76.月の無い夜なので、
――…ショコラは夢を見ていた。
ゆらゆらと、水の中を漂っている夢だ。
ああ…水の中は、思っていたのと違って苦しくない。今度教えてあげよう――…
アントルメ川の上を飛んで行く火の玉を見た少年は驚いた。驚きのあまり、それを見詰めたまま立ち尽くした。
しかし、はっとすると頭を振った。
「幽霊なんて、そんなわけあるか!」
川下へ向けて飛んで行く火の玉を、目を凝らしてじっと見た。そうすると、段々と夜の闇とそれ以外の物の形が薄っすら判別出来るようになってきた。
月の無い深い藍色の空と黒い岸、草、木、水に――その上に浮かぶ黒い影。
「…そういう事か!」
少年は幽霊の正体を見た。
川の上を、小舟が行く。舟の前方には一つの人影があり、その人物が持つ明かりが行く先をわずかに照らしている。明かりは竿に吊られ、小舟から少し離れた先で小さく灯っていた。そのため人影や小舟にまでは届かず、その姿を映し出すことは無かった。舟に揺られ、ふらふらユラユラと明かりは妖しく踊っている――…。
あれが、川の上を飛ぶ火の玉に見えたのだ。こうしてじっと見続けなければ実態は分からなかっただろう。まして、“幽霊”などと噂が立ったのだ。人々は怖がって川に近付かないか、面白半分に探した者も実際に見れば腰を抜かしてすぐさま逃げ出した。
「こんな夜更けに舟を出すってのは、よほど船頭技術に自信があるのか船自体に慣れてるのか…。尋常じゃないな…。」
この辺りにも船着き場はあるが、昼間の明るい時間帯にしかそれは稼働していない。運搬も渡しも、夜暗くなってから…それも遅くに仕事をする者などいるわけがない。幽霊ではないにしろ、あの小舟は異様でしかないのだ。
この暗闇の中では、小舟の詳細は分からない。何せ月が無いため川を照らすものが何もないのだ。舟も人もその他も、全てが真っ黒な塊にしか見えない。
だが河原にもその上にも、周りには人の気配がなくあるのはあの小舟だけだという、この状況を考えれば答えは一つしかなかった。
ショコラはあれに乗せられている。少年は確信した。
――あれを追いかけなければ‼
しかし、小舟はどんどん流れに乗って先へと進んで行ってしまう。走って追いかけようとするが、河原にある石や草木がそれを邪魔した。暗くて足元が見えない。あそこにいると分かっているのに、上手く進むことが出来ない…歯痒い思いに焦りが滲む。
何にしろ、馬の時と同じくこのまま走っても追いつきはしないだろう。少年は目視で明かりを追うのをやめた。舟の向かう先は分かっている。いくつも分かれ道のある街道と違って、この川は一本道だ。という事は、川に沿って怪しい場所を探せばいい。どこまで進むかは分からないが、あれならばそう遠くまでは行かないはず。おまけにこちらから見えにくいという事は、向こうからもまた同じ事。やつらはきっと自分の存在に気付いてはいまい。焦って移動される恐れは少ないだろう。
河原から上に上がった少年は、川下へ向かって進むことにした。先へ行った明かりは、もう小さくなって見えなくなった。
こうなれば持久戦だ。ここからは、勘を頼りに居所を探すしかない。どれだけ掛かろうとしらみつぶしに回るだけだ。下の河原や上の陸地…人目に付かず上陸できる所、隠れる場所のある所、それらを目を皿のようにして探し走った。
「ショコラさま…ショコラさまに…なにかあったら…わたし…!」
「ミエルさん‼」
顔面蒼白になったミエルは錯乱していた。ファリヌがその両肩を掴んで揺すっても、正気を取り戻せない。
「どうしよう…どうしよう……」
がたがたと震えぶつぶつと呟きながら、ミエルの視線は焦点が定まっていない…。そして、段々と呼吸が荒くなった。過呼吸を起こしかけているようだ。
「いけない…、ミエルさん!しっかりしてください!」
「どうしよう…!」
ファリヌは宥めようと声を掛けるが、ミエルの耳には入っていない。自分を責め続け、息はどんどん上がっていくばかりだ。
「落ち着きなさい、ミエルさん‼」
懸命に呼び掛けるがやはり状況は変わらず、このままでは埒が明きそうにない。一体どうしたらいいのか…。
そうこうしている内に、ミエルは今にも倒れてしまいそうになっている。
「…ミエル!!」
ファリヌはミエルの頭を持つとその顔を自分の胸に押し付け、引き寄せた。そしてギュッと抱き締めた。
「……⁉」
突然の事に、正気を失っていたミエルも驚いた。一瞬息が止まり、それまでぼやけて狭まっていた視界も、ずっと遠くの方に聞こえていた音も、はっきりとしてきた。
「――…落ち着きましたか?」
ミエルは小さく頷いた。
「では、ゆっくり息をしてください。」
ミエルは言われた通りにゆっくりと呼吸をし、息を整えた。これで一先ず大丈夫…。ファリヌは安堵した。
しかし、錯乱状態は脱したものの根本の問題は何も解決していない。恐らく自分を責める気持ちも変わってはいないだろう。ミエルがきちんと落ち着いたのを見計らうと、ファリヌは諭すため、彼女をまた正面に向け直した。
「――いいですか?これは貴女だけの責任ではありません。私が家を空けていなかったら…こんな事にはならなかったでしょう。その一端は、私にもあります。」
