七十三話 復活祭
朝日を浴びるナリカラ軍の野営陣地。その中央にある大天幕にて、黒髪に血を思わせる赤黒い瞳を持つ、長く伏せる病人の様な肌の青年が、表情を歪めて机を指でとんとんと叩き続けていた。
簡素な椅子に座る彼の側に、長過ぎない薄紫の髪の灰色肌の女屍食鬼が立ち、欠伸を一つする。
「……いや簡単に落ちるとは微塵も思ってなかったけれども、城壁堅過ぎない?」
青年のぼやきに、隣から締まりのない声が返ってきた。
「まさか碌に城壁へ乗り込む事もままならないとは、流石に予想以上でしたねー。兵も不満たらたらだとか、どうするんですイルム様?」
イルムは従者にして副官の言葉に、ますます顔を険しくする。
「僕への批判は昨夜の内に耳に届いてるよ、『安息日に戦をするからぼろ負けした』ってね。こういう時に限って敬虔になるのはどうなの」
「そう言うな、ゴブリンがオルソド教を思い出しつつあるというのは良い兆しだぞ」
イルムが息を吐くと、二人だけの大天幕にエルガが入って来た。アミネは思わず顔を逸らす。
「相変わらず地獄耳……」
小さな呟きに、耳敏くエルガが声の方を向いた。
「入ろうとした時に偶然聞こえただけだ、人聞きの悪い」
「……やっぱり地獄耳じゃないですか」
彼女はアミネの言い返しを無視して、イルムに視線を移す。イルムは自然と背筋を伸ばした。
「神品を介した徴税により、教会の影響力はある程度回復した。安息日に戦をした批判は、その成果が今、兵に現れているという事だ」
エルガの言に、イルムは頷きはするものの眉間を縮める。
教会の影響力回復は確かに、ナリカラの統治や人間諸国との関係改善に大きな利益となるが、今回の様に信仰が軍事に口を出すのは如何なものかと、イルムはどうしても思ってしまう。
そんな彼の内心を見透かしてか、エルガの瞳がほんの少し鋭くなる。
「信仰は戦をも左右するぞ。軍記物を読み込むお前なら、それも知っているだろう」
これにはイルムも押し黙って不満を飲み込むしかない。彼女の言う通り、信仰は士気と大いに関わる上、信仰が戦術的不利をひっくり返した事例は少ないながらも確かに存在するのだ。更にエルガは釘を刺すかの様な言葉を続ける。
「そして今日は、オルソド教において最も重要な日とも言える復活祭だ。戦は勿論、他の作業も一切無しで祝いに集中させる。いいな?」
「……せめて大型平衡錘投石機の組立ては進めても……」
「駄目だ。言っておくが、復活祭から七日間は『光明の七日』になる。七日を過ぎねばまともに戦えないと思っておけ、一日ぐらい組立てがずれ込んでも状況は変わらんぞ」
復活祭は一日で終わらない。七日間、毎朝の十字行に、復活祭専用の特別形式で奉神礼も行われ、神の子“全能者”の復活を聖俗関係無く祝い続けるのだ。
「えー……早めにクロムを攻略しておきたいと軍を起こしたのに、ここで足踏みかぁ」
「麦の収穫期前後にモシニクスかナリカラ北西部で反撃に出る予定の為に、クロム攻撃が復活祭と被ったんだ。仕方ないだろう」
イルムのげんなりとした声に、エルガは軽く肩を竦めるが、すぐに身に纏う雰囲気を不敵なものに変える。
「だが、クロムへゴブリンに対する好印象を与える好機でもある。十字行に加えて復活祭を祝うゴブリンを見せつけたら、クロムを大いに揺さぶれるぞ」
「……確かに。復活祭では斎で制限されていた酒や肉、酪農品を好きなだけ飲み食い出来るから軍の士気も上がるか。向こうも同じだけど」
オルソド教には、斎日という食事に制限が掛けられる日が設けられている。斎日は、祈りに集中する為に働いてはならない安息日とはまた違って、行いを慎み節制と祈りに努める日とされていた。
贅沢を戒めつつ、飢饉に備えさせる意味として、肉や酒などが禁食となるのである。また、復活祭などの重要な祭の前には、長期の斎が定められていた。
「ああ、それに復活祭前の大斎でひと月以上も斎に耐えていたから今日は狂喜の渦になる。今朝の十字行の後には、デレヴニャ村で確保した分の豚がもうほとんど解体されてたぞ」
「へぇ……あれ? そういえばエルガ、ナリカラ出る前の夜に串焼きをツマミに酒を飲んでなかった? あの時はもう大斎始まって半ばだったよね、オルソド教的に駄目だったんじゃ?」
イルムの度重なる問いに、エルガは顔を逸らす。
