89.初めての感情なので、
――これまでに、両親や姉、カイエなどにハグをされたことはあった。そこまで特別珍しい事ではない。だが――…
今グラスに抱き締められている感覚は、そういうものとは何か違うような気がした。理由は、よく分からない…。よく分からないが、ショコラは自分の顔が熱くなっていっている事に気付いた。
「…あっあの、痛いです…」
このままではなかなか離してくれないような気がして、ショコラはそう口にした。
すると、グラスはハッとしてその腕を離した。
「!すみません、傷に障りますよね⁉」
思わず無意識でそうしていた事にグラスは内心、戸惑っていた。なぜ、そんな事をしてしまったのか……
しかし、本当はもう分かっている。いや、今回の事で思い知ったのだ。
――ショコラの事が大切だ、と…。
自分自身に、これ以上それを誤魔化すことは出来ない。
グラスはようやく、その想いを認めた。
「…何てことだ…」
グラスは抱き締めていた腕は離したものの、離し切ることが出来なかった手で掴んでいたショコラの腕を見た。そこにはいくつもの火傷が出来ている…。顔にはあまり無いようなので、恐らくそれで本能的に庇っていたのだろう。
「あ…大丈夫ですよ!少しひりひりするくらいですし。」
無理をしているような笑顔に、胸が締め付けられる。
「すぐに医者に診てもらわなければ…痕になっては大変です…!」
ショコラの腕を見ながら、グラスは深刻そうな顔をしていた。
「そんな大袈裟な…。このくらい、平気ですよ!跡が残っても、大したことではありませんから…」
「私が嫌なんです!」
心苦しそうにそう言うグラスに、ショコラは驚いた。自分に火傷の痕が残ることなど、彼にとっては関係の無い事であるはずなのに――…。
そんな事を思っていると、グラスは懐から布を取り出しそれを火傷が一番酷い所に巻き始めた。
「…あまり意味は無いと思いますが、何も無いよりは…。とにかく、早く手当てをして貰いましょう。」
断る理由も無く、ショコラは黙ってそれに従った。
…すると、あることに気が付いた。
「…あら?これは……」
グラスが巻き付けている布…。それは以前、彼が怪我をした時に自分が手当てをするために使ったリボンだ。あの時、返さずに捨てていいと言ったのに…。
「持っていらしたのですか…。」
「ええ。」
「…では結局、これはわたくしの所に戻って来たのですね。」
小さく笑いながらショコラがそう言うと、グラスは真剣な表情で真っ直ぐにこちらを見て答えた。
「――いえ。これは私の物です。大事な物ですから、後で返してくださいね。」
「は、はい……」
…なぜ、グラスは今これを持っていたのだろう?…なぜ、こんなリボンを返して欲しいのだろう?…なぜ、このリボンが大事なのだろう――。
ショコラには、分からない事ばかりだった。
――それなのに、ショコラは今、自分の顔が赤くなっているような気がしていた。これも、やはり理由はよく分からない…。ただ、今が暗くて良かった、とショコラは思った。
全て、初めて感じる感情だ。
これが何なのか、いつか分かる時が来るのだろうか…。
そんな事を、ずっと考えていた。
―――そして、応急手当が終わるとグラスは運ぶためにショコラを抱きかかえた。
「‼あの、わたくし自分で歩けます!」
びっくりしたショコラは降ろして欲しいと言った。しかし、そんな言い分は無視をしてグラスは歩き出した。
「大人しくしていてください。あまり動かない方がいいですよ。」
たしかに、動けはするが自分で動くと火傷が痛む。それ以上拒否するのも、おかしいかもしれない…。何だか恥ずかしい、と思いつつ、ショコラはそのまま抱えられてた。
そうして進んで行く先で、向こうの方から人影がやって来るのが見えた。それらは、こちらに気付くと慌てたように走り出した。
「ショコラ様ぁー!!」
「…ミエル…ファリヌ‼」
まだ姿がはっきり見えなくとも、声を聞いたショコラはすぐにそれが二人だと分かった。
…あれから、ミエルとファリヌはずっと出口で様子を見守っていたものの、グラスもショコラも出てくる気配が無く、崩れ落ちていく建物を前に途方に暮れていた。
そんな中、どこかで聞こえた破壊音を頼りにまた周囲を探し始めたのだった。
「ご…ご無事だと…信じておりました…!」
ショコラたちの側まで来た途端、ミエルは泣き崩れた。
「心配かけて、ごめんなさい。」
抱えられたままでショコラはミエルに声を掛けた。
ファリヌもその近くで、ショコラに対し膝を突いて頭を垂れた。
「……何もすることが出来ず、このような目に遭わせてしまいました事、誠に申し訳ございませんでした。」
下を向いたファリヌは唇を噛み、その顔には自身の不甲斐なさを痛切に滲ませていた。
いつもならば、こんな時ファリヌは説教の一つや二つを次々と口にしていただろう。それが今回は平身低頭したまま肩を震わせている…。
その様子に、ショコラは自分がどれだけ二人を不安にさせ、苦しませてしまったかに気付いた。
「――謝らないで。それは私の方だもの。ううん、むしろあなたたちはよくやってくれたわ。私の考えていた事を、完璧に遂行してくれた。それで十分よ。」
「……………っ」
その後、ファリヌも泣き続けているミエルも、何も言わなかった。
とんでもない一夜が明けると、それからが大変だった。
火傷を負ったショコラはあの後すぐにヴェールに連れて行かれ、治療を受けた。幸い、深刻な症状のものは無いようで皆胸をなでおろした。
