが…それは単なる我儘なのではないだろうか、とショコラは思った。そんな事を言っては、迷惑をかけた上、さらに困らせるだけなのではないだろうか…。
もしかしたら、彼女はもう全て吹っ切っていて、本当にそう決めたのかもしれない。そんなのは、嫌だが………。
静かな部屋の中で、カチカチと時計の音だけがしている。ショコラを追って来ていた他の侍女たちも、黙って扉の向こうで待ってくれているようだ。
思いを巡らせていたショコラは、やっと言葉を発した。
「……ねえ、ミエル…。本当に…?」
「――え?」
いつの間にか、見上げていたショコラの視線は下を向いていた。
ミエルが聞き返すと、ショコラはまたこちらを見上げて口を開いた。
「それが、ミエルの望みなの?」
その問い掛けに、ミエルは目を見開いた。
「……そうですね。私が選べる中では、それが最善だと思っていますわ。」
ミエルはわずかに視線をずらすと静かにそう答えた。
“私が選べる中では最善”…?ショコラはその返答が引っ掛かった。
「じゃあ……じゃあ、制約がなかったら?」
ショコラは質問を重ねた。
「何でも選べるとしたら、貴女は本当は、どうしたいの??」
「えっ……」
ミエルはたじろいだ。ショコラは目を真っ直ぐに見て尋ねている。…誤魔化しは恐らく、効かない。
「制約がなかったら……それは、考えていません。罰を受けるべき身で、そんなことはおこがましいですから…。」
はぐらかしたような答えだが、それはミエルにとっては真実だった。そんな事を一度でも考えてしまえば、やりきれなくなってしまう。ここを去らなければならないのなら、余計な考えは持たない方がいい。そう思っていた。
「――貴女は、罰を受けるべきなんかじゃないわ‼」
ショコラの声が響いた。
「ですが…」
ミエルは戸惑った。「罰を受けるべきではない」などと、あるわけがない。あの日ガナシュが言っていた言葉の一つ一つが、自分に向けられたものだけでなく全て、今もずしりと胸に残っている――…。
しかし、ショコラは自分の発したその言葉で“何か”を掴んだと感じていた。
「そうだわ…そうなのよ。貴女も、ファリヌも、そこまでの罰を受けるべきではない…。あなたたちは二人とも、私の考えを忠実に実行してくれたのだもの!」
「いいえ、ショコラ様を危険にさらしてしまいました‼」
「それはお父様の命令であって、私の命令ではないわ!」
それまでの躊躇っていた気持ちがなくなり、ショコラの視線はもう、はっきりとしていた。
「貴女の主人は私よ!これから先もそう‼だから、教えて。本当に望んでいる事は何?」
ミエルの手をしっかりと握り、ショコラは言った。
…こちらと目線を合わせるためには見上げなければならないくらい、自分よりも体の小さなショコラ…。そんな彼女がミエルには今、とても大きく見えていた。
「…………っ、出て……行きたく、ありません………!!」
不意に出て来た言葉は、子どもっぽいものになってしまった…。
ミエルは涙が込み上げてきていた。ふるふると肩を震わせながら、必死で耐えている。気を抜くと決壊してしまいそうだ。
その絞り出すような言葉に、ショコラはやっと本音が聞けたと思った。
ミエルの頭を引き寄せ、震える背中を優しくさすった。
「――そうよね。ここは、貴女にとっても家だものね。」
それでついに耐え切れなくなったミエルは泣き出した。
「私……ずっと…ショコラ様のお側に、付いていたいです……!」
「うん…うん、分かったわ。」
それからしばらく、ミエルは泣き続けた。その気が済むまで、ショコラは付き合った。
ミエルの泣き声は扉の外まで聞こえていた。
……そしてどのくらいが経っただろうか。ミエルは落ち着きを取り戻した。
「すみません…こんな姿を…。」
「いいのよ。だって私、それが知りたかったのだもの。それよりも、大丈夫よ。安心して。貴女の望みは私が叶えるから。」
ショコラの言葉にミエルはきょとんとした。
「“叶えてくださる”とは、どうやって…⁇」
「もちろん、全部ひっくり返すのよ!」
「ええっ⁉」
生き生きと簡単そうにショコラは言った。“全部ひっくり返す”…そんなことが出来るのだろうか…?
