43.姉を賭けた決闘なので、
フィナンシェを賭けた“決闘”のため、公爵家の庭にある林へと行ったグラスとクレム、それにソルベとクレムの執事・カネルを追って、ショコラは一人庭へと走った。
彼らの姿はもう見えない。すでに林の中へと入ってしまったようだ。
――急がなければ!ショコラはまとわりつくスカートを煩わしく思いながらも懸命に走った。
その頃一行は、林の中の少し開けた場所まで来ていた。
「この辺でどうですか?広さも良い具合いだ。」
「侯爵のお好きに。」
「余裕ですね。それともそう見せているのか…。」
早くも駆け引きが始まっている。
そこへ、息を切らせたショコラが駆け付けた。庭にあるとは言っても決して狭くはない林だ。場所の見当を誤れば、辿り着くのに時間が掛かってしまっただろう。だが“決闘”をするならきっとあの辺りだ、との予測は当たったらしい。何とかそれが始まる前に追いつくことが出来た。
「はあっはあっ、よかった、まに…あって…」
「だ、大丈夫ですか?ショコラ様…」
「…はい!ありがとうございます、ソルベ様。」
対峙しているグラスとクレムから少し離れた場所にいた、ソルベとカネルの側まで行くとショコラは息を整えた。
「ねえカネル、決闘の証人をするつもりでしょう…どうして止めないの??」
「旦那様がお決めになられた事ですから。わたくしは、信じるだけです。」
カネルは主人同様、穏やかで物静かな人物だ。こんな時でも、取り乱す事一つせずに微笑んでいた。
そして、両者の間に進み出た。
もはや、二人を止める事は出来ないようだ。
“決闘”はおそらく、一方的なものになるだろう。もうショコラには、少しでも義兄に無事でいて貰えることを祈りながら、見守る道しか残されていない。早くも胸の前で指を組んでいた。
「――おや、いらっしゃっていたのですか、ショコラ嬢!」
クレムと睨み合っていたグラスは、ショコラの姿に気付いた。
「この、未来の義兄の雄姿を見届けに来てくださったのですね!」
「いえ、わたくしはクレムお義兄様の応援に!」
「ぐっ…」
ショコラの間髪を入れない返事は、決闘が始まる前のグラスの胸に刃となってぐさりと突き刺さった。意図せず加勢になったようだ。
グラスは気を取り直して、クレムの方に向き直った。両者は、上着を脱ぎ捨てた。
「――構え!」
カネルが掛け声を発し、決闘の火蓋が切られた。その瞬間二人は…いや、グラスの方が勢いよく踏み出した。
ついに、始まってしまった。
「ショコラ様、下がって‼」
右腕をショコラの前に出して庇いつつ、左手を剣に添え構えると、ソルベはいつでも飛び出せる準備をして気を引き締めた。
「…もしもの時は、私が体を張ってでも兄を止めますから、ご安心を。」
「お、お願いします…。」
…とは言え、とソルベは思った。手合わせで兄には一度も勝てたことが無い。それも模造剣での練習試合で、だ。真剣を持った本気の兄と相対して、果たして止めることなど出来るのだろうか――…
ソルベの頬を冷や汗が伝った。
決闘の方は、予想通りグラスが押していた。鮮やかな剣さばきは、さすが次期陸上師団団長。その剣を振る音は辺りに鋭く響いた。
方やクレムは、グラスのスピードに付いていくのが精一杯なのか、防戦一方だ。
剣術に関して全くの素人であるショコラには詳しい事は分からない。それでも、義兄が劣勢である事は理解できた。グラスの剣先がシャツをかすめるたび何度も顔を覆いそうになったが、全て見ておかなければいけない、と堪えた。自分の心臓の音が、耳元で大きく鳴っていた。組んだ指は、力を入れ過ぎて色が変わっていた。そのことすら気付かないほどに、ショコラは一心に見守った。
「……巧いな。あの人…」
「え?」
ぽつりと呟いたソルベの言葉に、ショコラは反応した。
「お義兄様、ずっと侯爵様に押されたまま、ですよね…⁇」
「あ、いえ。たしかにそうなんですが――…」
ソルベは、もっと散々な事になると思っていた。もっと早い時期に、助けに入らなければならないような事態になると――…。たしかに、クレムは押されている。シャツにも切られた部分がいくつも出来ている。だが、まだ、そこまでだった。
「――どうしました、防戦一方ではないですか!そんな事では…私には勝てない‼」
グラスの煽りにも、クレムは表情を変えず、姿勢も変えなかった。しかし、その言葉通り、クレムが勝てる見込みは感じられない。
ショコラはソルベの言った事が気にはなったものの、やはり心配で仕方なかった。
「――クレムお義兄様!侯爵様なんかに負けないで!!」
「うぐッ……」
傍から掛けられたショコラの言葉が、またもぐさりぐさりとグラスの胸をえぐった。
圧倒的に押しているはずなのに、グラスの心はじりじりとして落ち着かない。ざわつく気持ちを払うように、剣を振るった。
「いつまでそうしていられますか⁉致命傷を負う前に降参するのも、一つの手ですよ‼」
グラスは挑戦的な顔で、その手を緩めない。
「まあ、命は、保証しましょうッ!」
どんどんとクレムを追い込んでいく。
『ああ…兄さん、それじゃどう見ても完全に悪役のそれでしかない…』
