五十三話 鎮静
――“不浄なる戦い”の五日前。
「正気ですか、イルム様ー」
灰色肌の女屍食鬼、アミネが心底嫌そうな顔でイルムを睨んだ。ふと鼻先を不快な臭いが突き、アミネとイルムは袖口で鼻と口を庇う。
「正気だよ。赤帽子とはまともに戦えない、ならまともじゃないやり方で戦うのさ」
二人の前では顔の下半分を布で覆ったゴブリン達が荷車に積まれていた壺を降ろしていた。壺はどれも酷い悪臭を吐き出している。
降ろされた壺は傾けられ、中身を防水仕様の革袋や小さな壺へと移していった。見るも悍ましき汚物をたっぷりと蓄えた革袋や小壺は、すぐ様蓋を固く閉じられる。
虚ろな目で作業するゴブリン達を見ていたアミネが、堪らずといった様子で袖に守られている口からくぐもった声を出した。
「だからって汚物を投石杖の弾にしなくても。リオニ中の便所壺を集めるなんて言い出した時は、いよいよ気が触れたかと思いましたよー」
イルムは、リオニに置かれている汲み取り式便所全てから汲み取り用の壺を回収し、本来は川に捨てられる中身を集めさせていたのである。
尚、豚を始めとする家畜の糞については、肥料として利用する農民らの猛反対に合い、回収を断念していた。
「悪臭と不快感で敵の士気を下げる戦法は結構有効だから。普通は籠城する敵や、逆に城壁へ攻め掛かる敵へ汚物や腐肉を御見舞いするものだけれどね」
そう言うイルムであったが、やがて臭いに耐えられなくなってきたのか、袖で口を隠したままうぇっと呻きながら顔を背ける。隣のアミネはその場から脱兎の如く逃げ出した。
今、イルムの眼前ではある種の地獄とも言える光景が広がっている。
汚物が飛び散る戦場で、散々な様子のレッドキャップ達が東の方角へと逃げて行き、それをナリカラ軍とディアウヒの軍が南北から追いかけていた。
如何に勇猛かつ残虐極まる赤帽子といえども、汚物や悪臭には拒否感を示すだろうというイルムの考えは、ぴたりと嵌った様だ。
味方にも少なからず精神的な被害が出ているが。
「汚物を投射した投石杖部隊は後退、他はこのまま赤帽子を川へ追い落とすよ」
口元と鼻を布で覆い、生気を失った瞳をしているゴブリン達が、投石紐の付いた棒を担いで後方へと退がる。
代わりに剣や斧を手にした戦士ゴブリンや槍を握るゴブリンの民兵が前進した。
「こちらは二倍で尚且つ敵は背中を見せている、赤帽子とて恐れる必要は無い! 一気呵成に追撃せよ!」
イルムの号令で九百のナリカラ軍は南から赤帽子八百へと突貫する。これに合わせて、北のディアウヒ軍七百余も追撃に入った。
一方の赤帽子は迫り来る敵には目もくれず、東へと逃げる。
彼らにとって、御自慢の帽子が糞尿で汚れた状態で戦闘する事は、自らの力の源泉である倒した敵の血を汚物の上に重ねる事になってしまう。故に帽子の汚れを落とすまで、相手をしていられないという事なのだろう。
「赤帽子がまともに戦えない状態である内に痛撃を与えないと、駆け足! 駆け足!」
一ツ目馬に跨っているイルムは、自軍を叱咤しながら愛馬の速度を上げる。
追撃するナリカラ軍はディアウヒ軍と共に、赤帽子の背中へ齧り付くが、流石はナリカラで最も恐れられる赤帽子と言うべきか、後背を突かれても攻撃を度々弾き返していた。
数刻は続いた追撃戦だったが、やがて旧王都リオニにも流れる川へと至った時、状況が大きく動く。
赤帽子は帽子の汚れを洗い落とすべく川へと飛び込んで行き、ナリカラ軍は川に押し込んで溺れさせようと攻撃の手を強めた。
川に到着した事で動きの流れが詰まった赤帽子だったが、味方が邪魔で川に入れない者達がやむなく反撃に出ると、追うナリカラ軍と川へ逃げる赤帽子という状況が一変する。
槍を構えて突っ込んだ民兵が槍の柄諸共斬り伏せられ、剣を振り上げる戦士ゴブリンの頭が叩き割られた。
瞬く間にナリカラ軍の先鋒を血祭りに上げ、ナリカラ軍に赤帽子の恐ろしさを思い出させたレッドキャップ達であるが、その顔は鬱陶しい虫を振り払う時にする顰めっ面である。
「帽子を洗うまで待ってろ、そしたら存分に首を刈り取ってやる」
一人のレッドキャップがそう言って、面倒臭そうに斧を振って鮮血を払った。ナリカラ軍のゴブリン達はそれだけで、正面を向く身体とは正反対の方向へ逃げる腰に引っ張られて後退る。
