65.人は成長するものなので、
その日の夜ショコラが寝静まった後、ファリヌとミエルは二人だけでの会議を開いた。
「――まさか、侯爵までいらしているとは…」
「でも、たまたま通りかかられただけで、すぐに移動されるかもしれませんよ?」
「そうかもしれませんが…。もし、しばらく滞在するような事でもあれば面倒ですね。」
昼間ビストロに、グラスとソルベが来ていた事が議題に上がっていた。そして、どうやらグラスとショコラとの間で何かあったらしい、ということが分かり、二人は気を揉んでいた。
店外へ出ていたショコラが戻って来た時は忙しかった事もあり、すぐには詳しい事情を聞けずにいた。その後家に帰って来てからそのことについて尋ねたのだが、ショコラは詳細までは話さなかった。だが、グラスに存在を知られてしまったという事ははっきりしており、それによってショコラがビストロでの仕事に闘志を燃やしているという事も分かった。
「ショコラ様、“そういえば口止めを忘れていた”とおっしゃってましたが、大丈夫でしょうか…。」
「そうですね…あちらも恐らく任務でやって来ているのでしょうから、すぐに口外される心配はないと思いますが。」
たしかにそうか、と思ったミエルは少し安心した。彼らも負けず劣らず、というより…自分たちよりも厳重に変装をしていた…。むしろ、こちらが口外することを恐れてさえいるかもしれない、と思うほどに。
「また見かけるような事があれば、その時は少し探りを入れてみましょう。…まあ、彼らが情報を漏らすとは思えませんけどね…。」
――ファリヌには、少々気に掛かることがあった。
グラスたちが変装までして動いているのは、たぶん“例の事件”絡みの事なのだろう…。しかし、こんな所にまで来ている、しかも侯爵自らが、というのがどうにも引っ掛かる…。こんな話は、王都を出る時には無かった。
『…これはお屋敷に報告して、旦那様の判断を仰いだ方がいいかもしれない…。』
どこかにいる、という“警護”の存在は、ガナシュのもとへ届いていたらしい報告によって確かになった。だが、姿も見せず一方的に観察されているのは“警護”というより“監視”されているようで、あまり気持ちのいいものではなかった。その人物が有事の際本当にきちんと護衛役を果たせるのか、今一つ信用も出来ない…。
何か懸念があるのなら、今回はこれで引き揚げた方がいいのかもしれない、とファリヌは思っていた。
翌日は、朝から雨が降っていた。だからだろうか、開店してすぐの店内はいつもよりも空いている。日々やって来ることが日課になっている数人の常連客の接客をすると、少し暇な時間が出来た。ショコラは、イザラへ戻って来る前から気になっていた事を思い出し、カイエに聞いてみることにした。
「ねえカイエ。」
「うん?なあに⁇」
「“アントルメ川の幽霊”って、知ってる⁇」
つい先日の夜会で、ミルフォイユから聞いた噂だ。庶民の間で広まっているというそれを、戻ったらカイエに聞こうとずっと思っていたのだ。だが仕事を再開してからは色々と忙しく、なかなか話題に出すことが出来ずにいた。
「ああ、夜中に川の上を火の玉が飛んでるってやつね。知ってるわよ。少し前から噂になってるわよね。」
「やっぱり、そうだったのね。私知らなくて…。この間家に戻った時に、お友達から聞いて初めて知ったわ。」
「あら?たしかオードゥヴィ領にはアントルメ川って流れてなかったわよね?なのにその噂、そこまで広がってんのね~。」
カイエが言った、「オードゥヴィ領には」というところに少し罪悪感を感じてドキッとしてしまったショコラだったが、気を取り直して話を続けた。
「カイエは見たことある?」
「ないわよー!そんな時間に川までなんて行かないもの!」
笑いながら胸の前でブンブンと手を振り、カイエは答えた。
「気になるの?でも、見に行っちゃダメよ!危ないから。ファリヌさんたちも心配するし。」
「行かないわ!見てみたいとは思わないし…。」
今度はショコラが手を振って否定した。
「そう、それならよかった。ほら最近は他にも変な話があるし。若い女の子の失踪、とかね。」
「“失踪”…?それも初めて聞いたわ。」
「やだ、何にも知らないのねえシュクルったら…。」
呆れたようにカイエが言うので、ショコラは少し恥ずかしくなった。…もっと、情報に敏感にならなくては、と。
「そうそう、そういえば、“アントルメ川の幽霊”の噂話ってまだ他にもあってね、その火の玉は失踪した女の子たちの霊なんじゃないか…って言ってる人もいるのよ!」
「失踪した女の子たちの霊…?」
…初めてミルフォイユから聞いた時には、話がぼんやりとしていてあまり感じ入るところは無かったのだが、その話は少しだけ現実味を帯び、ショコラはわずかに背筋が寒くなるように感じた。
「――まあ、噂だから‼気にしない気にしない!そんなことより、もうすぐお昼よ。雨でもさすがにそろそろ混んでくるから、頑張りましょ!」
そう言ってショコラの背中をポンと叩き、カイエは向こうの方へ行ってしまった。…たしかに、今はそんなことを気にしている場合ではなかった。
何せ、グラスにあっと言わせるような完璧な給仕を会得しようと決めたところだ。
『そうだわ、今聞くべきはそんな事ではなくてお仕事のことよね!』
