68.お誘いを受けたので、
…思っていた通り、兄・グラスは自分の気持ちに気付いていなかったらしい…。ソルベは慌てふためく兄の姿を、どうしたものかと黙って見ていた。
しばらくの自問自答の末、グラスは一つの結論を出したようだ。ガバッと顔を上げると、ソルベに対してこう宣言した。
「違う!それは違うぞ!僕はそんなに移り気じゃない‼これは…」
「…“これは”何?」
「だから、あれだ…」
まさかの否定ときた。それに、続きが出て来なくてグラスはまた考え込んでいる。…結論が出たのではなかったのか…ソルベは呆れてさらに引いた。
「それじゃなかったら、何なの?」
「だから、………そう!“心配”だ!僕は心配をしているんだ‼」
もはや真面目に聞く気もなくなってきたが、兄の調子に合わせてみた。
「“心配”?何の心配⁇」
「それはお前、決まっているだろう!ショコラ嬢は公爵家のご令嬢なんだ、こんな所で何かあってはと思うのは普通ではないか‼」
「ふ―――ん…」
「何だ、その目は⁉」
「別に。」
よほど焦っているのか、グラスは頭の中で目に付いた考えを喋っている。冷静に考えれば、これまでのこと全てについて言われているに決まっていると分かるはず。なのに、それを“今”の状況だけに照らして答えるとは…。辻褄の合っていないそれこそが、正に「普通」ではないのだ。
それに、“そんなに移り気じゃない”などと言っていたが、そもそもフィナンシェに対し、執着はしていたが恋心があったのかどうかがまず疑わしい。
『兄さんが以前やっていた事なんて、正直子供の域だ。(今も大差はないけど…)そこに年相応の知恵が変についただけというか…。感情の上澄みでしかなかったように見えたんだよなあ。』
これは教えても理解できるような事ではない。自分自身で思い知るより外ないだろう。当事者でない人間が煩っていたことがバカバカしくなってきた。
「じゃあさ、仮にだよ?仮に僕がショコラ様のところへ婿に入る…」「な に!?」
…思ってはいたが、グラスは物凄い勢いでソルベに詰め寄ると、食い気味にあからさまな反応を見せる…。
「怖いって!だから“仮に”って言ってるじゃないか!」
「あ…ああ、そうだな…」
「――…ことになったら、どうするの?祝福できる⁇」
そう問われると、グラスはそのままうつむいて、握り締めた拳を小さく震わせている。何度も、口を開きかけてはやめているようだ。表情の詳細が分からないその変装に兄は感謝すべきだ、とソルベは思った。おそらく、とても他人に見せられるような顔をしてはいないのだろう。
「…………するさ。……彼女が…そう、望むなら……」
ソルベは驚いた。あの兄がそんな事を言うなんて――…。これは思っていた以上だ。
ショコラの執事・ファリヌから言われたことが脳裏をよぎる…。ソルベは兄の行く末を思った。
ソルベと別れ、ファリヌがビストロへと戻った時には中はすっかり後片付けまで済んでいた。“ごみ捨て”に行っただけにも関わらずなかなか戻って来なかったことで、勤務態度についてショコラから叱られるという珍しい事が起こった。
それからいつものようにまかないで遅い昼食を取った後、ショコラとファリヌは途中買い物をしてから家へと帰って行った。
「お帰りなさいませ。」
今日の家事担当、ミエルが二人を出迎えた。
「ただいま!ねえミエル、聞いて。今日も大変だったのよ!」
「まあ、何でしょう?」
帰って来るなりこの日の出来事を話そうとするショコラに、ミエルはくすくすと笑いながら応えた。
「今日は朝から雨が降っていたでしょう?だからお店の床が濡れていて、私、転んでしまったの。それで、お料理と一緒にお皿も落として割ってしまったのよ…。」
「まあ…それは大変でしたね。」
「でもね、後片付けまで全部一人で対処出来たのよ!私一人で、でよ⁉」
