41.侯爵様は我慢の限界なので、
その日は結局、「何でいつも僕がこんなことを…」とブツブツ文句を言いつつも、仕方なくソルベは酔い潰れたグラスを引きずって宿へと帰ったのだった。
翌日、何事もなかったかのように復活したグラスは一行を連れて次の街へと場所を移すと、また同じように調査をした。
そして早々に切り上げると、昼過ぎにはさらに次の街へ移動する。
また一晩休むと調査を始め、その昼には移動だ。
…長距離移動と群集対応の繰り返し…。どこへ行っても同じ光景に、ソルベを始め同行している団員たちは既視感に苛まれた。
「――…兄上、これ、リストの場所全て回るんですか?…僕ら、すでに色々キツくなってきたんですが…。」
グラスが振り返って顔を見ると、ソルベも団員たちも、心なしかげっそりとしてきているように感じる。大した仕事はしていなかったものの、移動の疲れに加え若い女性たちの熱量に当てられ、精神が削られたようだ。
「…それは私も同じだ。だが喜べ、今回は次で終いだ。」
「本当ですか⁉」
ソルベが同行者たちの代弁をすると、その場の空気も一気に明るくなった。
「そういえば初日以来、店の偵察などはほとんどしませんでしたが、良かったんですか?…」
そう言ってハッとしたソルベは、また余計な事を口にしてしまったと思い、焦った。
「ああ。初日は本件の裏付けのために必要だった。他は傾向の調査。どうだ、これまでに何か違和感を感じたものはあったか?」
「…いえ、ありませんでした。既視感で気分が悪くなるくらいです。」
「今回はそれで十分だ。全ての場所を回る必要はない。重要なのは、それがあるという事実だからな。」
「はい。」
その話を聞いた同行者たちは納得した。
だがソルベは納得するとともに、それとはまた別のことを考えていた。
『…よかった。忘れてたから戻る、とか言い出したらどうしようかと思ったけど…。さすがに兄さんのこと侮りすぎだな、僕は。』
「それにしても兄上、少しペースが速すぎやしませんか?」
次の瞬間、グラスが固まった。空気が変わったのをソルベは感じた。それは何気なく言った言葉だったのだが、一体何に反応したというのか…
「ソルベ…父上に指示を出されてから、今日で一体何日経った…?」
「えっ?ええと……五…六日?くらいですか⁇」
「そうだ!ほぼ一週間近くだ‼一日で終わらせるつもりだったのに…!!」
「はあ⁉本気だったんですかアレ⁇だから言ったじゃないですか、無茶だって!」
「それでも時間がかかり過ぎた‼もっとペースを上げてもいいところだ!」
「…いい加減にしてください!団員たちの事も考えてくださいよ‼」
悔しさからなのか、グラスはうっすら涙を滲ませているようだ。…勘弁してくれ、とソルベは思った。
「ハッ!では、帰りは川を船で遡上することにしよう‼」
「嫌ですよ、我々は慣れていないので酔いますよ?それに、アントルメ川は海上師団の管轄ですし…。」
「そうだったな…うぐ…。」
「ゆっくり帰ればいいじゃないですか。何をそんなに焦っているんですか?」
グラスは苦々しい顔をしたまま黙り込んでしまった。
それから夜遅くに最後の調査先へと到着すると、それぞれ宿で休んでこの日一日が終わった。
次の日、大通りに出ると今回の締めくくりとなる調査を始めた。
ここでも若い女性たちが大挙して押し寄せた。グラスはいつも通り、にこやかに話を聞いている。いつも通り――…
…笑顔を張り付けたままのグラスは、溜息を吐きたい気分だった。
洪水のように溢れる好意を浴びせられても、何も感じない。でも以前はもう少し違っていたと思う。受け取るつもりがなくとも、それは人並みに嬉しいものだった。優越感も感じた。
だが、今それは自分を苦悩させるものになっていた。
『…彼女たちと彼女は、一体何が違うと言うんだ…?』
自分の目の前に広がっている光景が、遠いもののように感じられた。頭の中の、仕事をしているのとは違う場所がぼぅっとして、今話をしている人の顔がちゃんと見えていないようだった。代わりに、別の人間の事がずっとそこにあった。
黄色い歓声と甘々とした空気…多くの女性に囲まれながら、『こんなことをしている場合ではない』という思いと焦りは日に日に強くなっていっている。
仕事を疎かにするつもりも、してもいない。しかし、過ぎていく時間を歯痒く感じ、早く王都へ帰らねばとそればかりを考えていた。
その説明のしようがない、もやもやとした気持ちが何なのか、分からないことがグラスを苛立たせていた。
「―――…以上が、今回の調査になります。」
その翌日の夜に、一行はやっと王都へと帰還した。