しかし、すぐに王都の屋敷へ帰ることになり、誰にもろくに挨拶すらする間もなくイザラを後にすることになった。移動手段も、怪我を考慮し、時間のかかる馬車ではなく再開された水路を使っての帰路となった。
そして暗躍していたあの少年は、気付いた時にはもうその姿が無かった。役目を終え、すでに王都へ戻ったのか、それともまた隠れて警護を続けているのか…それは誰にも分からなかった。
騎士団と誘拐犯たちはというと、明るくなってから捕らえた者たちをヴェールまで移送し、そこからまた王都へと連行するための手配に追われていた。捕らえられた者たちは観念したのか、皆大人しくなされるがままにしていた。
前日からの物々しい雰囲気に街は動揺を隠せずにいたが、例の事件の犯人たちが捕らえられ、失踪していた女性たちが発見された事を知ると人々は歓喜に沸いた。
これにて、ガトーラルコール王国内を騒がせた「婦女失踪事件」は、一応の幕引きとなったのだった……。
今回の件はグラスの指示による伝令で、解決の前には王都にいる国王と陸上師団団長の知るところとなっていた。
「――ふむ、奴らは今回イザラで事を起こしおったか。…しかし、何と引きの良い…。」
「…陛下?」
「いや、こちらの話だ。侯爵の側で起こったとは運が良かったと思ってな。」
報告を受け、二人で緊急の会議をしていた国王・ガレットデロワの話を、陸上師団団長・フランは複雑そうな表情で聞いていた。
『それにしても…この報告書を見る限り、ショコラ嬢が巻き込まれた事は確実だ。無事だと良いが…。侯爵の班を向かわせておいて正解であったな。』
伝令が持って来た二つの報告書を睨みながら、ガレットデロワは考えていた。
――もしも、ショコラの身に何かあれば、大きな変化が起こるかもしれない…。そんな予感を感じていた。
『…それと、気になるのはその次の報告だ。奴らは水路を使っていた、か……。』
水路の先には、海がある。海があるという事は、その先には――…。
「では陛下、今後どのようにいたしましょうか?増援の準備を――…」
「失礼いたします‼伝令でございます‼」
フランが話し始めたところへ、更なる続報が入って来た。
その内容は――…
「…おお、陛下!愚息どもがやってくれたようですぞ‼」
「――そのようだな。一先ずは安堵した。それでは罪人の連行準備に入るとしよう。フランよ、すぐに取り掛かれ。」
「はっ!陛下、仰せの通りに。」
誘拐犯確保との報告に、二人の空気は和らいだ。
しかし、ここからが王都での仕事の始まりだ。今回の件の問題は、まだまだ残ったままなのだ。
「それから――…。ゴーフルも呼び、臨時の団長会議をせねばな。…“団長会議”で済めばよいが…。」
事件は一見、決着したかのように見えたが、ガレットデロワは一抹の不安を感じていた。
――ショコラたちを乗せた船が王都の船着き場に着くと、そこにはすでに公爵家からの迎えが待っていた。
人目を避け馬車に乗り込むと、そのまま急いで屋敷へと向かって進み始めた。
馬車の中は、重い空気が漂っていた。ここまで来る間の船の中でもそうだった。
ショコラは一応、無事と言える状態で戻って来た。それなのに、ファリヌもミエルも必要最低限の会話以外、押し黙ったままだ。
「あ…あの…」
「…どうしました?」
ショコラが何か言いかけると、“いつものように”ミエルは笑顔で返した。
「…ううん。何でもない…」
何か話し掛けたかったが、どう話していいか分からなかった。
そのままショコラも黙って窓の外を眺めた。懐かしい、と言うにはあまり見慣れていない王都の景色と、発ってからそこまでの時間が経っていないという事に少し戸惑う…。
そんな事を考えている内に、やっと馴染み深い屋敷が見えてきた。
『ああ…私、帰って来たんだわ…』
大きな門をくぐると、緊張が緩んでこれまでの事が全て夢だったのではないかと思えてきた。だが…腕や脚に巻かれた包帯が、ショコラに現実を思い出させた。
…母と姉は、この身を案じて気が気でない思いをしているかもしれない…。父は…怒っているだろうか…?
色々な思いを抱え、馬車は邸宅の前に着いた。そこでは母・マドレーヌと数人の使用人たち、そして家令のオルジュが待っていた。
馬車の扉が開き、そこから出て来たショコラを見たマドレーヌは息を呑んで駆け寄って来た。
「…まあ!何てこと……‼」
彼女は娘の包帯を巻かれた姿に涙を滲ませた。
「ただいま戻りました、お母様…。」
「挨拶なんていいわ!それよりも、大丈夫なの⁉」
「ええ、見た目よりも酷くはないです。お医者様もそうおっしゃっていました。」
「本当に⁉…もう一度、ちゃんと主治医に診てもらいましょうね!」
…分かってはいたが、マドレーヌの心配ぶりは大仰なものだった。そして…そこに、姉の姿は無かった。少しがっかりはしたものの母の様子を見る限り、今、姉がここにいなくて良かった、と内心安心してもいた。
そんなところに、横から声が掛けられた。
「――失礼いたします。ショコラ様、旦那様がお待ちです。お部屋の方へ参りましょう。」
声を掛けたのはオルジュだった。そういえばここに、父の姿も無い…。
そして、彼はさらに言葉を続けた。
「それから…ファリヌ、ミエル。あなたたちも一緒に来なさい。よいですね。」
呼び掛けられた二人に緊張感が走った。そして、ショコラもそれに気付いたのだった。