「いらっしゃいませー‼」
カランカランと鳴ったドアベルに反応して、ショコラは元気よく挨拶をした。
――昼を回れば、昼食を取るためにビストロには常連客を始めとした多くの客が訪れ、天気が良くない中でもいつものように店は混んだ。
外は雨のため、やって来た客が運んでしまった水滴で店内も所々が濡れていた。暇を見付けてはモップで拭くのだが、床は滑りやすくなっている。慎重にしていても時々足を取られ、ひやりとする事が度々あった。
『気を付けないと…いつか転んでしまいそうだわ。』
そうは思っていても、忙しさが極まるとどうしてもその意識が薄れてしまうことがある…。ショコラは自身が案じた通り、ついには転んで、運んでいた皿を料理ごと落として割ってしまった。
「あらあらまあ、大丈夫?」
すぐ側にいた客が思わず声を掛けてきた。
客の前で皿を落として割ってしまったのは、久々のことだ。離れたところにいたカイエが、急いでこちらにやって来ようとしているのが見えた。今日一緒に出勤して来ていたファリヌも、厨房から顔を出しているようだった。
…今、店はとても混んでいる。そんな時にカイエやファリヌまでも自分の失敗の処理に使うわけにはいかない。ここは自分で何とかするべきところだ。決して、おどおどなどしている場合ではない。
ショコラは、“やってしまった”という気持ちを落ち着け、冷静になるよう努めた。
――大丈夫、今、周りはちゃんと見えている。
こういう時は、どうしたらいいか――…。前にやってしまった時、カイエはどうしてくれていたか…。ごくわずかな時間の中で、ショコラは考えを巡らせた。
すべきことが分かった。こちらを目指しているカイエの方に向かって手をかざすと、それを静止した。
「――失礼いたしました。お怪我はありませんか?汚れたものなどは?」
「私は無いみたいよ。ありがとう。」
「そうですか、良かった…。すぐに片付けますね。」
ぱっと顔を上げ、まずはすぐ側の客に謝り確認をすると、ショコラは次に皿を運んで行くはずだったテーブルへと向かった。
「申し訳ございません、只今新しいものをご用意してお持ちします。もう少々お待ちください。」
ぺこりと頭を下げ、こちらにも謝ると、今度は急いで厨房へと行った。
「ブールさん、ごめんなさいっ!お料理駄目にしてしまったの、もう一度お願いします‼」
「はいよ!」
「ブールさん、俺が作り直しますよ。」
「ありがとう、兄さんっ!」
ショコラはその足で掃除道具を取ると、落とした料理のところまで戻ってすぐさま後片付けを始めた。
『ああ…お料理にも酷いことをしてしまったわ…。ごめんなさいね。』
最後に心の中で料理にも謝ると、何事もなかったかのように、綺麗に掃除を終えた。
「ふぅ。」
「ハイ!」
一人きりでやり切った。一息つこうか、いうところにタイミングよく作り直された料理が出て来た。それを受け取ると、ショコラは改めて皿を運んで行った。
「大変お待たせいたしました。ごゆっくりどうぞ!」
――これで、今度こそ一仕事をやり終えた。
「やるようになったじゃあないか、シュクル!」
一部始終を見ていたらしい常連客の一人がショコラに向かって話し掛けてきた。しかしショコラは決まりが悪く、苦笑いを浮かべた。
「おじさん…。でも、また失敗しちゃったわ。」
「そういう事を言ってるんじゃないさ。本当に、見違えるようになったなあ!人の成長を見られるっていうのは気持ちのいいもんだ。」
そう言って、客はニッと笑った。それは嫌味や皮肉などではないことが、ショコラにも分かった。
「―――ありがとう‼」
途轍もなく、嬉しくなった。身内ではなく、客にそう言われたということが、「認められた」ように感じたからだ。
涙が出そうになった。でもまだまだ仕事中だ。ショコラはぐっとそれを飲み込んだ。
ふと窓の方を見ると、薄日が差し込んでいる。どうやら雨は止んだらしい。
気持ちも明るくなるように感じた。
いつの間にか、昼のピークの時間もそろそろ終わる頃になっている。この日の山場も越えたようだ。
『今日もあと少し…頑張ろう。』
気は抜かず、肩の力を抜いたショコラはまた仕事へと戻って行った。
昼の営業も終わりに近付いて来た頃、すっかり空いてきた店内にカランカランとドアベルの音が響いた。
「いらっしゃいませ!!!」
余裕の出て来たショコラたち店員の声がそれに続いて響いた。
中へ入って来たのは――…
「やあ、シュクル!まだ大丈夫だよね?」
「ええもちろんよ、フォユテ。どうぞ!」
ショコラに案内されてフォユテは席に着き、メニュー表を開いた。その姿を見たファリヌは“また来た”とばかりに苦々しい表情を浮かべている。
「こんにちは、お兄さん。あはっやだなー、そんな顔しないでよ。」
それに気付いたフォユテは余裕の表情で機先を制した。
お互いの間には少しの距離があったが、それにも関わらず睨み合う二人…。この日も、バチバチと飛び交う火花が見えるようだ。
――すると、そんな中でまた、ドアベルが鳴った。…この時間には珍しい事だ。
「いらっしゃいませ!」
開くドアの方へ目を向けると、二人の人影が映った。
「こ、こんにちはー…」
扉を開け、少し気まずそうな笑みを浮かべたソルベを先頭に、その後ろからはおずおずとした、グラスらしき人物が入って来たのだった。




