プロローグ
真っ白な雪が降っていた。
冬の吹き付ける冷たい風に身を縮こませながら、僕は早足で雑居ビルに入った。
エレベーターを待ってる人がいる事に、心のなかで舌打ちする。
平静を装いながら、列に並ぶと、程なくして1階を示すランプが灯った。
5人で入ると箱内はぎゅうぎゅう詰めだ。
7階を押そうとしたけれど、既にボタンは押されていて、
他に選択階が無いことから、全員行き先階は同じようだ。少しだけほっとする。
土曜の朝のメンタルクリニックは、いつも混雑していた。
混雑すると分かっていても、平日は終電まで働き詰めなのだから仕方がない。
みんな少しでも早く受付を済ませたいはずなのに、エレベーターに入った順で
入口に入れるよう、5人とも息を揃えて動いている。
自己防衛なのかもしれないけれど、ここはそういう気遣いが必要な場所なのだと、みんな無意識に感じているのかもしれなかった。
院内を見渡すと、世の中には苦しんでいる人が意外に多いのだろう、平日にも関わらず混雑していた。
受付に診察券を渡して、できるだけ診察室に近い席を探すと、
どんぐりみたいな体型にボサボサでフケだかけの長髪が見えて、思わず視線をそらした。
それは山姥みたいな女だった。
この時間にくるといつもいるけど、僕は彼女に慣れることが出来ない。
しかも、よりにもよって、今日は僕の担当医の診察室前に座っている。
仕方なく、避けるように彼女から遠い席に落ち着いた。
思わずため息を付いて、他の人に聞こえてしまったかなと後悔する。
僕は誰とも目を合わせないよう顔を伏せて待つことにした。
院内の混雑にも関わらず、30分程で名前を呼ばれる。
診察室ではいつもの先生が待ち構えていて、最近の調子などを聞いてきた。
いつも通りハイハイと答えていると、本当にすぐ診察は終わって、いつもの薬を処方してくれる。
初めて診察を受けた頃はとても緊張して、ちゃんと受け答えしていたけれど、慣れてくると会話そのものが億劫になった。
どうせ短い診察時間では大したことは話せないのだから、適当でいいのである。
診察が終わると、ほっと一息つく。
視線の端に、受付の前でゴソゴソとバッグの中を掘り返している山姥の姿が引っ掛かる。
背後から見る分には視線がかち合うことがないという安心感からか、なんとなく見つめてしまう。
彼女はきっと、何もかも面倒くさくなってしまって、周りの視線とか、身だしなみすら気にならなくなっているのだろう。
勘違いかもしれないけれど、そういう所が僕にもあって、彼女が苦手な理由は、ああはなりたくないという自分への恐怖なのだろうと思った。
会計が終わって、薬局で薬を処方してもらい、駅へ向かう。
自分が吐く白い息にうんざりしながら、駆け足で地下鉄の入り口へ入っていく。
階段はとても長く、地上からでは底が見えない程だった。
しかもステップがとても細くて、自然と僕はつま先を使って駆け下りていく。
地下通路が見えてきた瞬間、つま先が地面を滑った。
「あっ」
と自分の声が遠くで聞こえた。
なぜ僕は雪の日に革靴で外出してしまったのだろう。
一瞬の後悔。
時間が停止したかのように感じた直後、後頭部を階段に強く打ち付けて、まるでウォータースライダーのように地下へ滑って転げ落ちる。
「大丈夫ですか?!」
誰かが声を掛けているのが聞こえたけれど、その声がだんだん遠のいていく。
地下通路の照明がチカチカとちらついて、ぼやけていくのを眺めていた。
後頭部がじんわりと熱くなっていくのに、指先は凍えるほどに冷たくて、直感的にこれが死の予兆なんだと悟った。
薄給なのに休み無く働いて、過労で精神を壊して生活保護を受けていた。
そんな自分が情けなくて仕方なかった。
家も車も買えず、35歳になっても結婚できなかった。
何も手に入れることができなかったのに、こんな風に死んでしまうなんて。
あんまりにも酷いじゃないか。
僕の人生は一体何だったんだろう。
やり直したいと、思っていたのに。
消えていく意識の中で、目尻の端に冷たい雫が流れ落ちるのを感じた。