グラスは王宮の師団本部に戻ると、ソルベと共に父であり団長のフランにその報告をした。
「リストに残っているものは全て、同じ事件と考えてよいでしょう。今後、師団を動かす用意も必要かと。」
「ウン。分かった。ご苦労。後で報告書にもまとめておいてくれ。」
「はい。」
「明日は休日だったな。ゆっくり体を休めろ。先に屋敷へ帰って良いぞ。――あと、ソルベは少し残れ。」
グラスは軽く頭を下げると一人、団長執務室を出て行った。
「――で、何でまだあいつは険しい顔のままなんだ?」
「こっちが聞きたいですよ!何だか早く王都へ帰りたかったみたいですし…あ、でも仕事はちゃんとしてましたよ。…それにしても、ああいう表情してると兄さんもやっぱり父さんに似てますね。はははっ。」
「バカモン!どうでもいいわ、そんな事。」
「スイマセン…。」
二人は同時に大きな溜息を吐いた。
「とにかく、今後もお前に世話を任せるぞ。」
「だから何で弟が…。まあ、今更なんでいいですけど!」
それから少し本部の中を回ってから、ソルベも屋敷へと帰って行った。もう遅かったため軽く食事を取ると、自分の部屋へと戻りベッドに入って考えた。
『浮ついた感じが減ったのと、仕事振りはこのままでいいんだけどな…あの殺伐とした感じはどうしたものか…。』
そのままウトウトと、眠りについた。
翌朝ソルベが少し遅く起きると、グラスはすでに朝食も済ませてリビングで本を読みながらお茶をしているところだった。
「おはようございます。兄う…」
「ソルベ兄様!おはようございます。いえ、その前にお帰りなさい、ですね。」
「グラニテ!ただいま。遅くなったね。」
ソルベが挨拶をし切る前に逆に声を掛けてきたのは、三兄弟の末っ子、グラニテだった。上の二人より少し年の離れたグラニテは、美少年でもあったことから皆に可愛がられていた。そして、その術も知っていた。
「お疲れだったのですね…夕べも今朝も、一緒にお食事が出来なくて寂しかったです。」
「ごめんね。今日は一緒にテーブルに着くよ。」
「はい!」
グラニテは満面の笑みで答えた。
ソルベはダイニングへと朝食に行こうとして、ふと思い出したことを口にした。
「――ああ、そういえば、夕べ本部でまた聞いたんですけど、ショコラ様がミルフォイユ様のお屋敷にいらっしゃったらしいですよ。何でも体調を崩されたと知ってそのお見舞いに、だとか…。最近、小さい事でも噂になりますよねぇ、ショコラさ…」
ソルベが言い終わらないうちに、グラスは読んでいた本をバン‼と勢いよく閉じた。…これはいつもの謎の“ツボ”にはまったのだ、とソルベは瞬時に悟った。
そのまま、グラスは無言で立ち上がった。――そして、なぜか自分の剣が掛けてある所まで行くと、おもむろにそれを手に取った。
「?、?…兄さん…それ、どうするの…」
グラスは思い詰めた顔をしているように見える。
ソルベはとてつもなく嫌な予感しかしなかった。
「オードゥヴィ公爵家へ行って来る。」
「い…いやいや、それ持ってくのは、おかしいでしょう。物騒ですよ、置いてください。ね?」
冷や汗をかきつつ、ソルベは諭すように慎重に言葉を選んだ。オードゥヴィ公爵家へ行く、というだけでも心配なのに、剣まで持ち出すとは…明らかに穏やかではない。一体何をしようと言うのか…
「止めるな。必要なものだ。」
「だから、おかしいですって!何をしに行くつもりですか⁉」
グラスはソルベを鋭い目つきで見た。思わず、ソルベはびくっとして凍り付いた。――やはり、普通ではない。そう思った時…
「伯爵と、決着を付けに行く。」
それは、グラスが酔った時に口走っていた事だった。あれはただの酔っ払いの戯言…ソルベは当然そう思って、何も問題にしていなかった。
「ちょ…えっ⁇冗談ですよね?あれは酔った勢いで酒が言わせた…覚えてないですよね??」
「僕は酔っても酒には呑まれない‼記憶くらいある!」
「それ、逆に始末が悪いですよ!…て、そうじゃなくて‼」
「命まで取ろうという訳じゃない。」
混乱しているソルベを置き去りに、グラスはさっさと出て行ってしまう。成り行きを黙って見ているしかなかったグラニテも、不安そうな顔をしている。
ソルベは自分も剣を手に取ると、兄の執事を呼び付けた。
「セーグル!すぐに馬車を出してくれ‼」
「ソルベ様?どうなさいましたか?」
「兄さんが不味い。止めに行く!」
「かしこまりました。」
グラスは一人馬を走らせ、すでに屋敷に姿はなかった。
『…正直、まさかここまでするとは思わなかった…。頼む、兄さん、早まらないでくれ…!!』
馬車の中で、ソルベは祈った。