思っていたような事態に陥っていないためか、ソルベの心には余計なことを考える余裕が生まれていた。
「…そう…言われましてもね。可愛い義妹が見ているので、無様な姿を晒すことは出来ません。」
斬り合いの最中にもかかわらず、クレムは一瞬、視線をショコラの方に送った。
その言動に、グラスの頭には血が上った。
「……その口、しばらく開けなくする…!!」
グラスは大きく剣を振りかぶった。
「きゃ…‼」
目を見張って息を飲み、ショコラは両手で口を覆った。
グラスの剣はクレムに向かって振り下ろされた。
――その、一瞬をクレムは逃さなかった。
「あっ…!」
誰ともなく、声が漏れた。
振り下ろされた剣をクレムが弾き飛ばすと、グラスの手から剣が離れた。それは宙を舞い、後方の地面に突き刺さった。
今度はクレムの剣が、左の下方からグラスの頭部に目掛けて振られた。
「‼しまった…!」
その言葉は、一瞬焦った“クレム”から出た。
鮮血が散った。
丸腰のグラスは、とっさに自らの腕でその首を守ったのだ。だが、首元ギリギリで止めるつもりだったクレムの剣先は腕の寸前では止められなかった。
わずかにグラスの右腕を斬りつけてしまった。
「…ッ」
グラスは斬られた腕を押さえて膝をついた。
「これにて終了です‼よろしいですね、侯爵様?」
証人として立ち会ったカネルが仲裁に入った。グラスは何も言わなかったが、従うようだった。クレムも剣を収めた。
「――すみません。怪我をさせてしまいました。」
「……それを私に言うのは、侮辱ですよ。」
「失礼…。」
グラスの勢いは、すっかり姿を消していた。
「…剣術は、どこで習ったんです?貴方は文民ですよね。正直、驚きましたよ。」
「ああ…幼い頃から遊びと称して手合わせさせられていましたから。」
「…誰にです?」
「海師団長のカルヴァドス侯爵ですよ。彼とは幼馴染で…あれ、ご存知ありませんでしたか?」
「あぁー……。」
そういえば、少し前にここのテラスで鉢合わせしたことを思い出した。グラスは“幼い頃”のカルヴァドス侯爵ことゴーフルを想像してみた。余計にどっと疲れが出た。
「まあ、それだけというわけでもないのですが…。ヴェネディクティン領は外からの出入りが多い所で、活気があるのは良いのですが、それだけいざこざも多いのです。それを収める技量も私には求められる、ということですよ。」
「なるほど…。」
「クレムお義兄様‼」
「兄上!」
そこへ、離れたところから見守っていたショコラたちが駆け寄って来た。
「良かった…お義兄様、お怪我が無くて…」
言いかけてショコラはハッとした。すぐ側には、腕を押さえたグラスがいる。
「ふっ、…そんなに実力があるのなら、騎士団に入れば良かったものを。歓迎しますよ。もったいない。」
「いえ、そこまでではありませんよ。今日はたまたまです。」
「たまたま…?また、謙遜ですか。」
座り込みやさぐれたようなグラスに、クレムは立ったまま向き合った。
そこには、勝者と敗者がくっきりと分かれていた。
「本当です。今日の貴方には初めから何か迷いというか…焦りを感じました。そこに勝機があると見たのですよ。通常の貴方であれば、私は勝てなかった。だから応じたのです。…すみません、勝てない勝負はしない主義ですので。」
「結果は、元から決まっていたわけですか…。」
「いいえ、ぎりぎりでしたよ。紙一重です。」
二人の会話にショコラの入る余地はなく、ただそこで聞いているだけだった。
「私は日々、商談を生業にしています。取引相手の状況、状態を見極めるもの重要な仕事の内なのです。ショコラ、君も覚えておくといい。この先、必要になるからね。」
「…はい、お義兄様。」
ショコラは、義兄がヴェネディクティン家の一人息子でなければ、我が家の後継者として父が必ず欲しがっていただろう、と思った。そうならば、自分が目指すべき人物像はここにあるのだと思った。そして羨望の眼差しを向けた。
そんな様子を、グラスは黙って顔を背けて見ているだけだった。…そうしか出来なかった。
「では戻ろうか、カネル。」
「侯爵様のことはどうされますか?」
「傷はそれ程深くはないはず。これ以上私に情けをかけられるのは、侯爵のプライドが許さないだろう。ここは早く立ち去るべきだ。
――それでは失礼します、グゼレス侯爵様。」
クレムはグラスに背を向けたままそう告げた。カネルは一度こちらへ礼をしてから、クレムと共にその後は振り返ることなく別館へと帰って行った。
――こうして賭けられた当人のいない“決闘”は、まさかの形で幕を閉じたのだった。
「っ大丈夫ですか、兄さん!」
少しぼうっとしていたショコラは、ソルベの声に我に返った。グラスの方を振り返ると、押さえた腕からは血が流れ出ていた。
「これ、本当に浅いのか…?すみませんショコラ様、私は急いで馬車まで行って、執事に帰り支度をするよう言い付けてきます!戻るまで兄をお願い出来ませんか?」
「分かりました!」
ショコラの返事を聞くや否や、ソルベは飛び出して行った。
その場には、ショコラと怪我を負ったグラスの二人だけが残されたのだった。