「――さあそれじゃあ、もう一つ行かなければならないわね。来て!」
ショコラはこの部屋からミエルを連れ出すため、手を差し出した。しかしミエルは一瞬、躊躇した。
「ですが私は――…」
謹慎を言い渡されている身で、部屋から出る事は禁じられている…。
だが、このままではどの道解雇となるのだ。今さら大して変わりはしない。ミエルは心を決めた。
「――…いえ、もちろんですわ。ショコラ様!」
ミエルがその手を取ると、ガチャリとショコラが扉を開けた。その向こうには、ここ数日連れていた侍女たちの心配そうな姿があった。
「ショコラ様…、ミエル⁉」
ショコラに手を引かれて出て来たミエルに、彼女たちは驚いた。
「私たちこれから行く所があるのだけど、あなたたちは付いて来なくていいわ。」
「いいえ、私たちも――…」
「あなたたちまで怒られてしまう事になってはいけないから。ね?」
そう言うと、ショコラはミエルを連れて早足で行ってしまう…。侍女たちは戸惑ったように顔を見合わせていたが、姿が見えなくなりそうになると意を決して二人を追いかけた。
…この後ショコラが行こうとしている所など一つしかない。
ミエルの部屋があった廊下を走り抜け階段を降り、その下の階に降り立った。ここも使用人部屋のある場所だ。さっきは女性用の階、今度は男性用の階…。それぞれ異性の立ち入りが禁止されている。そしてそのどちらも自分は来てはいけないとされている事など百も承知。ショコラはすでにいくつもの禁を犯しているのだ。だがそれは今、ショコラにとって些末な事でしかない。何せ、これから全てを挽回してみせなければならないのだから…。
たまたまそこにいた男性使用人はギョッとして、やって来たショコラたちを見た。
「ショ…ショコラ様⁉それに君たちまで…早く戻りなさい‼」
「ファリヌの部屋を教えて‼用が済むまでは戻らないわ!!」
青くなっている彼にショコラは詰め寄った。しかしここでもやはり、自分をなだめようとしてくる。当然のことだろう。押し問答になりかけ、さっきと同じ手を使おうかとも考えたが、誘い出さなければならない相手はあのファリヌだ。今度は上手くいかない気がする。
騒ぎを聞きつけ、他にも使用人たちが集まり始めてきた。ミエルの時から大きな声を出してしまっていたので、異変を感じていた者がいたのだろう。置いてきたはずの侍女たちは、事情を細かく説明していないにも関わらず、自分たちに追い付くと彼らを防ぐように壁になってくれている。
もう後には引けない。
「教えなさい!!」
ショコラは凄みを利かせるように更に迫った。そんななりふり構っていられなくなった彼女の迫力と熱意に根負けした使用人は、ついにファリヌの部屋の場所を教えたのだった。
――扉の外が…廊下が騒がしい事には、もちろん気が付いていた。しかしファリヌはそちらには背を向け、薄暗い部屋の中で黙々と作業を続けていた。
…今回のイザラでの件で、ファリヌは自分の無力さを嫌という程に感じていた。――未熟だ。不甲斐ない。
自分はもっとやれると思っていた。だが、結果はどうだ?被害に遭うのを未然に防ぐ事も、迅速に無傷で助け出すことも…何一つ満足に出来はしなかった。
養成学校での高成績が何だというのか。それに驕っていたつもりも自惚れていたつもりもないが、そんなものは何の役にも立たなかった。これのどこが“優秀”だと言えるのか……
ファリヌはハッとした。後ろで、扉の取っ手がガチャガチャと鳴っている。
「……?」
ふと振り返った時、勢いよく部屋の扉が開かれた。
「!?」
ファリヌは驚いた。確実に鍵は掛けていたはずだ…。
それにしても、廊下は明るい。急に入って来た光で目が眩む。思わず下方に顔を背け、瞼を閉じかけた。
すると、誰かの足元が目に入った。
「何をしているの⁉」
「――ショコラ様!?」
そこには、部屋の中を見回し険しい顔をしているショコラがいた。その手には鍵束を握っている。わざわざ取って来たらしい…。
