30.ミエルは忠臣なので、
今日も一日、ショコラはミエルと街へ出掛ける「はず」だったのだが、急遽ぽっかりと予定が空いてしまった。
それは夕べの事だった。
「…“関係の設定”ですか…。それはたしかに、盲点でしたね。」
ミエルからの報告を受けたファリヌは、暫し考えた。
「分かりました。では、やはり姉妹という事にしましょう。指摘を受けたのが呼び方ならば、ショコラ様には貴女を“姉さん”と呼んで頂き、貴女はショコラ様を“ショコラ”とお呼びすれば、とりあえずここでは何とかなるはずです。」
「ええっ、私がショコラ様を呼び捨てに⁉…」
ミエルは青ざめた。
「?明日からは、それでお願いしますね。」
そして今朝、出掛ける支度も整い玄関先でファリヌから見送りを受ける段になり…
「……――では次は貴女です。」
「ショッショコラ…さん。」
「“さん”は要りません‼さあ、もう一度!」
「ショコラ……。さん。」
「……もう一度。」
「…ショコラ…………さん!」
ファリヌの目が据わった。
「“ショコラ”と連呼してごらんなさい!」
「し…ショコラショコラショコラショコラショコラショコラ…………様ぁ!!!」
ミエルはどうしても「ショコラ」と呼べない。すると、ブチッという音が聞こえた気がした。ついにファリヌが切れてしまったのだ。
「様に格上げしてどうするんです‼なぜこれしきの事が言えないんですか⁉ふざけるのはいい加減にしてください!」
「“これしき”だなんて‼何て畏れ多い…!私は公爵家の屋敷内で生まれ育ったんです、物心ついた時から染み付いた価値観というものがそれを許さないんです!さん付けですらどれだけ勇気が要った事か…!ファリヌさんには分からないんでしょうけど‼」
半泣きになりながらもミエルは反論するが、ファリヌの額には青筋が立ったままだ。
「だからと言って、呼べなくていいという訳にはいきません!…これはショコラ様ではなく、貴女に特訓が必要ですね。ショコラ様申し訳ございませんが、ミエルが“ショコラ”とお呼び出来るようになるまで、外歩きは中断です。さあミエルさん、来なさいッ!」
「そ…そんな!ショコラ様にご迷惑をお掛け出来ません!」
「このままでは外でご迷惑をお掛けする事になるんです!言えるようになるまで終わりませんよ。夜通しでもお付き合いしますから!!」
そうして、ミエルはファリヌにずるずると引きずられて行ってしまった。それをショコラはぽかんとしながら見送ったのだった。
「…まあどうしましょう…することが無くなってしまったわ…。」
「ショコラ姉様、今日暇になったって本当⁉」
どこから聞きつけて来たのか、ベニエがバタバタと走ってやって来た。
「じゃあ、また遠乗りに行こうよ!まだ一回しか行ってないでしょ?この間は時間切れで行けなかったところがあるんだ‼」
「ベニエ、貴方は部屋でお勉強しなくてはならないでしょう!もうすぐ寄宿学校へ入るのに、みんなに置いて行かれてしまうわよ。」
口を挟んだのはクラフティだった。元々は今日も屋敷に一人居残るはずだったファリヌと共に、ショコラの見送りをするため玄関まで出て来ていたのだ。
「僕だってたまには息抜きしたいんだよ!ここのところずっと勉強ばっかりなんだから!!」
母の忠告にベニエはむくれながらそう返した。彼はショコラが来て二日目、昼過ぎから半日ほど遠乗りに行って以降、毎日部屋に籠らされて家庭教師との勉強の日々を送っていた。もっと言えば、しばらく前から勉強漬けでストレスは溜まる一方だった。
「伯母様、私も今日は他にする事が無くて困っているんです。一日だけ、ベニエを借りては駄目かしら?」
「……ショコラがそう言うなら…ふぅ、仕方ないわねえ…。今日だけよ?」
ショコラと先程の顛末を見ていたクラフティは、仕方なく承諾した。
「やった―――!!!ショコラ姉様、ありがとう‼」
「お礼を言うのなら、伯母様によ。」
苦笑いしながらショコラはベニエにそう言うが、彼にはあまり聞こえていないようだ。
「今日は沢の方に行こうよ‼昼食持ってさ!料理長にすぐ用意するよう言って来るよっ!」
言い終わらないうちにベニエは走り出す。
「ちょっと、危ない所へ連れて行っては駄目よ⁉明るい間に帰ってきなさい‼…って、聞いてないわね…全く。これは、付き添いの者たちによくよく言い付けておかないと…。」
――…そんなわけでミエルは特訓に入ってしまったので、クラフティの侍女たちに外歩き用の支度から遠乗り用の支度への着替えを手伝って貰い、ベニエと出掛けてこの日は一日を過ごした。
沢へ行くと言うだけあって、場所は森の中だ。道と呼べないような道を進み、前回よりもかなり馬を歩かせ難かった。しかしショコラは苦労をしながらもやり切ったので、『おかげでだいぶ馬を操るのが上手くなったわ』と思わぬ収穫になったと感じていた。