「エルガ……?」
「……」
突然目を頑なに合わせなくなった彼女から、答えが返って来る事はなかった。
現在のナリカラ軍の陣営は、都市を包囲した攻城戦を行なっているとは思えない空気が満ちている。
殺気や張り詰めた高揚感が存在せず、代わりに祝賀と喜びが感じられた。鉄や油、汗といった戦闘前によく漂う臭いも無く、普段は教会で香る乳香が微かに鼻をくすぐる。
そしてあちこちでは、ゴブリン同士が次の様な挨拶を交わしていた。
「“全能者”復活!」
「実に復活!」
「“全能者”復活!」
「復活は福なり!」
復活祭の間、信徒は通常の挨拶に代わって、“全能者“の復活を祝う言葉を掛け合う。しかし、これは信徒同士で行われるものである為、ゴブリンからエルガへ掛けられる事はあっても、彼女の隣を歩くイルムにはいつもの挨拶しか来ない。
若干の疎外感を感じながらも、イルムはエルガと共に復活祭一色の野営陣地を見て回る。既に昼に差し掛かり、午前の奉神礼で立てられた乳香の残り香を、食欲唆る匂いが掻き消しつつあった。
「おお、丸焼きだ」
イルムの視線の先では、頭を失くした豚が火の上で四足をだらりと下げ、脂の汗を滴らせている。別の方へ顔を向ければ、ゴブリンが籠に、殻を赤茶色に彩色された卵を山と積んでいた。
エルガがイルムに一つ解説する。
「卵は生命の再生を象徴し、赤は血を想起させる事でその意味を強調している。復活祭の食事で卵は欠かせん」
「へぇー」
「まぁ、大斎中に節制する食材には酪農品の一種として卵が含まれるから、復活祭まで大量に余るという事情も絡んでいるがな」
エルガの説明の間にも、赤い卵の山はちらほらと視界に映った。これらの卵は全てクロム周辺で調達した物である。ナリカラ軍が村々から接収した食料には、鶏と固茹でされた状態で貯蔵されていた大量の卵も含まれており、復活祭に必要な食材には困らなかった。
「チーズやバターも大斎から解放され、復活祭の料理はどれも脂のある美味い物が並ぶ事になる。パンですら復活祭の前と後では大違いだ」
ゴブリン達による昼食の準備を眺めていると、不思議とエルガの舌が常よりも回る。いつもの冷たい印象がする無表情も、どこか違って見えていた。イルムは初めて出会った頃のエルガを思い出し、暖かい目で見つめ始める。
かつて質素な衣服にぼろ布を被り、漁で糊口を凌いでいた彼女だったが、今やナリカラ総督顧問として上質な亜麻の服に毛織物の上着を身に付け、元から持つ気品もあって富豪や貴族の令嬢に引けを取らない状態だ。
イルムの視線に気付かぬままエルガは弁を続け、イルムはほんの少し熱の入った彼女の声に耳を傾ける。
そして、その様子を離れた場所から覗き見るアミネが、息を吐いた。
「だから、何か違うんですよねー……」
溜息と共に彼女が漏らした言葉は、昼餉の準備が終わった合図として鳴らされ始めた、木匙と木皿の軽い音に消される。復活祭当日の昼が始まった。
豪勢な料理の数々が乗った長机、その中央向こうにイルムが居座り両隣にエルガとアミネが座っている。更にその外側にはゴブリンの諸将がずらりと並んでいた。
皆、思い思いに料理が乗った大皿を寄せると、自分の皿へ取り分ける。チーズがたっぷり入ったパンに仔牛の煮込み、細かく刻んだほうれん草と挽き胡桃を和えたプハリという前菜などの料理が並んでいるが、何より目を引くのは人の頭より大きい円柱型のケーキだ。
バターと卵をふんだんに使用したクリーチというこの焼き菓子の周りには、飾りも兼ねた赤殻の茹で卵が並べられている。
エルガがその卵を二つ取り、一つをイルムに渡した。
「卵の先を私の卵にぶつけろ、割れなかった方は健康長寿の効果があるとされている」
そう言ってエルガは、赤い卵の先をイルムに向ける。渡された卵を不思議そうに眺めていたイルムは、次に発された彼女の言葉に釘付けとなった。
「思えばあの時に出会って一年になるな。これからもよろしく頼むと言っておこうか」
相変わらず感情の見えない面相のエルガと対照的に、頬に薄い紅を差したイルムは卵の温もりを噛み締める様に両手で抱えた後、卵を右手で首近くの高さに持ち上げる。
二人の視線が交差し、かちっという酷く軽い音が、人間の女性と魔族の青年との間で生まれた。




