72.日常は続くので、
あの“デート”から、早くも半月近くが経っていた。相変わらずの日々が続いている。グラスやフォユテもそれぞれ、ほぼ毎日のようにビストロを訪れている。二人はたまに鉢合わせしては険悪な雰囲気を醸しているが、ショコラに睨まれて大人しくなる、というのがお決まりの流れとなっていた。
一つ変わった事と言えば、ここ最近、夜になると度々人と会うと言ってファリヌが少しの間、家を空ける事があるということだろうか…。
「ねえ、カイエやブールさんも、たまにはお休みを取りたくない⁇」
「どうしたのよ、突然?」
今日もビストロで働くショコラが、カイエに尋ねた。
「ほら、この間、急にみんなでお休みを貰ってしまったし…。私たちだけじゃ悪い気がして。二人はずっとお仕事してるでしょ?」
ショコラが少し、すまなさそうに言う。
「いいのよ、そんな事気にしなくて!私たちは好きでやってるんだから。まあ、やらなきゃこっちが食べられなくなっちゃうし?どうしても辛いときとか、用事でもあったら店自体閉めちゃえばいいしね。一日くらいなら。」
「そう…。でも、もしお休みが欲しい時は言ってね⁉兄さんと姉さんがいてくれたら、一日くらいならお店を閉めなくても何とかなるんじゃないかと思うの!」
「ん――…そうねぇ…」
カイエは考えてみた。
途中しばらく里帰りで留守にしてはいたが、ショコラたちがここで働き始めてからそろそろふた月が過ぎる。以前から忙しかった店は、彼女たちが来てからというもののますます繫盛するようになった。しかし人手が増えた分、体の負担は減ったように感じる。何より賑やかになって毎日が充実している。
ここで働き始めたばかりの頃、何も出来ず突っ立っていることしか出来なかったショコラは、この短期間で随分と成長した。それを見ているのは楽しくもあった。まだ充分とは言えない部分ももちろんあるが、頼れる場面も多くなってきて、本人が言うようにファリヌたち兄姉がいれば一日くらい店を任せることも出来そうな程になった。
そんなショコラに、こんな風に言われる日が来るとは…。…本当に感慨深い…
「…じゃあ、その時は遠慮なくお願いしようかしら?」
「!ええ、どうぞ‼」
カイエがそう答えると、ショコラは嬉しそうに満面の笑みを浮かべた。自分に妹がいたら、こんなかんじなのかしら、とカイエは思った。
『それにしても…これじゃたしかに、兄姉としては心配よねえ…。』
よほど気分が良くなったのか、いつにも増して花を飛ばし接客を始めたショコラを見ながら、カイエは苦笑いをした。
「―――それで、各班からの報告は?」
特別任務班の司令部にもなっているイザラ某所の一室では、グラスとソルベ、他三人の班員が集まり会議を行っていた。
「はい、各所から上がってきたものがこちらに。いずれもまだ、特に不穏な動きは確認されていないようです。」
「そうか…」
ソルベからの説明を聞きつつ、グラスは報告書の束をめくる。中を確認しながら、班員たちに向かって質問をした。
「その後、要注意人物たちの動向はどうだ?」
「はい、各店合計で五十人ほど調査しましたが、今のところ怪しい行動は特に見られません。」
「そうか、分かった。だが調査はもう少し継続しておく事とする。」
「了解しました。」
――今回、いつもに比べて事件の起こる間隔が少し長いように感じられる。もちろん、事が起こって欲しい訳ではないが、変化があればあったで不気味だ。もし情報が敵方に漏れでもしたら、これまでの準備が全て水泡に帰す。
『……どこだ?今度はどこを狙っている⁉尻尾を出せ…‼』
報告書を睨むグラスは焦りを募らせた。
「…それで…ですね、侯爵。」
班員のうちの一人、女性騎士が口を開いた。
「何だ?」
「はい、行動調査をしていた際に、いくつかストーカー案件を見付けまして、旅団に情報を流しました。それによって何人か捕まる事になったのですが…」
「それは良かったのではないか?」
