九十三話 憤懣
「掛かれっ!」
獣の頭骨が縛り付けられた部隊杖を掲げるゴブリンの群れに、怒声が浴びせられたのは、太陽が最も高い位置に居る時である。
全身を鎖帷子で覆うゴブリンの騎士を先頭に、白鳥を描いた軍旗をはためかせて林から飛び出る鎧姿のゴブリン逹が、ザリャン氏族軍の行軍列を横合から食い破った。
「て、敵襲! 白鳥の旗、“沈黙”のエレクレだ!」
「斥候は何をしていた!? 者共、槍構――ぎゃあっ!」
「隊長っ」
突然の襲撃に混乱するゴブリンらを他所に、エレクレ勢は落ち着いた動きで行軍列を先頭と後列に分断。孤立した先頭集団を殲滅に掛かる。
切り離された後列が、慌てて先頭を助けようとするが、既に敵中に取り残された者達は倒れるか、逃げ惑うかの二者しかいない。
二百弱の襲撃者らは烏合の衆を蹴散らすと北へ、ザリャン氏族軍の進行方向だった方角へ素早く退いていく。
千八百のゴブリンで構成された行軍列の中央、そこに居る本軍の大将であるザリャン氏族長カルスは、敵襲の報を耳にした途端に舌を打った。
「糞が……全軍に臨戦態勢を取るよう下知せよ。現軍列先頭に伝令、退く敵を追い掛けるなと伝えろ」
駆け去る伝令には目もくれず、カルスは酒の入った素焼きの壺を用意させ、中身をがぶ飲みする。彼の瞳には怒りの色があった。
ここ十日近くの間、カルスにとって腹立たしい事が立て続けに起きている。
遡る事半月前。春先から相変わらず後方の占領地では、反乱暴動盗賊の三拍子が鳴り止まず、流石にまずいと思った彼は、一度ザリャン氏族本領へ帰還していた。
本領に戻ると占領地鎮定の戦力として、カシィブ公領へ傭兵として送られていた軍勢を呼び戻し、更にモシニクスの戦いでの損害と越冬準備を理由に傭兵契約を打ち切っていたトロールを再雇用する。
自ら軍を指揮して反乱をある程度鎮圧した彼は、依然として彼処に火種が燻っている事を心残りにしながらも、トロールと共にモシニクス城へ入った。
昨年にトロールが抜けて、戦力に大きな穴が空いていたザリャン氏族軍は、これに加えて冬越えの物資消費と、後方の反乱鎮圧に兵を割いた事もあって、小規模拠点の攻略にも手間取る始末が長く続いていた。
だが、ようやくこの膠着した状況から前進出来ると、この時はカルスも期待を抱いていた。
しかし、突如としてイルム率いる南部軍がモシニクス西に出現し、現地に展開中のザリャン氏族軍を掃討したという報せが飛び込んで来たのである。
「このクソ忙しい時に!」
そう怒りを露わにして迎撃軍を編成するカルスだったが、一方で北東部へと厄介払いしたサディン以外にも、軍中にはまだ信用し切れない者達が少なくない事を忘れてはいなかった。
特に強制徴用したファハンは、最も裏切る可能性が高い。同じく金次第で動くバグベアも油断ならず、こちらも一纏めにしてモシニクスに留めておく。
そして手隙の諸侯を集め戦力を整えると、出撃の準備に取り掛かったのだが……。
「申し上げます! 北東部へ王子率いる二千の軍勢が向かっている模様!」
そこへこの急報である。
しかし、カルスは顔を顰めども、動じる事はない。北東部には“黒狼”のサディンに加え赤帽子がいる筈であり、そうそう北東部を奪還されるとは思えなかったのだ。
それに、南部に姿を現したイルムの軍勢は、モシニクスより西の地域からザリャン氏族軍を一掃した後、ロムジア氏族を包囲している一千の友軍を狙っている事が容易に想像出来る。
友軍を救援する為にも、北方に現れた王子ティラズムの軍を無視して、急ぎ南部のナリカラ軍の後背を突くべきとカルスは考えたが、それを示す筈だった軍議で、諸侯から反対の声が上がる。
「北東部へ援軍を送るべきです。王子が先頭に立って戦場に出てくる事は今までありませんでした。これは彼の者を討ち取る好機に他なりません」