そして約束通りまだ明るい間に屋敷へと戻って来ると、玄関にはクラフティと共に、げっそりとやつれた様子のファリヌとミエルが出迎えに来ていた。
「…お帰りなさいませ、ショコラ様。」
「ふ、二人とも大丈夫⁉それで、どうなったの⁇」
心なしか、ファリヌもミエルも声が枯れたようだ。ファリヌは横目でじろりとミエルを見てからショコラに答えた。
「……今回、ここではお二人は親戚という事になりました‼…埒があきません。いいですか、ミエルさん!本格的な旅の時はこうはいきません。出来なければ、貴女は公爵家の屋敷に置いて行きます!!」
特訓するのに夜通しでも、と言っていたファリヌだったが、どうやらその前に我慢の限界に達したらしい。ミエルは小さくなってこくこくと頷いていた。
「…大変だったみたいね…。今日は早めにゆっくり休んで、二人とも!」
一夜が明け、元気を取り戻したミエルと共に外歩きを再開した。
今日は先日のような観光客が多い場所ではなく、比較的地元の住民が多い繁華街へ行くようだ。
「今回はいくつか飲食店に入って、しばらく周りの人々の会話を聞いてみましょうね。」
…という、ファリヌからの指示らしい。庶民的会話のリスニングといったところか。
ショコラとミエルは手頃なカフェに入り、申し訳ないと思いつつも、周囲の会話に聞き耳を立てた。この店は若い客が多いようだ。周りの席には友達同士やカップルと思われる組み合わせが多数いる。
頼んだ飲み物が運ばれてくると、ショコラたちはそれぞれカモフラージュ用に持参した本を広げた。
――…なるほど、周囲の席ではたしかに、この間ぶつかってしまった彼女のような話し方をしている。ベニエもなかなか砕けた話し方をすると思っていたが、それ以上のものも聞こえてくる。屋敷では聞かないような言葉遣いも多数だ。
『…そうか、皆さん言葉を端折って話していらっしゃるのね。それでも通じるのだわ。…なかなか興味深いわね…。』
しばらくして、その店は出る事にした。それから少しの間、土産物屋ではない普通の商店に入って見学をしつつ、今度は昼食を取るために食事処へと入ることになった。
「街の方ってどんなものを召し上がっているのかしら??楽しみだわ!」
「今回の目的は“会話を聞くこと”ですよ。」
ショコラの目的が脱線しかけ、ミエルは苦笑いしながら本筋へと誘導する。気を付けなければ、外歩き初回の時のような言動をしかねない。
しかし前回の反省があるのか、今日のショコラは大人しく無言で食事を口に運んでいた。が、心の内は留められず、その表情には漏れてしまっている。言いたいことをぐっと堪えて食事と共に飲み込んでいるようだ。そして一つ口にするごとに、今にも感想という感想を全て言葉に出してしまいそうな状態だった。
『…それでも、ここまで我慢なさっていらっしゃるのだから、お顔までは大目に見ましょう。』
幸い、他の客たちも食事や会話に夢中で、誰もショコラの表情など気にしていないようだ。
腹も満たされたショコラは、やっとここでの周囲に目を向けた。先程のカフェと違って、この店は家族連れや近所の知人同士というテーブルが多いようだ。年齢層が高い者たちも目立つ。
『あのお店とは少し雰囲気が違うわ。言葉も…使い方が違うのね。年代によってということかしら…?奥が深いわ!』
ミエルの誘導など必要はなかったようで、ショコラはぐんぐんと吸収していた。
ここでもしばらくの時間を過ごし、店を出た。また腹ごなしに各商店でも見てみようか、というところで…
『―――視線!』
この間と同じく、ミエルは何かを感じ、周囲を警戒した。…しかし、やはりそれらしき影はないようだ。
「やっぱり…私の思い過ごしなのかしら…。」
気を取り直して、ミエルはショコラの隣に張り付くようにして歩き出した。
―――…それから、こうして何日にも亘って外歩きを繰り返し、段々とショコラは街中での所作に慣れていったのだった。
ただ……気掛かりなのは、例の“視線”だ。あれからも幾度となく、ミエルはそれを感じていた。だがそれ以外に特におかしなこともなく、自分の気のせいかも…という思いと共に、若干その視線に慣れてしまった事もあってファリヌにはまだ報告をしていなかった。
しかし、ミエルの感じた視線は、気のせいなどではなかった。
「……チッ!メンド臭ぇ侍女だな…‼」
ミエルが振り返るたびに、その人物は物陰に身を隠した。そしてそう呟くと、暗がりに姿を消していったのだった…。
「…もう少し、“調整”が必要か…」
「ショコラ様、旦那様からお手紙が届いております。」
シャルトルーズへ来て約一か月、ショコラの元へ父・ガナシュから手紙が届いた。
―――ショコラ、元気にしているか?お前のところへヴァンロゼ伯爵家からパーティーの招待状が届いている。近いうちにこちらへ帰ってきなさい―――
という趣旨のものだった。
ついにショコラが王都の屋敷へと帰る時がやって来た。