“大変だった”と言う割に、話して聞かせるショコラのその目は輝いていた。ミエルは、よほど自分一人で処理出来たことが嬉しかったのだろうと思った。
「それにね――…」
その後も続く一日の話に、ミエルはしばし微笑みながら耳を傾けたのだった。
その日の夜もいつも通り、ミエルとファリヌの報告会が開かれた。
「――ショコラ様のお話からすると、今日も侯爵様方がいらっしゃっていたとか…」
心配そうにミエルがファリヌに尋ねた。やはり、二日続けて来たことに、ミエルも不安を感じたようだ。
「ええ。ですが、朗報です。騎士団の滞在先の情報を入手しました。」
「本当ですか⁉さすがですね!」
「しかも、何かあればすぐに駆け付けるという確約付きです。」
「まあ…‼」
何をどうしたらそうなったのかは分からなかったが、ミエルは改めてファリヌの優秀さを尊敬した。
「それで、場所はどちらですか?私も覚えておかないと‼」
「それは――…。」
言いかけたファリヌは、やる気に満ちているミエルを見て止まった。
「…お教えするのはやめておきます。貴女は何かのはずみでぽろりとこぼしてしまいそうですし。」
「な…ッ!そこまで口は軽くありません‼私だって、公爵家の侍女なんですよ⁉」
またいつもの意地悪だ。今さっき尊敬したことを、ミエルは後悔した。
――ソルベとの駆け引きで得たこの情報は、無条件ではなかった。“もしもの場合”責任を問われる可能性がある…。あの場にいなかったミエルにまで、そのリスクを負わせることはない。ファリヌはそう考えた。
「いざとなれば、私が騎士団のもとへ出向けばいいだけのことです。二人とも知っている必要はないでしょう。」
「…それはそうですけど…」
「それに!そんな事にならなければ問題はありません。我々でしっかりとショコラ様をお守りすれば、結局は無駄な情報なんですよ。貴女がすべきなのはそちらでは?」
「そう…ですね。」
若干の腑に落ちなさを感じながらも、ミエルは了解した。
翌日はファリヌに代わって、ミエルが付き添い担当だ。
一人連日の出勤にも関わらず、ショコラは意気揚々と出掛けて行く。…この元気は一体どこから出てくるのだろうか…。余程ビストロでの仕事が気に入ったようだ。いつか本当に「給仕の仕事を続けたい」と言い出しはしないか、ミエルは少々心配になった。
時刻は昼を回り、今日もビストロは繫盛している。
そんな混んでいる時間帯に珍しく、フォユテがやって来た。
「やあ、シュクル。」
「いらっしゃいませ!あら?今日は早いのね。」
「ああ、まあね…。」
そう答えながら、フォユテは辺りをきょろきょろと注意深く見回している。
彼は、いつもは店内が空いてきた頃合いにやって来ていた。それは、ショコラと話す機会が多くなるのを狙ってのことだ。混んだ時間に来れば、本当にただ食事をして終わりになる。当然目的はそれではないのだから、自然な選択だった。…それなのに、今日に限って、彼はまだまだ混んでいる時間にやって来た。
「…あのオジサン、いないみたいだね?」
「そうねぇ…今日も来るのかは分からないけれど、今はまだいないわ。」
「そっか、よかったあ~。」
フォユテは一先ず安心、という顔をした。
「それじゃあ、決まったら声を掛けてね。今はまだ忙しい時間だから、もう行くわ。」
メニュー表を渡したショコラは、すぐに別の仕事へ行こうとしている。――だからこの時間帯は嫌だったのだ。
「ああっ待って!」
「なあに?もう決まったの⁇」
「――店員さーん!ちょっとお願い!」
「はーい!今すぐ!」
フォユテの席を離れかけたショコラに、近くの席からすかさず声が掛かる。
「フォユテが先よね。ご注文は⁇」
「いや、ごめん。後でいいや。」
「そう?分かったわ。」
すると、ショコラはたちまちフォユテの目の前から消え去った。だからこの時間は嫌なのだ!