「その…全て通報するとかなりの数になってしまい、不自然さを感じさせそうで、緊急性の低そうなものは現在もそのままになっております。」
女性騎士は硬い表情で報告をした。
…たしかに、“被害者候補”として目星を付けた者たちは皆、気立ても器量もいい女性たちばかりだ。そんな輩がいくらかいてもおかしくはなかった。
「そんなに多いのか…ここの管轄の旅団は何をしているんだ?全くたるんでいる。よく言っておかねばならないな。分かった、本件が片付き次第早急に手を打とう。それまでは皆、そちらも気に掛けておくように。仕事が増えるが、少しの間我慢してくれ。」
「はいっ!!!」
言い出した女性騎士を筆頭に、班員たちは安堵した。
「――それにしても…いつ、事態が動くのでしょうね。あまりに静かでむしろ気味が悪い…。」
溜息を吐きながら、ソルベがこぼした。
「…全ての班が、皆同じ事を思っているはずだ。とにかく、いつどこで何があってもいいように常に準備をしておこう。」
「そうですね。」
――恐らく今、時刻は夜更けだろう。だいぶ前にベッドへ入り休んでいたショコラは、ふと目が覚めた。同じ部屋の少し離した所に置かれたもう一つのベッドでは、ぐっすりと眠っているミエルの寝息がかすかに聞こえる。
窓の外ではごくたまに、こんな時間でも馬の走る音がする。ここの前を通る大通りは、他の大きな街へと続く街道だ。早馬を飛ばすのによく使われているらしい。
――…キィ…パタン。
うとうととまどろみの中にいるショコラの耳に、玄関の扉が開いて閉まった音が入ってきた。…たぶん、今頃になってファリヌが帰って来たのだろう…。こんな時間まで、一体どこへ行っていたのだろうか…。明日、ビストロへ仕事に出るのに、大丈夫なのだろうか…。
そんな事を考えているうちに、ショコラはまた、いつの間にか深い眠りに落ちていた。
この日は恒例の、ビストロが混む日だ。ショコラたち“兄妹”三人も、万全の体制で仕事を始めた。天気も良く、営業開始時刻から続々とお客がやって来ている。
「はいっ食前のお茶です。奥様には食後にお持ちしますね!」
「あらありがとう。すっかり覚えてくれたのねえ。」
「はい!ごゆっくりどうぞ!」
笑顔も冴え渡り、ショコラは絶好調だ。動きの無駄がさらに減り、自信も付いてきた。給仕として、ますます磨きがかかってきたようだ。こんな混んだ日には、それがよく分かる。
カイエはもちろん、ミエルたちでさえも仕事中のショコラの方を気に掛けることは少なくなってきていた。
あちらこちらと、てきぱき動くショコラ。忙しさも極みの時間になってきた。すると…
ぱらり。ショコラの長い髪を纏めていた紐が、解けて落ちた。すぐに拾って、ミエルに直してもらおうと思った。――しかし、拾い上げた紐は、ただ解けたのではなかった。一本だったはずの紐は、綻んでいたのだろうか…千切れて二つに分かれてしまっている。
「どうしよう…これじゃ結べないわ…。」
長い髪をそのままにしておくのは衛生的によろしくない。それに、仕事をするにも邪魔だ。ミエルは遠くの方で接客をしていて、こちらの様子には気付いていないようだ…。
ショコラが困っていると、近くにいたらしいカイエが気付いてサッとやって来た。
「あら、髪が解けちゃった?」
「そうなの。でも紐が千切れちゃって。予備は姉さんも持っていないと思うし、どうしようかと…。」
「分かったわ、それじゃこれ、貸してあげる。」
カイエは自分の服のポケットから何かを取り出した。キラキラと光る、髪留めだった。
それで手早くショコラの髪を纏めていった。
「綺麗…。でもこれ、カイエが使っているところを見たことがないわ。」
「ええ。使った事はないわね。お守りなの。いつもポケットに入れてるのよ。」
「お守り?」
「そうよ。母さんの形見なの。はい、出来た!」
「えっ…そんな大事な物…!」
「やあね、貸してあげるだけよ。“今日だけ”ね。はい、行った行った!」