「然り!」
軍議の場に集った諸侯の中から、ちらほらと北東部への援軍を抽出するべきという、カルスとは正反対の意見が飛び出した。
「モシニクス城の守備は数百の兵を置いておけば事足りる。他がどうなろうとこの堅城を保持し続ける事は、南部での主導権を握り続けるも同然。ここは一度北に目を移すのも良いのでは?」
「だが、ロムジアを包囲している味方はどうする。見殺しにする気か!?」
当然ながら友軍救出を優先するべきとの意見も出る。だがその至極最もな声は、落ち着きのある言葉でにべもなく叩き落とされた。
「南部の敵が陽動とは考えぬので? 向こうにとって、未だ健在のロムジア氏族より、オルベラ氏族の本拠地である北東部を取り戻す事の方が、優先されるべき死活問題の筈。奴らのロムジア救援の動きも、我らを北に向かわせぬ策と見るのが普通だ」
これに友軍救出を口にした諸侯はぐっと声を詰まらせた。確かに筋は通っている。カルスもその発言を否定し辛い。
当初、カルスの脳裏にはサディンの貼り付けた笑顔が浮かび、奴の工作かと考えたが、すぐに自らの推測を否定した。北東部へ援軍を出すべきと言っている諸侯の中には、自身に忠を尽くす家臣や熱心なカルス支持者が混じっているのだ。
カルスがナリカラの王となるのに、最大の障害となるのは直系の王族たるティラズム王子である。彼を王にしたい者からすれば、イルムより優先される標的であった。
自身の家臣や熱烈な支持者が北東部への援軍派遣を口にしている以上、これをカルスが無碍するわけにもいかない。だからといって危機に瀕する味方を放っておくわけにもいかず、迷ったカルスは決断を先送りしてしまう。
翌る日、軍議を再開したが、やはり怒号じみた言葉が飛び交う喧々囂々一歩手前の有様で、方針がまるで決まらない。もう軍を二つに割って南北それぞれの援軍とした方が良いかと、カルスが内心を固めたその時である。
イルムが発したモシニクス西地域での勝利宣言及び、彼が率いるナリカラ軍の北上の報が軍議の場に転がり込んだ。
苛立ちと怒声でぐらぐら煮えていた空間が、一瞬静まり返る。この隙を突いて、カルスが有無を言わせぬ覇気のある決断を下した。
「最早猶予は無い。一刻も早く友軍を救うぞ!」
こうしてザリャン氏族軍は、中断していた出撃準備を再開。だが、その動きは氏族長の意気に反して、やや鈍かった。
実は、麦の収穫期である初夏を迎えて以降、少なくない兵が望郷の念に駆られているのだ。
物資調達の略奪として敵方の村畑から麦を収奪していく中、たわわに実る麦穂が広がる光景を見る度に、ついある事が兵士達の頭を過ぎる。常であれば、今頃自分達も自身が育てた麦を刈っていた筈だ、と。
また、従属させた他氏族から奴隷が供給されているが、自分達の畑を余所者に耕させている事実にも、気持ちが落ち着かないでいる。
そんな状態では、農村部出身の兵は出撃命令も身に入らず、中には彼らを指揮する戦士からも兵の不満や不安を鑑みて出陣は出来ない、一度帰郷すると言い出す者まで出た。
それでもカルスは何とか直轄の軍や忠実な家臣を中心とした軍を丸一日掛けて編成すると、他の乗り気でない諸侯を置いて北西へ向かう。しかし、時を浪費した事による最悪の結果は既に起きてしまっていた。
「壊滅した……だと? 間違いないか?」
「はっ……サルキス殿を大将とした一千の軍勢は、完全に消滅したも同然かと……」
行軍休止中に報告を受けたカルスは右手で両目を覆う。これで、遠征中の戦力の五分の一が失われた。とてつもない痛手である。
もう一つ御報告が、と申す配下に、彼はまだ悪い報せがあるのかと口角を下げた。その態度に配下は、そうではないと慌てた様子で舌を繰る。曰く、敵は二つに分かれて別行動に移ったと。