「でも…留守を任されました…。」
「…どうやら、ショコラ様は貴女の隙を突いて出て行ったようです。私たちはあの方を監視しているわけではありませんから、そうされてしまうとどうしようもありません…。それよりも、今どうするかです!一刻も早く、無事に連れ帰りましょう。いいですね。」
真っ直ぐに目を見て諭すファリヌに、ミエルは泣きそうになったがぐっと涙を堪え、大きく頷いた。
「……はい!取り乱して、すみませんでした。」
「はぁ…良かった…。それでは、私は急ぎ侯爵たちの所へ行って来ます!」
気持ちを切り替え、ファリヌは次へと動き出した。
「分かりました!では私は…」
「貴女はブールさんの所へ行ってください。もしかしたら、何か動きがあるかもしれません。…あ!その前に、さっきカイエさんまでいないと言っていましたね?それをもう少し詳しく教えてください。状況をきちんと伝えなければ…!」
ミエルはこれまでの事を簡潔に、的確にファリヌに話して聞かせたのだった。
その日の外での活動を終えたグラスたちの班は皆、滞在先の一室に集まっていた。そこで報告書をまとめたり休息を取ったりと、この時間をそれぞれに過ごしている。
そんな中、グラスとソルベは新しく送られて来た各地の報告書の確認や、過去の報告書の洗い直しなどをしていた。
――すると、過去の報告書を見直していたソルベがある事に気付いた。
「……あれ?これは……」
ソルベは急いで荷物の中から何かを探し、それを開いて確認し始めた。一つ確認すると、また書類をめくって確認する…。それを何度か繰り返すと、確信したように口を開いた。
「――兄上、これを見てください!」
「どうした?」
ソルベは報告書の中から事件の起こった日の書かれている物を抜き出し広げると、今度はさっきから確認に使っていた物、“太陰暦”が載った手帳のページを開いて見せた。
「これ、事件のあった日はいずれも新月の日なんです!事件日が確定しているものがこれとこれと…あと、日にちが確定していないものがこれとこれとこれ。ですが、それらの推定日には必ず、新月の日が掛かっています。とても偶然とは思えません!」
提示されたものを照らし確認すると、グラスは目を見張った。
「本当だ…。よく見付けたな、ソルベ‼それで、次の新月はいつだ⁉」
「ええと…」
ページをめくり、ソルベはその日を確かめた。
「――…今日、です…」
ダンダンダンダン!!!!その時、部屋の扉が激しく叩かれた。中にいた面々は、一人残らずビクッとして身構えると、各自剣に手を掛けた。
「何者だ⁉ここへ来るとは…」
夜更けに人が尋ねてくること自体おかしな話だ。それも、騎士団が滞在しているここへあんな物音を立ててやって来るなんて、団員ではない事は明白だ。グラスの目が、鋭くなった。
「――私です!開けてください‼」
その声は、紛れもなくショコラの執事のものだった。グラスとソルベは目を見合わせた。
「…っお願いします‼早く!!」
息を切らせ、いつもの彼に比べるとその様子は明らかに常軌を逸していた。
「私が出ます。」
ファリヌにこの場所を伝えたソルベがあの時の事を思い出し、扉の方へ行こうとした。するとファリヌに異常を感じたグラスが一言、ソルベに釘を刺した。
「脅されているかもしれない。気を付けろ。」
「…分かっています。」
ソルベは用心深く、剣を携えながらゆっくりと扉に近付いた。そして、様子を確認しようと少しだけ開けると…
「!!」
その瞬間隙間に手が差し挟まれ、思い切り扉を開けられてしまった。すると反射的に、全員が鞘から剣を抜いた。
開け放された扉の向こうにいたのは、ファリヌのたった一人だけだった。彼は中の様子に心底驚いて、思わず両手を上げた。
「⁉ちょっと…!」
ソルベが辺りを見回したが、やはり他に人の気配は無かった。ほっとして、ソルベは剣を収めた。
「…大丈夫です。」
それを見た他の者たちも剣を下ろし、収めていった。
「こちらは“大丈夫”ではありません‼」
「すみません、私たちも警戒してしまって…」
苦笑いするソルベに、ファリヌは血相を変えて詰め寄った。
「そうではなく‼…いなくなってしまわれたんです、ショコラ様が!!」
一同は凍り付いた。…さっき、事件の洗い直しで出て来た新事実は“犯行は新月の日に行われている”という事…。そしてその新月は、今日だという事――…。
「…それだけではありません。お世話になっているビストロの娘さんも、同時に姿を消しました。お願いします、早く来てください‼」
しかしファリヌの話の続きを聞くと、班員たちがざわついた。
「…今まで、一度に二人行方不明になった事例はあったか…⁇」
「いや、無いが…。もしかしたら、偶然が重なった別の事件という可能性も…」
「ではどう捜索したら…」
戸惑っている三人の側でグラスが一つ、大きな音を立ててテーブルを叩いた。
「――静まれ‼」
その顔を見たソルベはゾクッとした。――…あんな表情の兄は、見た事がない………
グラスは据わった目をぎらりと光らせ、静かに激しい感情を抑えつけているようだった。