今日はあのうるさい兄がいない。それに、妙な“オジサン”もいない。邪魔は入らないはず。今がチャンスだ。
メニューを見ながら悩んでいるふりをして、フォユテは機会を窺った。
――今だ‼
「シュクル、いい⁉コレね‼あと――…」
フォユテはショコラを呼び止めると、メニュー表を指差して口早に注文し、続けざまに本題へと入った。
「休みは⁉決まった⁇」
「えぇ??いいえ…まだよ。」
「何だよそれ!シュクルは戻って来てからずっと出勤しっぱなしじゃないか!従業員に休みを与えないなんて何考えてんだ‼」
テーブルを拳で軽くドンと叩き、フォユテはぷりぷりと怒っている。…どうやら、フォユテは自分のために怒ってくれているらしい?…と、ショコラは思った。
「いいのよ、私今お仕事が楽しいし。それに、カイエたちの方がずっと長くお仕事してるもの…」
「そういう問題じゃないよ。ちゃんと取らせるべきものなんだよ⁉それをシュクルの厚意をいいことに…。よし、僕がカイエに言ってあげる!」
「ええっ⁉」
フォユテの言う事は正論なのだろうが、今、本当にビストロで仕事をする事に夢中のショコラは焦った。戻って来て数日。休みの話をあえてしなかったのは、しばらくはそのつもりが無かったからだ。幸い体の方も問題ない。“イザラ”での目的は、給仕として仕事をすることに決めた。逆に休みをもらっても他にすることが無い。街巡りなどは初日に大方済ませてしまった。一日をただ無為に過ごすなら、ビストロで動いていた方がよほど有益だと思っていたのだ。言わば一つの我儘のようなものだった。
だが、このままでは自分のせいでカイエたちが悪者にされてしまう…。
「――休み?いいわよ。」
困り果てていたショコラに救いの手を差し伸べたのは、他でもない、カイエ自身だった。
「ごめんねえ、シュクル…。お休みあげなきゃとはずっと思ってたのよ。」
「そんな、いいのよ⁉私が来たくて来てるんだもの!」
「そういうわけにもね。街一番の商店のご令息に言われちゃあねぇ。」
カイエはにやにやしながらフォユテを見た。
「明日でもいいかしら?」
ショコラ越しに、カイエはフォユテに確認を取った。
その瞬間、フォユテはカイエが自分の味方であると悟った。
「もちろんっ」
「えええっ⁇」
…なぜか、自分抜きで急な明日の休みが決まってしまった…。ショコラは戸惑った。
「でも私、他にすることが無くて…」
「フォユテにどっか連れてってもらいなさいよ!ねえ?」
「そうだよ。ほら、前に約束したでしょ?最近できた評判の店に連れてくって。」
そういえば仕事に戻ってすぐ、フォユテにそんな事を言われたことをショコラは思い出した。
――最近できた評判の店――…悪くない。一体どんなものを出すのだろう…。期待に胸が膨らんだ。
「ねえ、一緒に行こ⁉僕が奢るし、何も心配しなくていいからさ!」
「分かったわ!それじゃあ明日、連れて行ってもらおうかしら。」
「よっし…!じゃあ、これ、あのオジサンとかには内緒ね?」
立ち上がって大声を出したい気持ちだったが、フォユテは口の前で指を立て、声を小さくした。
『“あのオジサン”…。たしか、侯爵様の事ね?とかっていうのは…ソルベ様のことかしら。二人には言うな、ということね。問題ないわ。』
「分かったわ。」
にっこりと笑って、ショコラは答えた。
「カイエ!シュクルも?何してるの、仕事が溜まってるわよ‼」
向こうの方からミエルが声を張り上げた。気付くと彼女が一人、混んだ店内できびきびと奮闘していた。忙しくてここで何があったのか、分かっていないようだ。
「あらら…叱られちゃったわね。さ、戻りましょ、シュクル。」
「ええ。」
二人は慌てて散って行った。そんなショコラの背中に、フォユテはもう一つだけ声を掛けた。
「明日!楽しみにしてるよ!!」
「ええ!」
――今日の目的は果たした。フォユテは満足した。