「それはこちらの台詞です!こんなところへ来るなんて…」
「その話はもう聞き飽きたわ!!」
よく見れば、ショコラの後ろにはミエルまでいるではないか。
「ミエルさん、貴女も謹慎中でしょう。それなのに何をしているんですか⁉」
「ミエルは私が引っ張って来たのよ‼」
ショコラはそのままズカズカと部屋の中へ入って来た。そして奥まで行くと、カーテンを勢いよく開けて言った。
「これは何⁉」
外もすでに日が傾きそれほど明るくはなかったが、さっきまでよりはよく見えるようになった。
…その部屋の中は片付けられ、がらんとしている。もう、今すぐにでも発てそうな状態だ。
「…お父様から、すでに紹介状を受け取ったという事?」
「いいえ。紹介状を頂くつもりはありません。お断りしました。」
「じゃあ、これは何なの?」
ファリヌは黙ったままうつむいている。
「ここから出て行こうというように見えるわ。どういうつもりなの⁇」
ショコラの質問に、彼はらしくない様子でぽつりぽつりと答えた。
「…今日明日にでも、辞表を提出して…実家に戻ろうと思っています。」
「ご実家に戻って?それから、どうするの。」
「……執事は、もういたしません。その資格はありませんから…!」
拳を握り締め、苦痛に顔を歪めながらファリヌはそう言った。
「…私には、ただ卑屈になっているだけのように思うわ。」
「卑屈ではありません!本当の事でしょう‼私は何も出来ない…それが痛いほど分かったんです…!」
「ほら。やっぱりそうじゃない。」
窓際から離れ、ショコラはファリヌの方へと向かって歩いた。
目の前まで進んで来ると、そこで立ち止まった。
「貴方は“ここ”へ、執事になるために来たのよね。」
「…はい。」
「そのためにあのお姉様との縁談まで断ってしまうなんて、正気の沙汰ではないわ。」
「……。」
「それが、この程度の事で萎えてしまうなんておかしいとは思わない?」
「‼“この程度”だなど――…」
「いいえ、この程度、よ。私の執事になったのだから、この程度は覚悟をしなさい‼」
ショコラの啖呵に、ファリヌは一瞬びくっとした。
――“覚悟”…。そういう“覚悟”を、自分は今までしていただろうか…。この屋敷に来た時には、確かに高い志を持ってやって来た。それから時が過ぎ、自分の主人はショコラだと決められた。正直不満ではあったが、それに従った。それから何となくショコラに付き従い――…ここまで来てしまった。…それも今、結局は取り上げられてしまったが…。
「…私はね、貴方が必要だと思うからここまで来たの。失敗したのなら、取り戻せばいいのよ。私がそれを見せてあげるわ。――だから一緒に来なさい。」
ショコラの瞳は強く、何の迷いも躊躇いも不安も感じさせはしなかった。
彼女も全て取り上げられ、希望など何も無いはずなのに…。なぜそんな自信があるのだろうか。
――いや、違う。ずっと彼女はそうだった。そしてどうやっても思う通りにしてきていた。自信があるのではなく諦めというものが、恐ろしく悪いのだ。
『ああ…、自分が付いていたのは、こういう人だったのか……。』
かなり遠回りをしてしまったが、ファリヌはそれがやっと本当に分かった気がした…
その時、廊下の方がざわざわとしている事に気が付いた。部屋の中にいたショコラとファリヌ、それにミエルは何だろうかとそちらの方を見てみた。
すると遠慮がちに、外にいた侍女の一人が部屋の中へ何かを伝えにやって来た。
「…ショコラ様、旦那様がお帰りになったようです…!」
どうやら、出迎えのために使用人たちが玄関の方へと大勢移動して行ったらしい。
「分かったわ。ありがとう。」
ショコラは一度にこりと返事をすると、また表情を引き締めた。そしてファリヌとミエルの二人の顔を交互に見て言った。
「さて。それでは行きましょうか。お父様と喧嘩をしにね!」