イルムが今率いているナリカラ軍の半分を構成しているオルベラ氏族は、本拠のナリカラ北東部を失っている現状では兵の補充が難しく、残り半分を占めるエグリシ氏族軍は元々エグリシ氏族諸侯の留守居の軍だった事から、誰もが消耗を嫌って積極的に前へ出ようとはしなかった。
「何をしている!? 敵を川へ突き落とすんだ!」
怖気付いたナリカラ軍の兵士達をイルムが叱り付けるも、兵士達の足はぴくりとも動かない。何とか発奮させようとイルムが再び口を開いた時、アミネが一ツ目馬を進めてそれを遮った。
そして、手綱から手を離した気怠げな表情の女屍食鬼は、両手に紫電を出現させ、振り被ってから勢いよく前方へ紫の稲妻を放り投げる。
二列に並んで空中を駆け抜ける稲妻は途中で絡み合い、一つの電撃となってレッドキャップで溢れ返る川へ飛び込んだ。
途端に耳を劈く落雷の音が轟き、強力な電流が暴れ駆け回る。川に入っていたレッドキャップの多くが白目を剥いてひっくり返り、痙攣を最後に動かなくなった。
「――! アミネの一撃で敵はあの通りだ、このまま赤帽子を全滅させるぞ! 突撃!」
アミネの魔法に呆然としていたナリカラ軍だったが、イルムの命令ではっとする。各々、武器を握り直して足を踏み出した。
最初は戸惑いが大きかったが、誰かが雄叫びを上げると一気に武器を振り上げて突進を始める。
「突っ込め!」
イルムもゴブリン達と共に、レッドキャップの群れへ自身が騎乗する一ツ目馬ごと踊り込んだ。川の畔に咆哮と金属の叫びが響き、川が赤く染まっていく――。
結論を言えば、ディアウヒ郊外で行われた“不浄なる戦い”は、ナリカラ軍の勝利に終わった。
しかし、それは胸を張って勝利を宣言出来るものではなかった。
アミネの魔法による強力な一撃とそれに続く猛攻によって、赤帽子に一定の損害を与えたが、すぐに態勢を立て直した赤帽子の反撃により、ナリカラ軍は大きな被害を被る。
動揺するナリカラ軍を尻目に、赤帽子は悠々と戦場を離脱。その後、戦場から東にある小領主の小城を奪ったのを最後に、彼らの進撃は止まった。
一方のナリカラ軍は、赤帽子のリオニ攻撃を挫くという戦略目標を達成したが、二倍の兵力で挟み討ちをしていたにも関わらず損害が多い上に、拠点の一つを結果的に奪われてしまっている。
見方によっては敗北とも受け取れる惨状であった。
勝軍とも敗軍とも見分けが付かないナリカラ軍だったが、その本陣は場違いのように多少明るい雰囲気である。
イルムを筆頭にナリカラ軍の諸将とディアウヒの領主スラミ、そしてドモヴォーイが一堂に会し、イルムはドモヴォーイの参戦に顔を綻ばせた。
「ドモヴォーイの参陣、嬉しく思うよ。長はヴォーロスの町に?」
イルムの問いに、仲間を率いていたドモヴォーイの顔が曇る。
「長は先週、急死した。王子との対面を心待ちにしておられたが……」
「それは……残念だね。冥福を祈る」
身体を北に向けたイルムが短く黙祷を捧げた。それに小さな声で謝意を述べたドモヴォーイは、改めて自己紹介する。
「天に還った長に代わり、このカミーンが総督との盟の存続を担う」
カミーンと名乗ったドモヴォーイは、任せろとばかりに拳で胸を叩いた。そんなイルムとカミーンのやり取りを見ていた、完全武装のゴブリンが近付く。
鎖帷子を着込み、緩やかに先が尖る形の鉄製兜を被ったゴブリンを見て、イルムがおやっ?という声を上げた。
「スラミかい? 久しいね」
城塞都市ディアウヒの領主スラミは、しばらく振りですと微笑を浮かべる。
「主要道に接する集落だけに食料を残させて敵の進路を限定させ、焼き討ちの煙を追う事で背後を取る……という所までは上手くいきましたな」
微笑から、眉尻を下げて困った笑みへと変えたスラミに、イルムも頷いて同意した。
スラミはディアウヒ周辺の集落から住人と物資をディアウヒに避難させ、赤帽子がディアウヒ攻略を断念せざるを得ない状況へと見事に追い込んでいる。
その一方で、イルムの指示により、ディアウヒからリオニへ直接繋がる道路沿いの村落にはわざと食料を残していた。
これによって赤帽子の進路は自然と一本に絞られ、集落を焼き払う際に立ち昇る煙も相まって、ディアウヒ軍は難無く赤帽子を追跡出来ていたのである。
だが……。
「戦闘までは順調だっただけに、この結果じゃエルガさ……エルガにこっ酷く叱られそうだなぁ……」
イルムは深く気落ちして長い溜息を吐いた。




