90.白紙なので、
王都の屋敷へ帰って来て早々、ショコラはファリヌとミエルと共に、父・ガナシュの待つ書斎へと呼ばれた。
――今回の帰還は特殊なものとなってしまった。誰も予測せず、また、とても歓迎出来るような事態ではなかった。
だからこそ、母のように心配した父が玄関先まで出て来ているのではないか、とショコラは思っていた。しかし…そこに父はおらず、代わりに書斎へと呼び出された――…。
何か、良くない雰囲気を感じる。
そんな思いを抱え、オルジュに連れられた三人は書斎の前までやって来た。
「失礼いたします、旦那様。お連れいたしました。」
コンコンコンと扉を叩き、オルジュが中に声を掛けた。
「――入りなさい。」
部屋の中から、父の声が聞こえた。
それからオルジュが扉を開けると、ショコラを先頭に三人は中へと入って行った。
書斎の机の側にはいつものように父の執事であるジェノワーズが立っている。その横で、父はこちらに背を向けて大きな窓から外を見ていた。
「ただいま戻りました。お父様。」
ショコラはスカートを持ち、背を向けているガナシュに向かってお辞儀をした。
するとガナシュはおもむろにこちらに振り向いた。
「……まずは、よく帰って来てくれた。」
そう言いながらガナシュは娘を見ると、その手足に目が留まった。そして苦い表情をすると思わず目を逸らせた。
「―――フウ……。なんと言えばいいのか……。」
大きな溜息を吐くと席に座り、机に両肘を突いて、考え込むように組んだ手を口元に置いていた。それから少しの間を置くと、姿勢を戻しショコラたちの方を向いた。
「――なぜ、こんな事になったんだ?ファリヌ。」
ガナシュの問いは、ショコラの後ろに控えていたファリヌに飛んだ。後ろは見えていなかったが、ショコラは彼がビクッとした気配を感じた。
「申し訳ございません。旦那様。全てはわたくしの不徳の致すところでございます。」
ファリヌは深く頭を下げた。
「…そういう事を聞いているんじゃない。あれだけ警戒しておいて、どうしてこうなったのかと聞いているんだ。」
「…それは……」
穏やかだったが、ガナシュの声はこれまでに聞いたことのないほど厳しかった。そうやって責められているファリヌを目の当たりにしたショコラは焦った。
「お父様!違うんです!ファリヌは悪くありません‼」
「ショコラ、お前には今聞いていない。――どうなんだ、ファリヌ。」
ガナシュはそれ以上ショコラに話をさせず、また目も合わせずに尚もファリヌを追及した。
その姿勢に、ショコラは少し怯んだ。
…今まで、父にこれほど威厳を示されたことは無かった。叱られたこともあったが、そこまで厳しくされた覚えは無い。
目の前にいるのは、もしかしたら“父として”の姿ではないのかもしれない…。
――これが、“オードゥヴィ公爵”という人物なのだ、と初めて知った気がした。
「……わたくしの考え方が、甘かったのだと…思います。」
「今回がたまたま、運が良かっただけだという事は分かっている訳だな?」
「…返す言葉もございません。」
そのまま、ファリヌは顔を上げてはいないようだった。
ガナシュはまた、大きく溜息を吐いた。
「――ミエル。」
「はいっ」
次にミエルの名が呼ばれると、ファリヌよりもさらに緊張で硬くなっているのが分かった。
「お前は常に、ショコラの側にいるはずではなかったのか?」
「…………旦那様の…おっしゃる通りです……」
そちらの方を振り向いて顔を確認することが出来ないほど、ミエルが畏怖している空気が伝わってくる。
「ではなぜ、ショコラは一人で外に出ることになった?」
「それは……も、申し訳ございませんっ‼」
後ろでミエルがひれ伏したのが分かった。
――違う…違うのだ。今回こうなったのは、二人のせいではない!…そう言いたかったが、それが許される空気ではなかった。
これはもう、叱責という域ではない、とショコラは思った。
イザラからの帰途が重苦しかったのは、このためだった。二人はこうなると分かっていたのだ。いや、もしかしたら、それ以上に……
「――…どうやら、明確な答えは聞けないようだな。」
そしてガナシュはまたも、溜息を吐いた。
「…そういえば、ジェノワーズ。アイツはどうした?」
「――おかしいですね。すでに来ているはずなのですが。」
「……全く、あの子も困った子だ。隠れていないで出て来なさい。」
そう言われると、どこからともなくあの少年が、おずおずと姿を現した。
「あ…貴方は…!」
ショコラの声で、ファリヌとミエルの二人も思わずその姿に目をやった。
「…お屋敷に帰っていたのね。よかった…あれから姿が見えなくなってしまったから、どうしたのかと思っていたわ。ええと…お名前は何というのかしら?」
その話に、ガナシュは驚いた顔をして少年の方を見た。
「お前…まだ名乗っていなかったのか??」
「……だって…軽々しく教えたくなくて…。ガナシュ様に頂いたものだから…」
少年は斜め下方を見ながら、いじけたようにそう言った。
ガナシュは呆れたように頭を抱えた。
「…お前に任務はまだ早過ぎたようだな…。
今さらではあるが、この子の名はルヴァン。歳は15だ。…推定だが。5つくらいの時に、名すら無く芝居小屋にいたのを私がここへ連れて来た。非道な座長のいる所でね。孤児だったこの子の扱いがあまりにも酷かった…。それからは、本人の希望に沿って屋敷の護衛部門で訓練を積んでいたんだ。」