それを聞いたカルスは、すぐさま行軍を急がせた。
そして、分散を始めていたエグリシ氏族諸侯軍を発見すると、迷わず全軍を以て強襲したのである。
トロールの活躍もあってあっさり勝利を掴んだが、カルスにとって幸いな出来事はここまでだった。エグリシ氏族諸侯軍に少なくない損害を与えたが、ばらばらに逃げる彼らを追撃し切る事が出来なかったのだ。
更に、急で尚且つ紆余曲折あった出陣という事もあって、物資やそれを運ぶ荷駄や馬車が足りておらず、現地での兵糧調達にも時間を取られている。
そうして、せめてイルムは逃すまいと北上を続け、モシニクス西に広がる盆地の出口となる山岳地の隙間まで、後もう少しという所で襲撃を受けたのだった。
奇襲を受けて軍の一部が殲滅されたものの、動揺から立ち直ったザリャン氏族軍は行軍用の縦列から、戦闘用の横列が幾重にもなる陣形へと移行し終える。
「前進、油断するな!」
指揮官の命令が飛び交い、千八百もの軍勢が動き出した。進路前方には、山岳とその間を縫う太い道があり、その道の上は陽光で煌めく鈍色と、黒地に赤い斜め十字が走る旗で埋まっている。ナリカラ軍だ。
更にナリカラ軍旗に混じって、エグリシ氏族諸侯の旗も確認出来た。敗走した諸侯軍を収容しての撤退中なのが一目瞭然である。カルスは瞳と唇を獰猛な形に変えた。
「逃すか! トロールを出せ。いくら道が太くとも山岳地では軍勢が展開出来ん。ここは連中の出番だ」
硬質な体毛で覆われた巨人達が、丸太を削って作られた巨大な棍棒を担いで歩き出す。人間の二倍はある背丈の彼らは、一歩一歩の大きさもゴブリンとは比べ物にならず、ずんずんと瞬く間にナリカラ軍に接近していった。
ナリカラ軍から矢が放たれるが、トロールらは何ら意に介さない。棍棒を振り上げて突っ込む彼らに、今度は穂先が揃った長槍が向けられる。
しかし、それらも毛むくじゃらの巨人を怯ませるには、圧倒的に長さが足りていなかった。口端を上向きに歪める巨人達が、棍棒を槍の壁へ叩きつけようと振り下ろす。
その時――長槍を構えるゴブリンの背後から、トロール達へ向けて槍が飛んで来た。
「!?」
トロールらは慌てて飛来する槍を避ける。同時に、モシニクスの戦いで味わったのと同じ恐怖に青褪めた。
モシニクスの戦いにおいて、弩砲の射撃によりトロールはその多くが討たれている。ここにいるトロールらも、その場に居たか戦いを経験した仲間からの話をたっぷり聞いており、宙を駆ける槍を見て思わず恐怖で全員の足が止まった。
「今だ、突けぇ!」
指揮官の号令に合わせて、長槍が一斉に突き出される。トロールの毛深い腹に青銅の穂先が幾つも埋まった。その傷は見た目ほど深くはないが、動きは阻害される。
「弓、放て!」
そこへ矢の暴風雨が吹き荒れて先頭のトロールらの目を潰す。彼らは絶叫を喚き散らし、失われた目を両手で覆った。こうなっては如何に巨人といえでも碌に戦えない。
更にナリカラ軍から戦士ゴブリンが飛び出して、トロールの喉元や胸に刃を突き立てた。一度に五体ものトロールが倒れ、他の巨人達は怯んだ様に後退ると、ぱっとゴブリン達に背を向けて逃げ出す。
敗走するトロールを見ていたカルスは、片方の目端をぴくぴく動かし、閉じられた口からぎりっという音を立てた。
ただでさえ今の軍は士気に陰りがあるというのに、頼りにする筈のトロールが逃げる姿を見ては戦意など萎んでしまう。これではいくら兵の尻を叩こうが、十分な追撃など出来はしない。
それにこれ以上追撃を図っても、戦巧者で知られるエレクレが再び妨害に現れるであろうし、山岳地は罠を仕掛けるには格好の場所だ。
「……追撃中止。一旦引き上げるしかないな」
カルスは溜息をぐっと堪えて、そう言うしかなかった。