笑いながら髪を纏め終えると、カイエはショコラの背をポンと押した。
「ありがとうっ!ちゃんと無傷で返すわ‼」
「ふふ、無傷でって、大袈裟ね。」
――忙しさのピークは過ぎたものの、まだまだ客足が絶えない頃、いつものようにグラスとソルベがビストロへやって来た。今日の彼らがこの時間に来たのには、理由があった。
この店で「要注意人物」として目を付けている面々が揃うのが、大体いつもこの時間なのだ。
「…今日は余計なことにかまけないでよね?」
「…分かってる!この時間だとまだアイツもいないしな。」
ガヤガヤとした店内で、ソルベとグラスはひそひそと話をした。
辺りを見回すと、グラスの言うようにフォユテの姿はまだなく、代わりに目当ての…パットを含む数人の男たちが確認できた。
二人はわざと時間の掛かりそうなメニューを選び注文すると、それを待ちながら“暇そうに”店内を眺めた。
彼らに、特に変わった様子は見られない。報告にあった通りだ。今日ここへ来るまでに立ち寄ってきた店の、他の人物たちも同じだった。もちろんここ数日いくら粘っても、それは変わらずずっと続いている。――まるで、何事も無いかのように平穏そのものだ。警戒していること自体がばかばかしく思えてくるほどに――…
『…まあ、徒労に終わればそれに越したことは無い。』
頬杖を突き、グラスはぼんやりと思った。
…しかし、こうやってじっくり見ていると、今更ながら気付いたことがある。カイエに想いを寄せる男たちの視線の「先」だ。
「…すごい目で見てるなあ、彼ら。」
「ああ…ファリヌさんの事を、でしょ?」
混んでいる時は厨房にいることも多いファリヌがたまに外へ出て来ると、男たちは皆、ギロリとあからさまな嫉妬心丸出しの目で彼を睨みつけている。ファリヌの方もその視線に気付いていて、居心地の悪そうな顔をしている。
『アナタもしょっちゅう嫉妬顔してますよ、って言いたいところだけど…』
“自分とは関わりのない世界”とでも言いたげな涼しい顔をしている兄を、ソルベは呆れたように見詰めた。
…それはさておき、男たちはといえば、そのたまに出て来たファリヌに若い女性客がうっとりとしている様がまた嫉妬心を掻き立て、カイエに関する事とは別の、羨ましいやら妬ましいやらといったものが合わさった複雑怪奇な表情をしていた。
「…何だか、一番身の危険がありそうなのは彼に見えるな…。」
「ファリヌさん、モテてるもんね…。」
二人は一瞬だけ、自分たちは一体何を見ているのだろうか…とぼうっとした。
「はい!お待たせしました。」
ハッと我に返った二人の前に、ショコラが料理を運んで来た。
「ああ…ありがとう、シュクルさん…」
「珍しいものを頼みますね?これ、時間が掛かるからあまり出ないのに…」
「色々、試してみたくて…。ね、兄さん。」
「ああ…」
グラスとソルベは取り繕って笑った。そして、来たものに手を付けた。
食べながらまた様子を窺っていると、グラスはまた一つ気付いた。
『――…あのパットという男は、ほとんど嫉妬心は出さないな…』
あまり社交的ではなさそうな彼は、一人黙々と食事をしていた。
「―――ふぅ、ではそろそろ出るか。」
「そうだね。ごちそうさま!」
グラスとソルベはビストロを出た。
その少し後に、入れ替わるようにしてフォユテがやって来た。この日彼はあまりショコラと会話をすることもなく、大人しく、食事をして出て行った。
忙しかった昼の営業も終わり、ショコラたちはまかないの前に店内を軽く片付けた。
「それじゃ、ちょっとごみ出しに行って来るわ!」
カイエはごみを持ち、裏通りの方へと歩き出した。
建物の角を曲がった時…
「きゃっ…!」
突然ぬっと人影が現れ、カイエは思わず声を出した。
「……なんだ、びっくりした!」
そこには、いつもと違いぼうっとした、無言のフォユテが立っていた。
彼はおもむろに口を開いた。
「―――あのさ…カイエ……」