一通りの紹介が終わるや否や、ルヴァンは泣きそうな顔で縋るようにガナシュの側へ行った。彼はショコラを護るように、との命令が完遂出来なかった事に罪悪感を感じ、怯えていた。
「――ねえ、怒ってる?要らなくなった⁇嫌だよ俺のこと捨てないで‼」
その様子は必死で、まるで仔犬のようだった。
ガナシュはそれを憐れむように見ると頭を撫でた。
「…大丈夫、捨てはしないよ。ただ、また教育をし直さなければならないようだ。」
それを聞くとルヴァンは安心し、落ち着いたようだった。
それからガナシュは何度目かの大きな溜息を吐くと、何かを考え込んでしばらく黙った。
その沈黙の後、独り言のようにぽつりと言葉をこぼした。
「…………。
…結局は全て、私の判断が間違っていたという事だろうな。」
「――お父様…?」
不安そうにショコラは父に声を掛けた。すると、父は娘の目を見据えて口を開いた。
「ショコラ。もちろんお前にも聞かなければならない事がある。」
返事の代わりに、ついに自分への追及が始まった。
…恐らく生易しい話にはならないだろう…。ショコラは固唾を吞んだ。
「――聞いたところでは、お前は自ら囚われの身になったそうだが、それは本当なのか?」
怪訝な顔で、ガナシュが尋ねた。
「はい。その通りです。」
「なぜそんな事を…」
「それが最善だと思ったからです。」
「“最善”!?お前は死にかけたんだぞ⁉」
思わず冷静さを失い、ガナシュは席から立ち上がった。…しかしハッとすると座り直し、一つ咳払いをした。
「…すまない。何が、最善だったんだ?」
「カイエという友人を救うためにです。」
「それならば、他にも方法はいくつもあったはずだろう。なぜそれを選んだんだ⁇」
「私が当事者になれば、確実に探してもらえると判断したからです。」
一連のやり取りで絶句した後、ガナシュは眉間を押えた。
「…………お前の考えは、分かった。」
“分かった”とは、どういう意味だろうか、とショコラは思った。納得した、という事だろうか…?
それにしては、表情が重い…。
また、沈黙の時が流れた。
…それから、ガナシュはやっと話を再開した。
「――例えそうだったとしても、それは自覚が足りないと言わざるを得ない。」
やはり、父親の口から出て来た言葉は厳しいものだった。
「それはっ…」
「せっかく訓練させた護身術も、自ら危険に飛び込んで行くようではまるで意味が無いではないか。」
それを言われてしまうと、ショコラは反論が出来ない…。その顔に苦渋を滲ませた。
「旅へ出る事を許可したのは、危険が少ないなら、という事が前提だった。…なのに、私が懸念した通りになってしまったな…。」
「…申し訳ございません。お父様…。」
「その報せを聞いた時、私がどれだけ胸を痛めたことか…!」
「…ごめんなさい。」
悲痛な表情を浮かべながら、ガナシュはショコラの手足を再度見た。
「――…そんな怪我をすることになって……」
「これは治りますわ!ご心配なさらないでください!」
「そういう問題ではないんだ!…父親の気持ちも、少しは分かっておくれ…‼」
ガナシュは声を荒げた。それから部屋の中はしんと静まり返り、誰もが物音を立てないようにしているようだった。
…張り詰めた空気の中、ガナシュがショコラにまた尋ねた。
「ショコラ。私が以前言った事を覚えているか?」
「以前…どのお話の事ですか?」
「お前を候補に決めた時、それに相応しいことを証明しなさいと言った事だ。」
『――…あっ…』
ショコラの脳裏に、その場の事が蘇った。
……ショコラはあの時からずっと、あくまで次期公爵“候補”であって、その立場は確固としたものではなかった。
あの時、明確に反対していたのはファリヌ一人だった。だから、彼を納得させればいいと今まで思っていた。
だが、今目の前にいる父の顔は…
――今回の件は、それに相応しいと思うか?――
無言でこちらを見詰めているが、そう問いかけている。
返す言葉が見付からないショコラは、為す術もなくそこに立ち尽くした。
「―――…申し開きはもう十分だ。お前たちにはそれぞれ、伝えなければならない事がある。」
ガナシュが重い口を開いた。
「まずファリヌ、ミエル。二人はこれからしばらく自室にて謹慎だ。処分は追って伝える。」
「……!」「はい…。」
「少々厳しいものになるが、覚悟しておくように。」
ファリヌとミエルは苦悶の表情でただただ頭を下げるばかりだった。
“少々”とは言っているものの、二人には謹慎だけでなく更に厳しい処分が科される事になるとは…。ショコラは慌てた。
「お父様…」
「ショコラ、お前もしばらく屋敷から出る事を禁じる。…怪我のこともあるんだ、ゆっくりと療養しなさい。いいね?身の回りの事は、ミエル以外のショコラ付きの侍女に任せればいい。」
二人に厳しい処分が下ると言った後、自分にはそれだけだった事にショコラは違和感を覚えた。
いかに父が甘いからといって、しばらく屋敷から出る事を禁じるだけで済むのだろうか、と…。
「――それからジェノワーズ、養子候補と婿候補の選定の件はあれからどうなっている?」
「はい、すでにそれぞれいくつかの人物の名が挙がっています。」
「そうか。では早急に進めてくれ。」
「…かしこまりました。」
その不穏な会話を聞き、ショコラは悪い予感がした。
「ショコラ。よく聞きなさい。
お前の“次期公爵候補”の資格は取り消し、この話は白紙に戻す。よって、ファリヌとミエルもその職務を解任となる。以上だ。」
―――それは決して、想像出来ない事ではなかった。だが、
ショコラの頭の中は真っ白になった。




